午後六時五十七分――。僕は相変わらずテレビを眺めていた。 「皆さーん、お食事の用意ができましたよー」 と、不意に階下から僕たちを呼ぶ、裕香さんの快活な声が聞こえた。僕はテレビの電源を切り、部屋のドアを開けた。すると廊下には先生をはじめ、出席者達が僕と同じく部屋から出てくるのが見えた。僕達はぞろぞろと階段を下りて一階へ向かった。 先頭だった織田さんが食堂の扉を開けた。縦長のテーブルの上には、ピザや唐揚げ、フライドポテトやコロッケなど、いかにも手作り感あふれるメニューの数々が所狭しと並べられていた。 「あれ、グラスがないな」 僕達から少し遅れてやって来た足立さんがテーブルを見て言った。確かにテーブルには一つもグラスが置かれていなかった。 「あいつ、忘れているな」 と、足立さんは食堂の奥にあるドアへ向かって歩き出した。 「グラスを運ぶのでしたらお手伝いしますよ。お一人では大変でしょう」 先生が軽く右手を挙げて言った。その声に、足立さんが僕達の方を振り返った。 「すみません、じゃあお願いします。お前らは適当に席に座っていてくれよ」 そして僕と先生、足立さんの三人で食堂の奥にあるドアを開け、中に入った。 そこはキッチンになっており、奥の流し台には、料理に使用したであろう包丁を洗っている裕香さんが、後ろを向いて立っていた。彼女は大きく背中の開いた大胆な白いドレスを着ており、長い髪は頭の上でひとつに束ねている。その真っ白い新雪のような美しい肌を露にした彼女を見て、僕は思わずひとりの男として、それに触れてみたいという強い衝動にかられてしまった。僕達の気配に気づいた彼女は、振り返り尋ねた。 「あら、あなた。皆さん揃ったの?」 「おいお前、グラスがないぞ」 「ごめんなさい、すっかり忘れていたわ」 裕香さんは水道の蛇口をひねり水を止め、食器棚の方へ向かった。 「ああ、いいですよ。グラスは僕達が運びますので」 僕がその動きを制するようにそう言うと、裕香さんは僕の方を見やった。先程よりもしっかりと化粧が施されたその顔は、可憐さと妖艶さを併せ持つ、まさに極上の女と呼ぶにふさわしいものだった。僕は彼女の虜になってしまう前に、視線を下に落とした。 「じゃあお願いしてもいいですか?」 「任せてください」 そんな不順な考えをしたことを悟られないように、僕はわざと大げさに返事をした。足立さんは食器棚を開け、中から次々とグラスを取り出し、テーブルの上に置いていく。彼はその動きをしながら、裕香さんに声をかけた。 「ああそうだ。さっき和馬からもらったワインはどうした? あれで乾杯しよう」 「あら、あなた。乾杯といえば普通はビールでしょ? ね〜、森村さんもそう思いますよね〜?」 裕香さんは首をかしげて腰を曲げ、下から僕を上目使いで見上げながら、甘えたような口調で同意を求めてきた。僕にはそれを否定する理由は何一つとしてなかった。 「そうですよ、乾杯といえば普通はビールですよね〜」 僕は彼女と口調の感じを合わせて、首をかしげて答えた。この時、僕は恐らく鼻の下が伸びていただろう。 裕香さんは、冷蔵庫の一番下の引き出しを開けると、その中から次々とビールの入った瓶を取り出し、テーブルに置いていった。 「とりあえず四本もあれば足りるわよね?」 裕香さんは足立さんの返事を待つことなく、片手に二本ずつビール瓶を持ち、さっさと食堂へ行ってしまった。僕達は慌てて三つ、先生だけは四つグラスを持ち、裕香さんの後を追った。 「あっ、栓抜き忘れちゃった!」 と、裕香さんは慌ててキッチンに戻っていった。その愛らしい失敗に、食堂は暖かい笑いに包まれた。ある一人の人物を除いて。それは天野さんだった。彼女はキッチンへ駆けていく裕香さんに、刺すような鋭い視線を送っていた。彼女はなぜ裕香さんを睨みつけているのだろう。僕は彼女に不快感を覚えた。裕香さんの白いドレスと、彼女の黒いドレスの対比も相まって、僕にはこの二人が、まるで天使と悪魔のように見えてしまった。 「さあ、今度こそ乾杯しましょう!」 キッチンから戻ってきた裕香さんは、先程持ってきた栓抜きで一本目のビール瓶の蓋を開けた。そして、自分の近くにあったグラスから順番にビールを注いでいく。四つ目のグラスの途中までビールを注いだところで、一本目のビンは空になってしまった。彼女はすぐに二本目の瓶を開けビールを注ぎ出した。今度は七つ目のグラスにちょうどビールを注ぎ終えたところで二本目の瓶は空になった。三本目の瓶を開ける。そして最後の三つのグラスにビールを注ぎ終えた。 「よーし、グラスを廻すぞ」 足立さんは、一つずつグラスを自分の手前にいる人に渡していく。そしてその人は、グラスをさらに後ろにいる人に廻していく。そうして全員にグラスが行き渡った。 席順は、まず上座に足立さん。上座から見て右側に手前から、裕香さん、伊藤さん、阿部さん、天野さん。左側には手前から、松戸さん、織田さん、鈴木さん、先生、僕、という感じになっている。 全員にグラスが行き渡ったのを確認すると、足立さんが口を開いた。 「えー……こういう時、何言えばいいんだよ」 「あなた、しっかり!」 言葉を選び兼ねているといった感じの足立さんに、からかうような声援を送ったのは裕香さんだった。食堂が小さな笑いに包まれる。彼女の声援のおかげで緊張が解けたのか、足立さんは照れ臭そうにこう続けた。 「もう挨拶なんていいよ。どうせお前らだってそんなの聞きたくないだろう。はい、かんぱ〜い!」 と、右手でグラスの柄を持ち、それを軽く掲げた。 「かんぱ〜い!」 その音頭の後に、必要以上に大きな声を上げて、高々とグラスを突き上げたのは、阿部さんだった。恐らくこの、畏まった雰囲気がくすぐったかったのだろう。彼はグイッと一気にグラスのビールを勢い良く飲みだした。僕達もそれに釣られるようにビールに口を付ける。僕が半分ほどビールを飲み、グラスから口を離したその時だった。 「うっ……」 何かを喉に詰まらせた時のような苦しげな男の小声が聞こえた。その声の主は、織田さんだった。彼は首に両手をやり、悲痛な喘ぎ声を上げ続けている。僕達はその突然の彼の変化を、ただ呆気にとられて見つめていることしかできなかった。 織田さんはついに立っていられなくなり、その場に四つん這いになって悶え出した。眼は大きく見開かれ、血走っている。大きく開いた口からは、だらだらと涎が垂れ流されていた。その尋常な人間ならざる姿態に、僕は思わず恐怖を覚えた。ほどなくして、彼はその場にうつ伏せで倒れて動かなくなってしまった。 「……和馬!」 隣に立っていた松戸さんがはっと我に帰り、倒れている織田さんに触れようと腰をかがめたその瞬間――。 「触らないで!」 そう叫んだのは先生だった。松戸さんをはじめ、食堂にいる全員が先生を見やった。先生は織田さんの傍らへ移動し、その場にしゃがみこむと彼の脈をとり始めた。テーブルの向こう側にいる人達は、覗き込むようにして先生の行動を凝視している。続けて先生は、彼の口元へ鼻を近づけた。匂いを嗅いでいるのだろう。 「探偵さん、和馬は……」 松戸さんが神妙な口調で尋ねた。先生はその場に立ち上がり、その問いに答えた。 「織田さんは亡くなっています。恐らく死因は、青酸系の毒物による中毒死だと思われます」 食堂を動揺が駆け抜けた。 「毒って……じゃあもしかしてこのビールに?」 全員が自分の飲んだビールを真っ青な顔で見つめている。 「それはありません。もしビールの中に毒が混入されていたとしたら、織田さんと同じ瓶から注がれたビールを飲んだほかの方も今頃亡くなっているはずですからね」 その言葉を聞いて、大半の人が落ち着きを取り戻したようだった。 「お、おい。それより早く警察に連絡しないと」 伊藤さんが、思い出したように慌てた口調で言った。全員が、そうだとうなずいた。 「電話はどこに?」 「リビングにあります」 「ではこれからリビングへ向いましょう。全員速やかにこの部屋を出てください」 先生の言葉に、全員がぞろぞろと廊下へ出た。先生はしっかりとそれを見届けたあと、食堂の扉を閉めた。僕達はリビングへ移動する。 先生がリビングの扉を押し開けると、後ろから入ってきた裕香さんが、部屋の電気のスイッチをつけた。先生が辺りを見回すと、ここから離れた壁際に電話を見つけたようだった。 先生が受話器を取る。しかしいつまで経っても番号をプッシュすることはなかった。 「どうしたんですか?」 鈴木さんが真剣な顔つきで先生に尋ねた。 「電話が……通じない」 先生は受話器を鈴木さんに渡した。そして彼はすぐにそれを隣にいる伊藤さんに手渡した。 「本当だ……」 伊藤さんは呟くように言うと、次々に近くにいる人に受話器を廻し始めた。それはやがて僕のところにも廻ってきた。受話器からはツーツーという電子音が、ただ虚しく繰り返されているだけだった。 「電話線が、切られている……」 先生は、電話の後ろに繋がれている電話線を手にしていた。それは途中で途切れており、何か刃物のようなもので切断されたであろう綺麗な断面をしていた。僕を含めた全員が、それを唖然とした表情で見つめていた。 「ここは携帯が通じないというのは本当ですか?」 ひとり冷静な先生が足立さんに尋ねた。足立さんは、ただ「はい」とだけ返事をした。場を沈黙が支配した。誰が織田さんに毒を盛ったのか、誰が電話線を切断したのか、どうすれば警察に連絡できるのか、それぞれ考えていたことは違っていたのかもしれない。だが、全員が何かを考えているような、そんな表情をしていた。 「俺達が直接警察に行けばいいんだ……」 沈黙を破り、そう呟いたのは鈴木さんだった。全員が彼の方を見やった。 「俺達が直接車で、警察にこの事を知らせに行けばいいんだよ」 と、続けて言った。 「そうだよ、何も電話する必要なんてないじゃん! 流石だな明。お前頭いい」 そう言って阿部さんが、安堵した笑顔で鈴木さんの肩に腕を回した。ほかの男達も似通った表情で鈴木さんを見ている。どうやら彼らは、鈴木さんと仲が悪いというわけではないようだ。やはりあの時は、下ネタが嫌いな鈴木さんに気を使っていたのだろうか。 「で、誰が知らせに行く?」 阿部さんの声は、そのままの笑顔の延長で尋ねたため、間の抜けた口調になっていた。 「じゃあ俺が行こう」 名乗りを上げたのは足立さんだった。社長としての責任を感じたのだろうか。彼の立候補に異論を唱える者はいなかった。 「では足立さん、よろしくお願いします」 「分かりました。じゃあ、行ってきます」 先生に返事をすると、足立さんは部屋を出ていった。残された僕達は、どうしていいか分からずその場に立ち尽くしていた。 「とりあえず皆さん、ソファに座りましょうか」 そんな状態の僕らに気付いた先生が言った。僕達は次々とソファの空いているスペースに腰を下ろしていく。誰も口を開こうとしない。鉛のような沈黙が部屋を包む。無理もない。仲間を殺した犯人が、もしかしたらこの中にいるかもしれないのだから。 それから数分後、突然勢いよく部屋の扉が開いた。僕達は驚いて扉の方を振り返った。 「く、車のタイヤが全部パンクしている……!」 そこに立っていた足立さんの顔からは血の気が引いていた。 「全部って、俺達の車もってことかよ」 松戸さんの問いに、足立さんはただ何度も頷いて答えた。僕達は誰からともなく立ち上がり、玄関へ向かって早足で歩きだした。 外へ出ると、十月の肌寒い夜風が僕の体に吹きつけた。 僕達は階段を下りて駐車スペースへ向かった。そこには六台の車が綺麗に並んで駐車されていた。それぞれが自分の乗ってきた車のタイヤを確認しに行く。僕達が乗ってきた松戸さんのポルシェは、右前輪が刃物のようなものでズタズタに引き裂かれていた。とても車を運転できる状態ではない。これは明らかに人間による仕業だということがひと目でわかった。自分の車を確認した彼らは徐々に一箇所に集まってきた。 「どうだった」 「ダメだ」 「お前は?」 そうして全員に確かめてみたところ、全ての車の右前輪が松戸さんの車と同じような状態になっていたらしい。これでは警察に行くこともできない。僕達は完全にこの別荘に孤立してしまったのだ。いい知れぬ不安が僕を包んだ。 「皆さん、ここにいても仕方がないので、一旦中へ戻りましょう」 先生の鶴の一声で、僕達はぞろぞろと別荘の中へ戻っていった。
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