I 『死んだら逢えないな』 男が私の髪を撫でながら呟いた。 『まだ時間はあるよ』 私は言ったが男は私の嘘を見透かした様に優しく微笑んだ。 男は妻に逢いに行った帰宅途中で倒れて、そのまま入院と成った。 初めの数日間は搬送された総合病院へ。 そして今は海沿いの小さな病院にいる。 最後の時間を静かに過ごすのは男が望んだ事だった。 『また明日来るね』 窓から見える水平線に向かって大型のタンカーが進んでいた。 私は、それを見ながら男の手を握る。 つい最近迄の男とは別人の様に細く成った腕が酷く現実的で私は目を反らしたく成るのを必死で堪えた。 『毎日は良いよ大変だしね』 『私が逢いたいから仕方ないよ』 自宅から此所までは交通機関を利用して二時間掛かった。 自分の車が有れば時間は半減されたと思うが私は免許すら持っていなかった。 『逢いたいか…』 男がベッドから体を起こす。 それに手を貸しながら、もし男が死なず、このままの状態が何十年も続いたらと考える。 私の男への愛情はどのくらい保てるだろうか? 数ヶ月は男が持っていた貯金を切り崩して何とかやっていけるだろう。 僅かばかりだが印税も入ってくる。 しかし、全てが無くなった時に私は自分の全てを差し出し続けて、どれだけの時間、男を愛していられるのか急にそんな残酷な思いに支配されて不安に成ったのだ。 『ねぇ、いつか話してた進化の続き教えて』 私は自分の利己的な思考が恐ろしくなって男に救いを求めた。 『あぁ…あれか…』 男は苦しそうに応えて暫く私が見ていたタンカーを同じ様に見詰める。 『一番美しい進化を遂げたのは、なに?』 私は男の落ち窪み生気を失いかけている瞳を見詰める。 『蜘蛛だよ』 『蜘蛛?』 『そう、蜘蛛。あの薄気味悪い生き物が最高に美しい進化を遂げた生物さ』 『蜘蛛が?』 蝶では無くとも何か別の蜘蛛以外の生き物を想像していた私は惚けた声で問い返した。 『まぁ、学者によっては解釈が違うけどね。僕はその説を信じたいね。』 『蜘蛛ね…』 『蜘蛛は、地球上で一番安定した歩行と多種多様な変化を遂げた生物さ。実際に確認されてる種類では蜘蛛に属する生物は他を圧倒的に抜き出ているらしいよ。』 『らしいよって…』 『あぁ…友人の受け売りだよ。』 『んだよ。』 私が軽く男の肩を小突くと男は照れた様に笑った。 『くだらない?でもね思うんだ。蜘蛛の中には交尾が終わると雌に食べられてしまう雄もいる。命を繋ぐ為に命を捨てるのさ。』 『確か他の昆虫にも居たよね。同じ様に食べられてしまうのが。でも、なんか皮肉っぽい』 私が口を尖らせ男を見ると男は笑いながら答えた。 『雄は一部になるのさ。食べられてしまう事によって生き返るのさ。復活だよ』 『復活か…』 『そう、復活』 男も私も俗に言う無宗教で神など信じてはいない。 しかし、男の言う復活の意味は私の中に極自然に染み渡った。 『じゃあ、留衣は私の中から復活したんだ。』 『あぁ、君が願う度に復活する』 男が微笑んだ。 くだらないキッカケで全ての視点は変わる。 私の場合、男の復活と云う一言で自分を苦しめて来た後悔と云う濃霧が晴れて全てがクリアに見える様に成った気がした。 『復活…』 『僕も君の中で復活させてくれるよな』 再度呟いた私に男が訊いた。 『じゃ、私の一部にしてあげる』 私は男の細く成った指先を口に含む。 言葉に出来ない感情が溢れ出して私は泣き崩れた。 J 『蝶では無かったの?』 貴司が訊いたので私は黙って頷いた。 『じぁ、何故蝶のタトゥを入れたの?』 言って私の答えを待つ貴司を愛しく感じた。 貴司には自分が必要なのだと根拠も無く感じた。 貴司が与える暴力も赤子の様な依存も全ては私を必要としている証しに思えた。 … … … 男の葬儀は妻が喪主と成り粛々と終わっていた。 私は男の遺品を一つでもと妻に懇願したが妻はそれを許さなかった。 私には何一つ残らなかった。 『私が、あの人の最後の我が儘を許したのは、あの人を本当に愛していたからよ。アナタみたいな女の顔は見たくも無いわ。アナタは最低の泥棒猫よ』 葬儀に出向いた時に妻が私に向けた憎しみに満ちた視線に私は御焼香も出来ずに逃げ出した。 『チョッと待って』 背中に声を掛けたのは、いかにも芸術家然とした長身長髪の男だった。 出逢った頃の男と同じ雰囲気に懐かしさを覚えた。 『少しだけ良いかな?』 男は、ぎこちない笑顔で私に小さく頭を下げた。 その男が言うには、妻の元に帰ったと思っていた男が向かったのは昔の友人とスタジオだったのだ。 そこで男は一曲の歌を録音していた。 『アイツ、昔のよしみでって無料同然で、こき使いやがってよ。でも声を掛けられた全員が本当にアイツの為に文句も言わずに黙々とやるべき事をこなしたよ。アイツに時間が無い事を知ってたからね』 長身長髪の男は満足気な表情で言うと鞄からCDを取り出して私に差し出した。 『元から声が通る方じゃ無かったし、辛かったんじゃ無いかな?でも、何とかそれなりに成ったと思うよ。それじゃ俺はコレで』 その男はそれだけ言うと振り向きもせずに走り去った。 私は、その足でタトゥを入れに向かった。 K 『ちょっ…ちょっと待ってよ。』 友人の篠原佳代が飲み掛けの紅茶を飛ばしながら私の顔を見詰めた。 『何?』 私は、やっと運ばれて来たショートケーキを頬張りながら訊いた。 『美紀が慈恩寺貴司の元彼女って事は知ってるけど、ちょっと出来すぎた話でしょ?それは?』 『何で?』 『だって明日発売の新曲が、その男から貰った曲だとか言うなら。その曲の著作権とか、まぁ色々難しい問題点が有るでしょ?本当にそんな曲出す?』 『そっかな?』 『何だか、簡単には信じられないよ。』 『まぁ、佳代が信じる信じない。どちらにしても、結果は同じでしょ?』 私は笑いながらケーキを頬張る。 佳代は怪訝な表情で腕組みをしている。 明日の留衣の年忌は晴天になる予感がした。
(了)
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