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作品名:童貞紳士の事件簿 作者:木城康文

最終回   エピローグ
 それから三日後の事だった。事務所にあの松野さんから電話がかかってきた。今日中に会いたいのだが時間はあるか、との事だった。先生は二つ返事で承諾した。
 そして予定していた時刻の三分前に、松野さんが事務所のドアを開けた。三日前と変わらぬスーツ姿。左手にはあのアタッシュケースを携えている。
「お待ちしておりました。どうぞおかけ下さい」
 先生は部屋の奥の椅子から立ち上がると、こちらへ向かって歩きながら、応接間のソファを手で示した。松野さんは軽く会釈すると応接間のソファに腰掛けた。僕はいつもの通り、お客様にお茶をお出しするために給湯室へ向かう。
 しかし今回の僕は、このままこの給湯室に引き篭もっていたい気分だった。昨日夕方のニュースで、山路社長が亡くなったというニュースが流れていたからだ。そしてそのニュースでは、夫人が愛憎のもつれの末、山路社長を殺害したという事がすべて伝えられていたのだ。今日の昼のワイドショーでは、特集コーナーが組まれるほど、この事件は世間の注目を浴びていた。僕は松野さんの気持ちを考えると、どんな顔をして会えばいいのか分からなかったのだ。
「今日はどういったご用件でしょうか」
 先生が三日前と同じ口調で話しかける。先生も当然、このニュースの事は知っているはずだ。それでも何も知らない振りをしているのだろう。
「今日は三日前の依頼の報酬をお持ちいたしました。どうぞ、お受け取りください」
 松野さんは、隣に置いてあるアタッシュケースを開け、一枚の紙切れを取り出したようだった。数秒の間をおき、先生が驚きと戸惑いが混じった口調で言った。
「これはいただけません。私は山路社長の命をお守りする事ができませんでした。これを受け取る資格はありません」
「いいえ、受け取っていただきます。私は脅迫状を出した犯人を見つけて欲しいと申したはずです。あなた様はそのお役目をしっかりと果たしていただきました」
 僕はどうしても松野さんが取り出した紙切れが気になり、お茶も持たずに応接間へ戻り、テーブルの上の紙切れを覗き込んだ。そこにあった小切手には、僕の月給の半年分を軽く超える金額が書き込まれていた。
「……やはりこれはいただけません。これはこれから大変になるであろう会社のために使ってください」
 先生は机の上の小切手を軽く松野さん側へ押し戻した。やはり先生もあのニュースを見ていたのだ。
「ではあなた様は、このお金がなければ、わが社が潰れるとおっしゃりたいのですか?」
 松野さんらしくない言葉だった。口調こそいつもどおりだったが、そんな挑戦的な言葉を松野さんの口から聞く事になるとは、僕は思っても見なかった。
「い、いえ。決してそのような事は……」
 先生もそのあまりにも意外な言葉に動揺しているようだった。
「私どもの会社を甘く見ていただいては困ります。こんな事ぐらいで、私の主人が二代にわたって築き上げたこの会社が潰れるとでもお思いですか? そんな事はこの私がさせるものですか。この会社は私が命に変えても守って見せます」
 松野さんは先生の目をまっすぐ見つめながら言った。僕には、その瞳の奥が少しだけ潤んでいるように見えた。最後に松野さんはこう締めくくった。
「それが私の主義でございます」
 そしてにっこりと微笑んだ。松野さんの笑顔を見たのは、これが最初で最後だった気がする。先生もその思いに応えるように、微笑んだ。
「分かりました。これはありがたく受け取らせていただきます」
 先生はテーブルの小切手を持ち上げ半分に折ると、背広の胸ポケットへ入れた。これは今後に対する、松野さん自身の決意の表れだったのかもしれない。
「では、私はこれで……この度は、誠にありがとうございました」
 松野さんはアタッシュケースを手に取るとその場に立ち上がり、深々と頭を下げた。そして、ドアが閉まる直前、あの時と同じように小さく会釈をした。その後、数秒間の沈黙を破り、普段と変わらない口調で先生が言った。
「森村君、ちょっとミックスジュース取ってくれる?」


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