『コーヒー中毒っていう奴だよ。まっ、気にすんなよ』 男は顎下に蓄えた白い髭を二、三回指先で引き伸ばしながら言った。 一昨年春から取り組んでいたショッピングモール建設のプロジェクトも終わり、久々の大きな休暇でこの島に来たのが2日前、断崖絶壁に囲まれた小さな島は周囲46キロの人口70人と本当に愛しくなる程、全てのサイズが小さい。 昨夜、島の酒場で知り合った鼻歌を歌いながらハンドルを握るこの男は、自分の事を剛と名乗り、唐突に島でのガイド兼運転手に申し出た。 ゆっくりとした一人旅を考えていた僕はガイドが必要な程、観る場所があるのかと何度も断ったが、この剛と名乗る顎髭男はなかなかにしつこく、小一時間の雇え雇わないの押し問答の末に結局一日二千円と言う破格値で3日間だけガイド兼運転手として雇ったのだ。 顎髭男が必死に訴えていた信じられない程の、大きさの魚を僕も見てみたくなったし兎に角顎髭男が言う様な鯨ぐらいの魚は居なくとも現地のガイドが居れば釣果は、かなり違いが出る筈だと自分を半ば強引に納得させたのだ。 『最高に旨いな本当に』 男がさっきからしきりに飲んでいる液体はコーヒーの匂いこそしないが程よい琥珀色でいかにもアメリカンコーヒーの色そのものだった。 顎髭男は空になった水筒を後部座席に投げ捨て、代わりの水筒を手にしている。 今まで気が付かなかったが後部座席には、まだズラリとダンボール箱に水筒が入っている。 これが全てコーヒーなら確かに極度の中毒だ。 『そんなに飲むと胃を駄目にしないかい?』 僕の問いに顎髭男は笑顔で答えた。 、 僕等は、打ち合わせ通りまだ朝日も差さない4時30分に、この島に一軒だけの商店三田屋に待ち合わせ颯爽と出陣した。 獲物は勿論、男が話していた鯨の様にデカいと言う魚だ。 その魚は蟹鯨と言うらしく年に40、50匹程度の漁獲量があるらしく、丁度今頃がシーズンで先週も一匹上がったばかりらしい。 僕は週末はもっぱらゲームフィッシュに興じていた。 僕の専門はブラックバスで、活性が低くなる冬場は海でスズキなどを狙っていた。 妻からは食べもしない魚を釣って何が楽しいのかと再三言われ続けているが自分が操作する疑似餌に魚がファイトする様は何度経験しても興奮する。 きっと男は、皆どれだけ進化しても狩猟本能を退化させる事は出来ないだろう。 車は戸鳥岬を抜けた辺りで急にスピードを落とした。 今日の目的地である六岩岬はこの先の薬羽漁港の次の岬のはずである。 『見てごらんよ』 抑えた声で顎髭男は言う。 指差した方向を見ると、これまで一度も見た事の無い生物が静かに湧き水を飲んでいた。 頭に三本の角が生え、肩から腰の辺りに白い大きな羽根が綺麗に折り畳まれた状態になっている。 なんとも言い様のない赤緑色のその姿は、異様とも美しいとも言え難い摩訶不思議な出で立ちであった。 『鹿馬鳥猫っていうんだ』 顎髭男は自慢げにそれでも抑えた声で言うと、喉仏のあたりを数回ボリボリと指先で掻いた。 『アイツの角は、そりゃスゲー高く売れるんだぜ』 興奮を抑えきれない様子の顎髭男は僕の答えを待たずに更に続けた 『んでよ、背中の羽根はよ。一本残らず毟り取ってよ。デカい鍋で、一晩煮込んでスープをとるんだよ。そりゃスゲー精力剤になるんだぜ、ウヒャ!』 顎髭男の興奮度合いからみても島の住民ですら、かなりの確率でしかお目に掛かれない珍獣なのだと理解出来た。 顎髭男はゆっくりと車を路肩に止め、更にゆっくりとした動きでトランクの中から跳びきり大きく太い釣り竿らしき物を取り出した。 恐らくこの島の住民達は滅多に無いチャンスの為にああして何重にも重なる伸縮竿を持っているのかもしれない。 僕は馴れた手つきで伸縮竿を組み立てる男を見ながら一人納得した 『良いか、絶対にアイツに素早い動きを見せるな!ゆっくりした動きならアイツは気づかねーから』 そう言って顎髭男はゆっくり不思議な生き物に近づいて行った、一歩、又一歩、顎髭男はその生き物の鼻先まで慎重に自分と周りの景色が同化する程のゆっくりとした動きで歩み寄り、それまでよりも更にゆっくりとした動きで釣り竿に繋がった糸を二本の角に何重にも結びつけた、そこで顎髭男は一息つくように腰に手を当てゆっくり反り返り体を解してからまた近づいた時と同じ様にゆっくりとした亀の様な動作で車道まで戻ってきた。 あんなに近づいて、しかも角らしきものに直接触れているのにも関わらず当の不思議な生き物は全く気が付いていない様子で、水辺の草をはんでいる。 関心する僕の脇を顎髭男は肘で軽くつついて釣り竿を手渡し言った。 『何ボーとしてんだよ、せっかく全てのお膳立てをしてやったんだ、しっかり釣り上げろよ』 僕はどうして良いか解らず体が石の様に固まってしまっている。 今まで僕が釣り上げた魚はブラックバス、スズキ、鯛ぐらいの体長1mも無い小型のもので、いきなり鹿か馬よりデカい目の前の訳の分からない生き物を釣り上げろと言われてもどうして良いのか解らなかったのだ。 第一この竿にはリールらしきものが何処にも付いていない 『まってくれよ俺には無理だよ…』 言いかけた時、いきなり顎髭男は死を目前とした兵士が叫ぶ様な絶叫をあげた 『シーバー』 その絶叫に反応したのか 『シバ』 の呼びかけに反応したのか摩訶不思議な生き物は僕の視界から突然消えた、 次の瞬間、後ろから車でも衝突したかの様な衝撃が体を走り、フワリと足が地面から浮き上がっていた 『シーバー』 少し離れた所で男の絶叫が又聞こえた。 瞬間、同じ様な衝撃が体を走る。 『絶対竿を離すな。死んでしまうぞー』 顎髭男の絶叫が聞こえた。死んでしまうの何の言われなくても僕の右手にある巨大な竿から垂れ下がっていた綱が手首に絡まっていて外れそうに無かった 何度か男のシーバーは続きフワりフワリと宙に浮きながら、この生き物は顎髭男のシーバーの掛け声に反応しているのが薄っすらと分かってきた、どの位の間そうしていたのだろう顎髭男の絶叫も大分弱まってきていた。 必死に竿にしがみついている僕の両手は豆ができ、その豆から血がにじみ出していた。 もう限界だ。 手を離してしまおう、と言っても絡み付いた紐は取れそうにない、しかし何度となく体に衝撃波を浴びその度、絡まった紐は右手の手首に食い込みナイフか何かでしか切れそうに無かった。 僕は絶叫の度に恐怖が体を硬直させていた。 次のシーバーで紐を切り離してしまおう、そう考え腰に携帯していたナイフに手をやった時、顎髭男の絶叫が違う叫びになった、 『ヤーナーシー』 『ヤーナーシー』 『後一息だ!』 何がどう後一息なのか検討もつかぬまま、それでも僕は必死に釣り竿にしがみついた 『ヤーナーシー』 何度かその絶叫が続いて 『今だ!釣り上げろ!』 顎髭男の声が響いた。 その掛け声で残った力の全てを釣り竿に掛けて体ごと釣り竿を煽った 『ソーノー』 顎髭男は静かに手を合わせながら言った。不意に今まで釣り竿に掛かっていた圧倒的な力は止まり、ピクリ、ピクリと小さな当たりになっていた、 『もう一度来るぞー!』 顎髭男の叫び声が辺りに響いた、限界を過ぎたハズの僕の体はその叫びに反応してビクリと力無く反り返り、その後ピタリと竿は動きを止めた。 何か壮大な事をやってのけたという達成感と疲労感が一気に全身を駆け巡った。 しかし、未だに摩訶不思議な生き物の姿を僕は確認する事は出来なかった、 しばらくの静寂を顎髭男の叫び声が打ち破った。 『ウヒャー!』 三十メートル程離れた茂みに顎髭男がぐったりした、あの摩訶不思議な生き物を抱きかかえていた。 疲れきった体で茂みに歩み寄ると顎髭男が今までにない笑顔で言った。 『初めてで、こんだけの大物を釣り上げるなんてオマエなかなかやるな。ウヒャ!これで今から行く鯨蟹鯛の仕掛けが完璧に出来るよ、きっと今日は楽勝だな?』 顎髭男の問いかけに僕は力無く微笑んで答えた。 僕には、未だ何がどうした状態でこの先どんな事が起こるのか全く想像すらできないが、とりあえず顎髭男の琥珀色のコーヒーを飲みながら考えようと思った。
(了)
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