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作品名:童貞紳士の事件簿2 作者:木城康文

第2回   第1章 洗脳ドライブ
 それから一週間が過ぎた。
 僕は集合時間である午前九時の十五分前に、余裕を持って事務所の入り口のドアを開けた。すると、事務所の奥にある椅子に座りながら外を眺めていた先生は、僕の方を振り向いた。
「おっ、森村君。ちゃんと一人でネクタイできたんだね」
 いつも通りのスーツ姿の先生は、僕のネクタイに気付くとこちらへ向かってきた。以前、ネクタイが自分でできない事が先生に知られてしまった僕は、サラリーマンをしている友人にネクタイの仕方を教わっていたのだ。
「今回は寝坊もしなかったし、偉いぞ」
 僕の前に立った先生は、右手でぽんぽんと軽く僕の頭を二回叩いた。僕はそんな当たり前の事で褒められたことに、思わず面映さを覚えた。
「そんなの社会人として当然じゃないですか」
 僕は先生の手を軽く払い、素っ気ない感じで言うと、応接間のソファに腰を下ろした。
「まあ、それもそうか」
 そう言って先生は、少し大げさに右手を後頭部へやり、おどけた感じで笑った。
先生は本当に些細な事で僕を褒めてくれる。この前は、始めて行く依頼主の家に調査の報告書を届けに行けただけで、よく迷子にならなかったねと褒めてくれた。もしかしたら僕を馬鹿にしているのでは、と思っていた時期もあったが、先生の優しい表情を見ているとそんなつもりはないように思う。そして僕は褒めてもらう度に、一種の面映さのようなものを覚えるのだ。
 しかし僕はそれ以上に、誰かに自分を見てもらえているのだ、という幸福を感じていた。やはりいくつになっても、人から褒められるというのは嬉しいものだ。
「パーティーって何人ぐらい来るんでしょうね?」
 僕は正面のソファに座っている先生に尋ねた。
「そうねえ、あれだけの大企業だからやっぱり数百人は来るんじゃないかねえ……」
 その顔は、「大丈夫か、人見知り」とでも言いたげな表情だった。仕組んだのはアンタだよ、と言いかけた言葉を、僕はぐっと飲み込んだ。
「でもそれだけたくさんの人が来れば、綺麗な女の人もいっぱい来るんでしょうね〜」
 その代わりに、僕は負けじと「大丈夫か、童貞君」とでも言いたげな表情を返した。先生が微かに狼狽の色を見せたのを僕は見逃さなかった。
「それがどうしたんだよ。まったく色気づいちゃってさ、いやらしい男だね〜君は……」
 先生は、さも余裕がありそうな調子で僕を指差すと、そのまま腕を組んでソファにもたれかかった。うまくやり過ごせたとでも思っているのだろうか。
 僕達がそんな他愛もない会話を交わしていると、事務所へ続く階段を誰かが上がってくる足音が聞こえた。そして間もなく、事務所のドアが開いた。

 午前九時七分――。
「お待たせしました。外に車を用意してありますのでどうぞ」
 入り口に佇んでいたのは、黒地に薄くグレーのストライプが入ったスーツを着た松戸さんだった。僕達は彼の後に続いて、事務所の階段を下りていった。ビルの前には、いかにも高級そうなシルバーの外車が停車されていた。恐らく有名なブランドの車なのだろうが、車の知識に疎い僕は、それがなんという車なのかは分からなかった。
「どうです、僕のポルシェ911。今日のために新しく買ったんですよ」
 松戸さんは軽く車体の角に手を添えながら、得意げに言った。そのあまりにも露骨な自慢に、僕は思わず苛立ちを覚えた。
 先生は、頻りにこの車の事を褒めちぎっている。しかしその大げさな挙動には、若干の嘲弄が混じっているように僕には見えた。だが松戸さんは、その事にはまったく気付いていないようだった。その証拠に、彼はいかにも満足そうな笑みを浮かべている。こういう時に僕は、やはり先生は大人だと感心してしまうのだった。
 そして松戸さんは運転席へ、僕達は後部座席へそれぞれ乗り込んだ。
「それではこれから、岐阜県の山奥にある社長の別荘へ向かいます。五時間ほどかかるんですけど、まあドライブを楽しむと思って我慢してください」
 それほどの長丁場になると思っていなかった僕は、少しげんなりした。だが僕は、乗り物から眺める景色が好きなので、それも悪くないとすぐに思い直した。
「パーティーには何人くらいの方が出席なさるのですか?」
 先生が尋ねる。
「僕を含めて大学時代からの仲間五人です。それと、そのうちの一人の彼女。あと、社長とその奥さんの計八人です。お二人も入れると十人ですけどね」
 僕は拍子抜けしてしまった。数百人単位が出席するという先生の脅しを、すっかり信じ込んでしまっていたからだ。
「あれだけの大企業の十周年記念パーティーに、それだけの方しか参加なさらないのですか?」
「だって、下っ端の連中なんかを呼んだって面白くないでしょう? 話だって全く合いませんしね」
 と、彼は嘲笑を浮かべた。それは明らかに、自分の会社の社員をあざ笑うものだった。
「じゃあ、退屈しないように音楽でも掛けますね」
 松戸さんは、運転席の目の前にあるタッチパネルを操作し始めた。すると突然、耳を劈くような轟音が僕の鼓膜を襲った。車のいたるところに設置してあるスピーカーから、テクノ系の音楽が大音量で流れてきたのだ。彼はゆっくりと車を発進させる。これではとても景色を眺めている余裕などない。僕は今にも気を失ってしまいそうなほどの騒音と、五時間もの間、闘い続けなければならないのだ。

 午後十二時三十七分――。僕達は相変わらずスピーカーから流れてくる、テクノやユーロビートといった、近未来的なサウンドに包囲されていた。僕は、意識だけがどこかへいってしまったような、奇妙な感覚に襲われていた。先生も僕と同じく、まるで抜け殻のような表情をしている。
 と、不意にその音が止んだ。待ち望んでいた瞬間だったはずなのに、僕は何も聞こえなくなったこの空間に、不満に近い違和感を覚えた。これが洗脳というものなのだろうかと、僕は少し恐ろしくなってしまった。
「そろそろ昼飯にしようと思うんですけど、何か食べたいものとかあります?」
 信号待ちで停車中に、松戸さんが僕らのほうを振り向いて尋ねた。
「森村君、何かあるかい?」
 先生も同じく僕に質問した。僕は少し前のめりになって答えた。
「じゃあ、ハンバーグなんてどうですかね」
 すると後から、その意見を鼻で笑う声が聞こえた。その声の主は勿論先生だった。先生は恐らく、ハンバーグという、いかにも子供が言いそうな答えが、あまりにも僕のイメージに嵌りすぎていたのが可笑しかったのだろう。言ってしまった僕も、すぐにその事に気が付いたが、時すでに遅しだった。
「ハンバーグか……でもせっかく長野県にいるんだから、蕎麦でも食いたいんだけど、駄目かい?」
 決まっているなら最初から聞くなよ、と僕は思った。しかし僕は、そんな事を言える立場にはないので、当然それに了承した。
 先生は先ほどの僕の答えが相当ツボに入ったらしく、数分経っても口を押さえてクスクスと笑い続けている。僕はさっきまであんなに嫌がっていた大音量が無性に恋しくなった。こんな耐え難い屈辱を、意識を飛ばして忘れてしまいたかったからだ。

 午後十二時五十二分――。僕達は国道沿いにあった蕎麦屋の駐車場に車を止め、信州蕎麦に舌鼓を打っていた。
「松戸さん、今日パーティーに出席される皆さんについて、少しお聞きしてもよろしいですか?」
 先生が、正面に座っている松戸さんに声を掛けた。
「いいですよ。じゃあ、まず社長なんですけど、テレビで見た事とか無いですか?」
 先生が僕の方を見ている。どうやら自分は見た事は無いが君はどうだ、という意味だろう。僕は先生の代わりに答えた。
「僕はありますよ。たまにバラエティー番組とかに出ている『足立隆弘』さんですよね?」
「そう、社長はテレビに出ている通りの感じの人だよ。ただちょっとプライベートの方があれよりも破天荒だけどね」
 足立さんといえば、飄々とした顔できつい毒を吐くことで有名だった。そのあまりの毒舌ぶりに、共演がNGになっているタレントが複数いるという噂がネット上で広まっているほどだった。それよりも破天荒なプライベートとは一体……。僕は別荘へ行くのが少し怖くなってしまった。
「次に社長の奥さんの裕香さんなんですけど、彼女は本当にいい女ですよ。美人で若くてスタイルもよくて明るくて優しくて……。まさに女の手本のような人ですよ」
 と、松戸さんはだらしない笑顔を見せた。これは先生にとって脅威の存在となる事は必死だ。
「では、松戸さんの同級生の方達は……」
「僕と大して変わらない奴ばかりですよ。ほら、言うじゃないですか。類は友を呼ぶって」
 つまり、こんないけ好かない連中が後四人も集まるというという事だ。僕はますます別荘へ行くのが嫌になってしまった。
「でも一人だけ、ものすごくまともな奴がいますけどね。『鈴木』っていうんですけど、すごく頭が切れる奴なんです。俺達の影のブレインみたいなものですよ」
 この連中程度のブレインなら、どうせたかが知れたものだろう。と、僕は心の中で毒づいた。
「その中の、『安部』って奴の彼女が来る事になっているんです。本当は男だけで集まろうという事になっていたんですけど、その女がどうしても行きたい、ときかなかったそうで。それで仕方なく許可したんですよ」
 松戸さんは、呆れたような口調で言った。
「まあ、だいたいそんなところですかね」
 と、彼は再び大きな音を立てて美味そうに蕎麦をすすり始めた。

 午後一時四十八分――。車内には例の音楽が垂れ流されている。車はいつの間にか、延々と山道を走っていた。舗装されていない狭い道幅の両脇には、広い森が広がっている。対向車ともまったくすれ違う気配は無い。松戸さんが音楽を止めた。
「そろそろ別荘に着きますよ」
「ずいぶんと山奥にあるんですね」
 先生も僕と同じ事を思っていたらしい。
「ええ、社長がどうせなら、俗世から完全に隔離されたところがいいと言って。今時携帯の電波も入らないんですよ。本当に物好きな奴ですよね。客の身にもなれ、と言いたいですよ」
 そして車内に軽い笑いが生まれた。
「お二人が今日パーティーに参加する事は、皆には秘密にしてありますから」
 僕は、もし僕達が歓迎されなかったらどうしよう、と不安になった。しかしその時は、別荘へ行こうと言い出した先生が悪いのだ、とすぐに開き直った。
 するとすぐに、視界の先に一件の建物が見えてきた。どうやらあれが、足立さんの別荘らしい。車は、その建物の前にある駐車スペースに停車した。僕達は車を降りた。
 それはロッジ風の建物で、高床式の構造になっており、一階部分はコンクリートで、ドアがひとつだけついていた。居住スペースは二階建てになっている。絵に描いたような、山奥にある金持ちの別荘といった感じの佇まいだ。
 僕達は松戸さんを先頭に、木でできた趣のある階段を上がっていく。階段を上がりきると、松戸さんは玄関のチャイムを押した。僕は緊張から思わず生唾を飲み込んだ。少し経って、はい、と言う返事とともにカチャリと鍵が開き、玄関のドアが開いた。
 そこに立っていたのは、藍色のエプロンをつけた若い女性だった。恐らく二十歳過ぎだろう。柔和な顔立ちをした、透明感のある美人だ。料理をしているためか、長い髪を後ろで束ねている。
「あら松戸さん、いらっしゃい。あなたが一番乗りよ」
 その女性は、軽い口調で松戸さんを指差しながら言った。それからすぐに僕達の存在に気付き、視線をこちらに向けた。松戸さんは、その視線に気付いたのだろう。
「ああ、こちらは僕がお世話になった探偵さんだよ。ほら、元カノの件で……」
 その女性は、何かを思い出そうとしていたのか、少しの間を置いてから口を開いた。
「はいはい、主人から伺っています。初めまして、私、足立の妻の裕香と申します。よろしくお願いします」
 裕香さんは、わざと若干おどけた口調で言った。それは、明らかに顔が強張っている僕達の緊張を、解きほぐそうとしてくれたように僕には感じた。
「は、初めまして。私、し、私立探偵をしております、秋山公平と申します。よ、よろしくお願いします!」
 しかし先生にはそんな小細工はまったく無意味だった。山彦が返ってくるのではないかというほどのボリュームで、先生の上ずった声はむなしく山々に響いた。二人は深々と頭を下げている先生を、目を丸くして見つめている。
「あっ、どうも。僕、先生の助手をしています、森村といいます。よろしくお願いします」
 僕は何とかこの空気を変えようと、自己紹介を試みた。
「はい、こちらこそ。さあどうぞ、主人もリビングで待っていますので」
 裕香さんは、そんな僕の意図を読み取ってくれたのだろう。先ほどの出来事など無かったかのような見事な切り返しで、僕達を別荘の中へ招き入れてくれた。
 その内装は木を基調とした温かみのあるものだった。鼻から大きく息を吸い込むと、木の香りが鼻腔を抜ける。正面には階段があり、その両側にはそれぞれ一つずつ両開きの扉が見える。左側の扉は片側が開け放たれており、その中には白いテーブルクロスが架かった縦長のテーブルが見える。恐らく食堂だろう。
 僕達は裕香さんが用意してくれたスリッパに履き替えると、フローリングを歩き出した。そして、すでに視界にあった正面右側の扉へ向かった。
「あなた、松戸さんがいらっしゃったわよ」
 裕香さんが扉を開けると同時に言った。部屋でL字型の白いソファに腰掛けてテレビを見ていた足立さんがこちらを振り返った。それを見届けると、裕香さんはすぐにどこかへ行ってしまった。
「よお、英輔。よく来たな」
 黒いスーツを着た彼は、立ち上がると右手を広げてこちらに歩み寄ってきた。すると、松戸さんとごく自然な流れでハイタッチをした後、軽いハグを交わした。この欧米風の挨拶を見て、やはりこの人たちは僕とは生きる世界が違うのだと改めて実感した。続いて傍らにいた僕達に、訝しげな視線を向けた。
「この人達は、僕があのクソ女の件で世話になったイケメン探偵さんだよ。会いたいって言っていただろ」
「初めまして、私立探偵をしております秋山公平と申します。よろしくお願いします」
 先生が自己紹介すると、男の表情が緩んだ。
「ああ、あなたが。初めまして、僕はサイバーゼウスの社長をしています足立隆弘といいます。よろしくお願いします」
 足立さんが先生に右手を差し出した。握手を求めてきたのだ。先生は快くそれに応じた。
「いつもテレビで拝見していますよ」
 先生はさらりと嘘をついた。この場合は、社交辞令というべきなのだろうか。足立さんは、その言葉に気を良くしたのか、不自然なほど真っ白い歯を見せて笑った。
「ありがとうございます。まあテレビなんて僕にとってはどうでもいいんですけどね。向こうが出てくれって五月蝿いんですよ」
 そう言って右手で前髪を軽く流した。足立さんは、どう贔屓目に見ても格好いいという顔立ちではなかった。それなのに、いかにも今時のお洒落な髪型をしているのが、見ていて何とも痛々しい。はっきりと「その髪形は似合っていない」と指摘してくれるほどの権力を持った人物が、彼の周りにはいないのだろう。
「そちらにいるのは……」
 と、足立さんは僕を手で示した。先生は僕のほうを向いただけで何も言わなかった。自分で自己紹介しなさい、という事だろう。
「初めまして。僕、先生の助手をしています森村と申します」
「あっ、そう。さあ、どうぞおかけ下さい」
 足立さんは、あっさりと僕から視線を逸らし、先生をソファへ促した。そのあまりの態度の違いに、僕は思わず腹が立った。しかし僕は、それを態度に出すと、殴られるのではないかと思い、ぐっと怒りを飲み込んだ。
 僕達はソファに腰を下ろす。テーブルにはシャンパンが入ったグラスと、チーズが乗った皿が置いてあった。すると、背後の扉が開き、誰かがやってくる気配を感じた。
「さあ、どうぞ」
 裕香さんだった。左手で銀色のトレーを持ち、右手でシャンパンの入ったグラスを僕達の前に置いてくれている。
「ありがとうございます」
 うつむいて黙ったままの先生に代わって、僕がお礼を言った。すると裕香さんは、にっこりと僕に微笑みかけてくれた。僕はそのあまりの美しさに、思わず目を逸らしてしまった。彼女はグラスを配り終えると、またすぐに部屋を出て行ってしまった。
「探偵さん、これまでに殺人事件とか解決した事もあるんでしょう?」
 興味津々といった感じで尋ねたのは、先生の隣に座っていた足立さんだった。
「そんなドラマみたいな事は滅多にありませんが、まあ何回かは……」
 先生は謙虚な口調を心がけていたようだが、そのニヤついた表情は、自讃の色を隠しきれてはいなかった。
「聞かせてくださいよ。その時の話」
 これは、同じく先生の隣に座っていた松戸さんだ。僕は完全に蚊帳の外へ追いやられてしまった。なんだか僕は、ナンバーワンキャバ嬢のところへ無理やりヘルプに入れられた、不人気キャバ嬢のような気分だった。そして先生はあくまで謙虚に、過去の事件のことを語り始めた。


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