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作品名:童貞紳士の事件簿2 作者:木城康文

第3回   第2章 集う出席者たち
 午後二時四十一分――。
「探偵さん、その話、作っていません?」
 先生のあまりにも出来すぎた美談に、そう突っ込んだのは足立さんだった。その口調は、返事を聞く前から答えを確信しているような疑念に満ちていた。
「え? いや、そ、そんな事ないですよ」
 先生は分かりやすく狼狽していた。これまでにも僕は、先生が過去の事件を誇張して披露する現場を何度か目撃している。訝しげな表情を浮かべる人はいたものの、はっきりそれを指摘されたのは、今回が初めてだった。確かに半分以上は作り話なのだが、それを遠慮もせずにズバリ言い切る足立さんに、毒舌タレントたる所以の片鱗を垣間見たような気がした。
 場を奇妙な沈黙が包む。そんな時、この嫌な空気を断ち切ってくれる救世主が現れた。玄関のインターホンが鳴ったのだ。
「ああ、誰か来たみたいですね」
 先生は額に汗をかきながら、助かったと言わんばかりに部屋の扉のほうを見やった。
「あなた、織田さんがいらっしゃったわよ」
 裕香さんが部屋の扉を開けながら言った。その後から一人の男が入ってきた。濃いグレーのスーツを着た彼はネクタイをしておらず、Yシャツのボタンを上から二つほど開けていた。右手には、ラッピングされたワインのボトルを手にしている。坊主に口ひげというかなり厳つい風貌の男だった。その口ひげには何やら赤い染みのようなものが付着していた。
「和馬、お前昼にスパゲティー食っただろ?」
 立ち上がり織田さんの下へ歩み寄っていく足立さんは、開口一番こう言った。彼はその理由が分かっていなかったようで、動揺の色を見せた。
「えっ、なんで分かったんだよ」
「なぜならそれは、俺が名探偵だからだよ」
 足立さんは、あごに手をやり得意げに笑った。織田さんはそんな彼を、感心した表情で見つめている。
「ばーか、お前の口ひげにミートソースが付いているからだよ」
 と、笑いながら織田さんの口ひげを指差したのは松戸さんだった。織田さんは右手の人差し指で口ひげをなぞると、赤い染みが付いた指先を見つめた。
「なんだよ、驚いて損したぜ」
 織田さんは、照れを隠すように大げさな動作をしながら言った。松戸さんは、げらげら笑いながら、恥ずかしそうにしている織田さんを指差している。
「おい、お前まだ付いているよ」
 足立さんにそう指摘されると、織田さんは長い舌を突き出して、口ひげに付いたミートソースをべろりと舐め取った。
「お前しょっちゅう口ひげに何かつけているよな。もう剃っちまったらどうだ?」
 ひとしきり笑い終えた松戸さんが尋ねた。
「それがさ、今一番気に入っている女が、俺のこの口ひげを触るのがえらく好きでさ。そういう訳にもいかないんだな」
 と、織田さんは不敵な笑みを浮かべた。「一番気に入っている女」という事は、ほかにも付き合っている女性がいるという事だろう。彼女すらいない僕は、思わず嫉妬心を覚えてしまった。
「あれ、この人たちは?」
 織田さんが僕達の存在に気付き、先生を指差して言った。
「この人はあのクソ女の件で世話になった探偵さんだよ。解決してくれたお礼も兼ねてお呼びしたんだ」
「ああ、どうも。俺、『織田和馬』っていいます。よろしくお願いします」
 織田さんは座っている先生に右手を差し出した。先生は立ち上がり、彼と握手を交わした。すると、ゆっくりと部屋のドアが開いて、裕香さんが入ってきた。手にはシャンパングラスを持っている。
「はい、織田さん」
 と、裕香さんは織田さんにグラスを手渡した。それを受け取った彼は、何も言わずにただ微笑を浮かべるだけだった。
「ああ、奥さん。これ、お土産です」
 織田さんは裕香さんに、持っていたワインのボトルを差し出した。
「ありがとうございます。じゃあこれは後で皆でいただきましょう」
 彼女は笑顔でお礼を言うと、またすぐに部屋を出て行った。

 午後三時四分――。もう足立さんは、先生から話しを聞くのをやめ、過去に自分が出演したバラエティー番組のDVDを鑑賞していた。その映像を見ながら、この時はああだったとか、別に知りたくも無い情報を皆に熱弁している。
 不意に玄関のインターホンが鳴った。全員が玄関のほうを振り向いた。
「あなた、伊藤さんがいらしたわよ」
 裕香さんが扉を開けると、真っ白いスーツに真っ白いネクタイをした、金髪を逆立てた男が右手を挙げながら入ってきた。
「よう、待った?」
「何だよお前、もっと早く来るって言っていただろう」
「悪い悪い、ちょっと女とヤッていたら遅くなっちゃってさ」
 足立さんの問いに、金髪の男はニヤニヤといやらしい笑顔を浮かべて自慢げに答えた。
「で、今日は誰だよ」
 織田さんがからかうような口調で尋ねる。
「あずにゃんだよ、『処女』のあずにゃん」
「あ、あずにゃんってひょっとして、アイドルの楓あずさの事ですか!?」
 僕のその言葉は、頭で考えるよりもはるかに早いスピードで口を突いて出ていた。僕は勢いよくその場に立ち上がり、金髪の男の目をまっすぐに見つめていた。突然の僕の挙動に、ほかの人は呆気にとられている様子だった。
「そ、そうだけど……お前誰だよ」
 金髪の男は、僕のあまりの勢いに怯んでいるようだった。
「この子は、僕が世話になった探偵さんの助手だよ。確か森村君とかいったっけ」
 松戸さんが説明すると、金髪の男は一瞬目を逸らし先生のほうを見やった。そしてすぐに視線を僕に戻した。その刹那、彼は僕の行動の意味を理解したようにこう言った。
「お前、あずにゃんのファンなの?」
 その通りだった。だが僕は黙っていた。それを認めるのが悔しかったからだ。
 あずにゃんはアイドルの中でも清純派として有名で、二十二歳になった現在でも、いまだに男性とお付き合いをした経験がないと公言していたのだ。そして僕は、そんな純粋な彼女に、純粋に好感を抱いていた。
「ごめんな、あずにゃんは俺の女なんだよ。まさかお前も、本気で処女だったなんて信じていたわけじゃないだろう?」
 その口調には、若干僕を哀れむような感じが含まれていた。確かにあれだけの美人で、そんなはずは無いだろうとは思っていた。だが僕は信じたかった。あの純真無垢な彼女が、嘘をついているなんて思いたくなかった。だが僕は、そんな彼女に今日までまんまと騙されていたのだ。
 僕は力なくソファに腰を下ろした。場を沈黙が包んだ。
「そ、そうだ。お前まだ自己紹介して無いじゃん」
 松戸さんがその場の空気を変えるように言った。
「ああ、そうか。えーと、俺『伊藤初』っていいます。よろしくお願いします」
 先生と伊藤さんは握手でもしているのだろう。僕は、テーブルの上のシャンパンの泡をただじっと見つめていた。そしてまたも部屋は沈黙に包まれてしまった。全員の視線が僕に向いているのを気配で感じた。僕は好きな人に騙されていた悲しさと、場の空気を険悪にしている罪悪感から、自分の目に涙があふれてくるのが分かった。
「げ、元気出せって。よかったら俺があずにゃんよりいい女紹介してやるから。な?」
 責任を感じたのだろう。僕の隣に座った伊藤さんが僕の肩を抱き、慰めてくれている。
「な〜に? なんか変な空気になっているんじゃないですか?」
 突然僕の背後から、この雰囲気には場違いなほど明朗な女性の声が聞こえてきた。そして僕の隣に、シャンパングラスを持った裕香さんが現れた。
「ああ、コイツがちょっと失恋しちゃったらしくてさ……」
「ふ〜ん、そうなんですか」
 裕香さんはグラスを伊藤さんに手渡しながらそう言った。
「ねえ、森村さん」
 裕香さんが僕の肩を軽く叩いた。僕はうつむいていた顔を上げ、彼女のほうを見上げた。すると彼女は僕の顔にぐっと自分の顔を近づけ、いきなり笑顔でこう言った。
「じゃあ私と不倫でもしちゃいます?」
 僕はそのあまりにも突拍子も無い提案に、思わず噴出してしまった。そして僕の笑いが伝染したように、部屋中が笑いに包まれた。
「なんちゃって」
 と、裕香さんはウインクをしながら舌をぺろりと出し、自分の頭をこつんと叩く仕草を見せた。そして彼女は再び部屋を出て行った。彼女の活躍で、場の空気は一気に回復したのだ。

 午後三時三十八分――。僕達は相変わらず、足立さんが出演している番組のDVDを見させられていた。番組内での彼の発言は、良く言えば正直。悪く言えば、デリカシーが無いものばかりだった。
 誰もが心の中では思っている事。でもそれを口に出してはいけないと分かっている事。それを彼は発言している。彼の表情を見ていると、それを理解した上で言っているようには見えなかった。要するに、彼は子供なのだ。これを口にしては相手がどう思うか、ということが想像できていないのだ。
 そんな事を考えていると、再び玄関のインターホンが鳴った。少しして裕香さんがクスクスと笑いながら部屋の扉を開けた。部屋に入ってきたのは、紋付袴にサングラスという奇妙な格好をした男だった。どや顔をしたその男の両手は、天に向かって大きく突き上げられている。右手には茶色い皮製のバックを携えていた。
「何だよお前、その格好」
 彼の登場に、部屋はどっと笑いに包まれた。先生と僕だけは呆気にとられた顔をしていた。
「何ってこれが本当の日本の正装だろう?」
「じゃあそのサングラスは何なんだよ」
「あ、間違えちゃった」
 と、男はサングラスを外し、自分の後頭部を叩くと舌を突き出し、寄り目をした。いわゆる変顔を披露したのだ。すると、部屋はまたも笑いに包まれるのであった。仲間内ならではの笑いだ。こういう時、僕はどういう顔をしていいか分からず、いつも無難な愛想笑いを浮かべてしまうのだった。
 そして僕は今更になって、その男の後ろに一人の女性が佇んでいる事に気が付いた。その女性は黒いドレスを着ていた。それは、へその辺りまで胸元が大きく開いた相当に露出度の高いドレスだった。スカート部分も、今にも下着が見えてしまうのではないかというほど短く、僕は思わず目のやり場に困った。その女性は、明らかに不機嫌な顔をしている。
「あれ、この人誰?」
 男は先生を指差していった。松戸さんが答える。
「この人は、僕があのクソ女の件で世話になった探偵さんだよ。前に話しただろう?」
「へえ、何か意外と普通なんですね。パイプとか持っていないんですか?」
 シャーロック・ホームズじゃないんだから、と僕は冷静に心の中でツッコミを入れた。
「おい、そんな事よりまずは自己紹介だろ」
「ああ、そうか。初めまして。俺、『阿部要』っていいます。コイツは俺の彼女の『天野亜紀』です」
 阿部さんは天野さんのほうを振り返った。挨拶しろ、という沈黙がちょっと間続いた。
「……どうも」
 天野さんは、仕方ないといった感じで軽く先生に頭を垂れた。彼女の無愛想な態度に、場の空気が淀んだ。
「すみません、昨日から俺達ケンカしていて、それでちょっと不機嫌なんですよコイツ」
 阿部さんは、この場を取り繕うように言った。しかしそれでもまだ部屋には微妙な空気が流れていた。
「お殿様、お酒をお持ちいたしました」
 その時、両手にシャンパングラスを持った裕香さんが、わざと低い濁声を出して部屋に入ってきた。どうやら阿部さんの衣装から時代劇を連想し、そのワンシーンを再現しているようだ。そして、頭を下げながら彼にシャンパングラスを手渡した。
「ささ、姫も。どうぞ」
 と、続いて天野さんにグラスを手渡す。ここで機転を利かせた阿部さんが、その芝居に乗っかった。
「ご苦労。そちもなかなかの悪よのう」
「いやいや、別に悪い事なんてしていないじゃないですか」
 そうツッコミを入れたのは先生だった。裕香さんが笑い出すと、それに釣られるように部屋中が笑いに包まれた。またしても彼女の功績により、場の空気が和んだのだ。そして、正義の味方が名前も名乗らずにその場を去っていくように、彼女はそのまま部屋を後にした。
 僕がふと天野さんに目を向けると、部屋を出ていく裕香さんを、鋭い視線で睨みつけていたような気がした。単なる僕の思い過ごしだろうか。

 午後四時三十六分――。男達は猥談に花を咲かせていた。足立さんが、以前に番組で共演した某女性タレントを抱いたことがあるという話題を発端に、話は徐々に卑猥な方向へと流れていったのだ。そんな彼らを、僕は苦々しい表情で見つめていた。
 僕だって男なので、猥談が嫌いというわけではない。だが僕が普段友人とする猥談は、妄想を主体とする類のものであって、実体験を元に話をする事はあまりなかった。
 それに対し、彼らの猥談は実に生々しい。自分達しか知らない、過去に関係を持った女性の意外な欠点をあげつらって馬鹿笑いしている。そこに挙がった名前は、テレビでよく見る有名な女性タレントばかりだった。しかも彼らのその口調からは、明らかに相手の女性のことを軽視する感じがあった。まるで女性の事を、ただの精処理の道具としてしか見ていないような、そんな印象を受ける。
「なあ、森村君って童貞だろう?」
 不意に途切れた会話。その単なる場繋ぎのように、僕にそんな無礼な質問をぶつけてきたのは伊藤さんだった。僕は、それまでの彼らの会話が癇に触っていたということも重なって、かなり不機嫌な口調で返事をしてしまった。
「違いますよ!」
「本当かな〜。なんか森村君ってものすごい『童貞臭』がするんだよね」
「ああ、分かる分かる」
 伊藤さんのその意見に賛同の意思を示したのは織田さんだった。ほかの人も明らかにその通りだといった、ニヤニヤとした小憎たらしい笑顔でこちらを見ている。このままでは本当に僕が童貞ということにされてしまう。
 僕は真相を知っている先生に助けを求めようと、先生の方を見やった。すると先生は僕の視線に気づき、こちらを向いた。そして顔に満面の笑みを湛えてこう言った。
「いいじゃないの、森村君。別に恥ずかしがることじゃあないんだから」
 まさかの裏切りだった。僕はその先生の衝撃の発言に思わず絶句してしまった。
「やっぱりそうなんですか?」
「いやいや、これ以上は私の口からは言えませんよ」
 と、先生はわざとらしく自分の口をふさいで、首を横に振っている。
「ち、違いますよ! 本当に童貞なのは先生のほうなんです!」
 僕は先生の嘘を慌てて訂正にかかった。しかしそれが事態をさらに悪化させてしまった。僕のその真実の発言は、単なる童貞の戯言と受け取られたことがはっきりと感じ取れた。はいはい、と彼らに適当な相槌を返されたのだ。もうこうなってしまっては、僕がどんな敏腕弁護士でもこの状況を覆すことは不可能だろう。
 僕が恨めしそうな視線を先生に向けると、奴はいかにも、してやったり、といった得意げな忌々しい表情を浮かべていた。これが「冤罪」というものなのだ。僕は日本の司法のあり方について、改めて考えさせられることとなったのだった。

 午後四時五十一分――。男達の下らない猥談はなおも続いていた。
「聞いてくださいよ、探偵さん。コイツ挿入してから一分ともたずにイッちまうんですよ」
 織田さんが、伊藤さんを指さしながら言った。
「そんなことねえよ。二分はもつって、二分は」
 そして、僕と先生、天野さん以外の人物が爆笑する。これにはさすがに、社交辞令の達人である先生も苦笑いを浮かべている。
「でもお前って本当にせっかちだよな。お前、女とヤるときも、ガツガツし過ぎなんだよ。猿じゃないんだから、もう少し落ち着いたらどうだ?」
「いいだろう、別に」
「ムードってものがあるだろう」
 自分の意見を松戸さんに否定された伊藤さんは、負けじとこう反論した。
「うるせえよ。お前だってドMのくせしてよ」
「うるせえ、早漏野郎」
 そんなやりとりに男達は狂ったように笑い転げる。
「じゃあまともなのは俺だけだな」
 そう言ったのは紋付袴姿の阿部さんだった。その不自然なほど自信満々の口調は、何やら他の人からの突っ込みの言葉を待っているようだった。
「何言っているんだよ、お前が一番変態じゃねえか」
「あ、そうでした」
 と、阿部さんは自分の後頭部を叩くと、先ほどと同じ変顔を見せた。どうやらこれは、彼の持ちギャグのようなものなのだろう。
「聞いてくださいよ、コイツ……」
 松戸さんが先生に、阿部さんが変態と言われるその理由を話そうとしたその時、玄関のインターホンが鳴った。全員が扉の方を見やる。
「あなた、鈴木さんがいらっしゃったわよ」
 裕香さん扉を開けながら言った。後ろから現れたのは、黒いスーツを着た男だった。彼はほかの男達とは明らかに違う雰囲気を放っていた。彼には、三十歳という歳相応の落ち着きがあった。本来であれば彼の方が普通なのだが、この場に関しては、その落ち着きぶりは、僕に妙な違和感を覚えさせた。
「おお、明。よく来たな」
 足立さんは、座ったまま右手を上げて言った。男は返事をすることなく視線を先生の方へ向けた。
「この方達は?」
「ああ、この人たちは僕の元彼女の件でお世話になった探偵さんと、その助手の子だよ。皆が会いたいって言っていたから連れてきたんだ」
 松戸さんが答えた。
「初めまして、私『鈴木明』と申します。よろしくお願いします」
 鈴木さんは先生に握手を求めた。先生はその場に立ち上がり、やっとまともな人が現れた、とでも言いたげなホッとした表情を浮かべて、その握手に応じた。それから彼は、わざわざ僕とも握手をしてくれた。そして彼は、空いていたソファの角に腰を下ろした。
 すると、それまであんなに下らない下ネタで馬鹿騒ぎをしていた男達が、急にその鳴りを潜めた。まるで彼は、悪餓鬼をその存在感だけで黙らせる、威厳のある父親のようだった。
 部屋を謎の沈黙が包む。その明らかな空気感の変化に、僕の頭には疑問符が浮かんだ。彼らは全員、気の合う大学時代からの仲間ではないのか。それともただ単に彼は下ネタが嫌いで、皆が気を使っているのだろうか。
 僕がそんなことを勘ぐっていると、不意に部屋の扉が開いた。
「さあ、どうぞ」
 部屋に入ってきた裕香さんが、手に持っていたシャンパングラスを鈴木さんに手渡した。僕はてっきり今回も、彼女がこの微妙な空気を打開してくれるのではないかと考えていた。しかし彼女は何もせず、そのまま部屋を出て行ってしまった。この空気感の変化に気付かなかったのだろうか。それとも、さすがの彼女でもこの雰囲気は変えられないと判断したのだろうか。
 なおも沈黙は続く。テレビの映像に映し出されている出演者の笑い声だけが、部屋に響いていた。
「じゃあ、全員集まったことだし、晩飯まで解散にするか」
 そう言ってその場に立ち上がったのは足立さんだった。彼はテーブルにあったリモコンを手に取り、テレビの電源を切った。それは明らかに、この沈黙を破るための行為のように僕には見えた。
「部屋の鍵はあそこに入っているから、適当に持って行けよ」
 と、部屋の角にあった机の引き出しを指さした。男達は立ち上がり、こぞってその机の方へ向かった。その慣れた行動を見ると、どうやら彼らはこの別荘へ来たのは今回が初めてではないようだ。僕と先生はもう少し様子を見るためにソファに座ったままだった。
「ああ、探偵さん。あそこに番号が付いた鍵が入っていますので、それで二階にある同じ番号の部屋に入ってください」
 足立さんが、先生に言った。
「悪い、明。ちょっと鍵、取り替えてくれないか?」
 松戸さんが鈴木さんに、小声でそう頼んでいるのが聞こえた。どうやら二人は部屋の鍵を交換しているようだ。
「なんで私と同じ部屋じゃないのよ」
 不意に聞こえたその不機嫌な声の主は、僕達と同じくソファに座ったままの天野さんだった。彼女の目の前には、部屋の鍵を手渡そうとしている阿部さんが立っていた。
「仕方ないだろ、部屋にベッドが一つしかないんだから」
 阿部さんは、いかにも面倒くさいといった感じで答えた。
「だったら一つのベッドで寝ればいいじゃない。私達付き合っているんだから」
「お前なあ……いい加減にしろよ!」
 食い下がる天野さんに、突然阿部さんが怒鳴り声を上げた。突然の怒号に、僕は思わず身体をビクつかせてしまった。
「せっかく連れてきてやったのに、機嫌は悪いわ、喧嘩ふっかけてくるわ、我侭は言うわ……てめえ何様のつもりなんだよ!」
 その声は、今にも天野さんに殴りかかりそうな勢いだった。恐怖を感じた僕は、隣にいる先生の服の裾をつかんだ。
「ああ、やっぱりね」
 天野さんは、そんな阿部さんに怯むことなく、腕を組みながら自信あり気な口調でそう言った。
「は? 何だよ、やっぱりって」
「いいの? 本当に言っても。私、知っているのよ。あなたが私と同じ部屋にしたくない理由を……」
 と、冷ややかな視線を阿部さんに向けた。その表情には、勝ち誇ったような嘲笑の色が浮かんでいる。阿部さんは、睨みつけるようにそんな彼女としばらく対峙していた。その顔は強ばり、額にはうっすらと冷や汗をかいている。
「とにかくお前は別の部屋だ。これ以上文句言ったらブッ飛ばすぞ!」
 そう言い残し、阿部さんは彼女の鍵を床に叩きつけると部屋を後にした。天野さんは扉の方を見やることもなく、ただ黙ってうつむいていた。ほかの男達も、無言でぞろぞろと部屋を出ていった。
 部屋に取り残された僕と先生は、何故かできるだけ音を立てないように、引き出しにあったいくつかの鍵のうち適当に一つを取り出すと、そろそろと部屋を出た。ゆっくりと扉を閉めると、ちょうどそのとき食堂の扉から裕香さんが出てきた。
「部屋へ行かれるんですか?」
 エプロンを脱ぎながら、裕香さんが僕達に尋ねた。
「はい、料理はもう終わったんですか?」
 うつむいたまま黙っている先生に代わって、僕が聞き返す。
「ええ、大体は。これから私もドレスに着替えるところなんです。私のドレス姿、楽しみにしていてくださいね」
 と、裕香さんは悪戯な笑顔を見せた。そしてすぐに、「なんちゃって」と軽く自分の頭を小突いた。僕は本当に彼女のドレス姿が楽しみだったので、それは冗談としては成立していないのだが、そんなことはもはやどうでもよかった。僕はこの魅力的な女性に、恋心を抱いてしまいそうだったのだ。しかし彼女はすでに人妻だ。そんな感情を抱いてはいけない、と僕は自分に言い聞かせた。
「夕食は午後七時ごろですので、それまで部屋でゆっくりなさってください」
「ありがとうございます」
 裕香さんは、僕たちの前を通り過ぎ、廊下を歩いていった。どうやら彼女の部屋は一階にあるようだ。
 僕達は階段を上がって二階へ向かった。正面は小さなロビーのようになっており、そこには小さなテーブルと、その両側に一人がけのソファが二つ置いてあった。両側には長い廊下があり、ドアが等間隔に三つ並んでいる。先生の鍵には「T」と書かれた平べったい円形のストラップが付いている。普通、数を数えるときは左から右が基本なので、僕達はとりあえず左の廊下を進んでみることにした。そしてその廊下の一番端にあるドアには、目の高さぐらいの位置に「T」と金色の刻印がされていた。
「森村君は何番だい?」
「えーと、七番です」
 僕は、ポケットに入れていた自分の鍵を取り出して言った。
「ちょうど私の真向かいの部屋だね」
 僕が後ろを振り変えると、確かに「T」と刻印されたドアの真向かいに、「Z」という刻印がされたドアがあった。
「じゃあ、森村君。また後で」
 僕がドアを見つめている間に、先生はいつの間にか自分の部屋の鍵を開け、中に入ろうとしていた。ゆっくりとドアが閉まる。僕も自分の部屋の鍵を開け、中に入った。
 そこでまず目についたのが、豪華な装飾が施してある大きなベッドだった。天蓋が吊るされており、まるで外国の貴族が使うベッドのようだ。正面には窓が一つあり、開閉も可能なようだった。そこでつい気になってしまったのが、サッシに溜まっている埃だ。他にも、電気スタンドやテレビが乗っている台の上などにも、埃が溜まっている。トイレとバスルームは別になっていた。
 僕はベッドに寝転がり、リモコンでテレビの電源をつけた。適当なニュース番組にチャンネルを合わせ、それを見るでもなくただぼんやりと眺めていた。


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