G 『何処に行ってたの?学校から連絡があったわよ。近頃どうしたの?何が不満なのよ!』 帰宅するなり叱責される。 『ウザい』 呟いて自分の部屋に逃げ込んだ。 ネットで愛梨が言っていた曲を探す。 ヘッドフォンを掛けてボリュームを上げた。 怒鳴り続けている母の声を遮断する。 軽快なリズム。 でも、哀しい音。 不安や屈辱を埋める為に生まれた音楽。 憂いを叫び、希望を願う。 アイドルにあてがわれる現代のヒット曲には無いソウル。 セールスの為で無い叫び。 専門的な知識が無くとも愛梨がナキのギターと言っていた意味がわかった。 深夜まで幾度と無く同じ曲を聴いた。 脳裏に完璧なリフレインが鳴り出した頃に携帯が着信を示す灯りと振動を私に伝えた。 『ごめん、別れよう』 淳からのメールだった。 あえて言葉にしてみたが、何も感じない。 『そっか』 再度呟いて携帯を閉じた。 無意味な痛みより、確かに感じる淡い感情が私を支配していた。 愛梨が奏でた音を聴いた時に溢れた涙が、愛梨が唇から伝えた真実が、私の何かを刺激し続けている。 私は小さく唸ると、携帯に新しく増えた番号を呼び出した。 H 『…結衣?』 暫くの沈黙の後、愛梨が訊いた。 『…結衣です』 自分から連絡を入れたのに言葉を探す私。 『どうしたの?』 『別に…』 二度目の沈黙はかなり長い様な気がした。 『…今日は本当にごめん』 愛梨の謝罪の言葉が辛い。 『私こそ、ごめんなさい』 咄嗟に答えたが何を伝えたいのか自分でも分からなかった。 ただ、愛梨の声が聞きたかった。 『どうしたの?本当に何も無いの?』 ギターをかき鳴らし叫ぶ声とは違う優しい声に何が砕ける。 『分からない。分からないけど、こんな気持ちは初めて…』 『そっか、そうだよね突然あんな事されればね…ごめん』 『違うの…』 『優しいね結衣は』 『そんなんじゃ無いよ』 『結衣は優しいよ。優しいから色々な事に苦しむ。色々な事を当たり前と思えない。』 『違うよ。ただ見えない事が怖いだけ。』 愛梨が爪弾くギターの音色が受話器から溢れてくる。 深夜なのでアンプに繋がずに練習していたのだろう、金属を擦り合わせた様な軽い音。 それでも愛梨が弾いていると思えば心地よいメロディ。
暫く私はその音を拾い続けていた。 『…ブルーローズって知ってる?』 唐突にメロディが途切れて愛梨が呟いた。 『ブルーローズ?…青い薔薇?』 『直訳なら、そうだよね。もう一つ、有り得ない事って意味もあるんだ』 『そうなんだ…』 『青い薔薇は自然界に存在しない。元々、青い色素を薔薇はもっていないの。どれだけ努力しても報われない。ブルーローズなんて絵空事でしかない』 何となくだが愛梨が言わんとしている事が分かる。 『愛梨さんが、咲かせたら良いよ』 私が言うと 『無理なんだ』 と囁きが聴こえて携帯は切れた。 I 『テキーラサンライズ?最近、良く顔出すね』 止まり木に座るサラリーマン風の男が此方を見て微笑んだ。 小さく頷いて覚えたてのカクテルを舐める。 甘く爽やかな飲み口の中に隠れた情熱的な熱を感じる。 『知ってる?ホテルのオリジナルカクテルに過ぎなかった飲み物を有名にしたのは…』 男が自慢気に見詰める 『某有名ミージシャンがツアー中に飲んでから、このカクテルだけを頼む様に成った。破天荒なミージシャンが愛した酒として皆に知られる様に成った…ミージシャンの名前も言いましょうか?』 男の蘊蓄を聞くつもりなど全く無かった私はワザと冷たくあしらった。 『チッ!』 男が舌打ちして私に背を向ける。 『愛梨は今日も来ないのかな?』 私は何時もの如くグラスを磨く胡麻塩頭の男に訊いた。 男は小さく首を振るだけで言葉は発しない。 私は目の前のグラスの中ので揺らぐ淡い色の層を眺める。 あれから二週間が過ぎていた。 あの日から、この店に愛梨が来ることは無くなった。 携帯もずっと繋がらない。 それでも私は愛梨に逢いたい一心で店に通い続けている。 グラスに満たされた液体が無くなり底に残った氷を指先で弄んでいるときBARの扉が開いた。 細身で長身な体にギターケース。 髪は黒く染め直されていたが愛梨に間違い無かった。 『愛梨さん』 駆け寄って躊躇った。 愛梨の顔面は痣だらけに成っていた。 J 『無理なんだよね。何もかも思う通りには行かない。何かを願っても叶う事など無い。悶え苦しむだけ。手にする事が出来るのは与えられたものだけ。…私のものなんて、ずっと昔に全て略奪されてしまってる。』 カウンタ―に並ぶ空のグラス。 グラスを磨く男は何故かそれを片付け様とはしない。 『ビールおかわり』 愛梨が空のグラスを押し出す。 代りに琥珀色のグラスが渡される。 私は愛梨に掛ける言葉を必死に捜しているが見つからない。 『余り飲むと体に良くないです』 辛うじて見つけた台詞に意味など無かった。 『身体はもう私のモノではないの。どうせならボロボロに成った方が良い』 絞り出す様に愛梨が独白する。 私は愛梨の言葉の意味が分からなくて、ただ見詰めるしか出来ない。 『自分を大事にして貰いたいって願う人だって居ます』 自分の意志とは違う何かが涙腺を刺激する。 勝手に涙が溢れた。 『アンタ、良く泣くね』 愛梨が薄く微笑む。 しかし、正体不明の微笑みに不安が募った。 『ごめんなさい』 『アンタが謝る事なんて何も無いよ。全て自分の責任』 『愛梨さん。何があったんですか?』 『仕方無いな…ビールは止めてターキー頂戴』
目の前に並ぶ酒瓶の中から抜かれた目立たないボトル。 飲み方を指定しなくても勝手にグラスに氷が落とされ酒が注がる。 愛梨はそれを一口で煽って少しだけ噎せた。 『彼に逢ったのは一年前位。丁度アナタと同じ歳位の頃。私は、此所でバイトしてたの。その頃からずっとギターを練習する場所にかりてるけどね。兎に角、彼とさ此所で逢ったの。その頃の私は普通の女の子だった。恋に恋して幸せだった。でも、私は変わった。私は本当の私に気付いてしまった。自分の異常な欲望に気付いてしまった。』 『愛梨さんは異常なんかじゃ無いです』 『まぁ聞いて。私は自分の欲望に気付いてからも、それを否定しようとした。普通の女の子に成ろうとした。でも出来なかった。まぁ、普通なんて基準が誰の為にあるかなんて知らないけど彼の為に尽くせる様な女の子に成りたかったの』 『愛梨さん…』 『偽りの自分に堪えられなく成った私は彼に全てを打ち明けた。でも彼は許さなかった。私を愛してるから。私を必要としてるから。理由なんか本当は意味無かったのよ。ただ私と云う玩具を彼は手放せ無かった。愛で繋ぎ止められ無い女を自分の思うままに扱う為に彼は暴力を選んだ。そして、私は彼の暴力に支配され続けて来た。』 『愛梨さん…私は…私は…』 言葉に出来ない怒りと虚しさに押し潰されて声が喉を駆け上がらない。 『ごめんね。こんな話、聞きたく無いよね』 愛梨が空のグラスを押し出すと何も言わずに男がグラスに酒を注ぐ。 私は溢れる涙を拭いもせずに愛梨を見詰め続けた。 K チンピラ。 正に、その言葉が相応しい。 一瞬でも愛梨が愛した男ならもっと凜としていて欲しかった。 私は愛梨に聞き出した場所を頼りに奥村を捜し出していた。 大音量の闇の中。 頼んだカクテルの味など分かる筈もない。 背向かいのボックスで下品な声で笑い両脇に派手な女を侍らした奥村に愛梨を束縛する権利など有るのかと自問自答する。 何度考えても答えはNOにしか成らない。 愛梨が味わっている屈辱を考えると許せる筈など無い。 私はポケットの中にある違和感を生み出す金属の塊を指先で確かめた。 以前、淳が部屋に忘れていった折り畳み式のナイフ。 切れ味など分からないが何処に切っ先を突き刺せば良いのか位は知っている。 これ以上、苦しむ愛梨を放っては置けない。 勿論、たった数回逢っただけの恋人や身内でも無い人の為に、私がやろうとしている事が誰から見ても愚かな行為に違いない事は良く分かっていた。 L 店を出て数メートルの場所で奥村が崩れ落ちる。 低い呻き声をあげてアスファルトに顔面から崩れ落ちる。 飛び散る鮮血が派手な色のシャツを更に濃く染める。 私は、声を失い苦しみ悶える奥村を見詰めた。 そして、その奥に呆然と立ち尽くす愛梨を見詰める。 返り血で真っ赤に染まったシャツと真っ赤に染めた髪が美しくて目眩がした。 『愛梨さん…』 愛梨が私を認め微笑んで手を振る。 その手は真っ赤で掌のナイフからは未だ奥村の血液が滴り落ちている。 『逃げて』 私は叫んだ。 『逃げて』 声の限り叫んだ。 声が届いたのか愛梨の唇が僅かに動いて何かを呟いているが既に野次馬が集まり初めていて聞き取れない。 『逃げて』 私は愛梨に駆け寄り肩を揺する。 『自由…に…なれたかな?』 聞き取れなかった囁きが意味を成す。 愛梨を抱き締めた。 息も出来ぬ程 声も赦せぬ程 きつく抱き締めた。 『一緒に逃げよう』 私は愛梨の手を取り愛梨の顔を覗き込んだ。 『逃げよう』 一歩踏み出すと、繁華街に出来た人だかりが綺麗に二つに割れて私と愛梨は走り出した。 M 美しい音だった。 年代物のギターから生まれる濁りの無い歪みが自由を叫ぶ。 私は、止まり木のいつもの場所に腰を降ろし愛梨が奏でるメロディを心に刻み込んだ。 二度と聴けないかも知れない完璧なメロディを刻み込んだ。 『貴女を愛してる』 夢中で演奏する愛梨に囁くが、その囁きが愛梨に届く事は無い。 しかし、そんな事は関係無かった。 私達には時間が無いのだから。 当然、もう暫くすれば警察が此所に来るだろう。 逃げ切れる筈など無いのだそんな事は分かっている。 しかし、もう二度と私と愛梨の真実が略奪される事は無い。 私はBARの扉が開かれるまで目を閉じて愛梨が奏でる曲を聴き続けた。 . (了)
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