20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:童貞紳士の事件簿 作者:木城康文

第6回   第5章 捜査開始
 午後九時五十七分――。僕達は山路社長の部屋へ向かう途中で、先ほど男女で分かれて行動していたときの情報を交換した。男性陣はこれといって怪しい行動をとっていた人物はいなかったそうだ。二階で僕達と別れた先生達はまず相沢さんの部屋をもう一度よく調べてみたそうだ。だが特に変わったことはなかったらしい。その後一階へ降り、厨房へ向かった。相庭さんが言っていた、食器棚の引き出しをみんなでしらみつぶしに開けていると、大志さんが懐中電灯を発見したらしい。その後、とりあえず隣にある書庫から捜索して見ようという事になり、そこでいきなり床に倒れている相沢さんを発見したそうだ。呼びかけても返事がなかったので、加藤医師が左手で倒れている相沢さんの脈を取ってみると、亡くなっていることがはっきりしたらしい。
 ブレーカーを元に戻しに行ったときも、特におかしな行動をとっていた人物はいなかったという。先生が言うのだから間違いないのだろう。
 僕も先生に、談話室での女性陣の様子を細かく説明した。
 僕達は山路社長の部屋へ続く廊下の途中、ちょうど「202」のドアの前あたりで、廊下に落ちている小さな光る物体を発見した。僕はそれを人差し指と親指でつまんで持ち上げた。これは相沢さんのネイルに付いていたラインストーンだ。どうしてこんなところに落ちているのだろう。相沢さんがここを通ったという事だろうか。ではいつここを通ったのだろう。僕達が最初にこの廊下を通ったのは山路社長に話を聞きに来たときだ。確か時刻は午後五時ごろ。その時まだこれは落ちていなかった。これだけ塵ひとつ落ちていないきれいな廊下にこんなに光るものが落ちていれば、今みたいに先生か僕のどちらかが見つけていたはずだ。
 では僕達がガラスの割れた音を聞いて、山路社長の部屋へ駆けつけたときはどうだったのだろう。さすがにあの暗闇と緊迫した状況では僕は勿論、先生ですらこれが落ちていたかは覚えていなかった。という事はこれがここに落ちたのは午後五時頃から現在の時刻である、午後十時前の間ということになる。先生はとりあえずこのラインストーンをズボンのポケットにしまうと、山路社長の部屋へ向かった。
 
 午後十時一分――。山路社長の部屋にはすでに電気がついていた。という事はブレーカーが落ちたとき、山路社長は部屋の電気をつけていたということになる。
 そして明るくなった部屋を見てはじめて分かった事だが、割れた窓ガラスはかなり広範囲にその破片が飛び散っていた。窓からかなり離れているこの入り口の近くまでいくつかの破片が飛び散っている。かなり派手に割られたらしい。
 勿論一番多くの破片が落ちているのは窓の手前で、その近くのベッドの下に脱ぎ捨ててある山路社長の靴の下にも、たくさんのガラスの破片が散らばっていた。その靴の中にはまったく破片は落ちていなかった。
 窓の下に落ちていた細長い棒は金属バットだった。うつ伏せにベッドに横たわっている山路社長の首筋には、何か細いロープのようなもので首を絞められた、青紫色の跡が生々しく残っていた。
 先生が山路社長のタキシードのポケットの中をまさぐっている。そしてそこからおもむろに、この部屋である「101」のストラップがついた鍵を取り出した。
 ここで僕は推理してみた。
 ガラスの破片が部屋の中に落ちているという事は、外からガラスが割られたという事は間違いない。という事は外部から窓を割って侵入してきた犯人が、山路社長を殺害して再び窓から逃走した、という事になるのではないか。この部屋の鍵は山路社長が持っていたから、ドアからこの部屋を出て再び鍵を掛けて廊下から逃走する事は出来ない。
 いや、それが出来る人物が一人だけいた。松野さんだ。彼はマスターキーを持っている。恐らくこの「101」の部屋のドアの鍵を開閉する事も出来るだろう。
 停電が発生してから窓ガラスが割れる音がするまでには数分の時間があった。松野さんが自らブレーカーを落とし、そのまま急いで入り口から外へ出て山路社長の部屋の窓を割る。そして山路社長を絞殺し、マスターキーでドアに鍵をかけて自分の部屋に戻る……。しかしそれでは、部屋にやってきた僕らと鉢合わせしてしまう可能性がある。犯人がそんなリスクの高い事をするだろうか。窓という都合のいい逃走経路があるのに、わざわざそんな事をするとはとても思えなかった。それに僕は、あの松野さんが人を殺すなんて考えたくなかった。
 ではほかに犯行が可能だった人物は誰か。窓ガラスが割れたときに僕達と一緒に談話室にいた人間、山路夫人、亜里沙さん、加藤医師には犯行は不可能だったといえる。僕達が部屋に入り山路社長を発見したときには、すでに彼は亡くなっていたからだ。山路社長が談話室を出てからそれまで、僕達はずっと一緒にいたというアリバイがある。つまり犯行が可能だったのはそれ以外の人物という事になる。
 では途中で僕らの元へやってきた大志さんはどうだろうか。あらかじめ自分の部屋の窓を開けておけば、山路社長を殺害した後、開けておいた窓から自分の部屋に戻って、何食わぬ顔をして僕達と合流する事も出来たはずだ。やはりまだ大志さんを容疑者から外すわけにはいかなかった。だが今の僕にはこれ以上犯人を絞る事は不可能だった。
 僕は続いて、山路夫人が見たという「怪しい人影」について考えてみた。
 その怪しい人影はなぜ僕達の様子を窺っていたのだろう。そもそもその人影は僕達の事が見えていたのだろうか。あの時は停電していてここからでは外の様子がほとんど何も見えないほど真っ暗だった。恐らく外からこちらを見てもそれはあまり変わらないだろう。それでも怪しい人影が確認したかった事とは一体何なのだろう。そしてその人影が山路社長を殺害した犯人なのだろうか。だとしたら、その犯人は今もこの広い森のどこかに潜伏しているのだろうか。
 ここで僕はある根本的な間違いに気がついた。僕は今日このパーティーに参加している人物の中に犯人がいると思い込んでいたのだ。しかしそうとは限らない。犯人は僕達が知らないうちにこの島に上陸し、そのまま誰にも気付かれないように山路社長を殺害し森の中へ逃走した……。外部犯による犯行という事も十分に考えられるのだ。いや、むしろその方が自然な気がしてきた。なぜなら、ここにいる人たちには山路社長を殺害するほどの動機を持った人物がいなかったからだ。やはりこれは過去のリストラを恨んで強行に及んだ、外部犯による犯行なのではないか、僕はそう思い始めていた。
「森村君、この犯行現場を見て何かおかしいと思ったところはないかい?」
 突然先生に話しかけられて、僕は少し驚いた。そして改めて犯行現場をぐるりと見回す。だが僕は、特にこれといっておかしいところはないような気がした。
「いえ、別に……」
 僕は首を横に振りながら答えた。更に先生が僕に尋ねる。
「ではもし君が山路社長の立場だったとして、突然窓ガラスが割れて誰かが部屋の中に侵入してきたらどうする?」
 そんな事は考える間でもなかった。
「そりゃ逃げますよ。怖いですもん」
「どこから?」
「そんなのドアからに決まって……」
 そのとき僕は気付いた。山路社長がベッドの上で亡くなっているのは不自然な事に。このベッドは出口となるドアからは一番離れた位置にある。窓ガラスが割れたとき、山路社長は危険を感じてドアから逃げ出そうとしたはずだ。ではもっとドアの近くに遺体がないとおかしい。だがそれが何を意味しているのかまでは僕には分からなかった。
「君は無言のまま部屋を出ようとするのかい?」
 そうだ、悲鳴が聞こえなかった。山路社長ほど地声が大きな人が本気で悲鳴を上げればこの館中、いや島中に響き渡るほどの声が出るはずだ。なぜ山路社長は悲鳴を上げなかったのだろう。恐怖で声が出なかったのだろうか。
「それと、ここを見てごらん」
 そう言うと先生は、立て膝になり山路社長の右手の手首を持って僕に手のひらを見せた。その山路社長の右手の親指の付け根辺りには、かなり深い切り傷があった。この傷から滴った血が、手首に向かって一本の筋を作っていた。この切り傷はいつ出来たものだろう。犯人がやったのだろうか。だが山路社長は首を絞められて殺害されている。こんな傷をわざわざ作るとは思えない。ではこの傷は最初からあったのだろうか。いや、それも違う。最初からあった傷ならば、さすがにこの血をふき取って何らかの処置をしているはずだ。やはりこれは最近出来た傷だろう。
「そして、これ」
 と、先生は金属バッドを指差した。僕は何がおかしいのか分からず首をひねる。
「なぜ犯人はこの金属バッドを使って山路社長を殺さなかったんだと思う?」
 言われてみれば確かにそうだ。なぜ犯人は絞殺を選んだのだろう。僕は撲殺と絞殺の違いを考えてみた。
「返り血を浴びたくなかったんじゃないですか?」
 僕は導き出した答えを言った。すると先生はにっこり微笑んだ。どうやら正解したらしい。僕も思わず微笑んだ。ではなぜ犯人は返り血を浴びたくなかったのだろう。もし外部犯であれば、どうせその場を逃げ出すのだから別に自分が血まみれになろうが構わないはずだ。ではやはり犯人は僕達の中にいるのだろうか。返り血を隠すために服を着替えれば、間違いなく自分が怪しまれてしまう。だから返り血を浴びたくなかったのではないだろうか。それともこれは外部犯による単なるミスリードなのだろうか。
「それと山路社長の服装……」
 山路社長は先ほどまでと同じタキシードを着たまま倒れている。もう休もうとしていたのなら真っ先にバスローブに着替えるのではないか、ということだろう。まだ正装をしていなければならない理由があったのだろうか。
 それから僕達はトイレを調べてみたが電気は消えており、特に変わったところはないようだった。
「これは皆さんにもう一度お話を伺ってみないと分からないねえ……」
 先生はあごに手をやり、イタズラを思いついた悪ガキのような、ふてぶてしい笑顔を浮かべて言った。先生は明らかにこの事件を楽しんでいるようだった。こんな顔はとてもほかの人には見せられない、と僕は思った。
「さあ、今度は相沢さんが亡くなっている書庫へ行こう」
 先生は山路社長の部屋を後にした。僕はこの時、本当はそこへは行きたくなかった。でもそんなわがままは言えないと思い、素直に先生の後に続いた。
 玄関ホール正面左のドアを開け、廊下を左へ曲がる。そこには書庫へ続くドアがあった。この書庫のドアは談話室や食堂と同様に鍵がかかるタイプのドアではなく、いつでも誰でもここへ入る事が出来たことになる。

 午後十時二十三分――。
「ドアのすぐ前に遺体があるから、気をつけるんだよ」
 先生が僕に言った。そして先生がドアを半分ほど開けると、そこから中へ入っていく。僕もそれに続いた。
 先生が入り口付近にある部屋の電気を付けた。入り口のすぐそばには、足をこちらに向けて倒れているバスローブ姿の相沢さんがいた。横を向いている顔は長い髪がそれを被っていて表情を窺うことは出来ない。そしてその首には、山路社長と同じ青紫色のロープの跡が付いていた。さらに、首を絞められたときに苦しくて掻き毟ったであろう赤い血の筋の跡が、それとクロスするように付いていた。ゆっくりドアが閉まる。
 僕は目の前に倒れている相沢さんをただ黙って見つめていた。
 なぜ彼女が死ななければならなかったのだろう。彼女は今日たまたまこの別荘へ来ていただけなのだ。明日になればまた本土へ帰って、その日の夜にはきっとネイルアーティストの専門学校があって、次の日にはまた家政婦としての仕事があるのだ。大変だとか周りに文句を言いながらも彼女はどちらも一日も休むことなく、真剣にそれに取り組むのだろう。
 そして彼女はネイルアーティストになるためにたくさんの会社の面接を受けるだろう。何度断られても、それでも諦めずに何度も面接を受け続けるだろう。そしてその努力が実り、彼女はネイルアーティストとして働き始める。でもそこで壁にぶつかってたくさんの涙を流すだろう。辞めたいと思うこともあるかもしれない。それでも彼女は、両親やたくさんの仲間に支えられて、一人前のネイルアーティストになっていただろう。彼女のように明るくてまじめな人ならきっとたくさんの友達がいたはずだ。僕には分かる。
そしていつか好きな人が出来て、その人と結婚するだろう。いや、もう恋人がいたのかもしれない。彼女のような人なら、本当に女性を見る目がある男ならきっと放って置かないだろうから。バッチリ家事が出来る相沢さんなら、旦那さんの胃袋をがっちり掴んで絶対に浮気などさせないだろう。
 そしていつかその人との間に子供が出来て、夫婦でその子の運動会にいったり学芸会に行ったり、たくさんの楽しい思い出が待っていただろう。そしていつかその子が大きくなり結婚して、孫が出来るだろう。おばあちゃん、と呼ばれる事に彼女は怒るだろうか。それともあの時のような照れ臭そうな笑顔を浮かべるのだろうか。そしていつか死を迎えるときも、たくさんの温かい人たちに囲まれて、幸せな人生だったと思いながら安らかに眠りについたことだろう。
 それがなぜ、こんなところでたった一人きりで、もがき苦しみながら死ななければならない。彼女は絶対に幸せにならなければいけない人だったのに。僕はただ悲しかった。悲しくてたまらなかった。
「森村君……」
 先生の声がする。僕ははっとして先生を見た。目の前にいる先生の顔がぼやけて見えない。僕は泣いていた。涙が止まらなかった。目の前で亡くなっているのは僕の親でもなければ友達でもない。今日会ったばかりのまだよく知らない人なのにだ。僕はこんなに弱い自分が情けなかった。そんな感情が僕の涙に更に拍車をかける。こんな情けない僕を目の前の先生は怒っているだろうか。それとも呆れているのだろうか。
 先生は僕の頭をぽんぽんと二回軽く叩くと、ゆっくり頭をなでてくれた。そして優しく僕を抱きしめてくれた。そのまま僕は先生の温かい胸の中でほんの少しだけ泣いた。出来るだけ声は殺したつもりだったが、それでも何回か変な嗚咽が先生に聞かれてしまった。
「もう……大丈夫です……」
 数分後、僕は自分から先生の両腕を軽く掴み、先生の身体をそっと僕から離した。
「本当に大丈夫かい?」
 先生が優しさに満ちた声で僕に尋ねる。僕はただ小さくうなずいた。本当はまだ、油断するとまた涙が出そうな状態だったが、僕のせいでいつまでも先生の捜査の邪魔は出来ない。
「すみませんでした……迷惑かけて……」
 僕は恥ずかしくて先生の顔を見て謝ることが出来ず、うつむいたままそう言った。すると先生は再びぽんぽんと僕の頭を軽く二回叩いて、頭をなでた。
「森村君、見てごらん」
 そう言って相沢さんの遺体の横にしゃがみこんだ先生はいつもの先生に戻っていた。いつまでも悲しんではいられない。僕もいつもの僕に戻るよう自分に言い聞かせた。そして先生の横にしゃがみこむ。
 先生は相沢さんの指先を指差していた。そこにはギャルである相沢さんにしては何か物足りない指先があった。あの派手なネイルをしていなかったのだ。両手ともにきれいにネイルは無くなっていた。
「部屋で外したんじゃないですか?」
 僕はそう意見した。バスローブを着ているということはもう寝ようとしていたのだろう。という事はネイルを外している方がむしろ自然ではないかと思ったからだ。
「さっき部屋を調べたときにはそれらしきものは無かった。彼女の荷物までは調べていないが……」
「調べましょう!」
 僕は勢いよく立ち上がった。僕は絶対に相沢さんを殺害した犯人を見つけたかった。そして彼女に謝らせたかった。夢を奪ってすみませんでした、と土下座させたかった。僕の両手のこぶしには自然と力がこもっていた。
「よし、行こう!」
 先生も僕の思いに答えてくれるように、勢いよくその場に立ち上がった。僕達は書庫を出ると、相沢さんの部屋である「202」へ向かった。部屋の鍵は先ほど大志さんがマスターキーで開けたままになっていた。
 僕達は部屋へ入ると電気をつけた。ベッドの傍らにショッピングピンクでエナメル製の手提げバッグが置いてあった。僕達はそこにしゃがみこむと早速中を調べた。中にあったのはほとんどが化粧道具に関するものばかりだった。しかしそこには、ネイルは入っていなかった。
 では相沢さんのネイルはどこへいったのだろう。犯人が持ち去ったのだろうか。一体何のために。そのネイルに、犯人の証拠となるものが残っていたのだろうか。
 ここで僕は推理してみた。
 僕達が相沢さんを最後に見たのは、僕達は談話室にいて、食事の後片付けが終わった事を山路社長に報告に来たときだ。そのとき僕達は、間違いなくまだ生きている相沢さんを目撃している。確か時刻は午後八時十五分ごろ。そして先生達が相沢さんの遺体を発見したのは午後九時五十分ごろだ。その間に相沢さんは殺害された事になる。午後九時に停電があって、それから僕達は山路社長の事件ことで頭がいっぱいになっていた。
 果たして相沢さんは停電が起こる前に殺害されたのだろうか。それとも停電が起こった後に殺害されたのだろうか。
 もし停電が起こる前に殺害されたのだとしたら、談話室にいた人間にはそれは不可能だ。僕達はそれまでずっと一緒にいたからアリバイは完璧だ。という事は談話室にいなかった人たちが容疑者となる。
 停電後だとしたら、僕達と一緒に館の外に出て怪しい人物を捜索していた山路夫人、亜里沙さん、大志さんの三人には犯行は不可能という事になる。この時館に残っていた加藤医師には犯行は可能だが、加藤医師が相沢さんを殺害する動機がまったく思い浮かばなかった。だがそれはほかの人にも当てはまる。相沢さんはここにいる全員とは今日まで一度も面識がなかったのだ。
 なぜ犯人はそんな相沢さんを殺害しなければならなかったのだろう。相沢さんが嘘をついていたのだろうか。本当はここにいる誰かと面識があって、その人に恨みを買われていたのだろうか。それともまさか犯人は快楽目的で無差別に殺人を犯しているのだろうか。僕は自分の推理の恐ろしさに思わず鳥肌が立った。
 恐らく犯人は自分の部屋にいた相沢さんを呼び出し、書庫へ連れて行き殺害したのだろう。そして何食わぬ顔をして自分の部屋へ戻る……。相沢さんは家政婦だから、この館にいる人についてきて欲しいと言われれば恐らくついていくはずだ。
 停電前であれば、談話室にいなかった人間全員がそれを出来ただろう。では、停電後はどうだろう。停電後僕達は二十分ほど館の外に出ている。山路夫人が怪しい人物を目撃して、それを捜索していたからだ。人目が少ないそのときであれば先ほどの手口で相沢さんを殺害する事も出来ただろう。だが僕達が館を出たのは、まったくの偶然のはずだ。それとも相沢さんを殺害した犯人と山路夫人は共犯だったのだろうか。あれは共犯者のために相沢さん殺害の時間を稼ぐ芝居だったのだろうか。だとしたら山路夫人は必然的に、山路社長を殺害した犯人とも共犯という事になる。
 そもそもこの二人を殺害したのは同一犯なのだろうか。僕はまったく思惑の違う二つの事件を、無理矢理一つに結び付けようとしているのではないか。僕はあまりに多くの可能性を考えすぎて具合が悪くなってきた。
「とりあえず談話室に戻ろう。そして皆さんからもう一度お話を伺ってみよう」
 先生が立ち上がる。確かに今の僕にはこれ以上事件の真相に近づく事ができそうになかった。僕達は相沢さんの部屋を出て談話室へ向かった。

 午後十時四十二分――。先生が談話室のドアを開けた。何人かの視線が僕らに向けられる。談話室はなにやら重苦しい沈黙に包まれていた。
「松野さん、警察へは連絡していただけましたか?」
 先生が入り口付近に立っていた松野さんに尋ねる。
「それが……本土では今かなりの強風が吹いて海が荒れているらしく…その風が止むまでは警察の船が出せないそうなんです」
 こちらはまったくといっていいほどの無風だった。窓から見える木々のシルエットは、それが絵画ではないかと思うほど微動だにしていない。僕にはそれがまるで神様が他者の侵入を拒んでいるような、そんな気がしていた。
「皆さん、ちょっと聞いてください」
 先生が注意を引く。全員の視線が先生に向けられる。
「これからもう一度皆さんお一人ずつにお話を伺いたいのです。助手の森村が皆さんをお一人ずつここへ呼びに参りますので、呼ばれた方は隣の食堂までいらしてください。ではまずは……」
 先生は山路夫人と目が合った。

「か、加藤先生。お願いします」
 先生はその視線をさっと逸らすと、相変わらず両手をポケットに突っ込んだまま壁にもたれて立ったままの加藤医師にそう言った。いきなり出鼻を挫かれたくなかったのだろう。
 加藤医師は返事もせずこちらのほうへやってきた。そして僕らは三人で談話室を出ると、食堂へ向かった。食堂の扉を開けると僕達は椅子のほうへ歩を進めた。
「どうぞ」
 先生が加藤医師を椅子へ促す。
「いや、結構……」
 加藤医師は左手をポケットから出し、手を前に持っていく否定するポーズをしながら言った。加藤医師は顔にじんわりと汗をかいていた。具合でも悪いのだろうか。僕達もその場に立ったまま先生は質問を始めた。
「山路夫人が見たという怪しい人影を私達が外で捜索していたとき、あなたは館の中で一体なにをされていたのですか?」
「あの後一応、山路社長の部屋のトイレの中を調べてみたんですよ。もしかしたら犯人が隠れているかもしれないと思いましてね。でも、誰もいなかったし特に変わったところはありませんでしたよ。それからあなた達の後を追おうとも思いましたが一人で行動して犯人に襲われてはまずいと思い直しましてね。おとなしく自分の部屋に隠れていましたよ。しばらくして窓からあなた達が帰ってくるのが見えたから、玄関へ迎えに出たというところです」
 僕はその供述に怪しいところはないように思えた。だが先生は違ったようだ。
「ではもしトイレの中に犯人がいて襲われたときはどうなさるおつもりだったのですか?」
「何ですか…じゃあ私が嘘をついているとでもおっしゃりたいんですか!」
 加藤医師は突然先生に向かって大声を上げた。紳士的な加藤医師にしてはらしくない行動だった。すると加藤医師ははっと我に帰ったように、左手で額を覆った。
「すみません……ちょっとイライラしていて……申し訳ない」
「こんな時ですからね……無理もありませんよ」
 先生が神妙な表情で返す。さらに質問を続ける。
「では最後にもうひとつだけ。その時ご自分の部屋へ帰る途中で相沢さんに出会いませんでしたか?」
「相沢さんって亡くなっていたあの若い家政婦さんですよね? いいえ、誰とも会いませんでしたよ」
 そうですか、と先生。加藤医師への質問はこれで終わり、僕は彼と二人で談話室へ向かった。そして加藤医師が談話室に戻ったのを見届けると、再び食堂へ戻った。数分後、僕はもう一度談話室に向かった。

「次は山路夫人、お願いします」
 僕は山路夫人を呼んだ。夫人ははい、と小さく返事をするとこちらへやってきた。二人で食堂へ向かう。先生は下を向いてもじもじしていた。
「ど……どうぞ……」
 先生は山路夫人を椅子へ誘導する。夫人は軽く会釈するとその椅子へ座った。先生もその隣の椅子に座る。僕はその傍らに立っていた。
「では、伺います。あなたは山路社長の遺体を発見したとき、怪しい人影を見たとおっしゃっていましたが、その人影にはどんな特徴がありましたか? 例えば、どんな服を着ていたとか、背格好はどうだったとか」
 そう尋ねたのは勿論僕だ。先生は相変わらず椅子に座ってうつむいたままもじもじしている。僕は先ほど先生から、山路夫人に質問する内容をあらかじめ聞いていたのだ。
 山路夫人はしばらく黙ったままだった。あの時の事を思い出そうとしているのだろう。
「ごめんなさい……暗かったので服装は……」
 夫人はぼそっとそうつぶやいた。
「では背格好はどうでしたか?」
 僕は続けて尋ねた。今度はすぐに夫人が返す。
「ごめんなさい、それもちょっと……でも、覚えていないという事はそれほど特徴はなかったんだと思います」
 僕達の中で身体的な特徴があるのは、明らかに小太りな家政婦の相庭さんと、明らかに大柄な大志さんだ。しかし大志さんは、その時僕達と一緒にいたのだから絶対にその人物であることはありえない。
 ほかの人は身長にかなりの差はあれど、中肉中背といっていいだろう。だとしたらその可能性があるのは、笠原さん、松野さん、もしくは外部から来た犯人の共犯者ということになる。
 いや、可能性がある人物がもう一人いた。もしその人影がまだ生きていた相沢さんだったとしたら……。そして館にいた共犯者に何らかの理由で裏切られて殺害されたのだとしたら……。それが相沢さんを殺害する動機だったのではないか。僕は可能性としてはあるような気がした。
「ではもう一つだけ。あなたは山路社長の秘書である笠原さんの事をどの程度ご存知ですか?」
 僕はその先生の質問の意図がいまいち分からなかった。でも僕は先生に言われたとおりそう尋ねた。
「半年ほど前から主人の秘書として働いていると主人から聞いていましたが…それが何か?」
 先生が僕に耳打ちする。
「それを聞いたのはいつの事ですか?」
「今から一週間くらい前です。このパーティーにその方も参加すると言われて…。それまでは新しい秘書の方がいた事すら知りませんでした」
 先生が再度僕に耳打ちする。
「では、フルネームはお聞きになりましたか?」
 僕は先生に言われたとおりに山路夫人に尋ねた。僕はますます先生の質問の意図が分からなかった。
「確か……笠原冬美さん、だったと思いますが……」
 あれ、と僕は思った。笠原さんの下の名前は京子だからだ。まさか京子と冬美を聞き間違えるとは思えない。では山路社長が嘘を教えたのだろうか。一体何のために。二人の不倫関係を隠すためだろうか。しかし、下の名前を隠す事がその効果的な方法とは思えない。隠すとしたらその存在自体を隠すべきではないだろうか。そもそも愛人と奥さんを同じパーティーに呼ぶとは、山路社長もずいぶんと肝が据わっている。
 山路夫人が本当は下の名前を知っていてわざととぼけているとも考えられるが、そんな事をしても僕達にはすぐにばれるし意味がないような気がした。僕は不思議に思った。しかし先生は山路夫人に笠原さんの本当の名前を教えようとはしなかった。厳密に言えば、そういう耳打ちを僕にはしてこなかった。
 そして山路夫人への質問は終わり、僕は夫人と談話室へ戻った。

「じゃあ次は亜里沙さん、お願いします」
 亜里沙さんは無言でソファから立ち上がると、僕のところへやってきた。そして僕達は食堂へ向かう。亜里沙さんは先生に促され、黙ったまま力なく椅子へ腰掛けた。先生も隣の椅子に腰を下ろす。
「大丈夫?」
 先生が優しい口調で亜里沙さんに尋ねた。亜里沙さんはうつろな目で小さくうなずいた。かなり憔悴しきっているようだ。
「質問してもいいかい?」
 先生が尋ねると、亜里沙さんはまたも小さくうなずくだけだった。
「私達が一番最初に君に話を聞いたとき、家に脅迫状が届いた事を驚かなかった理由を聞いたよね? 今度こそその理由を教えてくれないかな?」
 亜里沙さんはその質問が聞こえていなかったのではないかと思うほど無表情のまま答えた。
「……サプライズだと思ったの」
「サプライズ?」
 この単語を先生が相庭さんとの会話でも聞き返していたのを僕は覚えていた。
「パパはよく私の誕生日にサプライズを計画して色んなプレゼントをくれるの。だから今回の脅迫状もてっきりパパのサプライズの一部だと思っていたの。それなのに……」
 亜里沙さんのドレスをつかむ手にぐっと力が入る。
「ありがとう、よく話してくれたね。さあ、ママのところへ戻ってもいいよ」
 先生はささやくようにそう言うと、立ち上がった亜里沙さんの背中を優しく押し出した。サプライズ――。それは今回のこの事件と何か関係があるのだろうか。僕達は二人で談話室へ戻った。

「では次は、大志さんお願いします」
 窓際の壁に寄り掛かったまま腕を組んで立っていた大志さんは、無言でこちらへやってきた。僕達は食堂へ移動した。大志さんと先生が椅子に腰掛ける。
「では、お伺いします。あなたは夕食が終わり食堂を出た後、何をされていましたか?」
「あれからすぐに自分の部屋へ戻ったよ。それからすぐにシャワーを浴びてバスローブに着替えたんだ。その後ベッドに横になって本を読んでいたらいつの間にか眠ってしまって、どこかでガラスの割れる音で目が覚めたんだ。部屋の電気をつけようとしたんだがつかなくて、危険を感じたからそのまま部屋の中でしばらく様子を見ることにしたんだ。そしたら加藤先生が大声で兄貴を呼んでいるのが聞こえて部屋を飛び出したってわけさ」
 大志さんには停電前のアリバイがなく、さらに部屋が一階という事で、山路社長殺害の件に関しては最も犯行を遂行しやすい人物だ。この供述が嘘である可能性は十分に考えられる。
「分かりました。ご協力ありがとうございました」
 だが先生はそう言うと、あっさりと大志さんを出口へ促した。先生は大志さんを犯人とは思っていないのだろうか。僕達は談話室へ戻った。

「では次は松野さん、お願いします」
 ドアの前に立っていた松野さんは軽く頭を下げた。僕達は食堂へ向かう。松野さんは先生に促され椅子に腰掛けた。先生もそれに続く。
「それではお伺いします。あなたは夕食後食堂を出た後、何をされていましたか?」
「あれから私は談話室へ向かう途中の廊下で山路の許可を取り、笠原とともにそれぞれ自分の部屋へ戻りました」
 家族の団欒に水を差したくなかったのだろう。松野さんらしい配慮だと僕は思った。
「それからバスローブに着替え、すぐに就寝いたしました」
 それから少し松野さんは黙った。
「それから…お恥ずかしい事に、皆様が部屋へ私を呼びに来てくださるまでずっと眠ったままでおりました次第でございます」
 どうやら本当に松野さんは、山路社長が亡くなって僕達が大騒ぎしている間、ずっと眠っていたようだ。勿論この供述が嘘の可能性もある。松野さんにはまったくアリバイがなく最も二つの犯行を遂行しやすい人物といえる。
 ブレーカーを自ら落とした後山路社長を殺害し、窓から外に出てこっそり僕達の様子を伺う。そして見つからないタイミングを見計らって二階の自分の部屋に戻る……。あの暗闇を利用すれば恐らく可能だろう。それは二階に部屋がある笠原さん、相庭さんにも同じことが言える。
 しかも松野さんはマスターキーを持っている。空室の部屋のどこかにこっそり共犯者をかくまっておく事も出来たはずだ。もしかしたら今も空室のどこかに共犯者が隠れているかもしれない。
 ここで気になってくるのは山路夫人の行動だ。やはりあれはこの三人の誰かのために相沢さん殺害の時間を稼ぐための芝居だったのだろうか。考えたくはないが、僕は一番怪しいのはこの松野さんのような気がしてきた。先生はお礼を言うと、僕達は談話室へ戻った。

「では次は笠原さん、お願いします」
 ソファに座っていた笠原さんは、はいと小さく返事をするとこちらへやってきた。僕達は二人で食堂へ向かった。先生が椅子へ笠原さんを促す。
「あの……」
 その椅子へ座る前に笠原さんが口を開いた。
「社長は……山路は……本当に亡くなったんですか?」
 笠原さんが先生に尋ねる。明らかにその言葉には「本当に」という部分に強いアクセントがついていた。先生は若干冷や汗をかきながら、真剣な顔のままただ無言でうなずいた。
 すると笠原さんは握ったこぶしを口の前へもって行き、大きく目を見開いた。顔色が見る見る青ざめていくのが分かった。今頃になって状況が理解できたのだろうか。笠原さんは力が抜けたように椅子にどさりと腰掛けた。
「そ、それではお伺いします。あなたは夕食後食堂を出た後、どうされましたか?」
 先生は頑張って笠原さんと目を合わせようとしているが、やはりうつむいている時間のほうが圧倒的に長かった。
「部屋に戻って、本を読んでいました……」
 笠原さんは急に魂を抜かれたように、今にも死にそうなため息交じりの声でそう答えた。
「それからしばらくして突然部屋の電気が消えて、少し経ってからガラスの割れる音がして、怖かったので私、皆さんが部屋に来てくださるまで、ずっとベッドの中に隠れていました」
 笠原さんは何とか力を振り絞り、僕らに聞こえる程度の声の音量を保ちつつ、ゆっくり考えながらそう答えた。
「それまで一度も部屋は出ていませんか?」
 先生の問いに笠原さんは力なくうなずいた。
「誰ともお会いしていませんか?」
 先生が鎌をかける。しかし笠原さんは動揺を見せる事もなく、またも力なくうなずくだけだった。山路社長と会っていたことを僕達に隠すところを見ると、やはり二人は愛人関係なのだ。だがそれを公にするのは、山路社長が亡くなった今でもまずいことなのだろうか。
「ではもう一つだけ伺います。あなたはなぜ部屋に帰った後、バスローブに着替えなかったのですか?」
 先生は勿論うつむいたまま尋ねた。笠原さんはしばらく黙ったままだった。
「……お答えできません」
 その答えは僕にとっては意外なものだった。その質問が、答えられないほど重大な意味を持っているとは思わなかったからだ。
「この後にまだ何かやらなければならない事があったのではないですか?」
「お答えできません……」
 笠原さんは先生の再度の質問に、今度は間髪入れずそう答えた。緊張感を孕んだ沈黙が食堂を包んだ。
「分かりました。お気を悪くされたのなら謝ります。ご協力ありがとうございました」
 先生は最後にしっかりと笠原さんと目を合わせると深々と頭を下げた。笠原さんは、いいえ、と小さな声で言い残すと僕と一緒に食堂を後にし、談話室へ向かった。

「お待たせしました、最後に相庭さんお願いします」
 相庭さんは意を決したように勢いよくソファから立ち上がると、僕の元へやってきた。そして二人で食堂へ向かう。相庭さんは先生が視界に入ると突然早足で僕を追い越し、そのまま先生に詰め寄った。
「探偵さん、私とんでもない事をしてしまいました」
 相庭さんは手を胸の前で組み、神に祈るポーズをしながら深刻そうな声で言った。先生はそのあまりに突然の告白にかなり面食らっている様子だった。
「落ち着いてください、一体何をなさったんですか?」
 先生は少し前かがみになって相庭さんと目線を合わせ、両腕をぐっと掴みながら言った。
「実は……あの時、ブレーカーを落としたのは私なんです!」
「えっ!?」
 相庭さんのあまりの衝撃の告白に、僕は思わず声を漏らしてしまった。
「でもご主人様を殺したのは私じゃありません! 信じてください!」
 相庭さんは僕のほうを向くと必死の形相でそう言った。
「相庭さん、落ち着いて! 詳しく話してください」
 先生が取り乱している相庭さんの目をじっと見つめ、落ち着かせる。すると相庭さんは冷静さを取り戻し、ゆっくりと話しだした。
「あれは午後二時ごろだったと思います。私は厨房で美佐ちゃんと一緒に夕食の料理の下ごしらえをしていました。そこにご主人様がいらっしゃったんです。なにやら美佐ちゃんには聞かれたくない話があったようで、私だけが食堂に呼ばれました。そこでこう言われたんです。午後九時ピッタリになったらブレーカーを落として欲しいって。そして急いで自分の部屋に戻ってくれって。それとこの事はほかの人には内緒にしておいて欲しいとおっしゃっていました。私はてっきりまたご主人様のサプライズの一部なんだとばかり思っていました。それがまさかこんな事になるなんて……」
 相庭さんは悔しそうにうつむいた。この神妙な面持ちからしてそれは本当のことなのだろう。こんな嘘をついて相庭さんにメリットがあるとも思えない。
 ではなぜ山路社長はブレーカーを落とすように相庭さんに頼んだのだろう。まさかこれは彼が自身で考えた、手の込んだ自殺劇だったのだろうか。僕にはそうとしか考えられなかった。彼は実際に亡くなっているのだからこれがサプライズではないことは間違いない。彼は犯人と共謀して自分を殺すようにあらかじめ依頼していたのではないか。だとしたら彼が悲鳴を上げなかった理由も、ベッドの上で亡くなっていた理由も説明がつく。自分でもすっとんきょうな推理をしていることは分かっていた。でもそうじゃないと山路社長が相庭さんにブレーカーを落とすように頼んだ理由の説明がつかなかったのだ。
「私はブレーカーを落とした後、言われたとおり急いで自分の部屋へ戻ったんです。そしたらどこかでガラスの割れる音が聞こえて……怖くなってずっと耳を塞いでベッドの中で震えていました……」
 相庭さんがうつむいたまま続けていった。
「探偵さん、私は…何かの罪に問われるのでしょうか?」
 相庭さんは今にも泣きそうな表情で先生を見つめた。
「大丈夫です、あなたには何の罪もありませんよ。よく話していただけましたね。本当にありがとうございます」
 先生は相庭さんにあと数センチというところまで顔を近づけ、優しい笑顔でお礼を言った。はい、と小さく返事をした相庭さんの頬が赤らんでいたように見えたのは僕の気のせいだろうか。
 
 午後十一時十七分――。僕は相庭さんを談話室へ送り届けると、食堂へ戻った。先生は椅子に座り、あごに手をやりながら考え事をしている。僕はもう完全に推理を放棄していた。果たして先生にはこの二つの事件の真相がわかったのだろうか。
「森村君、談話室へ戻ろう」
 と、先生は突然椅子を立ち上がった。そして早足で談話室への廊下を急いだ。僕もそれに続く。それは明らかに何か重要な目的がある行動に見えた。
 先生が談話室のドアを開けると、全員の視線が一斉に僕らに向けられた。
 しかし先生はその誰とも視線を合わせることなく、じっとテーブルの上の灰皿を見つめていた。僕もその視線の先を追うと、そこには停電前と同じように、数本のタバコの吸殻が入っているだけだった。
「皆さん、すみませんが全員食堂へ集まっていただけませんか?」
 先生は両手を広げながら全員に聞こえるくらいの声で言った。ほかの人たちは座っていた人もその場に立ち上がり、全員こちらへ向かってくる。僕達はぞろぞろと食堂へ向かった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 2874