I 『美樹!』 父親が叫んだ声は聴こえたが、その叫びが自分の行動を止める事が出来ないのは分かっていた。 『動くな』 叫び声を張り上げる自分を見ている自分がいる様な奇妙な感覚に囚われる。 『止めて…』 羽交い締めにした女が、上擦った声で訴える。 『無理だよ』 美樹は静かに応えて、そのナイフを横に引く。 直ぐに鮮血が女の頬を伝う。 女性社員が叫ぶ。 美樹は引いた手を、再度女の喉元に持っていった。 『本気なのは分かった?分かったら父さんと、この女以外は全員外へ出て』 美樹が顎でドアを示すと身動き一つしないで見守っていた数人が我先にとドアへ向かい走った。 J 『刑事さん、刑事さんには好きな人居る?』 突然孝司は口を開いた。 『居てるで。それがどないしたんや?』 取り調べを開始してから二時間が過ぎていたが孝司が声を発したのは最初の数分間だけだった。 どんな質問にも脅しにも一切口を閉じた孝司に長島は苛立ち始めた頃だった。 『それは誰?』 長島はこのキッカケを持って孝司が事件の全貌を吐露すると核心していた。 これまで取り調べた容疑者全てに共通する事は、無言の抵抗は遅かれ早かれ必ず崩れてしまう事を理解していたからだ。 『なんや急に、恥ずかしいわ。まぁ俺の場合、かみさんと子供やろな。けど、それがどないしたんや』 長島はワザとらしく恥じらい孝司の反応を伺う。 『奥さんと子供か…』 『だから、何が言いたいんや』 『奥さんと子供。どっちが好きですか?』 孝司が真っ直ぐに目を見詰めたので長島は孝司が完全に墜ちたのを感じた。 後は無理せず、自分から話し出すまで相手の話に合わせれば良い。 話とは殆んどの場合、言い訳と懇願だ。 長島は穏やかな口調で答えた。 『そりゃお前。子供の方が可愛いに決まってるやんけ』 『そうですか…』 『だから、何やねん。俺の好きな奴を聞いてどないするねん』 『刑事さんは、自分の子供が好きだと言いましたよね』 孝司の視線はブレる事なく長島に注がれている。 『そうや』 『どのくらい好きですか?』 孝司の瞳の奥に今まで感じた事の無い程の闇を見付けて長島は嫌な予感がした。 『何やお前、親が恋しくなって来たんか?』 『まぁ、そんな感じです』 恥ずかしそうに頭を掻きながら応える孝司に自分の思い過ごしかと長島は安堵のタメ息を吐いてから訊いた。 『やっぱり、ボンボンはその方がええで』 『どのくらい好きですか?』 『そやな、狂おしい程にっちゅーことにしとくか』 長島は膝を叩いて大声で笑った。 今度こそ孝司の動機に繋がる自白が獲られると感じたからだ。 『それは、その子供を無理矢理、犯してしまう程にって事ですか?』 孝司の問いに長島は言葉を失った。 K 『一体、何を考えてる。こんな事をして、どうなるか位は分かるだろう?』 父親の訴えを無視して美樹は机の上にあった梱包用の粘着テープで女の手足をグルグルと巻いた。 『兎に角、その人を離しなさい。』 美樹の目の前で怒鳴る父親は喉元に押し付けられたままのナイフだけを睨んでいる。 『助けてお願い…』
女が懇願して美樹は初めて応えた。 『父さんと、毎晩寝てるの?』 『美樹、止めなさい』 ナイフに視線を預けたまま父親が叫ぶ。 『父さんは、何故私と母さんを捨てたの?』 美樹は父親の視線の先にあるナイフに力を込める。 女の肌が粟立つ。 『すまない。しかし、その事と彼女は関係無い』 父親が美樹に悟られ無いように芝居掛かった台詞ともに一歩踏み出す。 『近付かないで』 美樹は握り締めたナイフを更に女の喉に強く押し付ける。 『父さん、関係無い訳無いよ。今、父さんは、コイツの家に住んでいるんでしょ?』 『コイツじゃ無い。留美さんだ』 『名前なんてコイツに必要無いよ』 美樹が凄むと女が小さく悲鳴をあげた。 『なぁ、美樹。お前はどうしたいんだ?父さんが憎いなら父さんを傷付けなさい。』 『憎い?そうだね。父さんを憎めたら良かったのにね。』 美樹は視線を落とした。 『そうだ悪いのは、その人じゃ無い。だから、その人を自由にしなさい。』 両手を広げて懇願した。 『本当はね。父さんが戻ってきたらそれで良かった。又、三人で暮らせたらそれで良かった。だから、知り合いに頼んで狂言誘拐なんて事を計画してたの。私が大切なら私のピンチに必死になると思った。必死に成って私の事を探してる間に母さんと私の大切さに気付くと信じてたから』 美樹の独白は自分自身に言い聞かせている様だった。 奪われた幸せを誰かの責任にするのでは無く自分自身の罪を探している様だった。 『二人の事は大切だ。それは今も変わらない』 父親の言葉に瞳を潤ませて何度も頷いてから美樹は女の髪を掴み後ろに捻り引いた。 喉元にナイフを押し付けられ髪を引かれた女は懺悔する罪人に見えた。 『でも今はコイツの事が一番大切なんでしょ?』 女の悲鳴が大きく成って泣き出す。 『美樹。人の心は変わるんだ』 父親は力無く呟いた。 『そうよ、美樹ちゃん私もお父さんが大切なの。だけど美樹ちゃん達からお父さんを奪った事を後悔しない日はあの日からずっと無いわ』 震える声で訴える女。 『アンタは黙ってて』 美樹は、一度女の頬を張ってから引き戻しナイフをあてる。 『留美。黙って』 父親が懇願する 『何かムカつく。アンタ本当に死ねば?』 『止めなさい美樹』 美樹が腕を振り上げて、父親が叫んだ。
|
|