冷たい洞窟の土の上に
犬の吼える声が聞こえてきた。崖の上から誰かが私を呼んでいる。どうしてこんなに早く警察が動いたのだろう。早く逃げなければ。気持ちは焦る。だが、体が動かない。刺された右のわき腹からは、まだ血が流れ出ている。傷口を押さえながら、何とか上体を起こした。目の前に、イチヤク草によく似た植物が生えていた。葉を揉んで傷口に当てる。心なしか、痛みが和らいだ。近くに身を隠す場所があればいいのに。そう思いながら周囲を見渡した。すると、左前方の崖の壁に、大きな洞窟があった。 四つん這いになって進んだ。血はまだ止まらない。体を動かすたびに滴り落ちる。獣に襲われるのと、警察に捕まるのと、どちらが先だろう。そんなことを思いながら、洞窟の入り口に辿りついた時、雨粒が背中に当たった。洞窟の奥深く潜りこんだ頃には、雨は大降りになっていた。 洞窟は大きくて、ひんやりと涼しかった。土は乾いていて、冷たかった。その上に、ゆっくりと火照った体を横たえた。炎天を浴びて倒れていた体が急速に冷やされていく。わき腹に手を当てると、出血は止まっていた。傷はたいしたことはないらしい。おそらく内臓も動脈も傷つけてはいない。私はまだ死にそうになかった。助かろうという気持ちはないはずなのに、気がつくと助かろうとしている。私はあとどのくらい、ここで生きるのだろう。 雨は私の血のあとを洗い流していく。洞窟の入り口を水煙のカーテンが閉ざす。雨はまるで私を護ってくれているようだ。孤独で穏やかな時間と空間。まだ私にこんな時間が残されていたなんて。生きていることがこんなに楽だなんて。 そうか。私はあの場所で死にたくなかったのだ。私が殺したあの2人のそばで。だから逃げ出したのだ。この毒を飲まずに。私はパンツのポケットに手を入れると、小さな水鉄砲を取り出した。まだ中味は半分残っている。もし、ここに警察が来たら、その時に飲もう。それまで、もう少しだけ、ここで生きていたい。あいつらが死んでから、初めての眠りに落ちたい。私は手を伸ばせばすぐに取れるように、水鉄砲をそばの岩陰に置いた。 どのくらい、眠っていたのだろう。気がついたら、目の前に大勢の男たちがいた。 「木下鈴子さんですね。わかりますか。警察です。」 「来ないで。」 私は拒否したが、相手はお構いなしだ。石の陰に手を伸ばす間もなく、私の体は洞窟の外に運び出された。雨はやんでいた。私はヘリコプターで吊り上げられ、救急車に乗せられた。これから私の体は病院に運ばれて、治されるのだろう。 私は自分の気持ちを、あの洞窟に置いてきたままなのに。 2014年8月7日、午後1時半。愛知県設楽郡杉谷村にある、『杉谷 憩いの家』で、事件は起きた。木下鈴子を乗せた救急車は、深い森の中を、サイレンを鳴らして走り去った。 木下鈴子は30歳、2年前に結婚したが、夫は1年前に交通事故で死亡している。 彼女はストーカーから逃れるために、3週間前から、ここで住み込みのアルバイトとして働いていた。この憩いの家は、取り壊しが決まっていて、その荷物の運び出しやゴミの分類が、彼女の仕事だった。木下は建物の裏手にある、50メートル程の高さの崖から転落したが、崖の中腹に生えている木の枝がクッションとなって、全身打撲は軽症だった。 『杉谷 憩いの家』の周辺には、黄色い立ち入り禁止のテープが張られ、大勢の警官が動き回っていた。やがて建物の中から、青いビニールシートに包まれた2遺体が運び出された。 死亡していたのは、広瀬智雄、弁護士、35歳、独身。即効性のある毒物による中毒死だった。広瀬はリビングの床に、ナイフを握って倒れていた。そのナイフには、木下の血がついていた。広瀬は鞄の中に夥しい量のCDを持っていた。そのCDの内容はすべて、木下宅を盗聴したものだった。広瀬は木下の亡くなった夫の友人で、夫の生前、何度か木下宅を訪れたことがあった。 もう1人の死者は安藤京子、警察官、ストーカー対策相談室長、40歳、独身。彼女もまた、即効性のある毒物による中毒死だった。彼女は『憩いの家』のリビングのテーブルの上に突っ伏して亡くなっていた。 テーブルの上にあるのは、2つの飲みかけの缶コーヒーと、野の花を挿した小さなガラスの花瓶。それだけだった。 事件通報の第一報は、警察官によるものだった。安藤京子の部下である、加藤修二、25歳。彼は上司である安藤が異常な言動を繰り返していたため、安藤をつけてこの『憩いの家』の駐車場に来ていた。そして、中に踏み込むのを躊躇していたところ、木下鈴子が右わき腹から血を流しながら駆け出して、あっという間に建物の裏手にある崖から落ちていくところを目撃した。 この人里離れた現場にいた人間は、この4人だけだった。
広瀬と安藤を死に至らしめた毒は、トリカブトから抽出されたものだった。だが、彼らがどうやって毒を飲んだのかがわからなかった。2人が飲んでいた缶コーヒーには、毒は入っていなかった。また、憩の家のどこからも、毒は発見されなかった。 木下には2人を殺す動機があり、彼女だけが服毒していないところを見ると、おそらく、木下がトリカブトから毒を抽出し、2人に飲ませたと思われた。だが、物証が全くない。何しろ取り壊し寸前の建物なので、大厨房の器具類は1週間前に運び出され、処分されてしまっている。捜索しようにも、捜索する場所がない、という現場だった。木下が寝泊りしている2階の部屋からも、何も発見されなかった。 また、この現場に安藤が居たということが、事件を複雑にしていた。 1年前、木下は警察に広瀬からのストーカー被害を訴えた。その訴えを受理したのが安藤だった。安藤は広瀬を呼び出して彼の話を聞いた。広瀬は、すべては木下の誤解だと言い張った。そして自分の社会的立場上、木下にストーカーと誤解されたままではまずい、何とか仲介して欲しいと、安藤に頼み込んだ。安藤は広瀬の言い分を信じて、木下に被害届を取り下げるように迫った。 だが、木下は安藤の言うことをきかなかった。そして3週間前に、いなくなった。 広瀬は逆上し、必死になって木下を探した。「あの女、弁護士と警察を敵に回して勝てると思っているのか。今に見ていろ。」安藤も同様だった。「木下の奴。ストーカー被害なんて狂言のくせに、広瀬が怖いから転居したという既成事まで作りやがって。このままでは、私の点数が下がってしまう。どうしてくれるのよ。」 安藤が木下の所在を突き止めるのに、さほど時間はかからなかった。そして安藤は、8月7日、午後1時、広瀬と申し合わせて、『憩いの家』を訪れた。木下が刺されたのは、その30分後だった。広瀬と安藤が中毒死したのも、同じ頃だった。 この30分間に何が起きたのか、それを知っているのは、木下だけだった。
「30分の間に何が起きたか、ですって。」 ベッドの上で、私は警察の取り調べを受けることになった。強行犯の刑事が2人と、安藤の部下だった加藤。この3人がベッド脇に立っていた。 「はっきりと覚えているわ、ものすごいショックでしたから。だって、私は広瀬から逃げて、あそこにいたんです。なのに、安藤さんと広瀬が一緒に来たんです。息が止まりそうでした。絶望を感じました。」 3人は黙って聞いていた。 「広瀬のストーカー行為は、夫の生前からありました。そして夫が亡くなると、広瀬の行為は一気にエスカレートしました。私は夫の死を悲しむ暇もなく、逃げ回らなくてはなりませんでした。それなのに、どう訴えても、安藤さんは、私が広瀬からストーカー被害を受けていることを信じてくれませんでした。それどころか、私の情報をどんどん広瀬に流してしまう。見てください。」 そう言うと、私はパジャマの袖をめくった。 手首から肩まで点々と、そこかしこに瘡蓋が残っている。 「いつも広瀬は私を捕まえると、ポケットからナイフを取り出して、私の腕にナイフで直線を引くの。薄くゆっくり切っていくの。血がにじむのを見て、広瀬は笑うの。私が恐怖にすくんでいるのを見て、楽しんでいた。でも、安藤さんに言わせると、これは私の自傷行為で、すべては私の狂言だということになってしまう。」 3人はまだ黙っている。 「私の行動のすべてを広瀬は把握していた。私が行動パターンを変えても、すぐにつき止めて、私の前に立ちはだかって、笑っていた。広瀬は、私が人形でなければ気がすまなかったの。私が意思を持って、行動することが許せなかった。あいつの思い通りにならない私に、広瀬はいつも男の力を見せつけていたの。そして安藤さんも、私に警察の力を見せつけてくれたわ。」 「あのう、30分間について、話してください。」 刑事の一人が私の話を遮って言った。 「わかりました。私は2階の客室の片付けをしていました。すると、1階のドアが開く音がしたんです。私は階段の手すりの隙間から、下を覗きました。あの2人の姿を見たときは、足がすくんだわ。いつものように、私はがたがたと震えていました。こんな気持ち、あなたたちには、わからないでしょうね。2人はしばらく私の名を呼んでいましたが、私は返事をしませんでした。2人はリビングの椅子に腰掛けて、手に持っていた缶コーヒーを飲み始めました。私には逃げ場がありませんでした。外に出るためには、どうしてもリビングを通らないといけないんです。仕方がないので、私は階段を下りて、あの2人のところに行きました。私は挨拶などしませんでした。口をきくつもりもありませんでした。私が外に出ようとすると、広瀬はいきなりナイフを取り出して、私に向かってきました。そして彼は私のわき腹を刺したんです。ものすごい痛みでした。そして、とても怖かった。私は外に飛び出しました。」 「その時、安藤さんは、どうしていましたか。」 加藤が尋ねてきた。 「わかりません。広瀬の体が目の前にあったから、安藤さんの姿は見えませんでした。もしかしたら、コーヒーを飲んでいたのかも。」 加藤は黙った。 「そして、私が外に飛び出してから、あの広間で何が起きたのかも、私にはわかりません。」 3人からは、何の反論もなかった。
2週間前、麓の町に買出しに出かけ、憩いの家に戻る途中のことだった。前方から見覚えのある車が走ってきた。広瀬の車だった。アクセルを踏む足が震えた。涙があふれて、止まらなかった。運転席の私の顔をじっくりと覗き込みながら、広瀬の車が通り過ぎて行った。突き止めたぞ。今日はここまでだ。またな。広瀬の顔にそう書いてあった。 次の日、朝早く山を歩き回って、トリカブトの群生を見つけた。根っこを掘って、鍋で煮詰め、濃縮エキスを作った。それを高性能の水鉄砲に詰めた。一週間後、エキスを作った厨房も、鍋も、廃品として回収された。 私は水鉄砲をいつも肌身離さず持ち歩いた。夫と一緒にいるようで、心強かった。この水鉄砲は、夫の形見なのだ。 忘れもしない。私がお風呂から先に上がろうとした時だった。戸を開けようとしたら、何かがうなじに当たった。背筋にも何かが伝った。びっくりして私が振り向くと、浴槽の中から、夫が水鉄砲を手にして、私を狙っていた。水は私の口を塞ぎ、眼を覆った。次々に狙い撃ちされて、崩れ落ちそうになった私を、夫が抱き止めた。 広瀬はそれを知っていた。私の腕にナイフを引きながら、「今度、水鉄砲を持って来い。」と、囁いた。それから大声で笑った。 この水鉄砲は渡さない。広瀬にも、警察にも。 夫に支えられて、私は強くなっていた。広瀬と安藤は必ずここに来る。覚悟はできていた。だからあの日、リビングに2人が居るのを見ても、落ち着いていられた。 私はゆっくりと階段を下りると、まず、安藤に近づいた。そして、こう言った。 「わかったわ。ストーカー被害届は取り下げます。」 安藤は一瞬、びっくりしていたが、すぐにこう言った。 「そうよね。あなたも、もうばかげたお芝居はやめにすることね。」 そしてケラケラと笑い出した。その口の中に、私は冷静に水鉄砲を突っ込んで、引き金を引いた。安藤はすぐに苦しみ始めた。 「お前、何をする!」 振り向いた広瀬はナイフを握っていた。私は彼に近づき、彼の口にも水鉄砲を突っ込んで、引き金を引いた。ナイフが私のわき腹に突き刺さった。だが、その切っ先に力が入る前に、広瀬は事切れた。私は外に飛び出した。そして、崖から飛び降りた。
取調べが終わり、ベッドの上で、私は静かに目を閉じた。退院したら、私はもう1度、あの崖から飛び降りるつもりだ。そして、水鉄砲のところに行く。あそこで私は今度こそ、誰にも遮られずに眠りに落ちるのだ。あの冷たい洞窟の、土の上の、安らぎの中で。
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