「それでは皆さん、夕食のときと同じ席へ座っていただけますか。相庭さんは私の座っていた席へどうぞ」 上座に立った先生は、食堂に入ってきた僕達にそう言うと、相庭さんを手で夕食時の自分の席へ誘導した。僕を含めた全員がそれぞれの席へ腰掛ける。それを見届けた先生がゆっくりと語り始めた。 「今夜起こった二つの事件の真相が分かりましたので、今からそれをお話いたします」 黙ったまま斜め下を向いていた全員が一斉に先生に顔を向ける。勿論僕もそれは同じだった。 「じゃあ、兄貴を殺した犯人が分かったってことか?」 大志さんが興奮気味に先生に尋ねた。 「はい、相沢さんを殺害した犯人も全部ね……」 先生が答える。僕は思わず息を呑んだ。 「まず、山路社長が殺害された第一の事件。あれは元々、山路社長自らが計画していたサプライズだったのです。自分は誰かに殺されたと見せかけて、本当は生きていた……というね」 全員が腑に落ちないという顔をしている。勿論僕もそうだった。 「でも兄貴は実際に死んでるじゃないか」 そう先生に反論したのはまたも大志さんだった。僕もそのとおりだと思った。 「山路社長は犯人に裏切られたんですよ。このサプライズのことをあらかじめ知っていた犯人は、それを実際の殺人に利用したのです」 「でもどうしてこれが元々サプライズだったと言い切れるんだよ」 どうやらここにいる全員の代弁者は大志さんで決まったようだ。 「あの窓ガラスを割ったのが山路社長本人だからですよ」 食堂に衝撃が走った。 「兄貴が?」 大志さんが驚きに満ちた声で言った。 「私達が犯行現場を調査したとき、窓のそばにあった山路社長の靴の下に、たくさんのガラスの破片が落ちていたのです。しかもその靴の中にはガラス片は一つも落ちていませんでした」 「……それがどうしたんだよ」 大志さんが怪訝そうな顔で尋ねた。 「おかしいと思いませんか? 靴の下にガラス片があるという事は、山路社長は靴を履いてその上を踏んだという事になります。しかも靴の中に破片が落ちていないという事は、ガラスが割れたとき、彼はその靴を履いていたという事になります。これらを説明する最も合理的な行動は、まず靴を履いた彼が窓から外へ出て、自ら窓ガラスを割り、その窓から再び部屋の中へ入り、靴のままガラス片の上を歩き、靴を脱いでベッドに横たわった。そう考えるのが自然です」 「ちょっと待ってください」 先生に待ったを掛けたのは大志さんではなく僕の正面に座っていた加藤医師だった。加藤医師は相変わらずポケットに両手を突っ込んだまま座っている。 「そうとは言い切れないんじゃないですか? 山路社長がガラスを割ったと思わせるために犯人がわざとそうしたという可能性もあるんじゃないですか?」 「確かに可能性としてはありますが、それは犯人にとって何のメリットもありません。他人に罪を擦り付ける工作にはならないからです。これでは山路社長が自殺したと思わせることぐらいしか出来ません。首吊りならまだしも、山路社長は首を絞められて亡くなっています。これを自殺と思わせるのはさすがに無理がありますからね」 加藤医師はうつむいて黙り込んだ。 「これを裏付ける根拠はほかにもあります。まず山路社長が出口であるドアから最も離れたベッドの上で亡くなっていた事です。自分でガラスを割ったのであれば犯人から逃げる必要なんてありませんからね。次にガラスが割れたとき、山路社長が悲鳴を上げなかった事。これも同じく自分でガラスを割ったのであれば何も驚く事はありません。そして山路社長の右手親指の付け根にあった切り傷。あれは血の流れ具合から見て、明らかに最近出来た傷のようでした。恐らく山路社長は窓ガラスを割ったとき、その破片で患部を切ってしまったのでしょう。そして部屋割りの変更。山路社長は去年まで二階の部屋に宿泊していました。しかし部屋が二階にあってはこの計画は実行するのが難しくなってしまう。そこで部屋を一階に変更したのです。夫人と亜里沙さんの部屋も一緒に変更したのは、一人だけ部屋を変更して、サプライズの事を誰かに感づかれないためでしょう。更に山路社長が普段は呑んでいる酒を一滴も飲まなかった事。これは酔いが回って思考が鈍り、計画に支障をきたすのを避けるためでしょう。そして最後に、相庭さんにブレーカーを落とすように頼んだ事です。あれは暗闇の中で私達にまともな思考をさせないための演出だったのでしょう」 全員の視線が相庭さんに向く。相庭さんは真下を向いて誰とも目を合わせないようにしている。 「でも……それじゃあ、兄貴は誰が殺したんだよ! いつ死んだんだよ!」 大志さんが早くその先を聞かせろと言わんばかりの剣幕で先生に次の言葉を催促する。 「そうです。山路社長のこのサプライズには協力者が必要です。自分は何者かに殺害されていると皆に証明してくれる説得力のある人物がね…」 先生はゆっくりと一人の人物へ視線を向ける。 「そうですよね……加藤先生」 全員の視線が加藤医師に向けられる。加藤医師はまったく臆することなくしっかりと先生の眼を見つめている。 「私達が最初にベッドで倒れている山路社長を発見したとき、あなたは私達が部屋に入ろうとするのを制して、一人でその生死を確認しに行きましたよね? そしてあなたは脈を取り私達に一言、死んでるとそう呟いた。本当はあの時、まだ山路社長は生きていたのではないですか?」 加藤医師は先生のその問いに、若干挑戦的な口調で答えた。 「いいえ、あの時確かに山路社長は亡くなっていましたよ」 「本当にそうでしょうか? あの時私達は医者であるあなたが山路社長はすでに亡くなっているとおっしゃったから、すっかりそれを信じ込んでしまった。しかしその生死をほかに確認した人間はいません。そしてそれはもう一人の協力者によって妨害されたのです」 先生は目の前にいる人物へ視線を落とした。 「そうですね……山路夫人」 山路夫人は黙ったままただうつむいている。 「あなたは私達に山路社長の生死を確認させないために、森の中に架空の人影を見たと嘘をついたのです。そしてその人影を捜すと言って私達を館の外へ誘導した……」 先生は僕らに背を向けてそう言った。先生は今、自分が話しかけているのは一人の女性ではなく、ただの容疑者なのだと必死で思い込もうとしているのだろう。 「いいえ! 私は確かに怪しい人影を見ました」 山路夫人は声を荒げてそう言った。 「いいでしょう。それはとりあえず置いておいて、話を続けます。山路夫人が私達を外へ連れ出している間に、加藤先生が山路社長を殺害したのです」 「ちょっと待ってくださいよ! どうして私が犯人という事になるんですか! その時館にはほかにも人がいたじゃないですか。その人と奥さんが共犯だったという可能性だってあるでしょう!」 加藤先生はその場に立ち上がり、明らかに苛立った口調で先生に反論する。確かに加藤医師の言う事にも一理ある、と僕は思った。先生は向き直ると加藤医師に視線を向けた。 「いいえ、それはありません。もしあなた以外の人物が夫人の共犯者だったとしたら、彼女は一度館の中に戻ってでもあなたを館の外へ連れ出していたはずです。これから共犯者が殺害しようとしている人物にぴったり張り付いているあなたを放っておくはずがありませんからね」 加藤医師が唇をかみ締める。納得せざるを得なかったのだろう。 「だが、証拠はあるんですか! あなた達がいなくなった後に私が社長を殺害したという証拠は!」 「目撃者がいたんですよ。しかし今となっては彼女から、その話は聞けなくなってしまいましたがね」 「目撃者って……」 大志さんが尋ねる。 「相沢さんですよ。彼女は加藤先生が山路社長を殺害しているところを目撃してしまい、その口封じのために彼に殺害されてしまったのです」 「何を言い出すのかと思えば…それこそ何の証拠もないじゃないですか」 加藤医師は先生から目を逸らすとその推理を鼻で笑った。 「これを見てください。相沢さんのネイルについていたラインストーンです。山路社長の部屋がある廊下の途中に落ちていました。これはあなたが相沢さんを廊下で絞殺した時に彼女が落としたものではないですか?」 先生はズボンのポケットから相沢さんのラインストーンを取り出し、加藤医師に見せながら言った。 「そんなの知りませんよ。私は彼女には会っていないし、そのラインストーンだって、もっと前に彼女が廊下を通ったときに落としたものかも知れないじゃないですか」 確かに加藤医師の言うとおりだった。これでは証拠としては弱い。 「加藤先生……何故タバコをお吸いにならないのですか?」 突然先生の話が横道にそれた。それが何か事件と関係があるのだろうか。 「なんですか……突然」 明らかに加藤医師の声のトーンが落ちた。 「あなたは私達が館の外から帰ってきたときから、一本もタバコをお吸いになっていませんよね? それでイライラされているのではないですか?」 「そんなの…関係ないでしょう…」 「あなたはずっと両手をズボンのポケットに入れたままだ。そしてこれまで出していた手はすべて左手でした。何か右手が見せられない理由があるのではないですか? だからタバコが吸えなかったのではないですか? 」 加藤医師は黙っていた。 「右手を見せていただけませんか? それですべてがはっきりするはずです」 先生の言葉に、加藤医師は微動だにしなかった。そして数秒後、ついに観念したようにゆっくりと右手のひらを僕らに向かって見せた。その手は小刻みに震えてはいたが、特に変わったところは見受けられなかった。 「反対側ですよ」 先生が言った。手の甲のことだろう。加藤医師は険しい表情でゆっくり、本当にゆっくりと手首を百八十度回転させた。 「あっ……」 誰かが言った。多分亜里沙さんだろう。加藤医師の手の甲には誰かに引っかかれた、四本の赤い線のような傷跡がくっきりと残っていた。 「あなたは相沢さんを絞殺した時、ネイルで右手の甲を引っかかれたのでしょう。そのネイルにはあなたの血痕が残ってしまった。それで殺害した証拠が残らないように、相沢さんの爪からネイルを剥がしたのですね。もしほかに手の甲にその傷がついた理由があるとおっしゃるのならお伺いします」 長い沈黙だった。食堂の中にはただ時計の針の音だけがむなしく響くだけだった。 「殺していたところを見られたわけではなかったんですよ…。彼女はただ私があの男を殺した後、部屋を出てきたところを見ただけだったんです。でも怖かった…。危険因子は一つでも消しておきたかった」 加藤医師は緊張の糸が切れたようにフラフラと椅子へへたり込むと、力なくそう言った。 「それが決定的な証拠になってしまうとは皮肉なものですな」 先生は同情とも嫌味とも取れる口調で言った。 「皆さんが館を出た後、私大変だったんですよ。あの男を不意をついて殺した後、部屋を出たら廊下に彼女がいたんですよ。大丈夫だからとなだめて、油断しているところを後からロープで首を絞めて殺したんです。その時彼女に手を引っかかれて、ネイルのラインストーンが床中に散らばってしまったんです。でも彼女の遺体は隠さなきゃならない。とりあえず書庫へ彼女の遺体を運んだ後、私の血がついたネイルを剥がして自分の部屋のトイレに流し、急いで廊下に戻ってライターの明かりだけを頼りに必死になってラインストーンを拾い集めたんです。全部拾ったつもりだったんですけどね……」 「なぜブレーカーを上げなかったのですか?」 「疑われるでしょう。それではブレーカーを落としたのは私の共犯者ではないかと思われてしまう」 「停電すればまずブレーカーが落ちた事を疑うのはごく自然な考え方ですからね。私でも疑ってはいなかったでしょう」 加藤医師はただうつむいたまま黙っていた。 「ではなぜ左手でタバコを吸わなかったのですか?」 「そんなのあなた達に怪しまれるからに決まっているでしょう」 加藤医師が当たり前だろうといわんばかりに先生に食って掛かった。 「確かに私や森村であれば、それを疑っていたかも知れません。ですが、あの時談話室にいた皆さんは、あなたがどちらの手でタバコを吸っているかなど気にはしなかったでしょう。それよりも私は、明らかにイラついているあなたの態度が気になりました。談話室の灰皿には停電前から一本もタバコの吸殻が増えていなかった。そこでピンときたのです。あなたには右手が使えない理由があるのだとね」 加藤医師はふっと苦笑を浮かべた。 「全部裏目に出てしまったわけか……」 再び食堂を沈黙が包む。 「このサプライズを最初に計画したのは、あなたですね?」 その沈黙を破り先生が尋ねる。 「ええ、パーティーを盛り上げるためにと、このサプライズを提案したらあの男、何やらいいお膳立てになるとか言ってホイホイ乗ってきましたよ。言っておきますけどね、私の計画はもっとまともだったんですよ。それをあの男が台無しにしただけなんです。まず一番最悪だったのがあなた達を呼んだ事ですよ」 そう言って加藤医師は、力なく先生を指差した。 「そして一番最初に私達が部屋で倒れているあの男を発見したときです。あせりましたよ。堂々とベッドの上で死んでいるんですからね。ドアの近くに倒れろって言ったのに、あの男はすっかり忘れていたんですよ。他にもブレーカーを落とすのを人に任せたり……バスローブに着替えていなかったり……まったくいい加減な男だ」 「まさか山路社長も、本当に自分が殺されるとは思っていなかったでしょうからね」 「何で……あんたが兄貴を……」 大志さんが怒りと動揺が混ざったような声で加藤医師に問いかけた。 「そんなの恨んでいたからに決まっているでしょう。その理由まで話す必要はありません」 加藤医師の言葉に先生が意見する。 「あなたは誰かをかばっているのではないですか? だからその理由が話せないのでは?」 「違う! これは私がこのサプライズを利用して一人で計画した殺人だ!」 「もう止めましょう……明さん」 その場に立ち上がった加藤医師の怒号を、凛とした美しい声で制したのは山路夫人だった。全員の視線がゆっくりと山路夫人に向けられる。 「どうせ調べられれば分かる事です。それにこの方はすべてお見通しのようですしね」 「ママ……」 「ごめんね、亜里沙……」 山路夫人はうつむいたまま、隣にいる亜里沙さんと目を合わせることなく言った。 「恵美さん……どうして……」 大志さんが神妙な面持ちで尋ねる。少しの間を挟んで、夫人はゆっくりと語りだした。 「半年ほど前からでした。主人の帰りが急に遅くなったのは。それでその理由を主人に聞いてみたんです。そしたらあの人、仕事が忙しいって。すぐに嘘だと分かりました。だってあの人、何かまずい事を聞かれると自分の頭を撫で回す癖があるんですもの」 そう言って山路夫人はクスリと笑った。しかしその笑顔は、犯罪者としての不気味な笑いではなく、大切な人を思ったときの暖かい笑顔のように僕には見えた。 「気になった私は年甲斐もなく、主人の行動を尾行したんです。そうしたら……そこにいる笠原さんと会っているのだと分かりました。その日二人はどこかへ食事に行くようでした。そしてそこは毎年結婚記念日に主人と私が二人で訪れるフレンチのお店だったんです。私は二人から死角となる席へ座り、その様子を窺っていました。その時の主人の本当に楽しそうな表情を見て私は思ったんです。この人は彼女を心から愛している、と。そして主人は彼女を家まで送り届けると、そのまま何もせずに自分の家へ帰ってきました」 全員の視線が笠原さんへ向けられる。笠原さんはうつむいたままただ黙っていた。 「私は主人を愛していました……。主人もこれまでずっと私だけを見ていてくれました。だからあの人に、私より好きな女性がいるなんて辛くてたまらなかった。そんな私を慰めてくれたのが……明さんだったんです」 僕らはまるで操り人形のように、今度は立ったままうつむいている加藤医師に視線を向けた。 「元気のない私を見て、明さんはとても親身になって相談に乗ってくれました。そして、ずっと私のことが好きだったと言ってくれたんです。私達は親密な関係になりました。……寂しかったんです。一人ではどうしようもありませんでした」 「それからすぐの事ですよ。あの男が私の病院に心臓の定期健診でやって来たのは。その時にそれとなく聞いてみたんですよ。最近何かいい事があったんですかって。そうしたらあの男、なんて言ったと思います? 二十五年振りに好きな女が出来たって、笑いながらそう言ったんですよ! 恵美さんには内緒にしておいて欲しいってね。許せなかった……こんな男は恵美さんにはふさわしくないと思いましたよ」 加藤医師が山路夫人に続いて言った。 「そこで明さんにこの計画を持ちかけられたんです。不思議と迷いはありませんでした。あの人を誰かに取られるくらいなら、いっそ居なくなってくれたほうが楽になれると思ったんです……」 そして流れる沈黙。 「笠原さん、今こそ山路夫人に真実を打ち明けるときではありませんか?」 先生が優しい口調で言った。笠原さんは、少し驚いたように目の前の先生の顔を見上げた。先生は何を血迷っているのだろう。この状況で笠原さんに愛人関係を告白させようというのか。傷心の山路夫人の傷口にべったりと塩を塗りたくろうとしているのだろうか。この仕打ちにはさすがの僕も先生を軽蔑せざるを得なかった。笠原さんはおもむろに席を立ち上がると、先生の後ろを通って山路夫人の座っている椅子の傍らへやってきた。山路夫人はうつむいたまま笠原さんの方を見ようとはしなかった。笠原さんがゆっくりと口を開く。 「……私は」 数秒の間を置いて彼女はこう言った。 「……あなた達の娘です」 山路夫人はその言葉を理解するのに少々の時間を要したようだ。それは僕も同じだった。そしてゆっくりと笠原さんの顔を見上げた。 「私の本当の名前は……笠原京子です……」 山路夫人はしばらく笠原さんの顔を見つめたままだった。そして何かに気付いたようにはっと両手で口を覆った。その目は大きく見開かれている。笠原さんはゆっくりと語り始めた。 「私が二十歳になった誕生日に両親に聞かされました。私には両親とは別に生みの親が居るって……その時にお二人が本当の親である事も聞かされていました。でも……怖くて会いにいけませんでした。拒絶されたらどうしようって、ただの金銭目的だと思われたらどうしようって……。それから五年が経った今から半年前、私が勤めている会社の仕事で一度だけ父の会社へ伺う機会があったんです。私は運命に身をゆだねる事にしました。もしここで父に会えれば自分が娘である事を告げよう、もし会えなければ一生娘である事は告げずにいようって……。そしてそこへやってきたのは……父でした。私は思い切って自分が娘である事を告げました。すると父は、人目をはばからずに涙を流してくれました。この二十五年間、一日も私を忘れた日はなかったと、そう言ってくれました」 笠原さんの目は潤み、今にもしずくが零れ落ちそうだった。 「それから父は、これまでの時間を少しでも埋めたいと、私を秘書として雇ってくれたんです。それからいろんなところへ連れて行ってくれて、美味しいものをたくさんご馳走してくれました。あの日も……これは特に妻が好きなメニューなんだよと……笑いながら母の事を自慢していました……」 笠原さんはついに両目からぽろぽろと大粒の涙を流し始めた。山路夫人はまるで壊れたおもちゃのように、ただ何度も何度も小さく首を振り続けている。 「私は父に、早く母にもこの事を伝えたいと言いました。でも父は、どうせなら派手に演出したほうがあいつも喜んでくれると言って、今日までこの事を隠していたんです。私の下の名前を偽ってまで……」 後半のほうはほとんど声が上ずっていて聞き取れなかった。それでも笠原さんの気持ちは僕には痛いほど伝わっていた。 「で、でも兄貴があんたを養子に出した家は、斉藤家だったはずだろ」 大志さんが言葉に詰まりながら笠原さんに尋ねた。 「……結婚したんです。二年前に」 笠原さんは何とか声を振り絞って答えた。山路夫人の口を覆っている両手は、一番席が離れている僕からでも見えるほど大きく震えていた。 「あなたに娘さんを紹介する事……それこそが、山路社長が計画していた本当のサプライズだったのですよ」 先生が山路夫人の肩に優しく触れながら言った。その刹那、食堂には山路夫人の慟哭が響き渡った。それは永遠の時間とも思わせるほど長いものだった。ここにいる先生以外のみんなが泣いていた。なぜだか僕も泣いていた。こんな悲しいサプライズは、ここに居る誰一人として望んでいなかったはずなのに――。 その時、食堂の時計が十二時になるのを告げた。すべてが終わったのだ。 そういえば先生は普段どおりに山路夫人に話しかけている。しかも肩に手まで触れている。僕は改めて先生を見つめた。すると先生の足は、山から降りてきたばかりの初心者登山家のように、ガタガタと激しく震えていたのだった。
早朝、警察の船が島へやってきた。加藤医師と山路夫人が自首してくれたおかげで僕達は数分の事情聴取を受けただけで開放される事となった。 僕と先生は今、本土へ向かう松野さんが運転するクルーザーの甲板にいた。ここへ来たときと何も変わらない爽やかな潮風が、あの事件が本当は夢だったのではないかという錯覚を起こさせる。ほかの人たちは船室の中にいる。当然そこには山路夫人と加藤医師の姿はなかった。 僕には隣に座っている先生に聞きたい事が山ほどあった。 「先生、いつから加藤先生が犯人だって疑っていたんですか?」 僕は先生に、いきなり核心部分を単刀直入に尋ねた。 「実は私が一番最初に怪しいと思った人物は山路夫人だったんだよ」 「夫人が言っていた怪しい人影が見えなかったからですか?」 先生は首を横に振った。 「怪しい人影が見えたか見えなかったかは関係ないんだよ。問題はその後さ」 「その後?」 僕は首をかしげた。 「山路夫人はあの暗闇の中で、殺人犯かもしれない人物に、武器も持たずに自分から立ち向かって行っただろう? 虫一匹にも怖がるような彼女が取った行動にしては、あまりにも勇敢すぎると思ったんだよ。そんなこと、大の男でも中々出来るものではないからね」 確かに僕だったら、一目散に自分の部屋へ逃げ込んでいただろう。 「ではなぜ山路夫人がそんな行動を取れたのか。そこで私は、これはあらかじめ予定されていた行動だったのではないかと考えたんだよ。そうであれば何も怖がる必要はないからね」 僕はただ先生の話をうなずきながら聞いていた。 「という事は必然的に、夫人は窓ガラスが割れる事を前もって知っていたという事になる。だから窓ガラスを割った人物と夫人は共犯、という事になるだろう?」 僕は何度もうなずいた。 「ではなぜ夫人は私達を館の外へ誘導したのか。私は最初その理由を、共犯者に相沢さんを殺害させるための時間を稼ぐためだと思ってしまっていたんだ」 その推理は確か僕もしたような気がする。 「だが犯行現場を見たときに分かったんだよ。窓ガラスを割ったのが山路社長本人だとね。という事は、夫人は山路社長のために私達を館の外へ誘導した事になる。だが山路社長はすでに亡くなっているのだから相沢さんを殺害する事は出来ない。だから夫人の行動には別の意図があったという事になるだろう?」 僕はまたもうなずく。 「ではなぜ山路社長は自ら窓ガラスを割ったのか。自殺したのをを他人に気付かせるためならまだわかるが、彼の死に方は明らかに他殺だった。そこで私は相庭さんに聞いたサプライズの話を思い出したのさ。これは元々山路社長が考えたサプライズだったのではないかという仮説を立てたんだよ。という事は私達が最初に山路社長を発見したときには彼はまだ生きていたという事になる。それなのに、彼はすでに死んでいると嘘をついた加藤先生は必然的にもう一人の協力者という事になるだろう?」 うん、と僕は思わず先生にため口を利いてしまった。 「そこで夫人は、もう一人の協力者である加藤先生のために私達を館の外へ誘導したのではないかと考えたんだ。そしてそれは、まだ生きている山路社長を殺害するための時間を稼ぐという意図があったのではないかと思ったんだよ」 気付いたときには僕の口は半開きになっていた。僕ははっと我に帰り、もう一つの疑問を先生にぶつけてみた。 「じゃあ先生は、笠原さんが山路社長の娘さんだって気付いていたんですか?」 「まあね」 先生は得意げにニヤリと笑った。 「一番最初に笠原さんのお話を伺ったとき、私は山路社長と彼女は愛人関係ではないかと思っていたんだ。男の中年社長が、秘書の経験もない美しくて若い女性をそばに置いておきたい理由なんて一つしかないからね」 やはり先生も二人は愛人関係だと思っていたようだ。ではいつその考えが変わったのだろう。 「でも山路社長と彼女が部屋で話しているのを盗み聞きした時に気付いたんだよ。この二人は愛人関係ではないとね」 僕とは逆だった。僕はあの時に二人は愛人関係だと確信したのだ。 「どうしてですか? あんなにいいムードで抱き合ってたじゃないですか」 僕は不満げに先生に意見した。 「じゃあ聞くが、もし君があんなにいいムードで恋人と抱き合ったら、その後何をする?」 先生のその問いに、僕は男として当然の答えを返した。 「そりゃあ……キスしますよ」 「それから?」 「そんなの決まってるじゃないですか……アレですよ」 僕は先生から目を晒しながらぼそぼそと言った。 「だろう? でも山路社長はそれをしなかった。なぜか。二人には恋愛感情がないからだよ」 先生は得意げに答えた。 「でも奥さんが同じ建物の中にいるのに、そんな事しますかね〜」 僕は珍しく先生の意見に食い下がった。 「君は男女の仲というものを分かっていない。そういう緊張感こそが、二人の愛をさらに燃え上がらせるものなんだよ」 童貞には言われたくねーよ、と僕は思ったが勿論口には出さなかった。僕は自分に置き換えて考えてみた。彼女が隣の部屋で寝ている中で、こっそり大好きなアイドルと淫らな行為を行う……。確かにそうかもしれない、と僕は納得せざるを得なかった。だがすぐに浮気相手どころか彼女すらいない自分には無縁な話だ、と現実に戻り僕は思わず苦笑した。 「だがあの二人の会話には間違いなくお互いに対する信頼感があった。恋愛感情のない年の離れた男女が、信頼を持って互いを抱き締め合える関係……。私はこの二人は親族なのではないかと考えたんだよ。それもかなり近い間柄のね。山路社長がサプライズの事を彼女に話していたくらいだからね」 僕は先生の最後の言葉に引っかかった。 「どうしてそんな事分かったんですか?」 「部屋を出ようとしていた山路社長に彼女が言っていただろう。怪我しないようにねって。あれは自分で窓ガラスを割るとき、その破片で怪我をしないようにねという意味だったんだよ。それはサプライズの事を知っていないと出来ない忠告だろう?」 僕は何のリアクションもとれず先生の言葉にただ耳を傾けていた。 「そこで私は相庭さんの話を思い出したんだ。もし山路社長の二十五年前にあった辛い出来事というのが、貧困を理由に、娘である彼女を手放した事だったとしたら……。彼女の年齢も二十五歳だったしね。そして二人の会話の内容から、今夜その事を山路夫人に打ち明けようとしているのではないかと思ったんだよ」 「それで先生は山路夫人に、笠原さんのフルネームを知っているか確認したんですね」 「そう、夫人が下の名前を間違えて教わっているのを知ったときに確信したよ。山路社長は笠原さんが夫人の娘である事を隠しているのだとね。下の名前を知っていてその顔を知らない人物なんて滅多にいるものではないからね。そして二人が部屋に戻った後、バスローブに着替えていなかったのは、この後夫人に、笠原さんが娘である事を告白するという大事なサプライズが残っていたからだったんだよ」 そしてすべてを語り終えた先生は、僕からゆっくり視線を逸らすと正面を向いた。先生は朝の日差しが眩しかったのか、眉間にしわを寄せたまま、黙ってはるか遠くの水平線を眺めていた。僕はそんな先生の、ギリシャ彫刻のように美しい横顔を、ただいつまでもいつまでも見つめ続けていたのだった。
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