@ 『美紀のタトゥー、綺麗だよな』 貴士が指先で撫でた部分から痺れる様な感覚が走った。 『スワローテール』 『スワローテール?』 『アゲハ蝶なんだ。』 黒いハートが四つ重なり蝶のシルエットを作る。 その中に紅いハートが更に重なり綺麗な模様を描いていた。 私は、初めてこのタトゥーを目にした時に感じた衝撃を忘れる事が出来ない。 『アゲハ蝶か…でも、何で?何でアゲハなの?元彼関係なら何も言わなくて良いけど…』 言いながら貴士が、その部分を唇で撫でた。 『復讐なの』 言って太股に顔を埋める貴士の髪を指先で掻き上げる。 『復讐?』 貴士の唇が別の場所を探して動く。 私は全てを貴士に預けた。 … … … 2010年、夏。 私は、家族を一人失った。 両親は痛みに耐え兼ねて笑う事を止めた。 私は、失った重さに気付かないふりをしながら毎日を過ごした。 私の中で過去とは事故の数ヶ月後からにしている。 それ以前の過去は無だ。 現在の積み重ねが過去を生み出すなら、私はあの日に新しい命を手に入れた事に成る。 あの日、私には小さな女の子の声が聞こえた。 小さな女の子の声が… 簡単な言葉を繰り返す… 『ミテ…シテ…』 同じテンポで繰り返される言葉に苛立ちを感じた。 『美紀。美紀。』 八つ歳の離れた妹の留衣が私の隣で私の肩を必死に揺すっていた。 『どうしたの?』 夢現のまま留衣を見ると留衣の額には大量の汗が吹き出していて、顔色も良くない。 『母さん。留衣、具合が悪いみたいだよ』 私は助手席の母に声を掛けて右手で留衣の額に手を翳す。 熱が出ていた。 元々、体力の無い留衣は何処かに出掛けると必ず熱を出していた。 『熱が出たのかな?』 母が助手席から身を乗り出し後部座席の留衣に手を延ばす。 『少しだけシートベルトを外してあげれば?』 私は留衣のベルトを外した。 留衣は『ありがとう』と呟いて、開放された腕をクルクルと回してふざけてみせた。 『留衣、海で走り回ってたから』 私が言うと母は頷き次のパーキングエリアに車を止める様に父に頼んだ。 宮崎から福岡までは高速道路で六時間は掛かると早目に観光地を出発して丁度二時間が過ぎる頃だった。 『留衣、後少しでパーキングエリアに着くから。そしたら、お薬を飲んで少し休もうな』 父が言いながら振り返った。 『うん…』 留衣の声が聞こえた様な気がした。 同時に巨大な炸裂音と身体全体に強烈な衝撃が走った。 まるで何百人もの力士に一気に背中を押された様に私の身体は圧倒的な力で前に押し出され、それと同じ力で引き戻された。 一瞬何が起こったのか解らなかった。 車内に居た誰もが同じだったろう。 次の瞬間、母が絶叫して父がジタバタともがいているのが見えた。 私は隣の留衣に視線を動かす。 留衣は座席に居なかった。 母が絶叫し、父がもがいている。 私は呆然と砕けたフロントガラスを眺めた。 その放射状に砕けたフロントガラスは運転席側から捲れて助手席側に辛うじて貼り付いていた。 その先にボロ雑巾の様な塊が見える。 小さなそれは、投げ棄てられた人形の様に手足が在らぬ方向に向いている。 私は、それが座席から投げ出された留衣だと直ぐに解った。 『留衣!』 私は叫んだ。 叫んだが恐らく母と同じ様に言葉に成らない絶叫だった筈だ。 叫び続ける母と、ジタバタともがき続ける父はダッシュボードと座席に挟まれて身動きが出来ないらしい。 私は身体を拘束するシートベルトを外そうとしたが解除ボタンが壊れたらしく外れない。 私達家族がジタバタともがき苦しんでいる間を数台の車が通り過ぎる。 『助けて!小さな子供が!小さな子供が怪我をしてるの!誰か助けて!留衣を助けて!留衣を助けて!』 私達家族は、身動き出来ない絶望と恐怖の中で留衣を見詰めて叫び続けた。 車が止まる気配は無い。 ノロノロと私達の車と留衣を避けてゆっくりと進む。 『人でなし!助けろ!留衣!留衣!留衣!』 何千、何万回と叫んで声が枯れ果てた時に救急車のサイレンが聴こえた。 救急車から素早く降りてきた隊員達が、留衣に走り寄っる。 暫く、隊員は留衣を見ると首を振って私達の車に駆け寄った。 『あの子から先に助けてくれ』 父が枯れた声を絞り出す。 『了解しました。アチラは直ぐに別の車輌が救助しますので、私達はあなた方を救出します。』 言って私達を引き摺り出した隊員は、もう最後まで留衣に近付く事は無かった。A 時間が止まった。 留衣を失なった私達は自らの時間を止めた。 食事も摂らず風呂にも入らない日が続いた。 会話も笑顔も無い。 ただ、留衣が居ない時間だけが存在していて私達はそれを否定し続けていた。 『泣きなさい』 ブラウン管の中で長髪と無精髭の薄汚れた男が言った。 私は何故かその場から離れられ無くなった。 男がギターを抱えて曲を奏でる。 泣きなさい 見えるもの全ては 明白な嘘だから 泣きなさい 聴こえている願いは 偽善者のエゴだから 泣きなさい 信じれば、必ず 裏切られるのだから 泣きなさい そして 泣き疲れたら 笑いなさい 見えなかった真実が 用意されているから 笑いなさい 言えなかった想いこそ 本物の筈だから 笑いなさい 裏切りは、君を 強くしたのだから 笑いなさい 泣きたいだけ、泣いたのだから 笑いなさい 生きる他に術は無いのだから 単調なメロディと歌詞。 今までなら聞き流してしまいそうな曲だった。 そんなヒット曲には程遠い独り善がりの曲を聴きながら私は、TVの前で泣き崩れた。 泣き喚いた。 泣き叫んだ。 留衣の名を繰り返し叫んだ。 もう、留衣が返事をする事は無いと心が理解するまで泣き叫んだ。 B その蝶と出逢ったのは、それから数ヶ月後の繁華街の一画だった。 私は、友人の誘いでブラブラと街を徘徊していた。 良い友人、悪い友人、関係無かった。 目的など無く朝から深夜まで空っぽに成った部分に無理矢理何かを詰め込む為に私は全てを受け入れ全てを肯定する事だけを心掛けていた。 『アレ』 友人が指し示す方向で掠れたダミ声が響いていた。 生ギター一本の演奏。 観客は誰も居ない。 地方の楽器店のイベント。 簡易ステージに立つ売れない音楽家。 『美紀、どこ行くのよ。』 友人の声を無視して、私はそのステージの真ん前に立った。 ステージに立って居たのは間違い無くTVの中で歌っていた男だった。 『ありがとう、リクエストがある?』 演奏を止めて男が訊いた。 私が首を振ると『だよな』と呟き恥ずかしそうに微笑んだ。 その後、数曲の演奏を終えてステージを降りる男に注がれていた視線は関係者を除くと、私だけだった。 誰も居ないステージを片付けるスタッフの声が聴こえる。 『売れない音楽家はゴミにも出せないな』 その声に数人の笑い声が重なる。 私は器材全てをスタッフが片付けてガランと成っても、その場を離れられなかった。 あの日と同じ様に意味無く何かを待っていた。 『さっきは、ありがとう』 後から声を掛けられた。 振り返ると男が立っていた。 『リクエストしたいの』 私は男を見詰めた。 長髪で隠れていた男の目が力強く私を見ていた。 『ギャラ高いぞ』 男は笑うと、肩のギタケースを降ろした。 『曲名は知らない。TVで観たの。泣きなさいって…』 『了解』 男がギターを構える。 繁華街の路上。 観客を一人も集められなかった音楽家が失なったものを探し続ける心が空っぽの少女の為に歌う。 ヒットとは無縁の曲。 私は涙を拭う事も忘れて、その曲を聴いた。 そして、その曲を何度も何度もリクエストした。 男は何も言わずにリクエストに応え続けた。 男の演奏が終わると人垣が出来ていた。 男が照れながら拍手に応える為に挙げた右腕に美しい蝶がいた。
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