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作品名:童貞紳士の事件簿 作者:木城康文

第1回   プロローグ
 昼間でも薄暗い雑居ビルの狭い階段を、僕は小走りに上がっていく。そのビルの二階「秋山探偵事務所」。
 僕が大学を卒業してからすぐ先生の助手としてこの職場に入って、気づけばもう三年になる。
「先生、買って来ましたよ」
 僕は事務所のドアを開けると、自前のエコバックを応接間のテーブルの上に置いた。その中から、先ほど買ってきた缶入りミックスジュースを次々と取り出す。
 部屋の奥で椅子に座りながらぼんやりと外を眺めていた先生は、僕に気づくと椅子をくるりと回転させ、こちらへ向かってくる。
「やあ、ありがとう。余った分は冷蔵庫に入れて置いてね」
 先生はそう言ってテーブルの上の缶をひとつ持ち上げると、プルを開ける。そのまま勢いよくミックスジュースを口の中に流し込んだ。
 先生はこのミックスジュースが大のお気に入りだった。前にその理由を聞いた事がある。先生いわく、たくさんの栄養素を一度に摂取する事が出来て効率がいい、とのことだった。そこで僕は、頭にわいたひとつの疑問を、何の気なしに先生に投げかけてみた。野菜ジュースじゃ駄目なんですか、と。
 すると先生は驚くほどわかりやすく慌てふためき、野菜ジュースでは自分に不足している栄養素を補う事は出来ない、という意味の言葉をしどろもどろになりながら搾り出していた。
 このとき僕は悟った。先生はただ単にこのジュースの味が好きなのだと。
 先生にとっては、大の大人がミックスジュースが好きだということは恥ずかしい事なのだろう。先生はそういう人なのだ。自分の弱みを、もっともらしい理由をつけて隠そうとする。
 こんな先生が美しい女性を相手にしようものなら、とても救いようのないことになってしまう。



 あれは忘れもしない三年前、僕が助手になって一ヶ月ほどが経ったある日の事だった。夫の浮気調査を頼みに、一人の女性が事務所を訪れた時の話だ。
 その女性は、大和撫子を絵に描いたような美しい人だった。歳は四十前後だっただろう。女性らしい柔和な顔立ちの中にも、凛とした気品を感じさせる。年相応の気取らない正装が、一段とこの女性の美しさを際立たせていた。
 この女性に何の興味も示さない男はゲイぐらいのものだろう。それは先生も勿論例外ではなかった。
「そ、それではまず二、三お伺いしたいのですが……」
 その女性に話し掛けた先生の声は、明らかにいつもより上ずっていた。先生の隣で、供述を一言も漏らさないようにメモしなければと緊張していた僕は、思わず驚いて先生を見た。
 先生の額は、冷や汗が天井の照明に照らされてキラキラと輝いていた。
 その後も先生は、テーブルに並べられている資料にばかり視線を落とし、上ずった声のままその女性と会話を続けた。一時間ほどで必要な情報を大体聞き終えると、その女性は深々と頭を下げ事務所を後にした。
 恐らくあの女性は、先生はもともとこんな変な声の人なのだと思った事だろう。あまりに突然の先生の変貌っぷりに、僕はその回答を求める視線を先生に送り続けた。すると先生は僕の視線に気づき、汗だくの顔でこう言った。
 あの女性の美しさが眩し過ぎて、まともに目も合わせられなかったよ、と。そして爽やかに笑う。その言葉の調子には、明らかな狼狽の色が見えた。
 嘘だ。この人は女性が苦手なのだ。
 この頃はまだ僕も、先生がどういう人なのか、よくわかっていなかった。それが僕の口を滑らせてしまった。
「先生、もしかして童貞じゃないんですか?」
 僕はニヤニヤしながら、からかうような口調で言った。ほんの冗談のつもりだった。先生ならはははっと笑って、馬鹿な事を言うんじゃないよ、とでも返してくるんだろうなと思っていた。だがその予想は大きく外れた。
 先生は勢いよくその場に立ち上がり、烈火のごとく怒り出したのだ。この年になって童貞のはずがないだろ、とか、二度とそんな馬鹿な事を口にするな、とか。
 先生は普段怒り慣れていなかったのだろう。一言何かを言うたびに「その」とか「あれ」といった指示代名詞が枕詞のように入り込んできた。
 この人は童貞だ。僕はこの時そう確信した。その頬を紅く染めていた原因は、怒りではなく羞恥だったのだろう。
 だが僕は意外だった。先生はいかにも女性にモテそうだったからだ。
 髪型は清潔感のあるオールバック。きりりとした眉に切れ長の目。すっと通った高い鼻筋。厚すぎず薄すぎず、形のいい唇。堀が深くて男らしい輪郭。
 時代が違えば、銀幕のスターにでもなっていたのではないかと思うほど、ハンサムという言葉が似合う顔だった。
 声だってバリトンの声楽家のように低くて安定感がある。身長だって日本の成人男性の平均よりずっと高いし、身体も逞しくて頼りがいがある。年は三十四歳。名前を「秋山公平」といった。
 性格だってまさに名前の通りで、どんな立場の人に対しても分け隔てなく優しい。それに先生は、滅多なことでは腹を立てない。先生が本気で怒ったところは、僕が助手になってからはあの「童貞発覚事件」以来見たことがなかった。

 童貞紳士――――

 僕はあの一件以来、先生に心の中でこういうあだ名を付けた。勿論親しみを込めてだ。僕はそんな先生の人間臭いところが好きだった。


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