E 『それって、ヤッパ元彼の話でしょ?しかもミュージシャンでオヤジ?。何それ?ダメージでかいんですけど?ちょっと駄目だ。うゎ、何?マジ?…駄目だ。腹立つ。何?ムカつく。』 言って、貴司はベッドの脇にあった照明スタンドを壁に投げつけた。 アンティークの店で見付けた一点物のそれは、傘の部分が砕け、剥き出しに成った電球が辛うじて明かりを灯している。 『言わない方が、良かった?』 『ムカつくよ。マジで!』 貴司が、ベッドから抜け出し乱暴に煙草をくわえる。 『ごめんね』 『ごめんねって何?美紀は今もそのオヤジが好きって事?』 貴司はくわえた煙草を私に投げつけた。 同じだった。 前日も、前々日も、同じだった。 私は貴司を見上げた。 同時に左頬に走る痛み。 これも同じだ。 『俺が、どれだけ美紀を好きなのか分からないのかよ?俺が、どれだけ苦しむか考えられないのかよ?』 この台詞も同じ。 付き合って直ぐに始まった貴司の暴力は既に私の生活の一部だ。 腫れ上がった顔を化粧で隠すのにも慣れた。 これは、私に与えらた罰だ。 友人全てに貴司との別れを薦められたが貴司と居る事が私の罰なら貴司から逃げる事は出来ない。 私は私を赦せないからだ。 誰かが罰を与えるべきだ。 私には、償う必要がある。 『私、消えようか?』 『はぁ?』 貴司が私の髪を掴む。 『はぁ?美紀は俺の物だろ?俺だけの美紀で居てくれれば俺がこんな風に成ったりはしないだろ?違う?違うのかよ?』 私は髪を握られ左右に頭を無理矢理に振られながら考える。 痛みより、絶望より、消えてしまった命は重いと。 あの日、私がベルトを外さなければ留衣は生きていた。 留衣を殺したのは私だと。 貴司は、暫く私を暴力で弄ぶと、幼い子供が母親にする様に私の胸に顔を埋めて泣いた。 『ごめんね。美紀、ごめん。俺は美紀が居ないと駄目なんだ。美紀を失う事は出来ないんだ。美紀が居ないと生きていけないんだ。ごめんね美紀。許して。美紀許してくれよ。』 胸の中で啜り泣く貴司の頭を撫でる。 貴司を赦す事で私は償う事が出来る様な気がした。 『大人には成れない』 私は呟いて目を閉じ、胸の中で泣き続ける貴司を抱き締めた。 F 『美紀は今も、そのオヤジが好きなの?』 嵐の様な感情が去った貴士の目は幼い迷子の様に私に訴える。 手を離さないで。 側に居て。 捨てないで。 捨てないで。 捨てないで。 私は貴士の髪を撫でながら囁いた。 『起きてたの?』 『夢を見たんだ』 貴士の瞼が腫れている。 私と同じ。 違うのは理由で結果は同じ。 私は母親の様に優しく訊いた。 『どんな夢?』 『美紀が居なくなる夢』 『何処にも行かないよ』 『そのオヤジの所に戻ったりしない?』 貴士の口調は幼い子供そのものだ。 穢れを知らない無垢な子供。 友人に話すと異常な興奮が幼児退行を引き起こしているのだと言われた。 関係無かった。 理由は違っても結果は同じだ。 『しないよ』 私は明るく成り始めた窓の外を見詰めた。 … … … 『愛する人を失いたく無いと足掻けば足掻く程。その人は、遠くに行ってしまう。』 男が、アウトレットのソファーを指先で押して座り心地を確かめながら呟いた。 男が此所に来てから一週間が経っていた。 男は、出逢った次の日の朝に妻と仕事にアッサリと別れを告げた。 それから数日後にはアパートを借りた。 『金、無いし。僕は、この街知らないからよろしく。』 至極当たり前の様に男が言って私はそれを受け入れた。 『死んでしまった人も?』 私もソファーに腰掛ける。 『そうだと思う。死んでしまったなら尚更だよ。だから、手の届く所へ「捨てる」のでは無くて、二度と触れる事が出来ない様な場所に棄てる。』 男はソファーに掛けたまま隣に座った私を抱き締めて耳元で囁く。 『完全に忘れるって事?』 私は恥ずかしさを隠せないが男の表現を逆らわず受け入れる。 『違うよ。忘れてしまうのとは違う。』 『棄ててしまっても忘れたりはしないの?』 男が私の手を握り締めて問い返す。 『呼吸する事を忘れてしまうかい?』 私は黙って首を振る。 『人は、例え意識から捨て去ってしまっても、本当に必要な事を忘れたりはしない。』 男が抱き寄せる腕から逃げ出して私は言った。 『貴方は、何か少しズレてる』 男は静かに微笑んだ。
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