@ 田辺伸一は昨日の深酒を呪いながらバイクの後荷台でカチャカチャと音をたてていた牛乳瓶を一本抜き取り一口含んで吐き出した。 『マズッ!』 言葉にしてから急激に襲って来た嘔吐感に堪えた。 何処からか聴こえる洋楽が不快な感情を煽る。 『何?』 田辺は、嘔吐感に堪える為、一瞬見上げた早朝の街並みに違和感を感じたのだ。 もう一度、ゆっくり違和感を産み出した場所を見上げる。 二日酔いの頭が一瞬でクリアに働いたが体が奇妙な抵抗を起こし握り締めていた牛乳瓶が手から滑り落ちた。砕けた瓶の中から純白の液体がアスファルトに染み込む。 田辺は、その中に噴き出す様に嘔吐した。 松本杏は三階建てのアバートの小さなベランダの古びた手摺から垂れ下がった延長コード式のコンセントを両足首に絡めて逆さに吊るされ朝方の街を眺めている様だった。 室内からは大音量でトムウェイツの曲がリピート再生されていて、深夜に隣人が苦情を言いに来たが杏が答える事はなかった。三階窓から吊るされた杏に返事が出来る筈も無い。 『第一発見者は?』 梶尾貴史は三武雄二警部補に声を掛けられ萎縮した。 『はっ!牛乳配送員の田辺伸一、26歳、住所は自由が丘三丁目…』 『違うよ、まだ此処に居るのか?』 『はっ!先程まで事情聴取をお願いしていましたが、事件と関係無い様に思えたので帰しました。』 『そうか、まぁ後で良い現場は?野次馬をかたせ。』 三武が、白いものが増えて来た頭を掻きながら右手の先だけを動かし面倒臭そうに合図する。 『はっ!』 梶尾は嬉々として答えた。A 『ねぇ、貴史。教えてよ』 しなだれ掛かる斎藤敦子の白く艶やかな脚が短いスカートから突き出してしいて、梶尾は視線のやり場に困った。 『無理だよ。守秘義務って言葉聞いたことあるだろ?』 『友達でしょ?それとも貴史は私が連続殺人の被害者に成れば良いと思ってるの?』 敦子の計算高い媚びた素振りにウンザリしながらも梶尾は敦子の策略に嵌まった振りをした。 梶尾自身が、誰かに話したくてウズウズしていたのだ。 『絶対秘密だよ』 梶尾の言葉に敦子が深く頷く。 『今度の殺人事件は今までに例が無いみたいなんだよ。』 『殺人なんて何処にでもあるでしょ?』 『今はまだマスコミを抑えていれるけど時間の問題だって警部が言ってた』 『何?何が普通と違うの?勿体付けないで教えてよ』 『無いんだよ』 『何が?』 『体の一部が無いんだ』 『体の一部って、どこ?』 『眼球』 『…眼球?』 『そう、今朝までに発見された4つの変死対全てに眼球を抉りとられた痕跡があった。』 『目玉なんかどうするのよ?』 『僕に訊かれても解らないよ』 『変質者ね。でも、良くマスコミを抑えていれるねショッキングな事件ならスクープでしょ?黙ってても売上があがるわ』 『確かにね。でも、外交的に難しい可能性があるとしたら?』 『外交的って、何?』 『例えば…例えばの話。もし独立国のVIPが留学していて、そのVIPが事件に巻き込まれていたら?』 『どこの国のVIPなの?』 『例えばだよ、例えば!』 『でも尚更マスコミは喜ぶでしょ?』 『もう一つ、被害者全員に共通して無くなっているものがある』 『何よ。全部言いなさいよ』 『血液』 『血?血?』 『血液』 『血でしょ?血が無いの?』 『あぁ…一滴も残されて無いんだ』 『ドラキュラね』 敦子は好奇心を剥き出しにして訊ねた。 B 『ドラキュラ?』 谷口香織は出されたばかりの珈琲にボンヤリ映り込む自分の顔を見詰めて訊いた。 『そう、ドラキュラ!凄いでしょ?』 敦子の顔が好奇なものを見付けたと言っていた。 執拗に呼び出された意味が理解出来た。 『ドラキュラか…はぁ…聡に会いたい』 『あんた人の話聞いてないでしょ?』 敦子が腕組み抗議する。 『だって…、ドラキュラでしょ?』 香織は笑いながら答えた。 正直敦子の空想癖に付き合うのは退屈だった。 そんな事より、付き合い始めた聡に会いたかった。 『つまり、アンタはドラキュラより聡に興味がある訳だ。恋は盲目ってやつ』 『何とでも言って下さいな。』 香織は言って珈琲を口に運ぶ。 『でもさ…アンタ、竜二の方はどいするのよ』 『どうするって、竜二とは終ったの。半年も前にね。』 『だけど、竜二は今もアンタに夢中だよ』 『知らないよ。無理だもん竜二がどんなに私に尽くしてくれても私は…無理、絶対無理。聡以外に考えられない。私が間違ってるの?』 大袈裟な身振りで否定する香織に敦子は溜め息を吐いてから答えた。 『間違ってなんかないよ。でも、アンタには言ってなかったけど最近竜二から頻繁に電話がくるよ』 『何の電話?』 『アンタとヨリを戻したいってさ』 『無理だよ。その為に電話も変えたのに』 『知ってるよ。だからアンタの番号教えてないんだから』 『ありがと』 『でも、少しは気に掛けてやりなよ』 敦子は無意味な言葉とは知りつつ言わずには居られなかった。 『はいはい』 香織は空返事を何度もくりかした。 C 『……誰?』 香織は薄暗い室内に感じた気配に恐る恐る声を掛けた。香織の、その声は細く不鮮明だ。 『誰かいる?…』 『………』 静寂の答えに安堵しながらも恐怖に似た不安が完全に消えた訳ではない。 香織は壁のスイッチに手を延ばす。カチャっと気の抜けた音と同時に室内灯が灯った。狭い一人暮らし用の部屋が照らし出される。化粧品の散乱した硝子テーブル。乱れたシーツのままのシングルベッド。耳を澄ますと冷蔵庫のモーターが静かに唸っていた。 何もかもが出掛ける前と同じだった。帰宅直後に感じた違和感は恐らく敦子の戯言のせいだ。 全ての明かりを灯すと気分が落ち着いた。 冷蔵庫のビールを取り出し一口含んだ。苦味より渋味が口内に広がった。 テレビを点けるとお気に入りのお笑い番組が流れた。ソファに掛けて暫く番組を眺めたが笑え無かった。帰宅時に感じた恐怖が内臓の何処かに、まだ貼り付いている様な感覚だった。 携帯を握り、聡にメールした。 『何してる?』 簡単な短いメール。 キッカケを作るには充分だった。聡が気付けば折り返し電話が来るに違いない。不意に背中に気配を感じた。 『……誰にメール?』 突然の声に絶叫する事さえ出来なかった。 D 『誰にメールを出したの?』 何度も見た顔があった。 何度もキスした唇があった。 何度も見詰めた瞳があった。 『竜二…どうやって…』 辛うじて声にした。 『酷いな、恋人なら当たり前だろ?』 薄く笑う竜二の笑顔は能面の様に意思がない。 『出て…行…ってよ』 言葉になっているかさえも分からない程の囁き。香織が必死に繰り返す。懇願がやがて絶叫になる。 『出て行って!!!!』 『警察を呼ぶから!!!』 『出て行って!!!!』 香織の叫びに呆れたと云う仕草で両手を上げる竜二。 その指先は異様に伸びた爪が黒く変色していて、落ち窪んだ目には信じられない様な白濁した光が宿っていた。 『俺は、香織を愛してるよ。ずっと変わらずにね。だから離れても香織だけを想って自分を磨いていたよ。見てよ新しい俺を!素晴らしいだろ?それなのに香織は自分を磨く努力もしないでクダラナイ男に騙されてる。でも、仕方無いよね。君を放置していた僕にも責任はある』 竜二が右手を差し出す。その動作で腐敗臭に似た臭いがして香織は顔をしかめた。 『近付かないで!』 窓際に後退り叫んだ。 『香織!』 竜二が叫んだ。 香織は恐怖に体が強張った。 『俺が優しく話しているうちに素直になれ。本当は俺も我慢の限界なんだよ。お前のような低脳で屑みたいな奴を愛してしまった事を後悔しているんだ。馬鹿だけが取り柄みたいなお前に何を言っても仕方無いだろ?だから俺が我慢しているうちに素直になれ。もう、こんな所から出て俺と暮らそう』 能面の表情が激しく変化する。目の中に宿した狂気が濃厚に露になり、興奮で唾液を撒き散らしながら喚く竜二。最早、香織が知っている人間の面影は全く無かった。 E 『香織と連絡が取れないのよ。貴史、見てきてよ』 敦子からの電話で起こされて梶尾は憤慨しながらも香織のアパートへ急いだ。 香織とは余り親しくは無かったが敦子に懇願されれば断り切れなかった. 『こんばんは、夜分失礼します。警察です。谷口さん居ますか?』 呼鈴を押すが返答は無い。 『谷口さん.居ますか?警察です。居ますか?』 梶尾は再度呼鈴を鳴らして呼び掛けたが、やはり返答は無かった。 『チッ』 呟いて携帯を取り出した。 敦子の番号を呼び出し電話をかける。 『香織は?居た?』 コールと同時に敦子は電話にでた。 『居ないよ。彼氏の所だろ?』 『そんな筈無いよ。』 『だって、本当に居ないよ。仕方無いから明日、連絡すれば?』 『居ない筈無いよ。もう一度確かめて。なんならドアを抉じ開けて中を調べてよ』 『無理言うなよ。手続きを踏まないとドラマみたいな事は出来ないよ。とにかく、もう帰るから…』 言った時にドアの向こうで音がした。 バスケットボールを床に落とした様な軽く弾む音。 『まって、音がした。ちょっと待ってて。掛け直す』 梶尾は告げてからドアのノブを捻ってみた。 ガチャッ ドアのシリンダーが回転してドアは開いた。 『谷口さん居ますか?警察です失礼しますよ』 玄関の狭いアプローチから呼び掛ける。 反応は無い。 『谷口さん。入りますよ』 言って靴を脱いだ。 玄関の上がり框を跨ごうとした時に部屋の奥から男が現れた。 知らぬ顔だった。 『あ…スイマセン…鍵が開いてたので…』 梶尾は驚愕のあまり咄嗟に言葉に成らぬ言葉を繋いで男に媚びた笑顔を向けた。 男は無反応に梶尾の隣をすり抜ける。 狭い廊下で擦れ違う。 梶尾は身を開いて道を開けた。 男は無表情に梶尾を見詰めた。 背中に冷たい何かが走る。 男の悪臭に顔をしかめた。 良く見ると男は右手に黒いビニール袋の様なものを下げていた。 振り返った。 男は玄関ドアを押し開いた。 玄関前の外灯が男を映し出す。 生気の無い表情に落ち窪んだ目だけが異様な光を放っていた。 男のビニール袋に視線が走った。 ビニール袋? 違った。 黒い無数の繊維を男は無造作に握っていた。 その先にはバスケットボール程の丸井繊維の塊? 目を凝らした。 光の具合でボケていた物体がクリアに見えた。 全身の血液が一瞬で心臓に押し戻され凍り付く様な寒さに鳥肌が立った。 次の瞬間にはその血液が一気に押し出されて激しい鼓動に吐き気と目眩がした。 梶尾は脚の力が抜けてその場にへたりこんだ。 男が握って居たのは間違いなく香織の頭部だった。 『あ…あ…ぁぅぅ…』 言葉にならなかった。 『あぅ…あぁ』 男が梶尾の声色を真似て呟いて微笑んだ。
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