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作品名:TATOO 作者:アフリカ

第4回   約束
G
簡単に全てが上手く行くなら不幸な人間は居ない筈だ。
男と出会ってから二ヶ月。
私は、そんな当たり前の事さえ忘れて男が与える愛に溺れていた。
『現存する生物で一番美しい進化を遂げたものって何だと思う?』
すっかり部屋に馴染んだ安物のソファーに深く腰掛けて男が訊いた。
『蝶とか?』
私はペアのマグカップの紅茶を飲みながら応えた。
男がそのマグカップに注ぐのは紅茶では無く琥珀色のアルコールだけだが二人の微妙なズレは私に心地良かった。
『ハズレ』
『じゃあ、人間?』
『ハズレ』
男が楽し気に応える。
長かった髪と無精髭をバッサリと切った男はまるで子供の様に穢れない笑顔でケタケタと笑った。
『答は?』
『ん…後で教えてあげるよ。とりあえず言わなきゃいけない事から言うよ』
問い詰める私を笑顔で交わした後に急に真顔に成った男に何故か不安に成った。
『何?言わなきゃいけない事って』
暫く私の顔を覗き込むと男は一呼吸置いてから口を開いた。
『先週病院に行っただろ?』
男の病院と言う言葉に嫌な胸騒ぎが一層増す。
『風邪だったんでしょ?』
懇願する様に呟くて男を見詰める。
男は視線を外さず真っ直ぐに私を見ていた。
『末期ガン。だってさ』
一瞬、完全な無音と成った空間に男の末期ガンと云う言葉だけが幾度と無く響いた。
『末期ガンて…』
長い沈黙を私は震える声で破った。
『肝臓だってさ。』
男は平然としている様に見えた。
ワザとそうしていたのかも知れない。
今は、もう分からない。
『病院は?入院は?』
『それがさ、骨に転移してるらしいのよ。僕の友人でガンで死んだ奴が居てさ。そいつは、色々尽くしてそれでも駄目で怪しげな宗教に走った。結局死は避けられなかったけどね。僕は嫌なんだグダグダ生きることに執着するのはさ。だから痛みを止める薬だけ貰う事にしたよ。君とずっと一緒に居ることが出来なく成った。だから先に謝っておくよ。ごめん。近々、お別れだ』
男は妻に別れを告げた時と同じ様に淡々と私にも別れを告げた。
『何…言ってるの?』
私はソファーの上から頭を下げる男を見ていると男の言葉は何処か真実味を欠いている様な気がした。
『病気の話』
男が煙草を手に取り、薄い煙を美味そうに味わっている
『嘘でしょ?』
私は誰にとも無く呟いた。
『悪趣味だろ?そんな嘘』
男は煙草の煙りで大きな輪を造り、器用にその中に小さな輪を通した。
『何?訳分からない。病気を治療しないの?死にたいの?ガンですって突然言われても受け入れられない。嘘だよね。ガンでもエイズでも何でも良いけど死なないよね?何?信じられないし、信じない。嘘。嘘だよ。本当に意味分からない』
私は狼狽して思考が停止していて、それでも何か言葉を繋ぎたくて意味の無い言葉を繰り返した。
『オイオイ。今は、まだ死なないよ』
男は、またケタケタと小さく笑う
『今は、なんて聞きたくない!聞きたくない!聞きたくない!』
『うん。さっきの続きを話すよ。進化の話』
私が叫ぶと父親が娘を宥める様に優しい声で男は応えた。
『違う!そんな事じゃないそんな話聞きたくない!』
私の心は完全に混乱していて混乱は怒りに向かって真っ直ぐに疾走していた。
『でも知りたいだろ?』
男は私の気持ちを考えるどころか何処か困惑している私を見て、楽しんでいるかの様にも思えた。
『違う!そんな話聞きたくない。私は貴方の事を訊いてるの!』
私は男に怒鳴り付け、睨み付けた。
『ん…まぁ結局さ…どんなに足掻いても結果は同じだろ?』
男は困った様に微笑んだ。
H
男が、突然『妻に逢いたい』と言った時に私は殺意に似た怒りを感じた。
告知を受けてから一ヶ月。
男は少しだけ痩せて食が細く成ったが、その他は以前と変わり無い様に見えた。
発作的に激痛に見舞われたりする事はあっても薬を飲み暫くすると治まっている。
私も、男の様子から余命僅かと宣告されたガン患者には見えなかった。
ただ、本人には最後の時間が迫っている事が分かるらしく思いに耽る時間が長くなっている。
私は出来るだけ男の側に居たくて、何とか通っていた学校も行かなくなった。
そんな時に男が呟いたのだ。
『妻に逢いたい』と。
『はぁ?今更何?』
私は覚えたばかりの料理の手を止めてソファーに腰掛けている男を睨み付けた
『怒った?』
男は楽しそうだ。
『怒ったら悪い?』
男の表情に一瞬で硬直した感情がサラサラと碎けて行く
『いや嬉しいよ。』
『何それ?』
男の屈託の無い笑顔につられて微笑んだ
『それだけ愛されてるって事だから』
『死ね』
私が持っていた包丁を投げる仕草をすると、男は大袈裟にそれを避けてから続けた
『でも、逢いたいんだ』
私は呆れたと云う表情を造り男に背を向けた。
本当は男の本心が知りたくて仕方なかったが、それを男に悟られたく無かった。
私は料理を再開して男は黙ってテレビに見入っていた。
沈黙が続いてテレビの猥雑な笑い声と、まな板を包丁が叩く音だけが響いた。
『だから、何故逢いたいの?』
我慢出来ずに訊いた。
『まだ、正式に離婚は成立してないだろ?』
男は直ぐに応えた。
男が言う通り男の離婚は成立していない。
離婚届は郵送していたが妻がそれに応じないのだ。
当然だと思う気持ちと、何故?と思う気持ちに私は苦しめられていたが実際に男は私の側にいて私を愛している。
私には、それ以上に必要なものが無かった。
『だから何?』
『参ったな』
男が頭を掻く。
最近見つけた男の癖だ。
何かを隠したい時に出るらしい。
『ハッキリ言ってよ』
私は振り返り訊いた。
『単純に逢いたい。それだけだよ。駄目かな?』
単純に逢いたい。
男の言葉に胸を抉られる痛みが走る。
人は愛する者に単純逢いたく成るのでは無いだろうか?
命が尽きる前に愛する者に逢いたいのでは無いだろうか?
男は棄てると言ったが忘れると言った訳ではない。
男が言った様に人が呼吸する事を忘れない様に男にとって妻は絶対不可欠な存在だったのでは無いだろうか?
私は息が止まりそうな胸の痛みと戦いながら、それでも私は男の試すような視線に負けたくなくて聖母の微笑みを造り応えた
『良いわ逢いたいのなら逢いに行ったら良いよ』
『君は怒ると可愛いね』
私の心を見透かした様に男が笑った。
『マシで死ね』
私が、再度右手を振り上げても今度は男が逃げる様子はない。
『明日、行ってくるから』
男が真顔で言った。
『何?もう手配済みだったの?』
何だか急に男の言動に腹を立てている自分が馬鹿らしく思えて、私は自嘲気味に笑った。
『了承してくれると思ったからさ。でも、ごめんな』
さすがに悪いと思ったのか男が頭を下げる。
『私に、許可なんて取らなくても良いよ。私は愛人でしょ?正確には』
精一杯の抵抗だった。
男の存在に依存しているのは明らかで否定など出来る筈無い。
どんな形であれ、男の隣に居たいのは私の方だったのだから
『嫌味が上手いな』
男が笑った。
『直ぐに帰って来てね』
私は本心から、そう願っていた。
『あぁ、それは間違い無いよ。居場所無いしね。帰ったら美味いもの食べに行こう』
言って男は、また笑ったがその約束が守られる事は無かった。


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