C 『ありがとう』 ビールを眺めながら男が呟いた。 私は覚えたての甘いカクテルを舐める。 『名前、訊いて無かった』 『美紀。川越美紀。』 『そうか、美紀か。良い名前だ』 『私は、嫌い。』 男はビールの注がれたグラスを眺めているが口をつける様子は無い。 私はカクテルに添えられていたオリーブを摘まんで紙のコースターに飾る様に置いた。 甘いカクテルにオリーブは合わないと思ったからだ。 『君は何故僕の歌を聴いてくれたの?』 『分からない』 『たまにね、考えるんだ。もし、今と違う職業で生きて行けるなら、きっと僕は幸せに成れたかも知れないって』 『言えてる。地方の営業にマネージャーも同行しないミュージシャンなんて悲しいよ』 『確かに、でも一人の方が僕には合ってるのかも知れない。』 『一人が好きなの?』 『孤独が好きなのかもね』 『キザな台詞。私には、一人と孤独、どっちも同じ様に思える。』 『同じかも。でも少しだけ違うかも』 『幾つなの?』 『僕は、もう直ぐ三十歳。君は?』 『私は来年で十七歳。って言うか老け過ぎでしょ?四十歳位だと思った』 『四十歳か酷いな。でも、早くそんな歳に成りたいよ』 男が減らないビールのグラスを額にあてる。 結露していた液体がグラスから男の額に移動する。 男は心地良さそうに、その液体を指先で撫でた。 『飲めないの?』 『正解。』 『何故ビールを頼んだの?』 『一応、君を口説きたかったから』 『私は貴方からしたら、ガキでしょ?』 『僕は君からしたら、おじさんって事?』 『違うけど、違わないか。』 私は、何故かその時既に男と朝まで過ごす予感があった。 『地方に来たら、いつもそうするの?』 『分からない。狡いかな?』 『狡いかどうかは分からないけど、奥さんか恋人が哀しむよ。居るでしょ?』 『うん、二年前に結婚した。』 男が胸元からネックレスを引き出す。 その先には、シンプルなリングが着いている。 『やっぱり』 『うん、やっぱりだ』 男に悪びれる様子は無い。 かと言って、開き直っている様にも見えない。 『仕方無い。付き合ってあげるよ』 言ってから急に、恥ずかしさが込み上げた私は、残っていたカクテルを一息で飲み干した。 『強いの?』 『駄目、全然』 覗き込んだ男に照れた笑いで応えた。 不思議な時間だった。 会話の微妙なズレも、淡々と話す男の口調も何故か私には心地良かった。 それ以上に、男と居る事自体に、僅かな違和感も感じる事が出来なかった。 芸能界の人間に興味があった訳では無く、音楽に没頭していた訳でも無い。 私は、単純に少しでも男の側に居たかった。 D 『綺麗…』 男の右腕に彫られたタトゥーに見とれて呟いていた。 場末のシティホテル。 しわくちゃに成ったシーツの中で、私は奇妙な安心感に包まれていた。 同世代の異性と朝を待つ情熱的な希望では無く、何処か絶望の中で刹那に見つけた光りにすがる様な儚い優しさに包まれていた。 『僕が、デザインしたんだ。変わらない愛情の記し』 男は照れた様に笑った。 『じゃ、奥さんも同じものをしてるんだ?』 『してない』 『何故?』 私がその部分を撫でながら訊くと男は私の指に自分の指先を絡めた。 『これは、僕だけのものだから』 男が重ねた指先で私の指を動かす。 黒い蝶の上を撫でる。 『おかしいよ、変わらない愛の記しなら。分け与えるのが当然でしょ?』 私の問いに絡めた指先を暫く弄んだ後で男が問い返す。 『そうだと思う?』 『思うよ』 私は男の目を真っ直ぐに見詰めた。 『じぁ、美紀はしても良いよ』 言って男は絡めた指先を解いて間接照明で淡く光る天上を見上げた。 『意味分かんないよ』 『そう?美紀は永遠の愛なんて存在すると思う?』 『難しい質問。子供には分からないよ』 私も真似て天上を見上げる。 内装クロスの継ぎ目を目で追う。 『美紀は子供じゃないよ。』 『セックスしたから?』 クロスの継ぎ目から剥げ落ちた部分に目が止まった。 暗く明確には見えないが、その部分だけが他の色とは全く別の色に見える。 『違うよ、大人と子供の違いは自分で棄てる事が出来るか、どうかだと僕は思う』 『何を棄てるの?』 『愛する人』 男が静かに呟く。 『愛する人を棄てるのが大人なの?』 『多分ね』 『納得出来ない。それに愛する人を棄てるのが大人なら私は大人じゃない』 『君は大人だよ。』 男の口調が剰りに落ち着いていて私は何故か子供扱いされている様な気がした。 『知ったような事、言わないで。私は棄てられないから苦しんでいるの。今もこれから先も』 『棄てなければ、いつまでも苦しむ事になる』 『分かってるよ。でも、棄てる訳にはいかない』 『大切なんだね、その人』 言って男は大きく息を吸った。 『死んでしまったから…』 私も男の呼吸に同化したくて息を吸う。 湿った黴の匂いがして私は少しだけむせた。 『そうか、死んだのか…』 『だから棄てる訳には、いかない』 『なら、美紀の永遠に成るには、死ななければいけないね』 『簡単に言わないで』 私は男を睨んだ。 『分かった。この話はもう止めよう。』 男の視線は天上の淡い光に注がれたまま動かなかった。
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