それからあっという間に三日が過ぎた。 今僕は、就職活動のときに身に着けた以来のスーツをクローゼットから取り出すと、大慌てでそれに着替えていた。完全に寝坊したのだ。 昨日の夜は今日の事を考えてほとんど眠る事が出来なかった。ようやく眠りについたのは、カーテンから外の日差しが漏れ始めて、かなりの時間が経過したころだった。急がなければ間違いなく置いていかれる。そんな絶体絶命の僕に、突如難題が立ちふさがった。ネクタイだ。 鏡の前に立ち、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返す。普段は私服で仕事をしていた僕は、いつの間にかネクタイの仕方を忘れてしまっていたのだ。 三年前は確かに出来ていた。僕は必死であの頃の記憶を呼び起こそうとするが、この状況ではまともな思考など出来るはずがない。僕はあせりと情けなさで、目が次第に涙で潤んでいくのが分かった。鏡に映る自分が歪む。 もう僕はネクタイを諦め、とにかく家を出た。しっかりとドアに鍵を掛けたのを確認すると、小学生以来の全力疾走で、事務所へ急いだ。右手に持ったネクタイが風になびいている。事務所と僕の家の距離を計算すると、ギリギリで間に合うはずだ。そう自分に言い聞かせながら、僕はただひたすら足を前に突き出し続けた。 最後の角を曲がると数十メートル先に、事務所があるビルが視界に入る。正面に車は止まっていない。いける、そう思った僕は、最後の力を振り絞り、事務所へ続く階段を駆け上がっていく。そして勢いよく入り口のドアを開けた。 もう限界だった。曲げたひざに手を置き、うつむいたまま肩でぜえぜえと息を繰り返す事しか出来なかった。 「なんだ森村君、寝坊したのか」 先生の声がする。その声は少し呆れているようだった。呼吸が少し落ち着いてきた僕は、声のするほうに顔を上げた。 事務所の奥には、ばっちりと黒のタキシードを着こなした先生が立っていた。明らかにいつもより、オールバックがぴったりと固められている。 「どうした、ネクタイ出来なかったのか?」 右手に握ったままの僕のネクタイが見えたのだろう。先生はそう言いながら僕に近づいてくる。 「はい……」 僕は先生からわずかに視線を外し、口を噤んだ。僕は恥ずかしかった。大の大人がネクタイも出来ないなんて。先生は、そんな僕の目の前に立った。 「どれ、先生がやってやろう」 先生は僕の手からネクタイを取ると、僕の首にそれを巻きつけた。その慣れた手つきに僕は思わず感心した。僕はただじっと、ネクタイをしてくれている先生の顔を見上げていた。僕と先生の顔はあと数センチという距離だった。僕の喉元に意識を集中している先生は、果たして僕が先生の顔を見つめている事に気がついているのだろうか。 語弊のないように言っておくが、僕には男を愛でる趣味はない。 だがそんな僕でも思わず惚れてしまいそうになるほど、先生は格好いい。タキシードに身を包んだ先生は、普段より一段と格好よく見えた。本当にこの人が童貞だなんて信じられない。これ以上の宝の持ち腐れがあるだろうか。僕は思わず先生がかわいそうになった。 「よし、出来た」 先生は僕の両肩をぽんと叩きながら言った。 「男ならネクタイぐらい、出来ないと駄目だぞ」 その口調はまるで、幼稚園児に注意する父親のようだった。僕は咄嗟に、むっとした表情を浮かべた。そんな僕を見て、先生はいつもの勝ち誇ったような、憎たらしい笑顔を見せる。 もう先生はずっと僕の事を子ども扱いしている。確かに僕には出来ない事を、先生は何でも出来てしまう。僕は表面上では、そんな先生に反発しているそぶりを見せているが、内心では尊敬と憧れを抱いていた。だがそんな僕が、先生に唯一勝っているものがある。下半身の経験だ。そしてこれは、僕が心の中で先生との対等な関係を保つために、非常に大きな事由として機能していたのだった。 そんな事を考えていると、不意に事務所のビルの前で車のエンジン音が止まった。どうやら迎えが来たようだ。誰かが事務所の階段を上がってくる足音が聞こえる。そして事務所のドアが開いた。 「お迎えに参りました。どうぞ」
午後二時五十七分――。そこに立っていたのは、三日前に事務所を訪れた松野さんだった。三日前と変わらぬスーツ姿。 僕達は松野さんに促されると、事務所の階段を下りていった。ビルの前には、この人気の少ない通りには明らかに不釣合いな、黒の高級リムジンが止まっていた。 松野さんは後部座席のドアを空けてくれ、どうぞと軽く頭を垂れる。僕は少し緊張しながら、先生の後で車に乗り込んだ。 座席に体重を掛けると、どこまで沈むのかというくらい、僕の身体は座席の中にめり込んでいく。これが高級な座席というものなのだろうか。僕はただ落ち着かなかった。 松野さんが運転席に乗り込んできた。するとすぐに、助手席においてあったアタッシュケースの蓋を開けた。 「秋山様、本日山路の誕生日パーティーにご出席される方達のリストを作成してまいりました。よろしければご覧になって下さい」 と、先生に一枚の紙を差し出した。 「ありがとうございます。非常に助かります」 先生は笑顔でその紙を受け取る。 「すでにこちらの方達には、脅迫状の件は報告済みでございます。それに伴い、お二人がこのパーティーに参加するという事もすでに了承していただいております」 「誰か私達がパーティーに来ることに反対した方はいらっしゃいますか?」 それは僕も気になった事だ。僕は先生と同じことを考えていたのが少し嬉しかった。 「反対した……と申しますか、山路のご令弟でいらっしゃる大志様は、非常にお気の難しい方で……見ず知らずの方をパーティーに招くのはどうかと申しておりました。しかしそれは、あまり人がお好きではない大志様にしてみれば、当然の反応だったと私は思います」 怪しい……僕は思った。もしその山路社長の弟が犯人だったとしたら、僕達がパーティーにやってくる事は間違いなく都合が悪い。 僕はこの山地社長の弟を第一容疑者に認定した。 「それではこれより東京湾へ向かいます。そこからはクルーザーに乗り換えていただき、山路の別荘がある島までご案内いたします。所要時間は二時間ほどになりますので、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」 僕らのほうを振り返りながら松野さんはそう言うと、軽く頭を下げた。そしてゆっくりと車を発進させる。 「ありがとうございます」 リストに視線を落としていた先生は、松野さんのほうを向き直し、お礼を言った。僕はそんな事お構いなしにリストに集中していた。 その紙の左側には、縦にずらりと顔写真が並んでおり、それぞれの顔写真の右側に横書きでその人物のフルネームと年齢が書かれていた。そしてその下の行に、山路社長から見たその人との間柄が記述されていた。おそらくパソコンのワープロソフトで作成されたものだろう。顔写真は九枚。僕は一番上の人物から順番にゆっくり吟味していくことにした。
山路源蔵。五十六歳。その下の間柄の欄には何も書かれていなかった。本人なのだから当然だ。彼の写真でまず目に付いたのは、何といっても清清しいほどのスキンヘッド。そして、何がそんなに楽しいのか尋ねたくなるほどの満面の笑み。満月のようにまん丸の輪郭が、かなり太っているであろう事を物語っていた。 正直意外だった。僕はこの人を、もっと極悪人のような険しい顔をした人物だと思っていたからだ。本当にこんな人懐っこい笑顔をする人が、人から恨みを買うような事をしているのだろうか。僕は疑問に思った。いや、世の中顔じゃない。僕は常日ごろから思っているこの事を思い出した。僕は続いて二番目の人物に視線を下ろした。
山路恵美。四十六歳。妻。僕はその顔写真を見て、思わずもう一度年齢の欄に視線を戻した。とても四十六歳には見えなかったのだ。三十代前半……見る人によっては二十台に見えても決しておかしくはなかった。だがその遠慮がちな笑顔には年相応の落ち着きがあり、包容力のある母性を感じさせる。大きくて澄んだ瞳が印象的な美人だった。良妻賢母。僕はこの言葉が頭に浮かんだ。それと同時に、この女性は間違いなく先生の好みのタイプだと思った。 僕はニヤニヤしながら先生の顔をうかがった。しかし先生はただ真剣な顔で、リストに視線を落とすだけだった。僕は気を取り直して三番目の人物に視線を向けた。
山路亜里沙。十六歳。娘。髪形はシンプルなセミロング。毛先が肩口にかかるくらい。前髪は眉毛に少しかかるくらいの長さ。髪の色は黒に近い茶。なんだか僕は、高校の頃の校則を思い出した。顔はというと、美人といっていい顔立ちだろう。ただ父親に似たその釣り眼が、若干きつい印象を受ける。 僕はあまり好きではないタイプだ。僕は早々と四人目の人物へ視線を落とした。
山路大志。五十二歳。弟兼共同経営者。僕の中での第一容疑者だ。その顔はまさに少し前まで僕が抱いていた、山路社長に対する顔のイメージそのものだった。世間に恨みでもあるような鋭い目つき。世間に不満でもあるようなへの字に曲がった口。ごつごつとした四角い輪郭。坊主頭がより一層そのいかつさを際立たせていた。交番の指名手配犯の手配書に一人はいそうな顔だ。 僕のこの人に対する疑念は一層強いものになった。そして次の人物へ視線を動かす。
加藤明。四十一歳。主治医。大きな瞳にすっと通った鼻筋。さわやかに微笑んだその表情は、自分の顔に絶対の自信を持っていることをうかがわせる。先生とはまた違ったタイプのハンサム顔だ。しっかりセットされたその髪型からは、美への執着心を感じさせる。 この甘いマスクをもってすれば、大抵の女性を落とすのはたやすい事だろう。僕は勝手な妄想をし、ひとりで腹を立てた。これ以上惨めな気持ちになる前に、僕は次の人物へ視線を落とした。
相庭加奈子。五十八歳。家政婦。ぽっちゃりしたごく普通のおばさんといった感じだ。頭には俗に言うおばさんパーマがかかっており、にっこりと微笑んだその唇には、真っ赤な紅が引かれている。青いアイシャドウは誰かに殴られたのではないかと思うほど、強くその存在を主張していた。 僕にはこの人が悪い事をするような人にはとても見えなかった。僕は更に視線を落とす。
相沢美佐。二十四歳。家政婦。顔写真を見た後、僕は思わず間柄の欄をもう一度確認した。家政婦に間違いない。その写真に写っていたのは渋谷を闊歩していそうなギャルそのものだった。金髪に近い茶髪をくりくりに巻いた髪。一本線を引いただけのような細い眉。目の周りを完全に包囲している分厚いアイライン。幾重にも重なった付けまつげ。その目線はあさっての方向を向いていた。熱でもあるのではないかと思うほど頬をピンク色に染めているチーク。グロスで光った唇は、アヒルのような口元を形作っていた。 就職する場所を間違えたのではないか。僕は若干引き気味で下の人物に視線をずらした。
笠原京子。二十五歳。秘書。二十五歳の割には幼い顔立ちをしている。高校生といわれても信じてしまうだろう。大きくてくりっとした目が何とも愛くるしい。黒い髪はセンターから分けて胸の辺りまで伸びている。ほとんど化粧っ気はない。写真の彼女は真剣な表情をしている。 僕はこんな女の子が好みだった。この子が笑ったら一体どんな表情をするのだろう。僕は自分の頬をパンパンと叩いた。先生が不思議そうに僕を見る。何とか僕は不順な妄想を抱く前に、我に帰った。そして僕は最後にリストの一番下の人物に目を向けた。
松野大作。七十三歳。秘書。自分を一番最後に持ってくるところに、松野さんの控え目な性格がうかがえる。松野さんに関してはこうして実際に会っているので、調査を省略する事にした。
パーティーに参加するのはこのリストに載っている九人と、僕と先生の計十一人ということになる。 長い間考え事をして疲れた僕は、ふと視線を窓のほうへ向けた。そこにはいつの間にか、ガードレール越しに一面の青い海が広がっていた。太陽の光に反射して、水面がキラキラと輝いている。 「先生、海ですよ、海!」 僕は思わず窓に顔を近づけると、先生に後ろ手で手招きした。僕が笑顔で振り返ると、先生は菩薩のような表情で、うん、とだけ返事をした。あまりの先生の落ち着きぶりに、僕は海ぐらいでこんなにはしゃいでいた自分が急に恥ずかしくなった。
午後三時四十七分――。車は海沿いの駐車場に停車した。 「ここからはクルーザーでの移動になります。少々お待ちください」 そう言うと松野さんは車を降り、後ろから回り込んで僕達が乗っている後部座席のドアを開けてくれた。僕は車から降りた。先生もそれに続く。 深く息を吸い込むと、磯特有の潮の香りが僕の鼻腔をくすぐった。僕の右手にはたくさんの船が止まっている船着場がすぐ目の前に見えた。 僕達は松野さんの後をついて歩いていく。その船着場には、ボートに毛が生えたような小さな船から、本格的な競技で使われるようなヨットまで様々な船が停泊されていた。その中で特に僕の目を引いたのは、ひときわ大きなクルーザーだった。そのクルーザーは明らかにこの船着場に泊まっているどの船よりも大きかった。それは二階建てになっており、船体は十メートルほどはあるだろうか。そして松野さんは迷わずそのクルーザーのほうへ向かっていく。 「こちらの船でございます。お乗りの際は足元にお気をつけください」 やはり僕らが乗るのはあのクルーザーだった。僕達は松野さんに促され、船に乗り込んだ。松野さんもそれに続く。 僕はクルーザーに乗るのは生まれて初めての経験だった。僕はもうすぐここから見えるであろう、三百六十度どこを向いても水面がキラキラと輝く万華鏡のような世界を想像し、思わず胸が高鳴った。 「それでは中へご案内いたします。お飲み物をご用意いたしますので、どうぞこちらへ」 松野さんは、僕らを船室の入り口のほうへ促した。 正直僕はこのまま甲板にいて、景色を眺めていたかった。だが僕がそんな事を言える身分ではない事は自分でもよく分かっていた。僕はしぶしぶ松野さんについて行こうとした。 「すみません、このままここにいても構わないでしょうか……」 先生は右手を後頭部へやり、申し訳なさそうに松野さんに尋ねた。 「勿論でございます。それではお飲み物をお持ちいたしますので、少々お待ちください」 「ありがとうございます」 先生が深々と頭を下げるのを見届けると、松野さんは船室の中へ入っていった。 先生もここからの景色が見たかったのだろうか。それとも僕の気持ちを読み取ってくれたのだろうか。先生に聞いてみようかとも思ったが、もし前者の答えが返ってきたら、勝手な妄想をしていた自分を自嘲せざるを得なくなるので、やめておくことにした。 少しして松野さんが両手にシャンパングラスを持ってやってきた。肩で入り口のドアを開ける。 「ここから島までは更に一時間ほどかかります。それでは私は出航の準備をしてまいりますので、もう少々お待ちください」 グラスを僕達に手渡しながら、松野さんが言った。そして足早にクルーザーを降りていった。どうやらこのクルーザーは彼自身が運転するようだ。彼は船舶の免許も持っているらしい。自動車の免許ぐらいしか持っていない僕は、思わず感心した。 松野さんにもらったグラスに入っていた透明な黄金色の液体は、シャンパンではなくりんごジュースだった。遊びにいくわけではないのだから中身が酒ではないのは当然だ。僕はそう思いながらも、少しがっかりした。 それから数分後、船は島に向けて無事に出航した。
クルーザーの甲板の上で五月のさわやかな潮風に吹かれながら、僕は山路社長の家に届いた脅迫状のことを考えていた。 一体あの脅迫状を出す事に、犯人にとってどんなメリットがあったのだろう。あんな事をすれば警察に通報されて、犯行を実行できなくなるかもしれない。下手をすれば身元がばれて逮捕されるかもしれない。別の第三者が介入してきて、犯行を行うのが難しくなるかもしれない。そして実際にこうして、僕らという第三者が介入している。 それにそんな事をしては山路社長はもちろん、それ以外の出席者だって、何か起こるのではないかと警戒するはずだ。それだけで犯行が成功する可能性はぐっと下がるだろう。犯人はよほどの自信があるのだろうか。 それになぜ犯人は、犯行にこの日を選んだのだろう。殺そうと思えば、夜道を一人で歩いている山路社長を、いきなり背後から殴って殺すことだって出来るはずだ。何か今日でなければならない理由があったのだろうか。 分からない。今の時点では僕にはさっぱり分からなかった。それとも先生はもう何かに気付いているのだろうか。
午後四時四十二分――。舟は別荘がある無人島に到着した。クルーザーのエンジン音が止まる。 「大丈夫かい、森村君」 僕は今、船から顔を突き出し、二メートルほど下にある海面と平行に向き合っていた。先生はそんな僕の後ろで、僕の背中を延々と摩ってくれている。そしてもう何度目か分からない津波が僕の食道を襲った。聞くに堪えない醜い音とともに、僕はさっき腹に入れたばかりのりんごジュースをしこたま海に吐き出した。完全に船酔いしてしまったのだ。 自分でもこんなに酔うとは思ってもみなかった。昨日の寝不足が祟っているようだった。考え事をしていたのもいけなかったのだろう。 もう二度と船の上では脅迫状の事は考えない。僕はそう心に固く誓った。 「森村様、大丈夫でございますか。よろしければお薬をお持ちいたしますが……」 運転室から出てきた松野さんが、心配そうに僕に話しかける。 「ああ、大丈夫です。もうすっかり治りましたから」 僕は慌てて立ち上がると、笑顔で答えた。本当はそれほど大丈夫ではなかったが、これ以上二人に心配をかけるわけにはいかなかったし、それよりも僕は、もう自分の醜態を晒していたくはなかった。 「それではこれより、徒歩で山路の別荘へ向かいます。十分ほどで到着いたします。どうぞ」 僕達は松野さんに促され、クルーザーを降りた。松野さんはなにやら船内で、停泊の後処理をしている。 島のほうに目を向けると、一本のまっすぐ伸びる細い道のはるか遠くに一軒の建物が見えた。恐らくあれが僕らの目指している別荘なのだろう。その道の両脇にはかなりうっそうとした森が広範囲にわたって広がっている。少なくともその森は、終点を肉眼では確認できないくらい広かった。 このよく出来たロケーションを見て僕は、あの別荘はかなりこだわった所に造られたものだと思った。 僕達は松野さんを先頭に、森に作られた一本道を歩いていく。その道幅はちょうど二車線の車道ぐらいだった。さわさわと柔らかな風になびく枝葉のざわめきが耳に心地よかった。木々の間から漏れる木漏れ日が、道をどこまでもまだら模様に照らしている。 きれいだ。僕はすぐにこの島が気に入ってしまった。 「あの別荘は、元は森だったところを開拓して建てられております。別荘へ続く道は、これ一本のみでございます」 と、松野さんは僕らのほうを振り返った。 僕達は更に道を進んでいく。視界の先に館がなければ、どこまで歩いたかわからなくなるほど、似たような景色の中を歩き続ける。そして僕達はようやく別荘の前までたどり着いた。 その建物は西洋風の造りで、二階建てになっている。館の周囲は、僕達が通ってきたこの道以外、きれいに森に包囲されている。外壁は白。正面の壁には下の階に、中央の入り口を中心にして、左側に三つ、右側に三つ同じような感じで窓が配置されていた。二階部分にも、下の階とまったく同じ位置、同じ数の窓が配置されている。 「シンメトリーですね」 先生が口を開いた。聴きなれない言葉に僕は首をひねった。 「おっしゃるとおりでございます。この館は中央を中心に左右対称のつくりをしております。主人の山路は、もっと奇抜な佇まいにしたかったようですが、ご令弟の大志様に反対され、このような館にしたと申しておりました」 その話を聞いて、僕は改めて館を見直してみた。なるほど、確かにきれいに左右対称になっている。僕達は松野さんに促され、館の入り口まで来ていた。
午後四時五十五分――。こげ茶色の大きな両開きのドアを、松野さんはゆっくりと押し開ける。僕達は館に足を踏み入れた。 「お部屋のキーを取ってまいりますので、少々お待ちくださいませ」 そう言うと松野さんは正面左奥にある扉の中に消えていった。玄関はホールのような開けた空間になっている。二階まで吹き抜けになっていて開放感がある天井。正面には階段があり、その両脇には左右対称に二つの扉。左右の壁の奥には、それぞれ廊下が一本ずつ見える。クリーム色にこげ茶の筋が入ったピカピカの床。恐らく大理石だろう。そこには塵ひとつ落ちていなかった。上を見上げると、目がくらむほどの輝きを放っている巨大なシャンデリアがぶら下がっていた。僕はそのあまりの高級感に思わず息を呑んだ。 松野さんが奥の扉から出てきた。 「それではお部屋へご案内いたします」 松野さんが歩き出す。どうやら靴は脱がなくていいようだ。僕はこのピカピカの床を、外の土がついた靴で汚すのは申し訳ない気分だった。 松野さんは正面の階段を上がっていく。どうやら僕らの部屋は二階らしい。僕達は階段を上がりきると、T字路の廊下を右へ曲がった。 廊下の先には左右両側に等間隔で三つのドアが並んでいた。ドアの間々には間接照明がついており、オレンジ色の光が廊下をぼんやりと照らしている。廊下の突き当りには、目の高さくらいの位置に、洗面台の鏡ほど大きさの窓がついていた。 松野さんは一つ目のドアを通り過ぎていく。二つ目。そして一番端の三つ目のドアで歩みを止めた。廊下を歩いてきた側から見て右側のほうの扉を手で示す。 「こちらが秋山様の部屋となっております。こちらがキーでございます」 と、『206』という数字が刻まれた、透明な長四角のストラップがついた鍵をポケットから取り出した。 「ありがとうございます」 先生は鍵を受け取った。 「森村様のお部屋はこのお隣でございます」 そして今度は『205』と書かれた同じストラップがついた鍵を僕に手渡した。やはりというか先生と僕は別の部屋だったようだ。松野さんは気を使ってくれたのだろうが、僕は先生と同じ部屋がよかった。僕は思わず肩を落とした。 「夕食は午後六時半となっております。準備が整いましたら家政婦が呼びに参りますので、それまでお部屋でごゆっくりおくつろぎください」 では、と頭を下げて去ろうとする松野さんを先生が呼び止めた。 「出席者の皆さんはもう全員揃われているのですか?」 松野さんが振り返る。 「はい、すでにもう皆様ご到着されております。家政婦のお二人以外は皆様それぞれのお部屋で、休まれているはずでございます」 「ぜひ皆さんからお話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか」 先生が尋ねる。 「かしこまりました。では皆様のお部屋の位置が分かりやすいよう、部屋割り表をお持ちいたしましょう」 「それは助かります」 「それでは少々お待ちください」 そう言い残すと、松野さんは廊下の先の階段を下りていった。先生はその姿がいなくなったのを見届けた後、僕に話しかけてきた。 「森村君、全員が言った言葉をすべて記憶するぐらい集中しなきゃ駄目だぞ」 僕は先生の顔を見上げながら、真剣な顔で小さくうなずいた。それを見た先生もにっこり微笑んで小さくうなずいた。
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