「あの……、今お時間よろしいでしょうか」 不意に昔のことを思い出していた僕は、背後から突然聞こえた見知らぬ男の声で、はっと我に返った。僕は驚いて声のするほうを振り返った。 そこには、入り口のドアを半分ほど開けて顔をのぞかせている、白髪の老人が立っていた。年は恐らく七十前後。白い口ひげが印象的な、温和そうな人だった。左手には銀色のスーツケースを携えている。しっかりと着こなした黒のスーツ姿が、いまだ現役で社会に出ている事をうかがわせる。 「ええ、勿論です。どうぞこちらへお掛け下さい」 先生は応接間のソファへその老人を誘導する。僕はあわててテーブルの上のミックスジュースをエコバックの中に戻した。 老人は軽く一礼すると、ソファに腰をかけた。それを見届けた先生も対面のソファに腰を下ろす。 「それで、今回はどういったご用件でしょうか」 先生が口火を切る。 僕はエコバックを持って応接間の奥にある給湯室へ向かった。お客様にお茶をお出しするのも、僕の立派な仕事なのだ。ここからでも十分先生とお客様の会話は聞こえる。 「私、株式会社アナザーフィールドの代表取締役、『山路源蔵』の秘書を勤めさせていただいております、『松野』と申します」 応接室をちらりと覗いてみると、どうやら老人……いや、松野さんは先生に名刺を渡しているようだった。 アナザーフィールドといえば、パチンコで有名な会社だ。パチンコをやったことがない僕でも、CM等でその名前を聞いた事があるほど、名の知れた会社だった。 「私はこの秋山探偵事務所の社長、秋山公平と申します」 先生も松野さんに名刺を渡したのだろう。 僕は湯飲みと急須、お茶葉を用意しながらお湯が沸くのを待った。 「実は先日、私の主人である山路の家にこんなものが届きまして……」 かさかさという音。どうやら松野さんは、スーツケースの中から何かを取り出しているようだ。何を取り出しているのだろう。僕は気になった。そして流れる沈黙。 次の瞬間、突然火にかけていたやかんが、突き抜ける高音とともにお湯が沸いたのを告げた。 僕は急いで湯飲みにお茶を注ぎ、二人の元へ向かった。出来るだけ急いできた事を悟られないように、ゆっくりとお客様の前にお茶を置く。松野さんは僕に向かって軽く会釈をした。 対面の先生は、三つ折りにされていたであろう折り目がついたA4サイズの紙を、眉間に縦皺を刻みながら見つめていた。 僕は、好奇心が表情に漏れるのを自重しながら先生の隣に腰を下ろすと、先生の見ている紙を覗き込んだ。 そこには、ワープロでカタカナのみが整然と打ち込まれていた。あまりの読みにくさに、僕は最初それが文章になっていることには一瞬では気付かなかった。横に読むとちゃんと文章になっているようだ。僕はその事に気付くと改めて紙の左上に視線を戻した。
ゴガツニジュウロクニチ ヤマジゲンゾウヲコロス ワタシヲキリステタオマエヲ ワタシハユルサナイ オマエハシニアタイスルモノダ カクゴシテマッテイロ
それは紛れもなく山路社長の殺害を予告する脅迫状だった。 「これが届いたのはいつの事ですか?」 と、先生が脅迫状から視線を引き剥がすと、松野さんに尋ねる。 「昨日でございます。朝に山路の奥様が、封筒に入ったこの紙をご自宅のポストで発見されました」 「その封筒に消印は押されていましたか」 「いえ、何も書かれていない茶封筒だったそうです」 「その封筒は今どこに……」 松野さんは首をひねる。と、咄嗟に自分を咎めるような表情を見せた。 「あの時は気が動転していて……覚えておりません。恐らく家政婦か誰かがすでに捨ててしまっていると思います。申し訳ございません」 松野さんは申し訳なさそうな感じで、深々と頭を下げた。 「ああ……いえ、別に構いませんよ」 先生が咄嗟にフォローに入る。 「それから奥様はどうされましたか?」 「山路にこの事をご報告されたそうです。山路は、ただのイタズラだから放っておけ、と申したそうでございます」 先生は右手をあごへ持っていく。松野さんは話を続けた。 「しかし奥様はまだご不安だったらしく、その後山路を向かえに家を訪れた私にも、この事を報告してこられました。そこで私は警察に相談してはどうかと提案いたしました。しかし山路は、もし何もなかったとき、売名行為だとマスコミに叩かれるのは困ると、この意見に反対なさいました。それには奥様も同意見だったご様子でした」 やはり金持ちというのは自分の命より損得勘定で物事を考えるんだな、と僕は思った。 「それならばボディーガードを雇って山路を警護させるのはどうかと、私は続けて提案いたしました。山路はしばらく考えた後突然、それは面白い、と笑いながら申されたのです。その後に続けて、どうせなら探偵がいい、その方がドラマみたいで盛り上がると申されました。奥様はその突拍子もない意見に反対されていたご様子でしたが、山路の意思は変わりませんでした。そこでこうして私がこちらに伺わせていただいている、という次第でございます」 先生はしばらく目線を床に向けたまま黙りこんでいた。 「以前にもこのような脅迫状が届いたことはありますか?」 「私の知る限りでは、初めてでございます。私は先代の……今の主人の父の代から秘書を勤めさせていただいて、今年で四十八年になります」 四十八年も同じ人に尽くし続けるなんて、僕にはとても出来そうもない。僕は松野さんを素直に尊敬した。 「他にこの脅迫状の存在をご存知の方はいらっしゃいますか?」 先生は再び目線を松野さんに向けると、そう尋ねた。 「山路のお嬢様がご存知でございます。二階から私達の騒ぎを聞きつけて、理由をお尋ねになられました。隠しておく事も出来ず、奥様が脅迫状の件をお話になられました」 「その時のお嬢さんの反応は……」 「それほど驚いていらっしゃらなかったように思います。突然の事で状況が理解できていなかったのでしょう」 「その他に、この脅迫状の事を知っている方は……」 「いらっしゃいません」 そうですか、と先生。そしてまたも沈黙。 「この脅迫状に書かれている五月二十六日というのは、何か特別な事があるのですか?」 五月二十六日……今日から三日後だ。 「この日は山路の誕生日パーティーがございます。山路は六年前に東京近海にある無人島のひとつを購入し、そこに別荘を建てました。それ以来、毎年そこに親しい方を招いて、誕生日パーティーを行うのが恒例となっております」 無人島を購入……やはり金持ちは僕とは生きる世界が違うのだ。僕は思わず苦笑した。 「パーティーを中止しようという話にはならなかったのですか?」 先生が尋ねる。 「私もそう申し上げたのですが、山路が毎年楽しみにしているパーティーをイタズラぐらいで中止にする事はないと……」 先生は腕を組み、ソファにもたれ掛かった。微かにスプリングがきしむ音が部屋に響いた。 「そこであなた様には、この脅迫状を出した犯人を見つけ出していただきたいのです。何とぞ、よろしくお願いいたします」 松野さんは深々と頭を下げた。 「具体的には私はどうすればよろしいのですか」 「あなた様には、探偵として山路の誕生日パーティーに出席していただきたいのです。それだけで十分な犯罪の抑止力になると考えております」 松野さんは先ほどよりも更に深く頭を下げた。 「わかりました。お引き受けいたします。それと、大変僭越ながら……私の隣にいる、この助手の森村を同行させても構わないでしょうか」 先生は前傾姿勢になり、ひざに両手を置いて、申し訳なさそうな感じで松野さんに尋ねた。先生はちゃんと僕のことを忘れないでいてくれたようだ。僕は心の中で小躍りした。 「勿論結構でございます。では早速ですが前金のご相談なのですが……」 松野さんがアタッシュケースを開けようと身体をひねると、先生は慌てて言った。 「ああ、私は前金を頂かない主義でして……」 そうなのだ。たいていの探偵事務所では前金を取るものだ。だが先生はそれを取らない。前にその理由も聞いた事がある。すると先生は照れ臭そう表情を浮かべながら、だって失敗したら依頼主に申し訳ないでしょ、と言っていた。 そして先生はこれまで、大小問わずほぼすべての依頼を成功させてきた。僕はそんな先生を心から尊敬していた。 「では、無事に犯人を見つけ出していただければ、前金の分もまとめてお支払させていただきます」 松野さんはまたも頭を下げた。 「パーティーは三日後でございます。三日後の五月二十六日、午後三時、私がこちらへお二人をお迎えに伺います。正装をしてお待ちいただければ幸いでございます」 「分かりました。お待ちしています」 松野さんはその場に立ち上がると、深々とおじぎをした。先生もすぐに立ち上がり、松野さんに負けないくらいのおじぎを返した。その様子をただ眺めていた僕は、慌てて立ち上がり同じく頭を下げた。 松野さんは最後に、ドアが閉まる直前にもう一度だけ軽い会釈をした。そして事務所は再び沈黙に包まれた。 僕は三日後のことを考えると、自然と胸の鼓動が激しくなるのを感じていた。僕はただじっと、テーブルの上の脅迫状を見つめ続けていた。
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