『私と、何回エッチしたか覚えてる?』 釜田香織が、目の前に並んだジャンクフードを見詰めて唐突に呟いたので、僕は飲み掛けのコーラを吹き出しそうになって必死にそれを堪えた。 『えっ?あっ?…あ、当たり前だろ?でも、今更なんで?』 予期せぬ問いに狼狽しながらも、なんとか言葉を繋いだ。 『ん?何となく』 言って、いつもの様にフライドポテトを紙ナプキンの上に大きい順に並べる香織。 『何となくって…何だよ…』 僕はその並べられたポテトの、小さな方を摘まんで途方にくれながら訊いた。 『だって私達、不思議な関係でしょ?』 僕とは逆の大きい方のポテトを取り。指揮棒よろしくそのポテトで、僕を指しながら香織が言った。 確かに、僕と香織は不思議な関係なのかも知れない。 二年前。僕と香織には恋人が居た。 僕達は互いに、恋人の友人を好きに成ったのだ。 否、香織の気持ちは訊いた事が無いので本当の所は分からないが少なくとも僕は本気で香織が好きだった。 それでも、何故か僕達は相手が恋人と別れてしまえば良い。などとは思わなかった。 否、これも香織に確かめた訳では無いので僕だけの想いだったのかも知れない。 しかし、香織が僕に恋人との別れを迫らなかった事実が僕と同じ様に考えていた事の証明には成らないだろうか? ともかく僕達は互いが相手の築く関係性を壊してまで一緒に居たいと云う自分の欲望を充たしたいとは思わなかった。 否、思う必要が無かったのかも知れない。 密会するまでも無く恋人の親友同志である僕達は殆んど同じ場所に居る事が出来たのだから。 『中里が、杏と別れたの何でだったっけ?』 『香織こそ、三橋と別れた理由。俺は聞いてないぞ』 香織が執拗にボディーブローのような言葉を浴びせるので嫌味のつもりで僕は訊いた。 このまま香織の言葉を浴び続ければ僕の精神には萎縮した痼がガン細胞の様に蔓延り、数日後、数週間後には悪夢をみるに違いない。 『中里が、好きだったからだよ』 あっけらかんと、答えた香織の顔を僕は暫く見詰める事が出来なかった。 『違うだろ?三橋の浪費癖に愛想を尽かした。だろ?』 僕は意を決して、ポテトをコーラで流し込み訊いた。 『中里は杏の浮気癖に堪えられなく成った。自分も浮気してた癖にね。しかも、恋人の親友と…』 片目を瞑りウィンクする香織。 本当に意味不明だ。 『それは香織も同じだろ?』 『私は…本気だったよ。』 僕は半ば自棄になって訊いたが、香織は全く動じていないようだ。 『なっ…何だよ。今日は、やけに絡むよな?…ってか、何で今更こんな話?』 『私、新しい彼が出来たの』 言って、飲み物に手を伸ばした香織の唇が艶やかな光を帯びている事に気付いて僕は急に香織が大人びて見えた。 僕と香織の関係に、契約や束縛は無い。 しかし、それと同時に形も無い。 僕も香織も、恋人と別れてからも、互いを恋人として扱った事はない。 僕達は、自由だ。 気が向けば連絡を取り合い。こうして食事をしたり、映画やショッピングに出掛けたりする。 しかし、体は重ねない。 香織を抱いたのは、僕が杏と別れた日と、香織が三橋と別れた日の二回だけだ。 『…そっか…おめでとう…だよな、とりあえず…』 馬鹿げた言葉だが、他には出て来なかった。 『そう、おめでたいの。』 香織が微笑む。 『おめでたいのか…?』 僕はカラカラに成った喉から声を絞り出す。 『違う?』 真っ直ぐに見詰める香織の視線を受け止められない。 『違わないよ』 僕は単細胞の男丸出しで、不安から来る怒りに、身を任せて呟いた。 『怒った?』 僕の変化を楽しむように香織が囁く。 『別に、怒ってはいないさ』 僕はショーウィンドの前で駄々を捏ねる子供の様に言い捨てた。 『怒らないの?』 まるで子供の母親のように香織が訊く。 『意味分からないよ』 僕の思考回路はショート寸前で煙を噴いている。 『分からないの?』 『だから…どうしたの?今日の香織は変だよ。』 僕は、すがる様に香織を見た。 『私達、ちゃんと付き合った事無いよね。』 香織は僕の視線を真っ直ぐに受け止めている。 『だって、そんな事…香織は望んだりしないだろ?』 『中里は、どう思う?』 『香織は…俺と…どうしたいのよ?』 『さぁ、良く分からないな。でも、考えたら私達…変だよね。絶対変だよ』 『だから何が言いたいの?』 最早、僕に言葉を生み出す能力は無い。 香織の言葉に、すがるしか道は無いような気がした。 『分からないよ。分からないけど、中里に何かを伝えたいの』 香織の言葉に僕は項垂れた。 A 『分からないの?』 僕は訊いた。 『分からないよ?』 香織が答えた。 ファーストフード店のテーブルに座る僕達以外の存在が消滅して、僕と香織だけの空間になる。 沈黙の、二人の視線の先で油まみれのポテトが背比べをしている。 口に入れてしまえば、どれも同じ味で長さも太さも関係無い。 噛み砕かれ飲み下されるだけ。 比べる事に意味など無い。 『新しい彼は良い人?』 僕は沈黙に堪えきれなくて、一番聞きたくない事を何故か訊ねた。 『悪い人では無いよ。でも、良く分からないや』 香織の微笑みが内臓の一番痛い場所で奇妙な化学反応を起こし僕の中で暴れる。 『でも、好きだから…付き合ってる。…そうだろ?』 重ねる無謀な挑発。 藪蛇だと分かっていても聞かずにいられない愚かな自分に嫌気が差した。 『うん…多分ね…』 歯切れの悪い香織の言葉が真実味を増す。 痛みが増幅して行く。 下らないプライドが素直な言葉を否定する。 僕は漆黒の闇の中で手探りで無くしたコインを探す道化師。 必死な道化師程、哀しいものは無い。 映画のようなハッピーエンドは期待出来そうに無い。 『好きなら、良いんじゃないかな?香織の幸せ?それが俺の幸せ?みたいなとこあるからさ…』 それだけ言って言葉が詰まった。 『そっか…ありがとう』 香織が呟く。 僕は言いたい言葉をのみ込む。 僕と香織の、単純で複雑なパズルはピースが足りない。 僕は、それを知っていながらパズルを解かずにはいられない。 例え、完成しないパズルでもだ。 道化師は道化師でしかないのだから。 『香織は…俺…と…』 僕は、漆黒の闇を照らす光を探そうと足掻いた。 B 『私は、ズルいかな?』 僕の腕の中で香織が囁いた。 『香織は、悪くないさ』 言って香織の髪を撫でると甘い香りがした。 余計な事は訊くまいと、自分自身に言い聞かせる。 三橋と別れたばかりの香織から連絡を受けた時に僕には期待に似た予感があった。 狡いのは、僕の方だ。 『中里は、優しいな…』 『何が?』 『何も訊かないから…』 『そんな事より、香織の髪の甘い匂い。好きだな…』 『前言撤回!やっぱり、中里は変態だ。』 言って、シーツに潜り込んだ香織を愛しいと思った。 香織を、僕だけのものにしたいと思った。 それでも、言うべき言葉は出てこない。 伝えたい想いは苦しい程溢れているのに、それを伝える勇気が無い。 もしも、愛が目に見える形を成すものなら、僕の愛はきっと歪な形に違いない。 僕達は、シーツの中で隠れるように身を寄せあい朝が来るまで何度も唇を重ねた。 『香織は…俺…と…』 言い掛けて止めた。 僕には、香織が幸せになる事を止める権利は無い。 あの時と同じく、伝えたい事を伝える勇気が無いだけかも知れない。 『中里は大丈夫だよね…』 香織が呟く。 『大丈夫って?』 『直ぐに、好きな人出来るよね。彼女でも無いのに余計な心配か…でも、大丈夫。中里は私が居なくても大丈夫だよ』 香織は泣いていた。 曖昧な関係に決別する為の涙の雫が香織の頬を伝う。 僕に抗う術は無い。 『そっか…大丈夫か…』 僕の囁きが、香織に届いたかは分からなかった。 C 話すべき事は終わった。とでも言いたげに香織がコースターの上の紙くずを無言で片付ける。 僕も言葉を無くして香織の所作を見詰める。 時間が止まる事はない。 どんなに悲しくても、どんなに苦しくても時間が止まる事はない。 時間を止めたいなら時間と云う概念を全ての生き物から消さなければならない。 同様に、永遠なんてものも存在しない。 香織との関係が、ずっと続くと勝手に考えていた僕は完全なる馬鹿だ。 『行こっか?』 片付けが終わり、する事が無くなった香織が席を立つ。 『何処に?』 『映画。約束してたでしょ?でも、最後だから私が選んだ映画で良いでしょ?』 香織は明るい声で答える。 『好きにすれば良いさ』 言っつもりだったが声には成らない。 僕は、自分でも気付かぬ内に泣いていた。 俯いて涙を隠した。 最後の最後に最悪だ。 『ごめん、此処で別れよう』 なんとか絞り出した声で言った。 『大丈夫?』 香織が俯く僕を覗き込む。 『大丈夫』 答えたが、もう僕には香織を見詰める事さえ出来なかった。 『それじゃ……行くね……』 香織の気配が遠ざかる。 代わりに周囲の好奇な視線と猥雑で無遠慮な声が甦る。 テーブルには、僕が欲しがっていた写真集があった。 『中里、廃墟の写真集なんて好きなんだ?何が面白いの?私には理解出来ないな』 パソコンのディスプレイに見入る僕に呆れた表情で香織が訊ねた。 『壊れてから気付く大切さとか、美しさとか、手にしている時には見えないものが香織には分からないかな…』 『私は壊れてからの美しさより、壊れないようにしたいな…』 僕は突っ伏していたテーブルから跳ね上がるように立ち上がり駆け出した。 【了】
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