「ありがとうございました。これでようやくあのクソ女から解放されましたよ」 事務所のソファにどっかりと腰を下ろしている青年は、安堵しきった笑顔を浮かべていた。今、僕と先生の対面に座っているのは、依頼主の「松戸英輔」さんだ。 彼は数ヶ月前から、最近別れた元彼女に、再三にわたって脅迫を受けていたのだ。その内容は、一方的に別れを告げ去っていった彼に、復縁を迫るというものだった。 初めのうちは、メールや電話で彼を説得していただけだったが、次第にその行動はエスカレートしていったそうだ。昼夜を問わず彼の自宅の前に姿を現したり、知っているはずのないプライベートな事を報告してきたり、過去の思い出の品を彼の自宅に送りつけたりと、明らかに常軌を逸したものになっていったらしい。恐怖を感じた彼は、僕達の探偵事務所へ相談しにやって来た。 僕達が彼の部屋を捜査していると、彼女が以前、彼にプレゼントしたという熊のぬいぐるみから、小型の盗聴器を発見した。 僕達が間に入り、直に彼がその事を彼女に問い詰めると、彼女は渋々罪を認めた。警察には通報しない代わりに、二度と松戸さんの前に姿を現さないという条件で示談が成立したのだった。こうして彼の抱えている悩みは無事に解決したのだ。 彼が何故、警察ではなく、この探偵事務所に相談に来たかというと、あまり事を大きくしたくない理由があったからだ。 彼は「サイバーゼウス」というベンチャーIT企業の副社長なのだ。大学時代に同級生数人で立ち上げた会社が、あれよあれよという間に大きくなり、今では三十歳という若さで、長者番付に名前が載るほどの億万長者なのだそうだ。 彼の会社の社長はタレント活動もしていて、たまにその顔をバラエティー番組等で見かけることがある。世間では、時代の寵児などともてはやされているようだ。 そんな彼にとって、女性スキャンダルは格好のマスコミの餌になってしまう事は必死だった。それは当然、社長、ひいては会社のダメージになる事は避けられない。そこで誰にも気付かれないように、こっそりと僕達のところへやってきた、というわけだ。 「お礼の方なんですけど、これだけあれば足りますか?」 彼はスーツの右ポケットをまさぐると、無造作に紙の束を取り出し、それをテーブルに放り投げた。その一番上にあった紙は紛れもなく一万円札だった。恐らくこの下にある紙もすべて一万円札だろう。僕は驚いて、思わず札束と松戸さんの顔を交互に眺めてしまった。 「百万円あります。足りなければ今すぐにでも銀行へ行って不足分をお持ちしますよ」 その声は明らかな自信に満ちていた。初めから足りないなんて思っていないのだろう。先生は困惑の色を見せ、小さく首を横に振りながら答えた。 「いえ、こんなにいただくわけには参りません。今回の場合の相場は……」 「いいんですよ。あのクソ女と別れられたのなら安いものです。お釣りは気持ちだと思ってくださいよ」 と、彼は勝ち誇ったような腹立たしい笑みを浮かべた。 僕は最初にこの人に会ったときから、どうも彼の事が好きになれなかった。「成功者の余裕」とでもいうのだろうか。ちょっとした仕草や言葉の端々から、僕や先生の事を見下しているような雰囲気を感じていたからだ。付き合っていた元彼女を、クソ女呼ばわりしているのも気に食わない。 「そうだ、探偵さん。実は一週間後にウチの社長の別荘で『会社設立十周年記念パーティー』を開くんですけど、よかったら来てくれませんか?」 「私がですか?」 先生はその突然の提案に、僅かに戸惑っているようだった。 「会社の連中に話したんですよ。あのクソ女の件で、イケメン探偵の世話になっているって。そしたら皆、ぜひ一度本物の探偵に会ってみたいって言うんですよ。それで、今回のお礼も兼ねて、ぜひ出席していただきたいんです」 「しかし部外者の私が行って、ご迷惑がかかりませんかね」 先生の頬が緩んでいる。イケメンと呼ばれた事に気をよくしているようだ。 「大丈夫ですよ。ウチの連中は皆、社交的なんです。どうぞ遠慮なさらずに、いらしてくださいよ〜」 松戸さんは下から覗き込むように先生を見ながら言った。少し小ばかにしたようなその態度に、僕は少し不快感を覚えた。少しの間うつむいたまま悩んでいた先生は、突然何かを閃いたように顔を上げ、答えた。 「分かりました。お伺いします」 「それはよかった。アイツらも喜びますよ。じゃあ一週間後の二十八日、午前九時に、僕がこちらにお迎えに上がりますので。ああ、よかったらついでに、助手の君も一緒に来てもいいよ」 ついでかよ、と僕は思ったが、すぐに連れて行ってくれるだけでもありがたい、と思わなければならない立場である事を思い出し 「ありがとうございます」 と、できるだけ自然な笑顔でお礼を言った。 「では、二十八日の午前九時に、こちらにお迎えにあがりますので」 「分かりました。お待ちしています」 松戸さんは隣に置いてあった、いかにも高そうなブランド物のバッグを手に取ると、そのまま事務所を後にした。ビルの階段を下りていく足音が聞こえる。僕はその足音が聞こえなくなったのを確認してから、先生に尋ねた。 「先生、別に行く事ないじゃないですか。僕なんかあの人の事、好きになれないんですよね」 「まあ、いいじゃないか。普段あまり接しない人間と触れ合う事は、君にとってもいい社会勉強になると思うよ」 先生はそう言うと、何か企みがありそうな意味深な笑顔を浮かべた。先生は前々から僕の人見知りを気にしていた。それでは将来、色々と苦労するとよく注意されていたのだ。まさか今回の件は、人見知り克服の一環として先生が僕に与えた試練だったのだろうか。僕からの訝しげな視線にひるむ事なく、先生はなおもその笑顔を崩す事はなかった。
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