処方箋2 足りない老後の資金の特効薬 私は錆びの浮かんだ外階段を駆け上がった。古いアパート、明風荘の廊下の突き当たりにあるのが、私の新しい棲家だ。ドアを開けて、私は部屋に飛び込んだ。 「やった。ついに買ったわ。」 私は手提げ袋から包みを取り出した。 「白いニットのミニワンピース、派手な下着、それから、ハーゲンダッツのアイスケーキ。」 私はアイスケーキを冷凍庫にしまうと、身に着けていたものを全部、脱ぎ捨てた。 フリルとレースいっぱいの真っ赤な下着を着けて、白いニットを頭から被った。 「欲しかったの。1度でいいから、着てみたかった。」 鏡に映ったニットの縄編みの美しさに、私はうっとりした。 「きれいだわ。」 それから鏡に向かってつぶやいた。 「不思議ね。若い頃にはミニワンピースには、全く関心がなかったのに。年を取ってから憧れるなんて。死ぬ前に1度、着てみたくなるなんて。」 死ぬ前に、やりたいことを、全部やってやる。 鏡に向かって、もう1度、決意を新たにした時だった。 ドアをノックする音が聞こえてきた。 「はあい。」 私は大急ぎでニットを脱ぎ捨てると、いつもの灰色のジャージーに着替えた。 ドアを開けると、隣の山田さんの奥さんが、回覧板を持って立っていた。彼女はじろじろと私の全身を眺め回すと、 「こんにちは、木下さんの奥さん。」 と、明るく呼びかけてきた。 「こんにちは」 私がうなずくと、彼女はとたんに態度を一変させて、こう言った。 「あら、ごめんなさい、私ったら、ついうっかり、奥さんだなんて呼んでしまって。あなた、奥さんじゃなかったわよね。一人暮らしよね、確か。」 「はい。」 私は答えた。そら、来たぞ、と思いながら。 「あなた、離婚したのよね。」 「ええ、1か月前に。」 「だったら、もう、奥さんじゃ、ないわよね。」 「ええ。」 「それなのに、奥さんと呼ばれて返事をするなんて」 「すみません。つい、うっかり」 私は投げやりに答えた。私は早くこの会話を終わらせたかったし、相手に突っ込みどころを与えたくなかったのだ。山田さんは、そんな私の態度に明らかに腹を立てていた。 「これ、回覧板。あなた、ゴミの出し方、気を付けてね。」 そう言って、乱暴に回覧板を差し出すと、すたすたと戻っていった。 「やれやれ。」 私はため息をつきながらドアを閉めた。 「さて、お楽しみはこれからだわ。」 冷凍庫の中で、アイスケーキが待っている。♪ 私が冷凍庫を開けた時だった。 今度は電話が鳴った。私は受話器を取った。 「はい。木下です。」 「オレ、オレだよ、オレ。」 若い男の声が聞こえてきた。 「和郎。その声は、和郎ね。元気なのね。」 私が言うと、 「危ないなあ、すぐに俺の名前を呼ぶなよ。」 和郎が言った。 「だって、オレオレ詐欺なら、もっと、悲痛な声を出さないと。交通事故にあっているんだから。」 そう言いながら、私は思った。和郎があったのは交通事故ならぬ就職事故だった。内定の出た会社に就職してわずか1か月で肩たたきにあったのだ。役に立たない素人だから、というのがその理由だった。そして、就職の道が閉ざされてしまった。卒業見込みの新人でもなく、3年以上のキャリアもない。現在は遠方の老人ホームで働きながら、再就職のチャンスを狙っている。 「いや、別に用事はないけれど、母さんがどうしているかな、と、心配になってさ。」 「ありがとう。」 「オレ、何も母さんの力になれなくてさ」 「なっているわよ、ちゃんと。あんたは私の自慢の息子なのだから。」 「いや。俺、相変わらずだし。」 「大丈夫よ。私はあなたを信じているわ。そのうち氷河も溶けるわよ。だって、地球は今、温暖化なのだから。」 「ははは、」 「じゃあね。」 「ああ。また。」 私は受話器を置いた。頑張れよ、和郎。心の中で一人息子にエールを送った。氷河期だろうが、それにかこつけた弱い者いじめだろうが、笑い飛ばして生きるんだ。 それから再び冷蔵庫に近づいた。 すると、また、ドアをノックする音が聞こえてきた。 私はため息をついた。それからドアを開けた。 外に立っていたのは、小学生の男の子だった。 「あら、あなたは確か、山田さんの隣の、伊藤さんの息子さん、北斗君だったわね。」 男の子はうなずくと、こう尋ねてきた。 「ねえ、おばちゃん、どうして離婚したの。」 敵はそう来たか、と、思いながら、私はこう答えた。 「それはね、」 「うん」 「おばさんがね、怖い怖い魔女だからよ。」 両手を広げて、口を大きく開けて、さらにこう言った。 「食べちゃうぞ」 すると、子供はキャーと笑いながら走り出した。 「はい、さようなら」 私はドアを閉めた。 北斗君の後ろ姿に、和郎の幼い日がだぶった。 私は和郎に深い負い目を持っていた。私の結婚と離婚の一番の被害者は和郎なのだから。 「ごめん。」 と、私はつぶやいた。 おばさんジャージーを脱ぎ捨てて、再びニットのワンピースを着ながら、私は苦い結婚生活を思い出していた。
私の夫は勤務医だった。一般家庭に生まれた彼は、苦学して自力で医者になったことが誇りだった。彼は大学の3年先輩で、私は大学祭で彼に出会った。 「俺はきっと一生、貧乏な勤務医だろうな。開業するには、資金がかかるからさ。でも、それでもいいんだ。俺は俺の腕で、病気で苦しんでいる人を救いたい。それが俺の夢だ。」 そう熱く語る彼に、私は一目惚れした。そして彼が医者になった年に結婚してしまった。 1年後に和郎が生まれた。彼がようやく一人歩きをするようになった頃だった。突然、舅と姑がやってきた。 「いい出物があったから、土地を買ったわ」 いきなり姑が言った。 「これで息子も開業できる」 舅が言った。 「だから、あなたは実家へ行って、仁の病院を建てるためのお金をもらってきてちょうだい。」 仁とは夫の名前だ。私は言葉を失った。 夫を開業医にしたい、というのは、舅たちの悲願だった。だから、嫁はどこかの開業医の娘か、せめて看護婦が欲しい、というのが彼らの望みだった。なのに、私は彼らの夢を打ち砕く存在だった。私は国文科を卒業して、ただ本が好きだからという理由で、図書館司書をしていた。そんな経歴の嫁など、彼らは欲しくなかったのだ。 せめて実家から開業資金を持って来い、というセリフは今までに何度も彼らから聞いていた。が、私はそのたびに受け流して相手にしなかった。私の実家にそんな金はない。私の父は一般サラリーマンで、母は専業主婦だった。 だが、彼らは納得しなかった。 「あの子を育てるのに、私たちがどれだけ苦労したと思っているの。自分だけ医者の嫁になって、甘い汁だけを吸うつもりなの。」 姑が言った。 「家族じゃないか。あいつが開業医になる夢を、みんなで力を合わせて実現させようとは思わないのか。」 舅が言った。 そんな言い争いを繰り返すうちに、彼らとの関係は悪化の一途をたどった。スープの冷めない距離に住んでいながら、次第に疎遠になっていた。 だが、今回は、もう彼らは引き下がらなかった。それに、今までどっちつかずを決め込んでいた夫が、彼らの側に回っていた。夫は自分の両親とともに、ローンを組んで、すでに土地を買ってしまっていた。 「もう、後戻りはできないの。病院を建てればすぐにローンは返せるわ。でも、建てられなかったら、返せないわ。あなたの実家の協力がなければ、私たちは破産するしかないわ。」 そう言って、姑が泣き伏した。 「お前の実家だって、娘と孫がかわいかったら、資金を出すはずだ。もう、他に方法はないんだ。お前の親の老後の資金を持って来い。それくらい、医者の嫁なら、して当然のことだろう。」 舅がわめいた。 私は夫をなじった。 「事前に何も相談しないで、土地を買うなんて、ひどいじゃないの。」 すると夫はこう言った。 「相談したら、反対するじゃないか」 「だって、実家からお金を持ってこい、と言うんですもの。」 「いいじゃないか、他人じゃないんだから。」 「よくないわ。こんな有無を言わせないやり方、ひどすぎるわ。あなた、勤務医でもいいと言っていたじゃないの。医者になることが夢だから、と。」 「いつまでも夢を見てはいられないよ。」 と、冷たい口調で夫が言った。 「それに、勤務医は激務でつらいんだ。俺のことも少しは考えてくれ。お前は自分のことと、自分の実家のことしか考えていないじゃないか。俺の親のように、少しは俺に愛情を示してくれ。俺の親だって、老後の資金を俺に注ぎ込んでくれたんだ。お前の親だって、そうしてくれたって、いいだろう。おまえと息子のためにもなるんだから。」 彼の両親は私の実家に何度も出向いた。怒ったり、詰め寄ったり、土下座したりして、お金を出して欲しいと頼んだという。とうとう、私の実家は、工面した500万円を差し出した。それでも姑はこう言った。 「桁が違うわよ。」 私は彼の実家と決裂した。自分の実家との折り合いも悪くなった。夫との関係も険悪になった。 結局、夫と彼の両親が、さらに借金を重ねてなんとか個人医院を立てたものの、収入のほとんどはローンの返済に消えてしまったらしい。らしい、というのは、その頃にはもう、夫は私に稼ぎを渡さなくなっていたし、病院の経営について、私は蚊帳の外に置かれてしまっていたのだ。 「何の努力もしないで、院長婦人におさまるなんて、許さない」 と、姑が言った。 私はパートや内職で稼いだが、そのお金も夫は度々勝手に持ち出した。 「ローンが苦しいんだ。ローンが苦しいんだ。」 夫はそれしか言わなくなった。 「お前なんか、家族じゃない。」 そう言われたこともあった。 息子が物心つく頃には、私たちの夫婦関係はとっくに崩壊していた。 でも、離婚したくても、家を出たくても、そのお金すらなかった。明日子供にご飯を食べさせて、布団に寝かせ、学校に通わせるには、どんなにひどい扱いを受けても、あいつと暮らすしかなかった。 私は子供に、精神的なくつろぎも、幸せも、与えることができなかった。物だって、満足に買ってやれなかった。その痛みはおそらく、ずっと消えることはないだろう。それでも、自慢の息子に育ってくれた。そんな息子には、手を合わせて拝むしかない。 私は本当に手を合わせて、拝んだ。 「どうか、彼が幸せでありますように。」 それからやっと冷凍庫からアイスケーキを取り出すと、コーヒーテーブルに運んだ。 「いただきあす。」 そう言って口いっぱいにケーキをほおばった時だった。 目の前に、あいつが座っていた。 「それ、若い子向きの服よね。」 私のニットのワンピースを見ながら、あいつが言った。 「いいでしょう。リサイクルショップで1080円だったの。」 「あなた、いくつよ。」 「私が55歳だということは、あなたも知っているでしょう。心配しないで。こんな恰好で外を歩くつもりはないわ。家の中で楽しむだけよ。まだちょっと早いけれどね。」 「同じことを言って、この間はこれを買ったのよね。」 そう言うと、あいつは小さなバッグがたくさんついたチャームを、私の目の前にぶらさげた。私はうなずいた。 「かわいいでしょう、それ」 「これも欲しくてたまらなかったのよね。」 「ええ。だって、私の若い頃には、こんなのなかったのよ。だ、か、ら。」 私はそう言って、チャームを手首にはめた。それから私はアイスケーキを切り分けると、一切れ、あいつの前に置いた。 「どうぞ。おいしいわよ。」 「わかっているわよ。」 あいつが言った。 「ねえ、ケーキくらい、ゆっくり楽しませてよ。このケーキだって、一生に1度でいいから、食べてみたいと思っていたの。だから買ったのよ、高かったけれど。」 「あなたには一生に1度がたくさんあるのね。」 「うん。」 「ねえ、あなた、老後のことも、少しは考えなさいよ。」 「考えても、どうしようもないのよ。」 私が言った。 「今からどうがんばったって、老後に必要なお金なんて、貯まらないもの。」 「だからと言って、やりたい放題の生活をしていたら、そのうち野垂れ死によ。」 あいつが言った。 「わかっているわよ。だから、あなたが出てきたのよね。だって、」 私はじっとあいつの目を見つめた。 「あなたは私にしか見えない私の分身。私の老後の不安。そうでしょう。」 それを聞いたあいつは、ゆっくりとうなずいた。 「老後のことは、明日考えるわ。だから、今日は、このケーキを楽しみましょう。だって、今日は私の誕生日なのよ。」 「そう、今日、55歳になったのよね。お、め、で、と、う。」 「ええ。ありがとう。」 そう言うと、私はアイスケーキの最後のかけらをほおばった。 「ねえ、見てごらんなさい、窓から月が見えるわ。もうすぐ満月なのね。」 「そうね。きれいね。」 これが私、木下葉子、10月21日、55歳の誕生日だった。
次の日、早朝のパチンコ店の清掃を終えてアパートに帰ると、私はベランダの野菜や花に水をやった。レタスや水菜、青ネギやほうれん草など、葉物野菜が元気に育っている。私は朝食用にベビーリーフをひとつまみ摘んだ。 炊き立てのご飯に、味噌汁、大根のビール漬けに卵焼き、それに摘みたて野菜のサラダ。 「うん、今日も飯が旨い」 貧乏人が旨いものを食べたかったら、自分で作るに限る。幸い、今はネットでどんなレシピも簡単に手に入れることができる。30円のナスでフルコースを作ったり、半額セールで買った肉で、燻製を作ったりする。今夜はベランダ菜園のほうれん草でグラタンを作るつもりだ。 こういう節約生活をしている時には、あいつは出てこない。 ところが、私が洗濯物を干し終えて、パソコンに向かい、世界一周格安周遊券を検索したとたん、 「明日考える、って言っていたわよね。」 ほら、出た。 「老後の生活設計のことを。」 あいつが言った。 「だって、やりたいことを我慢するだけの生活設計なんて、ありえないわ。」 私が言った。 「本当は、老後の不安でいっぱいなくせに。」 「ええ。でも、それだから、よ。」 私が言った。 「だからこそ、夢と希望が必要なのよ。絶望しかない人生なんて、耐えられない。」 私は語り続けた。 「もう55だけど、まだ55よ。求人は終わっている年齢だけど、老後はまだ始まっていない。年金はあてにならないし、子供は超氷河期で、私よりずっと大変な人生を歩んでいる。とても頼れないわ。自分の力で、とことん踏ん張るしかないの。だからこそ、沈んでなんかいられないのよ。夢と希望がなければ、前には進めないのよ。」 気がつくと、私は身振り手振りで熱弁をふるっていた。一人暮らしだから、いつでも感情を素直に発散することができる。もう私は主婦でも妻でも嫁でも母でもない。私は私なのだ。 「ねえ、私、いくつまで生きるの。いつまで健康で、自分の力で生きていけるの。」 「それはわからないわ。」 「ほらね、1番肝心なことがわからないのよ。それでどうやって、生涯設計をしろというのよ。」 あいつが黙った。 「私、我慢だけの老後だったら、いらない。太く短く生きたい。やりたいことをやって、楽しむだけ楽しんで、お金が無くなったら、自殺するわ。」 「また、行き当たりばったりなことを言い出す。人間、そんなに簡単に死ねないわよ。」 「でも、お金がなかったら、死にたくなるわね。」 私が言った。 「時給が1時間800円、その時給も、年をとればどんどん下がっていくの。普通の人間が子供を育て上げれば、老後の資金なんて、どんなに頑張っても貯められないのよ。」 「でも、あなたが自殺したら、残された和郎君はどう思うかしらね。」 「だから、もちろん、事故に見せかけて死ぬわよ。」 「死に損なったら、大変よ。下手に生き残ったら、息子にどれだけの迷惑をかけるか、わかっているの。」 「ああ、もう、ちゃんと死ぬのも大変だし。痛いのも苦しいのも嫌だし。楽して確実に死ねる方法ってないのかしら。」 「またそうやってすぐに楽な方向に逃げるんだから。」 あいつがそう言った時、パソコンの画面に横線が走った。 「パソコンの調子も悪いし。最近、こいつ、勝手な動作をすることがあるのよ。」 私がそう言った時だった。画面が奇妙に揺れたかと思ったら、画面いっぱいに青い森の風景が現れた。 「うわ、きれいな森。どこかしら、これ。」 私は画面に引き込まれた。どこまでも果てしなく続いているような、青い深い森だった。画面を通して、木漏れ日が部屋の中にまで降り注いで来るように思えた。私は自分がその森の中にいるような錯覚に陥った。見たこともないのに懐かしい、脳の奥深くを揺さぶられるような、森の光景だった。 不思議なホームページだった。第一、どこにもタイトルがない。画面のあちこちを食い入るように見ていたら、青い右隅に、青いガラスの瓶のようなアイコンがあった。私はそのアイコンをクリックした。すると、こんな文字が現れた。
幸せの青い毒薬、売ります。
甘酸っぱい初恋の味、飲むとすぐに老衰が始まり、自然死できます。 致死量200ml、1瓶2万円。おひとり様一回のみ。 若い方にはお売りできません。 死期の近い方、 年金の足りない方、 残りの人生を太く短く生きたい方限定ですが、 お売りするためには条件があります。 私の手伝いをしてほしいのです。詳しいことは後程。 まずは下記にメールをください。
Happy poison .com.
「これだわ」 私は叫んだ。 「初恋の味の毒薬で、老衰で確実に死ねて、しかも2万円。まさに私の老後の特効薬よ。やりたいことをして、お金がなくなったら、これを飲んで、初恋を思い出しながら眠るように旅立てるのよ。信じられない。」 「ほんと、信じられない。すっごく簡単に引っかかるのね。」 あいつが言った。 「そんなの、詐欺に決まっているわ。世の中、うまい話なんて、ないんだから。」 「でも詐欺だったら、もっと高額なんじゃないかしら。2万円だなんて、良心的な値段じゃない。だからこれ、きっと真面目な商売だわ。」 「真面目に毒薬なんて売りません。もしかしたら、ただの砂糖水を2万円で売りつけるつもりなのかもしれないわ。それに、毒薬を売る危険なサイトだったら、こんなに簡単にアクセスできるはずがないわ」 「そうかしら。」 と、私が言った。 「案外、厚生労働省のお墨付きサイトかもしれないわよ。金のない年寄が年金もらう前に死んでくれることを、1番望んでいるのは、あいつらだから。」 そう言うと、私は早速メールを書き始めた。
毒薬を売ってください。 私は55歳、人生は残り少なくはありませんが、 これから稼げるお金が残り少なくて困っています。 年金はもちろん、当てになりません。 もし、毒薬が手に入れば、 残りの人生とお金を有効に使うことができます。 どうか、よろしくお願いします。
木下葉子
ところが、ここまで書いて、ふと、怖くなった。 条件って何だろう。ホームページには書けないことに違いない。一体、何をさせられるのだろう。だんだん心配になってきた。そこで、
追伸 お手伝いって何でしょうか。どうか、私にできることでありますように。
と、書いた。 それでも送信をためらった。何だか、だんだん気分が重たくなってきた。 このホームページを作ったのは、誰だろう。 いい人なのか、悪い人なのか。 個人なのか、集団なのか。 迷いがどんどん沸いてきた。でも、もし、ここでメールを送らなかったら、私は毒薬を手に入れるチャンスを失うことになる。私の老後の特効薬、どんな年金より、保険より、価値のある毒薬。
よし。 私はメールを送信した。 気がつくと、もう、9時半を過ぎていた。 私は次のパート先のスーパーに、大急ぎで向かった。
自転車で10分走ったところにある、鯱スーパーがもう1つの私の仕事先だ。ここで私はレジ係をしている。 レジ係は単調でつまらない仕事だが、ノルマもなければ残業もない。それに、人呼んで「並ばずのお葉」とは、私のことだ。ドラゴンズやグランパスの優勝セールでも、歳末大売出しでも、私のレジで客が列を作ることはない。正確無比で迅速、丁寧で親切、片言ながら中国語やブラジル語を操り、外国人客を助け、お年寄りをサポートし、買い物客に笑顔を提供する、評判のお葉さんだ。 だが、上司が私を評価することはない。彼らが欲しいのは、若くてかわいい女の子だ。パートのおばさんは使い捨てなのだ。 客の数の減る午後1時になると、私はいったん家に帰る。そして、また午後5時から9時まで、ここで働くのだ。 「ああ、お腹が空いた。」 私は大急ぎでアパートに戻ると、食事を済ませ、洗濯物を片付け、掃除をする。それから昼寝をする。15分くらいだが、ぐっすりと眠ると、午後からの仕事を楽にこなすことができる。私はコタツに足を突っ込み、フリースの端切れを被った。この端切れは手芸用品屋のバーゲンセールで買ったもので、実に重宝している。軽くて薄くて暖かい。おかげでいつでもすぐに眠りにつくことができる。 目が覚めると、熱いコーヒーを入れる。私は低血圧で、寝起きにはコーヒーがかかせない。コーヒーを飲みながら、ベランダに咲いている小菊の花を楽しんだ。 「お金も手作りできたらなあ。種をまいて、自分で育てられたら、どんなにいいか。」 そうつぶやいたら、またあいつが出てきた。 「どうなった」 あいつがいきなり聞いてきた。 「何が」 「あなた、昨日、メールを送ったでしょう。あれの返事よ。」 「まさか。まだ、来ないわよ。」 「そうかしら。一応、確かめてみたら。」 私はパソコンを起動させた。メールボックスに行くと、なんと、返事が来ていた。 「嘘みたい。」 私はそうつぶやきながら、メールを開いた。
メールをありがとうございました。 私は田刀渡亜奈といいます。1987年生まれです。 あなたにこの毒薬をお売りしたいと思います。 つきましては10月23日、午後1時、長野県の白峰岳の麓にある、 若杉村のバス停まで来てください。 お待ちしています。
「おっと、呼び出しかい。怪しいわね。」 あいつが言った。 「でも、村よ。きっとのどかなところよ。」 私が言うと、 「村がのどかだなんて、都会人の幻想よ。人間の本質なんて、そんなに変わるものじゃないわ。それに、日本経済の悪化の波が直撃しているのは都会よりも地方なのよ。もしかしたら、村全体がカルト化しているかもしれないわよ。だとしたら、自分ひとりが気をつけていても、どうにもならないわね。」 「うう。」 私は唸った。だが、毒薬が手に入るかもしれないこのチャンスを逃したくない、という思いは変わらなかった。 「ところで亜奈さんって、1987年生まれなのね。ということは、25歳か。」 あいつが言った。それを聞きながら、ふと、どうして亜奈さんは年齢を書かないのだろうと、思った。 「ねえ、この約束の時間より前に、ここに行ってみたらどうかしら。いわば偵察ね。特効薬の副作用について、調べておくことも必要なんじゃないかしら。それでやばかったら、会わずに帰ってくればいいし、信用できそうだったら、その時は会ってみればいいんじゃないかしら。」 と、あいつが言った。 「それはいい考えだわ。都合のいいことに、ちょうど明日から1週間、私の仕事は2つとも休みになるの。スーパーもパチンコ屋も、改装工事に入るから。」 「ほんと、都合のいい話ね。」 「よし。早速、ネットで高速バスとビジネスホテルを予約しよう。」 私は予約を済ませると、今度は地図で若杉村を検索した。北アルプスにある白鳳岳の麓に、若杉神社の文字があった。 「ここかしら」 ふと気がついて、パソコンの画面下の時間を見ると、4時45分だった。 「大変。もう時間だわ。また、仕事に行かなくちゃ」 私は大慌てでアパートを飛び出した。
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