ある日、小さな粒が光の無い闇から上へ上へと押し上げられた。 深闇の場所から自分の意思とは関係無く突き上げられ、その粒は少しずつ膨脹しながら上昇して行った。 やがて闇に微かに差し込む光に自分が海を漂う小さな気泡だと、海底の僅かな隙間から産み出されたガスだと気付く。 気泡は緩やかに上昇し続ける内に、押し上げる力に逆らえない自分が嫌に成った。 出来る事なら同じ場所で留まりたいと思う様に成った。 見え始めた海の生き物達と共に居たかったからだ。 しかし、自分を押し上げる力は止まってはくれない。ぐんぐんと気泡を押し上げる。 そして、押し上げる毎に上昇の速さは増して行く。 ぐんぐん。 どんどん。 気泡は上昇して行く途中で体色を無くした生き物達が綺麗な色に染まって行く過程を見た。 流れに添うように進化した体が流線形になり、海流に逆らい泳ぎ回る魚達を見た。 光が強く成るにつれて生き物達は美しく強く成っていった。 気泡は、何故自分が気泡では無く美しい魚に産まれなかったのかと悔やんだ。 しかし、気泡は魚には成れない。 気泡は気泡でしかない。 とうとう気泡はキラキラと輝く水面が見える場所まで来ていた。 気泡は力を振り絞り体を揺する。 丸い体は歪な形に成り、クポクポと小さな音をたてたが、それ以上には何も起こらなかった。 気泡の努力とは裏腹に上昇を続ける体を気泡は悲しく思った。 きっと自分は海に嫌われているのだと思った。 嫌いな自分を海は押し出したいのだと思った。 色々考えている内に気泡は水面に辿り着いていた。 気泡は水面から飛び出した時点で弾けて大気に取り込まれた。 そして、気泡は自分が小さな気泡だった事すら忘れてしまった。 ある日、気泡だったガスは大気を、さ迷いながら海に浮かぶ魚の死骸を見た。 それは、美しく大きな魚だった。 気泡だったガスは大きな魚に寄り添い海の上を漂った。 何故そうしたのかは気泡だったガスには分からない。 ただ、気泡だったガスはそうしたいと感じたままに何日間も魚に寄り添った。 やがて、魚は嫌な臭いを発し膨らみ歪な形に成った。 綺麗な鱗は剥がれ落ちて、体の所々が溶けて海の中に消えていった。 魚は、白いぶよぶよとした塊に成っていった。 もう、決して美しいとは言えない魚を見ても不思議と気泡だったガスは醜いとは思わなかった。 寧ろ、白く溶けて海の一部に成り行く魚を羨ましく感じた。 気泡だったガスは、ただ大気の流れに漂う事しか出来ない自分に腹が立った。 気泡だったガスは何故自分は白くヌラヌラと腐り行く魚では無いのかと悔やんだ。 しかし、悔やんでも気泡だったガスは大気の中にある小さな欠片でしかない。 気泡だったガスは魚だった白い塊が弾けて海に沈み行くのを見た。 その塊から押し出されたガスを見た。 気泡だったガスは、魚だったガスに近付き訊ねた。 『…』 だが、魚だったガスが応える事は無い。 気泡だったガスは言葉を話せなかったから。 仕方無く気泡だったガスは魚だったガスと寄り添い漂った。 大海の上を何日も何日も気泡だったガスは魚だったガスの隣で漂い続けた。 ある日、嵐がやって来た。 嵐は気泡だったガスを更に小さな欠片にした。 魚だったガスを更に小さな欠片にした。 気泡だったガスは魚だったガスを見失ってしまった。 しかし、気泡だったガスは小さく成り過ぎて自分が気泡だった事や、海が綺麗だった事や、魚だったガスと寄り添い漂った事を忘れてしまっていたので平気だった。 それから何年も何百年も何千年も気泡だったガスは小さな欠片と成って大気を、さ迷い続けた。 気泡だったガスの欠片は全てを忘れていたけれど何故か悲しくは無かった。 自分は大気の流れに運ばれるだけの欠片だと分かっていたけれど虚しくは無かった。 気泡だったガスの欠片は地球の流れに自分が同化した様な気がした。 そして、気泡だったガスの欠片は小さく揺れる青白い炎を見付けた。 それは、小さな島の、小さな村の、小さな女の子が灯した炎だった。 気泡だったガスの欠片はその炎を美しいと思った。 寄り添いたいと思った。 気泡だったガスの欠片はその炎に寄り添った。 気泡だったガスの欠片は一瞬大きく燃え上がり音も無く消えた。 小さな女の子は、その炎を不思議そうに見詰めた。 (了)
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