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作品名:童貞紳士の事件簿 作者:木城康文

第4回   第3章 出席者達の証言
 松野さんが持ってきたくれた部屋割り表によると、入り口側から見て一階の一番左の部屋が「101」。そして部屋が右にいくに従い末尾の数字が増えていき、一階の一番右端の部屋が「106」となる。二階も同様に、入り口側から見て一番左の部屋が「201」、一番右側の部屋が「206」となる。しかし二階には反対側にも同じ数の部屋があるため、二階の一番左奥側の部屋が「207」。そして二階の一番右奥側の部屋が「212」となる。
 僕達は「101」にいる人から順番に話を聞いていく事にした。僕達は階段を下りると、玄関ホールを通って「101」から「103」の部屋がある廊下へ向かった。その廊下にも、二階の廊下とまったく同じ位置に、同じオレンジ色の光を放つ間接照明がついており、突き当りには同じ大きさの窓がある。僕達は「101」の部屋の前までやって来た。
 
 午後五時二分――。先生が部屋のドアを二回ノックする。僕は思わず生唾を飲み込んだ。
「はーい!」
 そのしゃがれた声は、ドア越しでもうるさいと感じるほど大きなものだった。勢いよくドアが開く。そこに現れたのは、眩しいほどのスキンヘッドの小太りな男性。命を狙われている張本人、山路源蔵さんだ。白いYシャツ姿の山路社長は、シャツのボタンを上から二つほど空けていた。
「初めまして、私は私立探偵をしております秋山公平と申します。少しお話を伺いたいのですが、お時間よろしいでしょうか」
 先生が自己紹介すると、山路社長は、あの写真で見た人懐っこい笑顔になった。
「おお、あんたが探偵さんか。これはまたずいぶんとハンサムな探偵が来たもんだ。俺がイメージしていたとおりの顔だよ」
 そしてがははっと笑う。どうやらこの人は地声が大きいらしい。僕は耳をふさぎたい気分だった。
 先生の顔は、ある程度年齢のいった男性からのウケがいい。往年の映画スターの若い頃を髣髴とさせるそうだ。まあ先生にとっては何の需要もないのだろうが。
「まあ入れや」
 山路社長は僕達を部屋の中へ促した。部屋の中はビジネスホテルの一室ぐらいの広さだった。ドアの正面の壁には、僕の腰辺りから一メートルぐらいの高さがある両開きの大きな窓。その手前には、チェスのボードを乗せるのにちょうどいい程度の大きさのテーブルがあり、両側に椅子が二脚向かい合って置かれている。テーブルの上には白い重量感がある灰皿が置かれていた。そこには数本のタバコの吸殻が捨ててある。正面の壁の右隅、このドアから一番離れたところに縦向きにベッドが配置されている。山路社長はそのベッドにどっかりと腰を下ろした。
「座れや」
 気を使って立ったままの僕達を、山路社長は椅子へ促した。先生はお礼を言うと椅子に腰掛ける。僕もそれに続いた。
「早速ですが、いくつか質問をさせていただきたいのですがよろしいですか?」
 先生が真剣な面持ちで尋ねる。
「おう、何でも聞いてくれ」
 山路社長は、相変わらずのあの笑顔で答えた。僕にはなんだか、彼がこの状況を楽しんでいるように見えた。
「最近、山路社長のまわりで何か変わった事はありませんでしたか? 例えば、誰かにつけられているとか、知らない人が家を訪ねてきたとか、不審なものが送りつけられてきたとか……」
「いや、別にないな」
 山路社長は考えるそぶりをまったく見せる事なくあっさりとそう言い切った。そして相変わらず、ニヤニヤと人懐っこい笑顔を浮かべている。
 この人は本当に自分の命が狙われているという自覚があるのだろうか。僕は少し呆れてしまった。
「では脅迫状を送った人物に心当たりは?」
「どうせ文面からいって、過去にリストラした社員の逆恨みだよ。これだけ大きな会社だと、どうしても多少の切り捨てもやむを得ないときもある。仕方ないんだよ……」
 山路社長は初めてまじめな顔をし、明らかに声のトーンが落ちた。どうやら申し訳ないと思っている気持ちに嘘はないらしい。
「わかりました、お時間をお取らせしてすみませんでした」
 先生が椅子から立ち上がる。
「なんだ、もういいのか」
 拍子抜けといった表情をしている山路社長が、僕の思っている事を代弁してくれた。
「はい、ご協力ありがとうございました」
 先生は部屋を後にしようとしている。僕は慌ててそれを追いかけた。僕達は部屋を出る。僕は部屋の中にいる山路社長に聞こえないように小声で先生に意見した。
「先生いいんですか? もっと他の出席者との関係とかを聞かなくて」
 僕の口調は少し得意げだった。ひょっとしたら先生が聞き逃しているのかも知れないと思っていたからだ。
「そういう事を直接ご本人に聞くのは失礼だし、本当のことを話してくれない事も多いんだよ。人には恥や外聞というものがあるからね。どうしても自分に都合のいい嘘の証言をしてしまうものなんだ。そういう事は客観的にものを見ている第三者に聞くのが一番確実なんだよ」
 完全に論破されてしまった。僕はさっきまで少しでも得意げだった自分が恥ずかしくなった。そして同時に、先生に対する尊敬の念が一層強いものになったのを感じた。
 僕達は隣の部屋「102」へ移動した。すると、さっきまであんなに格好よかった先生が、急に親近感の沸く存在になっていた。ノックをしようとしている先生の右手が震えているのだ。
「先生……ほら……」
 僕は尻込みしている先生の背中を押した。

 午後五時八分――。先生は意を決したようにドアをノックした。部屋からはかすかに、はい、という返事が聞こえた。ゆっくりとドアが開く。
 そこには、髪を頭の上で束ねた美しい女性が立っていた。その女性は、ノースリーブで光沢のある、濃いブルーのドレスを身に着けていた。ざっくりと開いた胸元からは、豊満なバストが顔を覗かせている。産毛が無造作に垂れたそのうなじからは、むせ返るような大人の女性の色香を漂わせていた。山路恵美さん。山路社長の奥さんだ。
「……どちら様でしょうか」
 あまりにも長い間、先生が黙ってその場につっ立っていたせいで、山路夫人は、場の沈黙に耐えかねたように口を開いた。僕は先生の背中を小突いた。
「は、初めまして! 私、私立探偵をしております秋山公平と申します! ちょ……ちょっとお時間よろしいでしょうか!」
 まるで壊れかけの玩具のようだった。その上ずった声はボリュームまでおかしかったのだ。恐らくその声は隣の部屋の山路社長にも聞こえ、何事だと思っているだろう。当の山路夫人も、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。どうやらこの女性は、先生の好みのど真ん中のようだ。
「は、はい……どうぞ」
 山路夫人は多少の戸惑いを見せながらも、僕達を部屋に招き入れてくれた。
 部屋に入った僕は、あることに気がついた。先ほどの山路社長の部屋とまったく同じだったのだ。大きさも構造も窓や家具の配置も。この館の客室はすべて同じ造りになっているのかもしれない。
 夫人はベッドに腰掛ける前に、どうぞ、と僕達を椅子へ促した。その椅子へ腰掛ける僕達。しかし先生は、ただうつむいたまま何もしゃべろうとしない。流れる気まずい沈黙。僕は先生の顔を見ると、水滴が肉眼で確認できるほどの大量の汗を顔中に噴出していた。
「あの……大丈夫ですか?」
 当然夫人にもこの汗が見えたのだろう。先生を心配する言葉をかけてきた。
「は、はい! 全然大丈夫です!」
 先生はポケットからハンカチを取り出すと、顔中の汗を拭きだした。すると突然僕の腕をつかんで立ち上がると、部屋の隅へ僕を誘導した。先生は、これは無理だと判断したのだろう。夫人に質問したい内容を僕に耳打ちしてきたのだ。僕はその内容をしっかり記憶すると、僕達は再び椅子へ戻った。
「それではお伺いします。脅迫状を一番最初に発見されたのは奥様だそうですが、その脅迫状に何か変わった点はありませんでしたか?」
 と、僕が尋ねると、夫人は首をひねった。
「変わった点……とおっしゃいますと……」
 まさか質問で返されると思っていなかった僕は、返答に困った。すると先生は再び僕に耳打ちする。
「例えば、封筒に何か文字や数字が書いてあったとか、染みのようなものが付いていたとか……」
 僕は先生に耳打ちされた事を一言一句間違えずに夫人に伝えた。
「いいえ、新品同様の何も書かれていない茶封筒でした。宛名がなかったので、おかしいとは思ったのですが、まさか脅迫状だったなんて……」
 夫人は最後までその言葉を言い終わる前に、突然、両手を口に添えてその場に立ち上がった。僕は驚いて尋ねた。
「どうしました!」
「虫が……」
 夫人が指差した先には、体長一センチぐらいの小さな蜘蛛が、僕達の後の壁を這っているのが見えた。僕は部屋にあったティッシュを数枚取り出すと、それで包むようにして蜘蛛を捕まえた。そしてそれを部屋の中にあるゴミ箱に捨てた。
「これで大丈夫ですよ」
 僕は夫人のほうに向き直した。夫人は安心したように再びベッドの上に腰を下ろした。
そして僕にお礼を言った。
「虫が苦手なんですか?」
 僕は、あんな素振りを見せれば当たり前だろう、と心の中で思いつつ尋ねた。
「はい、でもそれだけじゃないんです。お化けとか、雷とかも……。私、子供の頃から臆病なんです。自分でも困ってるくらい何ですよ」
 夫人は遠慮がちな微笑を浮かべた。その控えめな表情が、一層この女性の魅力を引き立たせていた。
 それから僕は先生の耳打ちで、最近周りで変わったことはなかったかという質問を夫人に投げかけたが、山路社長同様、特に変わったことはないという回答を得た。
 先生は相変わらずのおかしなボリュームで夫人にお礼を言うと、そそくさと席を立った。僕もそれに続く。先生はまるで、先に誰かが入っていたトイレのドアを閉めるがごとく、焦りつつ部屋のドアを閉めた。
 こんな先生を見て、山路夫人はどんな印象を受けたのだろう。少なくともいい印象でない事だけは分かりきっていた。
「じゃあ、次の部屋に行こうか」
 先生の声は元に戻っていた。僕はこの先生の声が元に戻った瞬間、毎回笑いが噴出しそうになってしまう。ついさっきまでの、鶏が首を絞められた時のような甲高い声から、急に男の象徴ともいえる、深みのある低音の声に変わる瞬間が、たまらなく滑稽だからだ。だが僕はいつもぐっと笑いを堪える。それが僕の先生に対する精一杯の優しさなのだ。
 僕達は「103」を通り過ぎ、玄関ホールを横切って反対側の廊下へ向かう。部屋割り表によれば「103」は空室になっているからだ。そして僕達は「104」の前にたどり着いた。

 午後五時十九分――。先生は「104」の部屋のドアをノックした。返事はない。数秒後、部屋のドアが開いた。
 そこに立っていたのは百九十以上はある大男だった。きっちりと黒いスーツを着たその人物は、外国の映画に出てくる屈強なボディーガードそのものだった。威圧的な視線を眼下の僕達に向けている。恐怖を感じた僕は、思わず先生の影に隠れた。山路社長の弟、山路大志さんだ。この人と、あの小柄で気さくな山路社長が兄弟だなんて僕にはとても信じられなかった。
「初めまして、私は私立探偵をしております秋山公平と申します。ちょっとお話を伺いたいのですが、お時間の方よろしいでしょうか」
 先生はまったく臆することなく、いつもどおりの丁寧な口調で大志さんに尋ねた。先生が怖いのは美人の女性だけなのだろうか。
「ああ、どうぞ……」
 大志さんは無愛想にそう言うと部屋に入っていく。僕達もそれに続いた。やはりこの部屋も、前に入った二部屋とまったく同じ造りだった。やはりこの館の客室はすべて同じ構造になっているのだ。僕はここでそう確信した。
 大志さんは、どかっとベッドに座ると無言で椅子に手を差し出した。座れという事だろう。僕達は椅子に腰を下ろす。
「それではいくつか質問をさせていただいてもよろしいでしょうか」
 大志さんは、ああ、とぶっきらぼうに返事をした。
「最近あなたの周りで、何か変わったことはありませんでしたか?」
「いや、別にないな……」
 大志さんは少し考えるそぶりを見せた後、すぐにそう答えた。こういうところは兄弟似通っているな、と僕は思った。
「あなたは源蔵さんと共同で会社を経営されているそうですが、具体的にはどのような事をされているのですか?」
「うーん……分かりやすく言うと、兄貴が企画・営業担当で、俺が経理・運営担当ってところかな」
 大志さんは、あごに手をやりつつ首をひねりながら答えた。山路社長のあの明朗な性格を考えると、それはまさに適材適所だと僕は思った。
「ではもう一つだけ。松野さんに伺ったのですが、この別荘を建てるとき、あなたはお兄様の意見に反対されたそうですが、一体なぜです?」
 僕は思わず先生のほうを向いた。この質問が事件と何の関係があるのか分からなかったからだ。
「ああ、あれは兄貴がこの別荘の形を東京ドームみたいにしたいとか言い出すからだよ。さすがにそれはないだろう? でもどんなに反対しても譲らなかったんだよアイツ。そこでジャンケンをして勝ったほうの意見を採用する事にしたんだ。俺が勝ったからよかったが……兄貴が勝っていたら俺は今頃この別荘へは来ていないよ」
 東京ドームみたいな別荘……僕には想像も付かない発想だった。その類まれな発想力こそが、会社が成功した秘訣なのだろうか。ていうかジャンケンかよ、と僕はつい心の中でツッコミを入れた。
 という事は完全に左右対称というきっちりした別荘を提案したのは、この大志さんなのだろう。だとしたら彼は、かなり几帳面な性格なのかもしれない。それならば、経理という仕事は大志さんにはまさに適役だ。
「わかりました、ご協力ありがとうございました」
 僕達は立ち上がると部屋を出た。そこで僕は先ほど感じた疑問を先生にぶつけてみた。
「先生、さっきの質問って事件と何か関係があるんですか?」
「あれ? ただの興味本位だよ」
 そして先生はニヤリと笑う。先生はたまにこういう事をする。先生は一度気になったことは明らかにしないと気が済まない性格なのだ。まさに探偵向きの性格といえる。
僕達は空室の「105」を通過し「106」の前に来ていた。

 午後五時二十七分――。先生が部屋のドアをノックする。はい、と言う渋い男の声が返事をした後、そのドアは開いた。
 そこに立っていたのは右手にグラスを持った男性だった。Yシャツ姿の彼は、ボタンを上から三つほど開けている。山路社長の主治医、加藤明医師だ。そのグラスに入っているのは恐らくブランデーだろう。若干その身体から、酒の匂いを漂わせている。それに部屋の中からはタバコの匂いがした。正面にある窓が少し開いているものの、それでもなお、かなり強い匂いが部屋中に充満していた。
「初めまして、私は私立探偵をしております秋山公平と申します。ちょっとお話を伺いたいのですが、お時間よろしいでしょうか」
「どうぞ、ちょうど退屈していたところですよ」
 と、加藤医師がさわやかに微笑む。部屋に入った僕はテーブルの上にある物体に、思わず自分の目を疑った。そこには、灰皿の中にこれでもかという数のタバコの吸殻が突き刺さっていたのだ。それはまるで、灰皿に咲いた一輪の白い菊のようだった。どうやら先生もこの一見オブジェのような灰皿に目を奪われているようだ。加藤医師はそんな僕らの視線に気付いたのだろう。
「いやあ、お恥ずかしい。まさに医者の不養生というやつですよ」
 そしてはははっと笑った。先生もそれにつられて笑う。僕はあまり面白くなかったので、とりあえず愛想笑いをしておくことにした。
 そして加藤医師はベッドに、僕達は椅子にそれぞれ腰掛けた。先生が尋ねる。
「それではいくつか質問をさせていただきますが、よろしいでしょうか」
 すると加藤医師は、顔の前に左手を持っていき人差し指を一本だけ伸ばす、数字の一を示す仕草をしながら言った。
「すみません、その前に一本構いませんか?」
 タバコの事だろう。先生は勿論です、と返す。加藤医師は右手に持っていたグラスをテーブルに置くと、代わりにそばにあるタバコの箱を手に取った。その中から一本を取り出し、口にくわえる。ズボンの右ポケットからライターを取り出すと、そのまま右手でタバコに火をつけた。そして再びライターをズボンの右ポケットにしまう。どうやら加藤医師は、かなりのヘビースモーカーらしい。タバコを口から離すとふーっと白い煙を吹く。
「すみませんでした。ご質問をどうぞ」
「加藤先生は山路社長の主治医をされているそうですが、山路社長はどこがお悪いのですか?」。
「山路社長は少し心臓がお悪いんですよ。頻脈性不整脈という病気なのですが、それほど症状は重くはありません。定期的に私の病院に検査に来る程度で、日常生活にはまったく支障はありませんよ」
 つまり加藤医師は、心臓外科医もしくは心臓内科医という事になる。
「山路社長とはどれぐらいのお付き合いなのですか?」
「かれこれ六年になります。それからこうして毎年誕生日パーティーに呼んでいただいているんですよ。これで五回目になりますね」
 それから先生は、最近周りで変わったことはなかったかと尋ねたが、やはり何もないという答えが返ってくるだけだった。お礼を言い残すと僕達は加藤先生の部屋を後にした。
 これで一階にいる人にはすべて話を聞き終えた事になる。
 僕達は玄関ホールから階段を上がり、二階へ向かった。「201」「202」はそれぞれ家政婦さんたち二人の部屋だが、今は厨房で夕食を作っているため部屋にはいない。「203」「204」は空室。「205」は僕の部屋。「206」は先生の部屋なので、僕達は二階のT字路を左へ曲がり「207」の部屋へ向かった。

 午後五時三十九分――。先生が部屋のドアをノックする。僕の心臓は、無駄な期待と興奮で高鳴っていた。はい、と言う可愛いらしい返事が聞こえると、ゆっくりドアが開いた。
 そこには黒髪を頭の上で束ね、それを無造作に垂らした可憐な女性が立っていた。その女性は、光沢のある黒のロングドレスを着ている。それを支えているのは、今にも切れてしまいそうなほど細い二本の肩紐だけだった。その色実の無さが一層この女性の美しさを際立たせていた。山路社長の秘書、笠原京子さんだ。ここへ来る途中で見た顔写真より、ぐっと大人っぽく見えるのは、化粧のせいだろうか。
 それよりも僕がどうしても気になってしまったのは、彼女の胸元だった。写真では分からなかったが、彼女はその幼い顔立ちに似合わず、かなり立派なバストの持ち主だったのだ。少しでも気を抜くと、吸い寄せられるようにその胸元に目がいってしまう。僕は睨まれる前に、目線を彼女の大きくて澄んだ瞳に戻した。
「わ、私……、私立探偵をしております、秋山公平と申します。ち……ちょっとお話を伺いたいのですが、お時間よろしいでしょうか」
 先生の声は多少上ずってはいるものの、山路夫人ほどの拒否反応は出ていないようだ。先生の中には、どうやら独自の美女センサーのようなものがあるらしく、それに反応しなかった女性とは普段通りの会話ができるのだ。多分女性として意識していないからだろう。そしてこれまでの統計を取ってみると、先生の美女センサーは、美人で清楚な年上の女性に強く反応する傾向があるようだ。
 笠原さんは快く僕らを部屋に入れてくれた。
「どうぞおかけ下さい」
 僕達は笠原さんに促されると、椅子に腰掛けた。それを見届けた笠原さんもベッドに腰掛ける。
 僕はふと、彼女のひざに添えられている両手に目を向けた。その左手の薬指に、きらりと光るシルバーの指輪を見つけた。どうやら彼女は既婚者のようだ。僕は心の中で、彼女に対する興味が、波が引くように消え去っていくのを感じていた。
「それではいくつか質問をさせていただきます……」
 先生はうつむいたまま口を開いた。それでも、目を合わせないで話すのは失礼だと思っているのだろう。たまに一秒未満のスピードで笠原さんと目を合わせては、またうつむくを繰り返している。
「まず、失礼な事をお聞きすることをお許しください。お気を悪くされたら謝ります」
 先生は一体何を言うのだろう。笠原さんははい、と小さく答えた。
「あなたは山路社長の一介の秘書のはずです。そんなあなたがこうしてドレスアップしてパーティーに参加するのは、いささか身分違いな気がするのですが、何か理由があるのですか?」
 勿論先生はうつむいたまま尋ねた。すると笠原さんはにっこり微笑んで言った。
「山路がこう申して下さったんです。今日は無礼講だから、お前もお洒落をして楽しみなさいって。それで、そのお言葉に甘える事にしたんです」
 すみませんでした、と先生。更に質問を続ける。
「あなたが山路社長の下で秘書をするようになったのはどれぐらい前の事ですか?」
「今から半年ほど前です。私は就職の面接で山路の会社を訪れました。そのときに山路が私のことを気に入って下さったようで、後日特別な計らいで私を私設秘書にして下さったんです」
 どうして山路社長は笠原さんを気に入ったのだろう。それにちょっと気に入ったくらいでいきなりその人を私設秘書になんてするだろうか……。僕は疑問に思った。
「以前にも秘書の経験がおありだったのですか?」
 笠原さんは、いいえと答える。なぜか先生は、これ以上その事には言及しなかった。そして先生はお決まりの、最近何か変わったことはなかったかという質問をぶつけたが、やはり何もないという答えが返ってくるだけだった。僕達はお礼を言うと部屋を後にした。
 そして僕達は、すぐ隣の部屋「208」の前にやって来た。

 午後五時五十分――。先生が部屋のドアをノックする。はい、という落ち着いた男の声。開いたドアの前に立っていたのは松野さんだ。
「すみませんが、少しお話を伺いたいのですが、お時間よろしいでしょうか」
 松野さんはどうぞと僕達を部屋へ招き入れた。僕達は松野さんに促され椅子に座った。そして松野さんもベッドに腰掛ける。先生が口を開く。
「松野さんにお聞きしたいのは、ここにいる皆さんがいつこの別荘へやってきたかという事なんです。松野さんならご存知かと思いまして……」
「出席者の皆様は全員私がこの別荘までお連れいたしました。一番最初にお送りしたのは家政婦のお二人でございます。館の掃除や夕食の下準備などをしていただくためです。確かこの島に着いたのは午前九時ごろだったと思います。その後再び本土へ戻り、今度は秋山様達以外の皆様をこの島へお連れいたしました。それが午後一時ごろの事だったかと……。そして最後に秋山様達をこちらへお連れいたしました」
 僕達がこの島に到着するまでに約二時間かかった。ほかの人たちを送迎するときも、それほど所要時間は変わらないだろう。つまり松野さんは、この島と本土をひっきりなしに二往復半した事になる。僕はそのバイタリティに、頭が下がる思いだった。
「皆さんの部屋割りを考えたのはどなたですか?」
「私でございます。ただお嬢様の部屋は元々『103』だったのですが、そこは嫌だとおっしゃいまして……。自ら現在の『212』に変更なさいました」
 親の隣の部屋は嫌だったのだろう。思春期の子にはよくある話だ。僕にもそんな時期があった。
「この部屋割りは毎年同じなのですか?」
「いえ……去年までずっと山路は『201』のお部屋にお泊りでした。奥様はそのお隣の『202』。お嬢様はそのお隣の『203』だったのですが、先日山路が私に、今年は気分を変えたいから『101』から『103』のお部屋を自分とその御家族の部屋にして欲しいと申されまして……」
 まあそんな気分のときもあるだろうと僕は気にも留めなかった。
「それではパーティーに出席しているメンバーはどうですか?」
「今年初めてパーティーに参加する笠原以外は毎年同じ方達でございます。ただ家政婦のうちのお一方は、今日のためだけに特別にお手伝いに来ていただくため、毎年違う方がいらっしゃいます」
「それが今年は相沢美佐さんということですね?」
「おっしゃるとおりでございます」
 松野さんが頭を下げる。確かにこれだけ広い館を一人で掃除したり、大人数の食事を一人で用意するのは大変だろう。
「わかりました。ご協力ありがとうございました」
 先生が椅子から立ち上がると松野さんも立ち上がり、深々と頭を下げた。先生も部屋を出る間際、軽い会釈を返した。
 僕達は空室の「209」「210」「211」を通過し、「212」の部屋の前まで来ていた。

 午後六時七分――。先生は目の前のドアをノックした。はい、という少し気だるそうな若い女性の返事。そしてドアが開く。
 そこに立っていたのは淡いピンク色のカクテルドレスを身に着けた小柄な女性だった。いや、女性というよりは少女という表現のほうが的確かもしれない。
 その大きく膨らんだスカート部分には沢山のフリルが付いていた。山路社長の娘、山路亜里沙さんだ。
「初めまして、私は私立探偵をしております秋山公平と申します。ちょっとお話を伺いたいのですが、お時間よろしいでしょうか」
 先生はいつもどおりの声で亜里沙さんに声を掛けた。どうやら先生の美女センサーは、亜里沙さんを「子供」と判断したようだ。
 亜里沙さんは、少しの間じっと先生の顔を見た後、その視線を僕のほうへ向けた。そして僕を指差してこう言った。
「息子?」
 僕は思わず頭にきた。
「い、いえこれは、私の助手の森村といいます」
「初めまして。森村透、二十五歳です」
 先生が僕を紹介し終わるとほぼ同時に、僕は皮肉たっぷりな感じで言った。特に年齢の部分は、確実に相手に不快感が伝わるような口調を心がけた。しかしこの女はそんな僕の気持ちなどお構いなしに畳み掛ける。
「えー、全然見えな〜い。同い年ぐらいだと思った〜」
 と、けらけらと笑い出す。横にいる先生の肩が震えている。どうやら先生も笑いを堪えているようだ。
 確かに僕は童顔で、高校生に間違えられる事はざらだった。小さな目に丸い輪郭。いつもちょっとふて腐れているような口元。どれをとっても幼さの象徴だった。それでもさすがに、先生と親子に間違えられたのは初めてだった。先生と僕は実年齢では九歳しか違わないのにだ。僕がいつか年相応に見られる日はやってくるのだろうか。
 ひとしきり笑い終えた亜里沙さんは、僕達を部屋に入れると、自分だけベッドに腰掛けた。
「で、話って何よ」
 亜里沙さんは少し不機嫌な感じで僕らに尋ねた。いや、これが普通の状態なのかもしれない。人のコンプレックスを笑うような女は、少なからず性格が歪んでいるものだ。遠慮して立ったままの僕達を座らせようともしない。先生は立ったまま亜里沙さんに質問を始めた。
「最近何か、あなたの周りで変わったことはありませんでしたか?」
 僕はどうせ、何もないという答えが返ってくるんだろうなと思っていた。
「最近パパが帰ってくるのが遅いとか、そういうことでいいの?」
 亜里沙さんがあっけらかんと答えた。先生が更に突っ込む。
「それはいつ頃からですか?」
「うーん、半年ぐらい前かな……それまではほとんどパパは六時ぐらいに帰ってきて、みんな揃って晩御飯を食べていたのに、最近はママと二人で食べる事が多くなったの」
 山路社長も夫人もそんな事は言っていなかった。何か隠しておきたい理由があったのだろうか。それとも二人にとってそんな事は「変わったこと」には入らなかったのだろうか。
「松野さんに伺ったのですが、あなたは脅迫状が家に届いたとき、そのことにあまり驚かなかったそうですね。それには何か理由があるのですか?」
 すると亜里沙さんは不敵な笑みを浮かべた。
「教えなーい」
 それは明らかに僕達を小ばかにしたような口調だった。僕は大人気なく、この小娘の無礼な態度に少し腹が立ち始めていた。そして亜里沙さんは得意げにこう続けた。
「そのうち分かるんじゃない?」
 それはどういう意味だろう。まさかこの亜里沙さんが、山路社長に脅迫状を送りつけ、殺害しようとしている犯人なのだろうか。いや、そうだとしたら自分が犯人だとほのめかすような供述をするとはとても思えない。では一体どういう意味なのだろう。僕は気になったが、これ以上突っ込んでも亜里沙さんは教えてくれそうにない雰囲気だった。先生もそう思ったのか、ほかの質問を繰り出した。
「それではもう一つ。あなたは元々『103』の部屋に泊まるはずだったそうですが、なぜこの『212』に部屋を変更したのですか?」
「だってパパったら、私に無断で部屋を変更したのよ! 怒って当然じゃない! しかもママまでパパの味方をするのよ! だからパパと一番部屋が離れているこの部屋に泊まることにしたの」
 お姫様はかなりご立腹のようだ。
「そんなに『203』のお部屋が好きだったのですか?」
「違う! 無断で変更、ってところが問題なの!」
 思春期の女の子はこうなってはもう手がつけられない。顔を見合わせた僕と先生は、思いがシンクロしたかのように、お礼を言うといそいそと部屋を後にした。
 これで僕達はすべての部屋を周ったことになる。これで後、話を聞いていないのは家政婦さん達だけだ。
 僕達は厨房に向かうため、階段を下りて一階へ向かった。そして入り口正面にある左右のドアのうち左のドアを開けた。実はこの左右のドアは、同じ横向きの廊下につながっている。
 この廊下もほかの廊下と同じオレンジ色の間接照明が等間隔に並んでいた。そしてこの廊下の向かい側、玄関ホールから続く左右のドアのちょうど真ん中のところに、食堂へ続く大きな両開きの扉がある。僕達は、その食堂の扉を開けた。
 その食堂は横に長い、かなり広い部屋だった。端から向こう端にいる人に気付いてもらうには、大声を出さなければいけないくらい広い部屋だ。まず目に付いたのは部屋の中央にある、真っ白いテーブルクロスが掛けられた横長のテーブル。軽く十人は並んで食事ができるだろう。その上にはろうそくが等間隔で並べられていた。テーブルの周りにはたくさんの椅子。床はワイン色の絨毯。天井には、部屋の中央に大きなシャンデリアがぶら下がっていた。壁にはかなり高級そうな絵画がいくつか飾られている。上座側の壁には大きな暖炉が見える。その煙突部分のレンガには、アンティーク調の掛け時計が取り付けられており、淡々と時を刻み続けていた。
 正面に、厨房へと続く仕切りのないドアが見えた。そこからはチラチラと誰かがせわしなく動いているのが見える。その派手な髪の色からいって、家政婦の相沢美佐さんだろう。僕達は食堂を横切って厨房へ向かった。

 午後六時二十一分――。僕達は厨房へ足を踏み入れた。そこには何とも食欲をそそる、洋食系のおいしそうな匂いが漂っていた。そういえば僕は今日起きてから何も食べていない事を思い出した。唯一クルーザーで口に入れたりんごジュースも、今では海の藻屑となっている。そんな思考とリンクしたかのように、僕の腹の虫が大きく鳴き声を上げた。
 その厨房は食堂と同じく横長の造りになっている。手前には盛り付け作業等をするためのシンク台があり、その奥の壁際にはガス台やオーブン、流し台といった調理設備が設置されていた。左側の壁にはびっしりと白い食器棚が並べられている。
 手前のシンク台では、ギャル家政婦の相沢美佐さんが、たくさん並べられた調理済みの皿の上に、次々と細かい盛り付けをしていた。その指先にはラインストーンやらラメやらがごてごてと張り付いた派手なネイルをしている。しかしそんな指先のハンデをまったく感じさせない器用な手つきで、てきぱきと仕事をこなしている。そのしっかりとギャルメイクが施された顔は真剣そのものだった。あまりに集中していて僕達が厨房に入ってきた事にも気付いていないかもしれない。
 僕は自分を恥じた。僕は相沢さんの見た目から、どうせやる気もなくこの仕事をしているのだろうと思っていたからだ。僕は最低だ。人を見た目で判断する、自分が一番されたくない事を人にしてしまっていたのだ。僕は心の中で、何度も何度も相沢さんに謝り続けた。
「なあに、あんたたち」
 僕達に声を掛けてきたのは、奥にあるガス台の前で大鍋をかき回していた中年の女性だった。家政婦の相庭加奈子さんだ。その服装は、よく一般的にいわれているメイド服だった。だがそこからは、一ミリの萌え要素も感じ取ることができなかった。勿論相沢さんも同じ格好を着ていた。
「初めまして、私は私立探偵をしている秋山公平と申します。ちょっとお話を伺いたいのですが……」
「悪いけど後にしてくれない? 今忙しいのよ。夕食の後じゃ駄目かしら」
 先生が最後まで言い終わる前に、相庭さんに怪訝そうな返事を被せられてしまった。どうやら先生の美女センサーは、この二人にはまったく反応しなかったようだ。僕にはその理由は、なんとなく分かるような気がした。
「分かりました。お忙しいところ失礼いたしました」
 先生はそう言い残すと、僕達は厨房を後にした。
 もうすぐ夕食の時間になる。僕達はそれまでそれぞれの部屋で休むことにした。
 僕達は二階へ上がり、それぞれの部屋の鍵を開ける。
「じゃあ森村君、また後で」
 先生は自分の部屋に入っていった。やはり先生は、僕と違う部屋だという事を何とも思っていないのだ。僕は肩を落としながら自分の部屋に入った。
 当然というかその部屋は、これまでに入ったほかの人の部屋とまったく同じだった。そしてずっと気になっていた、入り口から見て右側の手前にあるドア。僕はずっとトイレだとは思いつつ、それを聞くのは場違いな気がして、ずっとそこが何なのかを誰にも聞けずにいた。ついに僕はそのドアを開けた。
 やはり思ったとおりだった。そのドアの正面には洋式トイレがあった。その隣には洗面台。当然その正面には鏡が取り付けられている。その奥の壁際にはギリギリ僕が足を伸ばせる程度のバスタブがあった。どうやらシャワーも付いているようだ。
 このドアの向こうはこうなっていたのか。僕は別に用を足したわけでもないのに、スッキリした気分でトイレのドアを閉めた。
 続いて僕は、入り口近くの壁際にあるクローゼットを開けた。そこにはシルクで出来た光沢のある銀色のバスローブが用意されていた。これに着替えて寝ろ、という事だろう。
 そしてこの館の客室にはテレビがなかった。手ぶらで来てしまった僕は、携帯ゲーム機ぐらい持って来ればよかったと少し後悔した。僕は靴を脱ぎ捨てると、ごろんとベッドに横になった。

 午後六時三十六分――。僕は昨日の寝不足のせいもあって、少しウトウトしていた。そんな時、突然僕の部屋を誰かがノックした。はい、と返事をしてドアを開ける。そこに立っていたのは家政婦の相沢さんだった。
「あの〜、食事の用意ができたのでどうぞ」
 相沢さんはちょっとおどけた感じで言った。僕はさっきの馬鹿な考えを埋め合わせするように、笑顔でお礼を返した。部屋を出ると、そこには先生が立っていた。僕を待っていてくれたのだろう。僕達は三人で食堂へ向かった。相沢さんが食堂の扉を開ける。
 そこにはすでに僕達以外の全員がテーブルの前の椅子に着席していた。相沢さんはそのまま厨房へ向かった。
「おお、来たな探偵さん! あんたたちの席はあそこだよ」
 山路社長は、僕達の席を指差した。全員が僕達のほうを振り向く。先生はお礼を言うと、僕達はそれぞれ自分の席についた。
 席順は、まず上座に座っているのは勿論山路社長だ。上座から見て右側の席に、手前から山路夫人、亜里沙さん、大志さん、加藤医師。そして上座から見て左側の席は、手前から笠原さん、松野さん、先生、僕という感じになっている。
 テーブルの上にはすでにグラスに注がれた飲み物が用意されていた。僕と先生と亜里沙さんのグラスは、色からいって多分オレンジジュース。それ以外の人は恐らくシャンパンだろう。
「ねえパパ、シャンパン飲まないの?」
 亜里沙さんが山路社長に尋ねた。確かによく見ると山路社長のグラスにもオレンジジュースが注がれている。
「ああ、今日はやめておくよ」
「どうして? パパ、シャンパン好きでしょ?」
 亜里沙さんが食い下がる。
「どうしてって……そんなの、今日は特別な日だからに決まっているだろう」
 山路社長は少し返答に詰まりながら、自分のスキンヘッドを撫で回しつつこう言った。特別な日だからこそ酒を飲むものではないのか。僕は少し疑問に思った。
「さあ、乾杯しましょう」
 まだ納得いかないといった表情の亜里沙さんを制したのは、隣に座っていた山路夫人だった。夫人がグラスを持って立ち上がると、それにつられて他の人たちもぞろぞろとその場に立ち上がった。山路社長が演説を始める。
「えー、本日はこうして私のためにお集まりいただき、ありがとうございます。今年は新しいお客様が三人もいるということで、いつもより一層楽しいパーティーになると思います。それでは、アナザーフィールドの更なる発展を祈って……乾杯!」
 僕達はその掛け声に続けて、乾杯を合唱した。その中でもひときわ大きな声をあげていたのは、大志さんだった。僕達は再び椅子に腰掛けると、目の前にあるナプキンを膝の上に置いた。
「加奈子さーん、料理運んでいいよー!」
 そう厨房にいる相庭さんに叫んだのは山路社長だった。どうやら双方には、あまり厳しい主従関係というものはないようだ。はーい、という返事と共に、相庭さんと相沢さんが厨房からカートに乗せた皿を運んでくる。山路社長と、上座側から見て右側の席の皿を相庭さんが配り、僕らの席の皿を相沢さんが配ってくれている。
 僕らの前に置かれたのは薄い檸檬色の、とろみがありそうな光沢のあるスープだった。恐らくコーンスープだろう。白い湯気が僕の食欲をそそる。
 お腹がすいていた僕は間髪入れず、テーブルに置いてあったスプーンでスープをすくうと、それを口へ運んだ。しかしそのスープは唇がやけどしそうなほど熱く、僕はずるずると大きな音を立ててそれを飲んでしまった。全員の視線が僕に向く。僕はいたたまれなくなり、苦笑いを浮かべて小さく頭を下げた。
 その後も僕は、テーブルマナーに悪戦苦闘していた。たくさん置いてあるナイフとフォークの中、一体どれを使って食べればいいのか。この添え物は食べていいのか、それともただの飾りなのか。これは一体どういう工程を踏んで食べればいいのか。僕は隣の先生の行動を横目で窺いながら、何とかクリアしていく。
 それにしても他の人たちは本当にスマートに食事を楽しんでいる。特に僕の正面の加藤医師などは、左手に持ったフォークを、刺したり、乗せたり、潰したりと、とても器用に使いこなしている。彼のハンサムな顔立ちも合間って、その姿はまるで海外のレトロ映画のワンシーンのようだった。
 僕と大志さん以外の人たちは、思い出話や最近あった面白かった事なんかの話題で盛り上がっている。先生もその会話に積極的に参加している。人見知りの僕は当然その輪に入っていく事もできず、ただ愛想笑いを浮かべるだけだった。

 午後七時四十八分――。全員デザートを食べ終わり、僕達は食後のコーヒーを楽しんでいた。そろそろお開きかという空気が漂いだした頃だった。
「じゃあ、俺は先に部屋に戻るよ」
 席を立ち上がったのは大志さんだった。
「だめよ、おじさん。これからみんなで談話室でおしゃべりするんだから」
 亜里沙さんが大志さんの顔を見上げながら言った。
「ごめんよ、亜里沙ちゃん。ちょっと疲れてるんだ。それに俺がいないほうが話も盛り上がるだろう。じゃ、おやすみ」
大志さんはそう言い残すと、食堂を出て行った。すると亜里沙さんはふくれっ面でこう言った。
「もう、おじさんったら相変わらず人見知りなんだから」
 僕は少し大志さんに親近感を覚えた。
「じゃあ談話室へ行こう。探偵さん、面白い事件の話とか聞かせてくれよ」
 そう言いながら立ち上がったのは山路社長だ。先生が答える。
「分かりました。でもその前に家政婦のお二人にお話を伺いたいので、その後でも構いませんか?」
「そうか、じゃあ俺達は談話室で待ってるから、早く来てくれよ」
 そして僕と先生以外の人達はぞろぞろと食堂を後にした。それを見計らって厨房から相庭さんと相沢さんが出てきた。
「さてと後片付け、後片付け!」
 二人は両手にコーヒーカップを持って厨房へ戻っていく。
「お手伝いします」
 先生がテーブルの上のカップに手を伸ばす。
「ああ、いいのよ。これが私達の仕事だから。そんな事されたらお給料減らされちゃうわ」
 相庭さんはそう言ってにっこりと笑った。僕達はコーヒーカップを持って厨房と食堂を往復する二人をただ黙って見守っていた。
 そして二人はコーヒーカップをすべて厨房に運び終えた。僕らも厨房へ入る。相庭さんは奥の流し台の蛇口をひねり、桶に水をためていた。相沢さんはその隣で白いふきんを持って立っている。その傍らには先ほど僕達が食べた料理が乗っていた食器が山のように積まれていた。
「何か私達に聞きたい事があったんでしょ? 今なら大丈夫よ」
 相庭さんが僕達のほうを振り返ると笑顔で言った。
「では、まず相庭さんにお伺いします」
「はいはい、何でも聞いて頂戴」
 先生の言葉に、相庭さんは軽い口調で返した。
「あなたはこの山路社長の家で家政婦として働いて、どれくらいになりますか?」
「かれこれ十六年くらいね。亜里沙ちゃんが生まれたときにベビーシッターとして雇われたんだけど、こうして今でも家政婦として働かせてもらっているのよ」
 なるほど、と先生。厨房には水道の水が流れる音と、カチャカチャという食器同士が擦れる音が響いている。
「今日一番最初にこの別荘を訪れたのはお二人だそうですが、その時に何かこの屋敷に変わったことはありませんでしたか?」
「そうね……別になかったと思うわよ。私達はそれぞれ一階と二階に分かれてすべての部屋を掃除したんだけど、これといって気になることはなかったわね。ああ、私は一階を掃除したんだけどね……美佐ちゃん、二階はどうだった?」
「いや、特に何もないッス」
 相沢さんは僕達のほうを振り返るとあっさりそう答えた。館には特に何かが仕掛けられているということはないようだ。勿論二人が嘘をついていなければの話だが。
「それでは続いて、相庭さんから見た山路社長と今日パーティーに出席されている方との関係についてお伺いします」
 前に先生が言っていた「客観的にものを見ている第三者」とは相庭さんの事だったようだ。
「ではまず奥様である恵美さんとの関係はいかがですか?」
「とっても仲のいいご夫婦よ。今年でご結婚されて二十七年目になるんだけど、今でも結婚記念日には毎年同じフランス料理屋へお出掛けして二人でお食事なさるの。昔からお互いの事をとても大事にしていらっしゃって。こんなに中のいいご夫婦、私は他には見たことないね」
 という事は山路社長が二十九歳、山路夫人が十九歳のときに二人は結婚した事になる。どうやら夫婦仲は良好なようだ。
「ああ、でも……」
 相庭さんの話はまだ終わっていないらしかった。
「今から半年くらい前からかしら……ご主人様のお帰りが急に遅くなったの。奥様は、仕事が忙しいんでしょうと笑顔でおっしゃっていたけど……私にはかなり心配していらっしゃるように見えたわね」
 亜里沙さんの言っていた事と一致する証言だ。どうやらそれは本当の事らしい。
「それ、浮気じゃないッスか?」
 その鋭い意見を滑り込ませてきたのは、相庭さんの隣で洗い終えた食器を拭いていた相沢さんだ。だが僕には、あれほど仲のいい山路夫人というものがありながら、山路社長が浮気をするなんてとても思えなかった。それとも心と体は別、という事なのだろうか。
「そんな奥様もここ二、三ヶ月前から、外出される事が多くなったわね。どちらへ行かれるんですかってお聞きしても、ちょっと用事があるとしかおっしゃらないの」
 一体山路夫人はどこへ出掛けているのだろう。しかしそれは、ここで僕がどんなに知恵を振り絞っても、納得のいく答えが出るような事ではなかった。
「では娘さんとの関係はいかがですか?」
「それほど悪くはないと思うわよ。そりゃ思春期の女の子だもの。たまには父親を煙たがることだってあるわよ。でもそれはどこの家庭でもある当たり前のことなんじゃないの?」
 僕が聞く限りでは、親子関係も悪くはないらしい。
「昔からご主人様は亜里沙ちゃんの事を本当に可愛がっていてね……毎年誕生日にはいろんなサプライズを企画してプレゼントを渡すの」
「サプライズ?」
「私が一番覚えているのは、亜里沙ちゃんが八歳になる誕生日の事よ。誕生日当日、ご主人様は行き先を告げずに亜里沙ちゃんを車に乗せて、ある場所へ向かったの。そこはずっと前から亜里沙ちゃんが行きたがっていた千葉にあるテーマパークだったんだけど、なんとご主人様はそこを一日貸切にしていたのよ! 帰ってきたときの亜里沙ちゃんのあの笑顔は、今でも覚えているわね」
 あのテーマパークを貸切……やはり金持ちはやる事が違う。僕は思わず絶句した。
「それマジパないッスね」
 そんな僕と同じ感想を滑り込ませてきたのは勿論相沢さんだ。
「では弟の大志さんとの関係はいかがですか?」
「いいと思うわよ。そりゃ兄弟だもの。たまに殴り合いのケンカをしているのを見たこともあるけどさ。会社がここまで大きくなったのは、お二人がお互いの欠点を補い合って努力してきた結果だと私は思うね」
 どうやら兄弟仲も問題ないようだ。
「一番最近のお二人のケンカの原因は分かりますか?」
「あれは一ヶ月ぐらい前かしら。大志様がご主人様の家に遊びにいらしたとき、ご主人様が大切にとっておいた貴重な高級ワインを勝手に飲んでしまわれたの。それを弁償するしないという話になって取っ組み合いの大ゲンカ」
 子供かっ、と僕は心の中でツッコんだ。
「でもその後ね、結局そのワインを二人で全部飲んじゃって…酔っ払ってすぐ仲直りしていたけどね」
 なんだそりゃ。僕は聞いて損したと思った。
「ていうかそれチョーウケるんですけど」
 そんな事を真顔のままぶっこんできたのはやはり相沢さんだった。
「では秘書の松野さんとの関係はいかがですか?」
「うーん、今は悪くはないんでしょうけどね。前にお酒の席でご主人様が話しているのを聞いたんだけど、先代の社長からご主人様に社長が変わってすぐの頃、経営方針の違いでいろいろ揉めていた時期があったみたい。先代の社長、つまりご主人様のお父様は割りと保守的な経営をされていたそうよ。でもご主人様が社長になって、今までの社名を変更した上に、これまで会社でまったく関わりのなかったパチンコ産業に手を出されたそうなの。結果的には成功したけど、松野さんはあまりいい思いはしていなかったんじゃないのかね」
「それはどれぐらい前のことですか?」
「そうね……確か二十五年ぐらい前だって言っていたと思うわよ」
 松野さんがその事を恨んで山路社長の殺害を計画しているのだろうか。でもそんなに昔の事を今更になって蒸し返すものだろうか。僕は殺人の動機としては弱いような気がした。それにあの優しい松野さんが人を殺すとは、僕にはとても思えなかった。
「ご主人様はこうもおっしゃっていたわ。この頃は社長の引継ぎの問題とかで会社の経営がかなり危機的状況だったそうなの。今では考えられないほど切迫した生活を奥様と二人でされていたみたい。この時期に何か辛い経験をされたみたいで、そのときの思いをバネにして今日まで頑張ってきたって、まじめな顔でおっしゃっていたのが妙に印象的だったわ」
 辛い経験とは一体何だろう。お金がなくて欲しい物が買えなかったとか、そういうことしか僕には思いつかなかった。
「では続いて、主治医の加藤先生との関係はいかがです?」
「加藤先生はたまにご主人様の家にいらっしゃるくらいね。最近は月に一度くらいのペースかしら。ご主人様たちとご一緒に夕食を召し上がって行かれるの。ご家族との仲もいいと思うわよ。それ以上のことはちょっと分からないわね」
 どうやら加藤医師にも殺人の動機になるような事はないようだ。
「ではもう一人の秘書の笠原さんとの関係はいかがですか?」
「それがあの方を見たのは今日が初めてなのよ。少なくとも私がいるときにご主人様の家に来た事は一度もないわね」
 僕は、半年も秘書をしていれば仕事で一度くらいは家を訪れていてもいいような気がした。だが秘書の仕事内容をよく知らない僕はそんなものかと、納得する事にした。
「では最後に……先ほど山路社長はあなたの事を加奈子さんと呼んでいましたが、山路社長とはあまり厳しい主従関係にはないのですか?」
「そうなのよ。ご主人様は本当にお優しい方でね、家政婦の私にも毎年誕生日プレゼントをくださるの。今年は高そうなマッサージチェアをいただいたわ」
「え〜、い〜な〜、私もこの家がよかったッスよ、マジで〜」
 そんな素直な感想を漏らしたのは、少しの間黙っていた相沢さんだった。この家とは、家政婦としての派遣先の家のことだろう。
「分かりました。ご協力ありがとうございました」
 いえいえ、と返す相庭さん。続けて先生は隣にいる相沢さんに話しかける。
「それでは今度は相沢さんにお伺いします」
「なんスか?」
 相沢さんは振り返ると、軽い口調で言った。そしてすぐに向き直る。
「あなたはどういう過程で今日ここを訪れる事になったのですか?」
「それが〜、本当は今日アタシがくる予定じゃなかったんスよ〜。元々来る予定だった山本さんって人が前日に風邪引いたらしくて〜。今日の朝になって家に会社から電話がかかってきて〜、どうしても行ってくれって言われたんスよ〜」
 相沢さんはギャル特有の語尾を延ばすしゃべり方で若干キレ気味に答えた。
「では今日パーティーに参加されている皆さんと面識は……」
「ないッス、ないッス。一度もないッス」
 相沢さんは、振り返ることなく首を横に振り、右手でふきんを振りながら答えた。
「この子、見かけによらず頑張り屋なのよ。昼は家政婦の仕事をして、夜はネイルアーティストの専門学校に通っているの。学費も親に頼らないで自分で稼いだお金で払っているのよ。今日だって昨日の夜学校があったのに、そのままほとんど寝ないでここへ来たんだから」
 少しからかうような口調でそう言ったのは、相庭さんだった。
「ちょっと、やめてくださいよ! 照れるじゃないッスか」
 慌てて相庭さんの方を振り向いた相沢さんの頬は少し赤かった。それは間違いなくチークのせいではなかった。
「へー、大変じゃないですか?」
 それを尋ねたのは先生ではなく僕だった。僕は自分から女性に話しかけることは滅多に無い。そんな僕が自分から相沢さんに話しかけたのは、見た目からでは分からない本当の彼女をもっと知りたいと思ったからだ。
「まあ、正直大変ッスけど〜、夢のためなんで……」
 相沢さんは照れ臭そうに言った。「夢」という単語を口にするのが恥ずかしかったのだろう。
「どうして家政婦の仕事をしようと思ったんですか?」
 調子に乗った僕が続けて尋ねる。
「まあ給料がよかったっていうものあったんスけど〜、まあ将来のための……その、花嫁修業って言うか……家事ぐらいは出来ておいたほうがいいかなって思って……」
 相沢さんは先ほどよりもさらに照れていた。「花嫁」という単語がそうさせたのだろう。
「この子入りたての頃は、料理も洗濯も何にも出来なくて、何度も派遣先の家で失敗して泣きながら会社に帰ってきてたんだけど、絶対に辞めようとはしなかったの。それから家事を私達に習いながら一生懸命勉強して、少しずつ出来るようになっていったのよね」
「だから余計な事言わなくていいですってば!」
 照れて怒る相沢さんに、相庭さんは大笑いしている。
 僕は完全に相沢さんの事を誤解していたようだ。やはり人は見た目ではないのだ。僕は心から、頑張っている相沢さんの夢を応援したくなった。
「僕、応援してるんで頑張ってください!」
 僕は相沢さんに今日一番の元気な声でエールを送った。すると相沢さんは僕のほうをちらりと振り返り、照れ臭そうな笑顔を浮かべ軽く会釈をした。
 
 午後八時二分―。僕と先生は、まだ洗い物が残っているから先に談話室へ行け、という相庭さんのお言葉に甘え、厨房を離れ、先に談話室へ向かった。談話室は玄関正面にある左右のドアから廊下へ入り、その廊下を右に曲がったところにある。ちなみにその廊下を左に曲がると、書庫がある。テレビが無く退屈してしまった、僕のような来賓ために作ったのだそうだ。
 談話室のドアの前に立つと、中から山路社長の大きな笑い声が漏れ聞こえてきた。先生がドアを開ける。
「おお、来たな探偵諸君。まあ、座れや」
 その部屋には中央に横長のテーブルがあり、その両側に四人掛けぐらいの横長のソファが置いてあった。その手前側のソファには山路夫人と亜里沙さんが、奥側のソファには加藤医師がそれぞれ腰掛けていた。上座には一人用の椅子に山路社長が鎮座している。山路社長と加藤医師は上着を椅子の後ろに掛け、Yシャツ姿になっている。
 正面には大型車でも入れるくらいの大きな窓があり、そこには赤い分厚いカーテンがかかっている。山路社長の真後ろの壁際には二メートルはある大きな柱時計が置かれている。
 右手の奥には三段になった吊り棚があり、そこには色々な大きさや長さの、透明のカラーボトルが所狭しと並べられていた。その手前にはカウンターがある。ホームバーだ。そのカウンターの上にはすでに誰かが酒を造った跡があった。
 松野さんと笠原さんの姿が見えない。どうやら二人は先に部屋へ戻ったようだ。
「お飲み物は何がよろしいですか? お酒もありますし、コーヒーやジュースもございますが……」
 山路夫人はその場に立ち上がり、こちらを振り返った。視線を先生に向ける。
「で、では、コ、コーヒーをお願いします!」
 先生が上ずった声で答える。そのボリュームの大きさに、ほかの人たちは目を丸くしている。山路夫人は、もう先生はこういう人なのだと理解してくれたのだろう。にっこり微笑んで返事をすると、今度は視線を僕のほうへ向けた。
「あっ、じゃあオレンジジュースをお願いします」
 僕はコーヒーが飲めないのだ。実は先ほど出された食後のコーヒーもほとんど手をつけていない。あんな苦いものの何がおいしいのか、僕にはさっぱり理解できなかった。
 山路夫人は控えめな返事をすると、入り口から左奥の壁にある仕切りのないドアの向こうに消えていった。どうやらあのスペースは給湯室になっているらしい。
 先生は加藤医師の隣に腰を下ろした。僕は先生の隣に座る。ほかの人にもそれぞれ飲み物が用意されていた。山路社長と夫人がコーヒー、亜里沙さんがオレンジジュース、加藤医師は恐らくブランデーだろう。どうやらあのカウンターの跡は加藤医師が作ったもののようだ。
 その加藤医師は右手にタバコを持っていた。テーブルの上にある灰皿にもすでに数本のタバコの吸殻があった。
 給湯室から出てきた山路夫人がどうぞ、と僕達にそれぞれの飲み物を持ってきてくれた。僕達がお礼を言うと、山路夫人は再び元の場所に腰を下ろす。
「じゃあ探偵さん、おもしろい事件の話聞かせてくださいよ」
 そう言ったのは先生の隣に座っていた加藤医師だった。わかりました、と先生はゆっくりとこれまでにあった過去の事件の事を語り始めた。

 午後八時十三分――。先生の話がようやく前置きを終えた頃の事だった。談話室のドアがゆっくり開いた。そこにいたのは家政婦の相庭さんと、相沢さんだった。相沢さんは主人の前だというのに、大きなあくびをしている。
「食事の後片付けが終わりましたので、私達は先に休ませて頂いてもよろしいでしょうか」
 相庭さんが山路社長に尋ねる。
「おう、お疲れさん。じゃあ、『あれ』忘れないようにね」
 山路社長のその言葉に、相庭さんはにっこり笑って軽く会釈すると、ゆっくりと部屋のドアを閉めた。あれ、とは何の事だろう。僕には見当も付かなかった。
 
 午後八時四十五分――。先生はかなり事実に尾ひれをつけ、うまく美談にまとめ上げながら、過去の事件を饒舌に語り倒していた。ほかの人の表情を見ると、あまり楽しんではいないようだった。話の半分以上が嘘である事がばれているのかもしれない。
「さてと、俺はそろそろ休ませてもらおうかな」
 明らかに先生の退屈な話を遮るようにそう言い放ち、席を立ったのは山路社長だった。
「えー、パパもう寝るの?」
 亜里沙さんが、だだをこねるような口調で言った。
「ああ、そろそろ時間だからな」
 山路社長はニヤニヤとした笑顔を浮かべていた。時間とは、寝る時間という意味だろうか。
「でもあなた……一人にはならないほうがいいんじゃない?」
 夫人が心配そうに山路社長に話しかける。脅迫状の事を心配しているのだろう。
「大丈夫だよ、あんなのイタズラに決まっているさ。じゃあ、おやすみ」
 そう言い残すと、山路社長は満面の笑みのまま談話室を出て行った。その数秒後に、先生が突然その場に立ち上がった。
「すみません、ちょっとトイレに行ってきます。じゃあ行こうか、森村君」
 僕は思わず先生のほうを見た。僕は別にトイレには行きたくなかったからだ。それなのに先生は僕の腕をつかんで、半ば強引にドアのほうへ引っ張っていく。先生は一人でトイレに行くのが怖いのだろうか。
 僕達は廊下に出ると、先生はゆっくりとドアを閉めた。すると突然、履いていた靴を脱ぎ始めた。そしてそれを両手の指で引っ掛けるようにして持った。先生は一体何をしているのだろう。先生はあごで僕に指示をする。どうやらお前もやれ、という事のようだ。僕はわけも分からないまま先生と同じく靴を脱ぎ、それを両手に持った。先生は靴下姿のまま、廊下に足音を立てないようにして進んでいく。ここでようやく僕は先生の行動の意図に気が付いた。先生は山路社長の後を付けようとしているのだ。
 先生はいったん右手の靴を小脇に挟むと、玄関ホールへ続くドアを少しだけ開ける。誰かが階段を上がる足音が聞こえる。恐らく山路社長だろう。しかし山路社長の部屋は一階のはずだ。一体どこへ行こうとしているのだろう。僕達は山路社長が階段を上がりきったのをわずかな足音の違いで確認すると、ゆっくりと階段を上がっていく。
 二階のどこかでドアが閉まる音が聞こえた。どうやら山路社長はどこかの部屋に入ったようだ。僕達は階段を上がりきると、とりあえず左右を見た。僕達の部屋のほうには今は誰もいないから、僕達は迷わずT字路を左に曲がった。
 この先の部屋にいるのは松野さん、笠原さん、相庭さん、相沢さんの四人だが、一体山路社長は誰に会いに来たのだろう。僕達は息を殺しながら、ゆっくりと歩みを進めていく。心臓の鼓動が速くなる。なんだか僕は悪い事をしているような気分になってきた。廊下の奥のほうから、かすかに話し声が聞こえる。それは「207」。笠原さんの部屋からだった。僕達はドアに聞き耳を立てる。もし今、ほかの部屋にいる人が廊下に顔を出したら、僕達は間違いなく不審者だ。僕はドキドキしながら中の会話を聞いた。
「本当に大丈夫かな……」
 この声は笠原さんだ。
「大丈夫……あいつならきっと喜んでくれるさ……」
 その声の主は一瞬では誰なのか判断できなかった。なぜならそれは、僕らに対して話していた時の口調とはあまりにも違っていたからだ。それは、すべてを包み込むような優しさに満ちていた。その声の主は山路社長だった。
「でも……やっぱり怖い……」
「大丈夫だよ……さあ、おいで……」
 それから数十秒間、会話は途切れた。この流れからいって、二人は恐らく今抱き合っているのだろう。
 この時僕はようやくすべてを悟った。この二人はデキているのだ。山路社長が笠原さんを気に入った理由は、若さに満ちたその白くて柔らかな肉体だったのだ。山路社長の帰りが遅くなったのも半年前。笠原さんが山路社長の秘書になったのも半年前。すべて辻褄が合う。笠原さんは、山路社長に夜のご奉仕をするために雇われていたのだ。僕はそのあまりにも衝撃的な事実に、思わず手に持っていた靴を落としそうになった。
 では山路社長が言っていた「あいつなら喜んでくれる」とはどういう事なのだろう。まさか不倫関係を山路夫人に暴露するつもりなのだろうか。だとしたら喜んでくれるはずがないだろう、と僕は思った。それとも二人はまったく別の人物に、まったく別の告白をしようとしているのだろうか。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「うん、怪我しないようにね……」
 山路社長が部屋から出てくる気配がする。僕達は急いで廊下を駆け出した。そのまま階段を駆け下りると、僕と先生は示し合わせていたように左右別々のドアから談話室へ続く廊下へ飛び込んだ。
 息を整えると、僕と先生は思わず顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
 それにしても最後に笠原さんが山路社長にかけた言葉にはどういう意味があったのだろう。部屋を出る人間に掛ける言葉にしてはあまりにも不自然だ。だが今僕がここでそれを考えても、答えは出そうになかった。そして僕達は靴をはくと、さもトイレに行ってきたかのように談話室のドアを開けた。
 


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