それから父のアブラハムに向かってイサクが言った--「ねえ、おとっつぁん?」 「坊、おとっつぁんは聞いているよ」 「火と柴木の準備はして来たけど、いけにえにする子羊はどうするの?」 するとアブラハムは言った--「いいか、坊。神さまが自らそなえて下さる。炎にする生け贄をな。その子羊が今日のそなえものだ」 906版BIBLE
『創世記』は旧約聖書の最初に置かれる巻です。『創世記』にはたくさんの有名な話 ─ アダムとエバ、失楽園、ノアの洪水、バベルの塔 ─ の話が載っていますが、これもよく知られています。 以前、ハリウッドで作られたジョンヒューストン監督映画で、『天地創造』と題した一本がありましたから、見た人も多いでしょう。映画のラストになったのが、第22章のこのシーンです。 言うまでもない事でしょうが、聖書が伝える話を、いちいち実話ないし史実と信じる理由はありません。そのような聖書学は洗練を欠く、むしろ子供っぽい空想と断じて差し支えない。(創世記は宇宙が六日間で造られたと語っていますけれども、まさかこれを文字通りに信じる読者は、ファンダメンタリストと呼ばれる狂信的原理主義者を除けば存在しないでしょう。)聖書で大事なのは、そこから何を読みとるか。如何なるメッセージを数千年間かけて人々は読みとって来たか、であって、文字をそのまま書いてある通りに受けとめることが大事なのではありません。(だから、聖書は翻訳を超越します。何の訳で読もうと等価なのが神のメッセージなわけです。むしろ、翻訳の壁を超越できないような聖書箇所は無視して構わない。) アブラハムがイサクを生け贄にしようとするストーリーに我々が感動するゆえは、「神さまの真心。神さまの誠実さ、真実さ」にあると言えます。アブラハムが心から行動すれば、神は思いもよらない素晴らしい方法でこたえて下さる。 ところで、このストーリーは遥か遠い未来に起こるべき実話、イエスキリストが十字架にかかった歴史的事実の前表とも解釈されます。アブラハムがその愛しい独り子イサクを捧げようとした地、そこの名を「モリヤ」と言いますけれども、モリヤはとりもなおさず今日のエルサレム ─ キリスト磔刑の地とおよそ同一の地だと考えることができます。イエスは「神の愛しい独り子」「人類に与えてくださった独り子」「子羊」と呼ばれつつ新約聖書に登場してきた人です。イエスこそ「神が自らそなえてくださった生け贄」だ、とは、新約聖書が中心にすえているメッセージです。キリスト教ではこれを福音(ふくいん)と言っています。いやあ、聖書って本当に不思議なもんですね!
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