@ 手首の傷痕を眺める。 無意味な勲章。 自分を取り戻す為の自傷行為。 ただ、叫ぶ術を持たないだけとも言える。 私は理由を見失っていた。 愛する理由。 愛される理由。 生きる理由。 誰に手を差し出されても、私にとっては全て偽善に満ちた戯れ言でしか無かった。 上っ面だけの付き合い。 恋人も家族も私の本質を見てはいない。 私は此処に実在しているが誰も私を見ていないのなら存在としては無だ。 私は鏡に写る自分と歪に盛上がった傷痕を交互に眺めた。 時間がゆっくりと過ぎて行く様な感覚に囚われ。 携帯が着信音を響かせている事にも気が付かなかった。 『結衣。携帯が鳴ってる』 隣の部屋の弟が叫んだ。 視線を携帯に向ける。 着信が2件、メールが1件。 発信先は何れも同じ。 掛け直すつもりは無かったのでメールを開いた私は添付されていた映像に絶句した。 A 翌日私は、淳を見つけるなりその右頬を張った。 『最低の奴、アンタなんか死ねば良いのに』 何度も練習した短い台詞だったが上手く言葉に成っているかは分からなかった。 感情が溢れだした。 涙が止まらなく成った。 それでも私は淳の顔を睨み続けた。 『淳、なんとか言いなさいよ』 教室が静寂に包まれ私の嗚咽だけが響く中、メールの差出人の美佳が淳に詰め寄る。 淳は反論せずに俯いたままだ。 『黙ってないで、認めるなら謝りなよ』 美佳が出す超音波の様な喚き声に目眩がした。 『もう良い』 私は呟くと静まり返る教室を後にした。 『何で?キチンと謝らせないと気がすまないよ。結衣が苦しんだ分だけアイツも苦しめば良い』 憎悪を募らせた美佳の声が耳に障る。 『もう良いんだ』 辛うじて言葉にすると私は何も持たずに学校から飛び出した。 『結衣。ちょっと待ってよ』 小走りに私の後に続く美佳を疎ましく感じる。 全て消えてしまえば良い。 平然と私を裏切った男も、金切り声を上げて叫ぶ友達面した偽善者も、普段は話もしない癖に私の嗚咽に同情し言葉を失ったクラスの奴等も、家族も、先生も、学校も、私と言う存在を知る全ての生物が消えてしまえば良い。 私は呪詛を吐き出しながら走り続けた。 B 繁華街を抜けた頃には美佳の姿は無かった。 カラカラに成った喉の辺りを掌で擦ると不快な汗が指先に絡みついた。 ポケットに手を突っ込み裸の一萬円札数枚を握り締める。 穢れた金を淳に貰った財布に入れる事が出来なかったからだが今と成ってはどうでも良かった。 私は歩きながら、最初に目についたスティール製のドアを押し開いた。 薄暗い店内。 静かに流れているjazzが何故か心地よかった。 『何を出しますか?』 止まり木の一番奥に腰掛けると初老の男がグラスを磨きながら呟いた。 制服姿の私は完全に場違いだが、他に客が居ない事と男の不思議な存在感が私の尖った心を落ち着つかせた。 『甘くないコーラ有ります?』 男を覗き込みながら訊いた。 『有りますよ』 男は磨いたグラスをカウンターに置くと私を見ずに準備した飲み物を差し出す。 『もう暫くしたら、ギターを弾く子が来るから聴いていくと良い』 それだけ呟くと、またグラスを磨き出した。 ドアが押し開かれるまで、私は男が磨くグラスを食い入る様に眺めていた。 C ロックグラス、ショットグラス、カクテルグラス…次々に磨かれ美しく光る透明なグラスがカウンターに並べられて行く。 どれも無駄なデザインの無いシンプルなものばかりだ。 不意に小さな疑問が浮かんで言葉にする。 『ここは喫茶店?』 男がグラス磨きながら小さく首を振る。 確かに喫茶店にしては店内が暗すぎる事に今更ながら気付く。 私は開店前のBARに飛び込んでいる。 急に居場所が無くなり、ポケットの札を握り締めた。 『別に酒を飲んだ訳じゃ無い。捕まったりはしないさ。店は後少しで開店だからそれまで居れば良い。それにさっきギターを弾く子が来ると言っただろ?』 男は相変わらず私に視線は預けずグラスの曇りを拭き取りながら呟く。 同時にスティール製の重厚な扉が軋んで開いた。 長身で真っ赤な髪。 男とも女とも取れない中性的な顔。 派手なシャツとダメージのジーンズ。 細く長い指先が男に無い女性らしさを感じさせる。 しかし、決してそれらが嫌味に見えないのは、きっと開かれたドアからの光が逆光となり視界を狭めているから。 『おはよう』 男が呟くと、その女性は軽く頭を下げ店の奥にあるドラムセットの横にギターケースを置き、私から少し離れた止まり木に腰を降ろした。 『ビール』 その女性が呟くより少し前にカウンターに置かれる飲み物。 喉を鳴らして一気に流し込まれる琥珀色の液体。 良く見ると女性は自分と余り離れた歳に見えなかった。 『あ、あの…すいません』 女性が私の呼び掛けに此方を見る。 『何?』 真っ直ぐに向けられた視界に吸い込まれそうな感覚になる。 『幾つですか?』 唐突な質問。 自分の言葉に赤面して絶句する。 『知らない』 女性はスッと立ち上がり空のグラスをカウンターの奥に滑らすと止まり木を離れギターケースを開いた。 『名前は愛梨』 背を向けたまま呟く女性。 『私は結衣です』 私は反射的に答えた自分の声が裏返ったので何だか可笑しく成って微笑んだ。 背を向けているが、愛梨も小さく笑っているのが分かった。 D ガリッと小さなノイズがアンプから溢れた。 チューニングをしながらギターとアンプを繋ぐコードを指先で辿る愛梨の存在感に鳥肌が立った。 用意した椅子に腰掛け徐にギターを奏でる愛梨。 ロックでは無い。 jazzでも無い。 自分の知らない種類の音か突然違和感も無く染み渡る。 今更存在する事さえ知らなかった音がヒリヒリと、私の何かを刺激する。 哀しく成った。 侘しく成った。 淋しく成った。 嬉しく成った。 気付くと涙が溢れていた。 理由のハッキリしない涙。 今更流した事の無い涙だった。 愛梨がギターを爪弾きながら涙を流す私を見詰める。 スローなテンポが一転して自然に体がリズムを刻む。 愛梨が叫ぶ。 歌っているのでは無く、叫んでいる。 女性にしては野太い声が叫びを増幅させる。 叫びに意味を求める事さえ忘れて私は愛梨が奏でる音に完全な虜と成った。 E 客が、ジワジワと増えて私は止まり木を立った。 BARを出るとネオンの周りに羽虫が群れていた。 小さな羽虫は何を求めて僅かな灯りに集まるのだろうそんな事を漫然と考えていると不意に肩を叩かれた。 『制服のままで目立ってたよアンタ』 愛梨がギターケースを抱えて微笑んだ。 『愛梨さん。感動しました。言葉に出来ない感情が溢れて私…』 『泣いてたね』 『何だか全てが嘘に思えて信じるものを無くしたと言うか。元々、そんなもの無かったのかも知れないけど。とにかく愛梨さんのギターを聴いた瞬間何か抑えつけてたものが溢れ出して…あの…本当に感動しました』 『まぁ…歩こうよ』 私の言葉を遮り愛梨が歩き出す。 その後に続く私。 昼間に走り抜けた繁華街をとって返す。 暫く無言で歩き続けた。 沈黙を破ったのは愛梨だった。 『腹減らない?』 愛梨が私を見て微笑んだ。 『空いた』 私が答えると愛梨が突然右手を差し出す。 掌には500円玉が一枚。 『こいつで何か喰えるところ知らないかな?』 無垢な笑顔で問い掛ける愛梨に今まで誰にも感じた事が無い感情を感じた。 『私、奢ります。お金持ちなんです今日だけね』 『ラッキー、んじゃこの先にある拉麺屋!餃子が旨いのよって、奢って貰うのに勝手に決めちゃ駄目か。でも、そこで良いかな?』 私を覗き込む愛梨が可笑しくて私は吹き出した。 F 唐突に侵入した舌先が、口内の粘膜を刺激する。 強すぎず、弱すぎず、敏感な場所をピンポイントで刺激する。 決して、経験が浅い訳では無かった。 寧ろ、豊富すぎる経験が邪魔して純粋な感覚を忘れているとさえ思っていた。 間違いだった。 目を閉じるとホワイトアウトした思考と溶ける様な感覚が脱力感を誘う。 腰から砕けて愛梨に寄り掛かった。 『ごめん』 悪ぶれるでも開き直るでも無く、初めて見た時と同じ真っ直ぐな視線が私だけに注がれる。 『…』 衝撃的な出来事と 快感の淡い余韻で言葉が出ない。 私は必死に首を左右に振った。 『私、女の子が好きなんだ。おかしいでしょ?』 愛梨が街灯を見詰めて微笑む。 きっと、心から溢れる言葉なのだろう。 その言葉が私の内側に違和感もなく浸透する。 繁華街の入り口近くにある公園。 まだ深夜でも無いので人通りも多い。 その公園のベンチに腰掛け独白する赤い髪の少女と普通を絵に描いた様な私。 通り過ぎる人達が異物を叱責するかの様に私達を見詰めた。 『今日は、ありがとう。拉麺美味しかった。そして、ごめん。また、気が向いたら店に来てよ』 愛梨が、立ち上がり言いたい事だけ告げて歩いていく。 『わ…私…』 私はその後の言葉を捜し切れずに愛梨の背中を見詰め続けた。
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