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作品名:リフレクト・ワールド(The Reflected World) 作者:芽薗 宏

第9回   第七章 ジグムント・フロイト
 講義室の中はそこそこに冷房が利いていた。そして初老の心理学教授の話は実に小難しい内容を展開中だ。箔座松太郎(はくざしょうたろう)教授は今、ジグムント・フロイトが一九一五年に著した論文、「欲動とその運命」についての授業を行っていた。それはフロイトの中期における著作である。

 フロイトは一九世紀末から二十世紀初頭に掛けて、人間の心理を研究対象とする「精神分析学」を提唱した、当時のオーストリアの精神科医だ。

 「パブロフの犬」の話をご存知だろうか。ロシアの生理学者、イワン・パブロフが行った実験の話である。犬を狭苦しい部屋に閉じ込める。そして餌を与える時に必ずベルを鳴らす。これを数回繰り返すと、餌がないのにもかかわらず、ベルが鳴っただけで犬は涎を流すという内容である。この実験で生まれた言葉が「条件反射」。ある条件によって特定の反応が現れることを言っている。
 「行動主義心理学」と呼ばれる心理学では、こうした実験結果はそのまま人間にも当てはまると考えている。例えば、誰かが水辺で溺れたとしよう。そこで水恐怖症になったとする。行動主義心理学や、これに基づく「行動療法」では、水が犬の実験のベルに当たり、恐ろしいイメージが餌に当たると考える。溺れて水を怖がる水恐怖症の者は、犬がベルの音だけで涎を流すように、水と聞いただけで恐怖に震えるという理屈だ。つまり、そのように「条件付け」されているということになる。そこで、その条件付けを解いてやるか、又は別の条件付けを施すことによって、その恐怖症を治そうとする。
 こうした行動主義心理学の背景にあるのは、「人間もまた動物の一種」という発想である(先述の例の行動主義心理学は初期のもの)。確かに人間も動物だ。しかし精神分析は、人間と動物との間には決定的な違い、断絶があると考える。それは、「本能が正常に機能しているかどうかの違い」としている。動物は本能に従って生きているが、人間の場合は違うというわけだ。人間にも本能とされるものはあるだろう。しかしその本能は「壊れていて、正常に働かない」というのだ。

 本能とは何か。それはその種の動物(犬なら犬、猫なら猫)に共通の、生まれ付き備わっている性質、能力、行動様式のことである。なので、同じ種でもある個体はある行動をし、別の個体は別の行動をするとしたら、それは本能とは呼べない。また、生まれ付き持っていると言うことは、本能とは遺伝子に組み込まれている情報だと言えよう。そして本能の目的は「生存」と「生殖」。生きることと子供を残すこと。本能だけに従っていれば動物は生きることが出来る。
 人間の場合の本能とは何か。実は、「母性本能」とか「食欲と性欲とは二大本能だ」とするものではない。精神分析では、人間の食欲や性欲が動物の本能と同じものとは考えない。人間の本能は動物と違って「壊れている」。だから、動物のようにひたすらそれに従っていれば生きていけるとはならない。この「壊れた」本能のことを精神分析では「欲動」と呼んでいる。
 例えば食欲。動物は生存のために必要なものだけを、本能に従って食べる。だが人間はどうであろうか。生存のために必要なものだけを食べるわけではない。レンタルしてきたDVDでも見ながらばりばりやっているポテトチップスに炭酸飲料が生存に必要であろうか。また美食家の場合はどうであろう。食欲が本能ではないことを示していると言えないであろうか。食欲が本能だとすれば、人間誰もが「生存に必要なものだけ」を食べる筈である。
 セックスはどうであろう。動物は発情期にだけ交尾を行うものだ。子孫を残すため、生殖能力の高い相手を選ぶ。では人間は? 先ず人間には発情期と言うものがない。極論、したいときにする。それにセックスの相手を選り好みもする。しかもこの選り好みは生殖能力の高い相手を選ぶ類いのものではない。子供を作るためのセックス以外のセックスのほうが寧ろ多いかもしれない。ついでに言うのであれば、「母性本能」なるものが本当に本能ならば、では「子供は欲しくない」と感じている女性は人間ではないことになってしまう。

 人間の本能は壊れてしまっている。ちなみに何故人間の本能が壊れたのかとなると、「大脳ビッグバン説」、「幼形成熟(ネオテニー)説」、また「早熟説」と呼ばれる生物学的アプローチでの推測論がある。

 動物は本能を媒介として、自然の中にぴったりと収まっている。つまり動物もまた自然の一部である。だが人間は本能が壊れたことで自然と調和せず、そのままでは生きていくことが出来ない。人間と自然とはずれているのだ。動物の場合、本能は生存のための「命綱」である。ではそれが壊れた人間は如何にして生き延びてきたのだろうか。自然とのズレをどうやって埋めてきたのであろうか。
 精神分析では次のように考える。

「自然との溝を埋めるため、人間は壊れた本能の代理となるものを作り上げる必要があった。そのために生まれたものが『心』である。そしてその心は『意識』と『無意識(イド又はエス)』に分かれ、更に『自我(エゴ)』が生まれた。この自我こそが人間にとって生きるための指針であり武器なのである。自我を失った人間は生きていくことが出来ない。そして、その武器を用いて人間は道具を作り、社会を作り、文明を作り上げてきた。それによって他の動物達に対抗し、生き延びてきたのである。」

 だが動物における本能と異なり、この自我には「存在の根拠」と言うものがない。本能は自然に根ざしているが、自我は実体のない幻のようなもので、まるで「空に浮かぶ城」みたいなものである。そのため、人間は「心の病」で悩まされることとなるわけだ。心の病とは素ち自我の病気なのである。

   ※ ※ ※ ※ ※

「フロイト自身は、『欲動』と言うものをこの著作の中で定義しています。

『……次に心的な生を《生物学的な観点》から考察してみると、《欲動》は精神的なものと身体的なものの境界概念と考えられる。これは体内から発して精神に到達する刺激の心的代表であり、精神的なものが身体的なものと結び付いているために、精神的なものに要求される仕事の大きさの尺度とみられる。』

「何のこっちゃって感じでしょ? 日本語で言ってくれって思いませんか、皆さん」
 箔座の些かおどけた口調で講義室の所々から笑い声が漏れた。
「要は、人間は心の中に湧き上がる願望、欲求、感情に基づいて悩み、考え、行動するのだと言うことです。イド、又はエスから湧き上がって来るこれらに基づいて行動すると言っても、現実はそう簡単にいきません。色々な制約がありますよね。快感原則に従うだけではなく、現実原則をもきちんと配慮されなくてはいけないわけです。特に『性の欲動』について見てみたら、はっきり分かると思います。口唇期から始まり、性器期に至る性の欲求の流れは既に講義で話した通りです。これらが各々の目標を実行し、そこで『はい、おしまい』となるかと言うと違いますよね。性欲は何時でも充足出来るわけではありません。子供がオナニーをしているところを大人に見られたら……流石に止めますよね。大人の性欲が常に満たされるものではないと言うところは……まぁ、ねぇ」
「教授、それセクハラ発言ですよ」
 女子学生の声が飛ぶ。併せて笑い声がちらほらと聞こえてくる。
「何言ってるんだ。私の講義をこれまで聞いてこなかったのか? フロイトの精神分析論そのものが『性欲』をベースにしたものだと話してきたでしょう? 無論、君達の言うセクハラと同義での性欲とは異なりますけどね」
 箔座は掛けている眼鏡の位置を指で直す。
「こうした性の欲動がその目標を実現出来なくて、その形を変える様子を『欲動の運命』として、フロイトは四つのパターンにして挙げています」
 すると黒板に向かった箔座はチョークを手にして、講義室内に響き渡るほどの乾いた音を立てながら、四つの項目を書き表した。

『対立物への逆転』
『自己自身への方向転換』
『抑圧』
『昇華』

「『抑圧』と『昇華』については前にした心の適応機制の話に譲るとして、他の二つについて見てみましょうか」
 箔座はここで水差しから水をグラスに注ぎ、ぐいと一気に飲み干した。
「フロイトはこれらについて、例として『サディズムとマゾヒズム』、『窃視症と露出症』を挙げて説明しています。この際、『発展のそれぞれの時点において、欲動の動きと同時にその対立物が観察されるという事実』がその特徴的性格だとしています。このことをオイケン・ブロイラーの用いた言葉を借りて『アンビヴァレンツ』と呼びました。『アンビヴァレンツ』とは日本語で『両価性』と表されます。『反対する二つの気持ちが同時に湧き上がってしまい決められない』状態のことです。『自分自身が意識上の偽りの自分と、心の奥底に『抑圧』した現実の自分と言う、矛盾し合う二つに別れてしまう状態』を指す『葛藤』と似た状態ですね」

 丸山七海(まるやまななみ)は机の上で頬杖を付きながら、箔座の話を聞いていた。表情が元々緩めな七海は、こういう態度を取るとどうにも居眠りしているように他者からは見えがちになってしまうらしい。
「丸山君」
「はい?」
 七海はまたかとでも言いたげな気だるい声を上げた。また夢うつつで聞いていると思われたのであろうか。
「今、私が話したうちでの『抑圧』と『昇華』。説明は省略したが、君はちゃんと覚えているかね? 前に講義でも話している。ちょっとおさらいでそれらがどういうものか説明してくれないか?」
 やれやれ、だ。
「ええっと……『抑圧』ですが、これは適応機制の中で最も基本的で重要なメカニズムです。自分にとって都合の悪い欲求や感情を自我の中には入れようとせず、無意識のうちにイドの中へ放り込んでしまうこと、そのようにして一時的に安定感を得ようとする機制です。両親や尊敬する人に対する敵意のように、社会的・道徳的に許されないような場合に抑圧されやすいことが多いかと。抑圧は無意識的に行われるもので、意識的に抑える場合は『禁止』又は『抑制』と言って区別しています。フロイトによると、抑圧されたものは神経症や夢という形で必ず戻ってこようとします」
「次に『昇華』。えぇ……性欲や攻撃欲など、そのままの形では社会的制約を受けるものを、芸術や文学、スポーツなど社会的に承認される行動に振り替える機制です。失恋の悲しみを芸術や仕事に向けて大成しようと努力をしたり、障害を克服して社会的に成功したと言われる人達の行動がこれに当たります。欲求不満にあった時の行動としては、最も望ましいものとされています。ですが、その本人が乗り越えねばならない苦痛は計り知れないものがあります。『昇華』は簡単に実現するものではなく、挫折した場合、病的な状況に陥りやすいと言えます。成功した一部の人を除けば、他の適応機制の方へ流されていくと考えても過言ではないです」
 箔座はにんまりと笑った。
「おお、ちゃんとノートは取っているようですね。感心感心」
 こんなものノートでも見なきゃ答えられるかと思い、七海は膨れっ面をした。

「先生、さっきは酷い。居眠りしてるってまた思ったでしょ?」
 講義の後の昼休みに、構内のカフェテリアでエスプレッソを飲んでいる箔座の席の向かい側に座ると、七海はここで購入したデニッシュサンドにかじりついた。パストラミビーフとクレソン、モッツァレラチーズとの相性がなかなか良く、七海のお気に入りメニューの一つだ。
 箔座は声を上げて笑った。
「なあに、丸山君のことだ。君ならそつなく答えてくれると思いましたよ。何にも答えが返ってこないようじゃ実に面白くないですからね。私自身のモチベーションが下がる」
「確信犯じゃないですか」
「分かっちゃったです?」
 七海はふふっと笑って返した。
 七海は須藤一樹と同じ職場の丸山重雄の娘だ。先月に二十一歳になったばかりで、心理学専攻の大学三回生である。父と年齢の近い箔座松太郎とは研究室でよく個人的に話し込むことが多い。決してガリ勉タイプではないのだが、ことのほか心理学にはまり込んでおり、特にナルシシズムについての話に首っ引きであった。高校時代に、ナルシシストであるパリの若き弁護士クラマンスを主人公とする、アルベール・カミュ著「転落」を読んで、何故かえらく興味をそそられたようだ。卒業後は臨床心理士としての道を希望している。箔座は専門がフロイトと同じオーストリア出身の精神科医であり精神分析家のハインツ・コフートである。コフートは自己愛性人格障害の研究に関し、その考察から新たな発展を築くきっかけを作った人物である。またフロイトの提唱した「古典的精神分析」を更に発展させ、欲動理論は用いていない。だが箔座自身はフロイトの古典的分析論にも詳しく、ゼミの形でフロイトを扱っている。七海は箔座の講義を選択したことがきっかけで、おどけた感じのある箔座に関心を持ったのであった。
「さっきの両価性の話を聞いてたら、何だか思い出しちゃいました。『エロス』と『タナトス』の話」
「ああ、でもあれとは別物ですよ。そもそも、エロスとタナトスの出てくる欲動二元論を発表する前の著作ですからね、あれは。この二つの欲動は人間の潜在意識の中に表裏一体で存在するものとされていて、両価性のような『葛藤』に至るようなものじゃないんです」

 フロイトが辿り着いた理論の一つが「欲動二元論」と言うものだ。これは人間には元々「生」を求める欲動と、「死」を求める欲動の二つを潜在的に持っており、人間はそれには逆らえないという内容である。「生の欲動」は「エロス」、「死の欲動」は「タナトス」と呼ばれる。「タナトス」は別名「デストルドー」とも呼ばれるが、そもそも「タナトス」と命名したのは、元々はフロイトの精神分析を受け、後にフロイトと共に初期の精神分析学の普及に貢献したが、意見の相違で袂を分かつ結果となったヴィルヘルム・シュテーケルであり、フロイトは「死の欲動」とは呼んでも、「タナトス」という単語は用いていない。
 タナトスとは古代ギリシャ神話に登場する死の神である。夜の女神ニュクスの子供で(父に当たる神はいない)、眠りの神ヒュプノスの兄であるタナトスの役目は、今にも天命を全うせんとする者の元へ赴き、その者へ死の確定宣告をし、冥界へ連れて行くと言うものである。ギリシアの抒情詩人ホメーロスが描く前までは、タナトスは「鉄の心臓と青銅の心を持つ非情の神」(神統記より)とされていた。
 人間が自身の死を求める「壊れた」本能である「死の欲動」を、その性格からタナトスの呼称が使われるようになったのである。

 では、自身の自己破壊情動とも呼ばれる「死の欲動」とは何なのであろうか。
 フロイトはかのカール・グスタフ・ユングと同じように、その活動初期に夢分析を行っていた。もっとも、ユングよりはフロイトのほうが先発である。その分析により得た結論は、「夢は願望の充足である」とするものであった。
 簡単に言うと、トイレに行く夢を見ている時は、夢でトイレに行くことにより、トイレに行きたい欲求を満たしているわけだ。ケーキを腹いっぱい食べている夢というのは、夢でケーキを食べることにより、実際には食べられなかった、又は食べてみたいケーキへの「食べたかった」という願望を満足させているわけである。そうした無意識の中にある抑圧されたものが睡眠中に意識の中に入り込もうとする時に、そのままの形だと刺激が強すぎて目が覚めてしまうため、様々な経過を通って夢と言う「視覚像」として表出させることにより、睡眠を守る……これが人が夢を見る理由だとフロイトは説いた。
 ところで、第一次世界大戦後、戦場で悲惨な体験をした者の間に「外傷性神経症」と呼ばれる症状が多く見られた。これは生命を脅かすような体験をした後で症状が出る神経症で、彼らは自分の体験した恐ろしい場面を繰り返し夢で見るのである。PTSDのフラッシュバック症状と似たものだ。
 この外傷性神経症の症状は、先述したフロイトの「夢は願望の充足である」とする説と真っ向から衝突した。二度と見たくないと思う場面を繰り返し夢で見ると言うことは、夢イコール願望の充足という説とは矛盾する。これを説明するためにフロイトが導入した概念が「反復強迫」である。嫌だと思っているのにまたやってしまうということだ。この「反復強迫」が見られる現象は外傷性神経症の症状の他、「宿命神経症」の行動と言うものもある。ギャンブル狂いで、金は持ち出す、浪費する、併せて暴力は振るう駄目男に苦しめられた女性が、また同じような男と一緒になってしまう(同じような不幸や災厄に繰り返し遭う、自分からそういう方向へと流れていってしまう)と言うものでもある。
 この反復強迫なるものは、欲動をひたすら満たそうとする「快感原則」にも、また欲動をそのまま満たすことを我慢し、現実に見合った形で満たそうとする「現実原則」にも当てはまらないものである(フロイトは、人間の欲動はこの二原則に従っていると考えていた)。フロイトは、この反復強迫はこれら二つの原則の対立よりも、更なる深遠部から来た、何か「悪魔的な」性格を持つ傾向があるもののように感じ、人間はそれには逆らえないのだと考えた。
 この考えが「死の欲動」へとリンクしていく。

 フロイトは、反復強迫の奥底には「無生物へ戻ろうとする傾向(生物は無生物から生まれたものであって、死ぬとまた無生物に戻っていくという何かしら宗教的な考えから来ている。『土から生まれ、土へと還っていく』と表現したほうがいいかもしれない)」があるのではないかと考えた。そして欲動には、ひたすら過去へ戻ろうとし、「何もない無の状態」イコール「死」へと向かおうとする性質があるのではないか、反復強迫はその欲動の退行的な性格を表しているのではないか、という考えに至る。人間には元々死を望む欲動がある……フロイトはそれを「死の欲動」と呼び、生きようとする「生の欲動」との二元論に到達したのであった。
 ある学者は、体に悪いと知りつつタバコを吸い続けるのは一種の自殺行為であり、死の欲動の表われであると説明している。集団自殺する宗教集団は死の欲動に駆られていたかもしれないという見解もある。インターネットで知り合って一つに集まり、車の中に練炭を持ち込んで自殺する者達も、もしかもすればその行動は死の欲動に付かれてのものなのかもしれない。
 この最終的に到達した欲動二元論から、フロイトは人間を、生の欲動と死の欲動の二つに引き裂かれた存在だと考えるようになったのである。

「自分を死へと追いやろうとする壊れた本能か……言い換えたら、『虚無』になろうってことなのかな」
「虚無?」
 箔座がエスプレッソの最後の一口を飲み干すと、「何ですかそれ」と七海に訊き返した。
「あ、昔の映画を思い出したんです。『ネバーエンディング・ストーリー』。そんなファンタジー映画があったじゃないですか」
「ああ、ミヒャエル・エンデ原作の『果てしない物語』ですね。私も観ましたよ。映画じゃ、主人公の少年が白い竜に乗って空を飛び回ってましたっけ。原作も読みました」
「ファルコン、ですよね。あの竜」
 原作は旧西ドイツの作家、ミヒャエル・エンデによる小説である。ハッピーエンドで終わる映画と異なり、原作では主人公が暗黒世界へ堕ちてしまうと言う、映画しか知らない者からすれば驚かされる話でもあるのだ。
「あれに出てきた虚無って、全ての存在を消してしまおうってものだったんじゃなかったかな? だとすれば、自分を破壊して死へ向かおうって言うタナトスと、何となく似てるなって思ったんです」
「ああ、西洋じゃ『無』というものは恐れられてますからね。だから……あ、そうだ。知ってます? そうした西洋人の視点から見て、『これは悪魔崇拝だ』って言われた宗教が日本にあるって話」
「何ですか、それ?」
「仏教ですよ。仏教は過去に西洋世界からは恐れられたことのある宗教なんです」
 昼下がりの大学のカフェテリアで、初老の教授と二十一歳の女子学生が話す内容とは到底思えないようなトークが繰り返されている。
「仏教では『無』を崇拝した宗教だとして彼らは震え上がったんですよ。何せ、『存在あるもの』を崇拝する彼らの宗教とは全く次元が違う。理解出来なかったんでしょうね」
「教授。そんな話初耳です」
「涅槃(ねはん)の境地って聞いたことあるでしょう? 仏教では、そこに達することが魂の救済とされていたんです。輪廻転生、これはこの世にある命が死後、新たな世界で新たな命として生まれ変わることを永劫に続けるって言うものです。新たな世界と言うのは来世ね。仏教で言う来世には、神仏の住む世界から地獄まで何層もあるとされているのですが、実は何処に生まれ変わるかは分からない。そして何処の世界に生まれ変わろうかなんて選択もない。全く自由のない世界です。それが未来永劫続く。それは仏教からすれば『苦』なんですよ。そんな輪廻から解脱(げだつ)……つまり解き放たれて、無へと還る。そのことを涅槃って呼んだんですね。ま、実際にはあくまでも心的、精神的な概念の話ではあるのですが」
「へえ」
 箔座はふむと言いたげな表情をして呟いた。
「だから……もし、この仏教での最終的救済とする『無への回帰』と言うものが『自己破壊欲動』である『タナトス』と同義だとして……それがかつての西洋人が捉えていたような『邪(よこしま)』なものだとすれば、それはひょっともすれば、ブッダさえも取り込んだ、御仏(みほとけ)の力を以ってしても打ち破れなかった、人間にとって最大の『敵』と言うことにでもなるのでしょうか」
「何故です?」
「だから、仏教では無が奨励されているからですよ。ブッダは我々が恐れる無を受け入れた。それはブッダが無を受け入れることで、却って無を克服したとも言えるでしょうが、無からすればブッダを取り込んだとも言える。ま、そもそも克服ではなく、無への回帰を説いているわけですが……」
 七海がそれに続ける。
「無と自己破壊願望が同義だとして、そしてそれは、あらゆる人の潜在意識の中に潜んでいる……」
 箔座は声を上げて笑った。
「比較対照にする題材に問題がありすぎですよ。まあ、それでも、ちょっとしたファンタジー系のゲームストーリーにぴったりな話じゃないですか。かなり無理のある展開ではありますがね」
 七海は顔を天井に向けて、ふうと溜め息をついて答えた。
「何だか実にならない話ですね、これ。少なくともゼミの内容には関係ないですし」
「そりゃそうだ。さて、私はそろそろ行きます。丸山君は午後も講義があるんですか?」
「いえ。今日から新しいバイトなんです。家庭教師みたいなものかな」
「君が家庭教師?」
「ええ。相手は小学生の男の子です。父の職場の上司の方の息子さんでして。父を通じて私も何回かお会いしたことがあるんです」
「ほお。宿題を教えたりとか?」
「それもありますね」
 七海は席を立つと、テキスト類などが入ったトートバッグを肩に提げた。箔座もゆっくり立ち上がると、飲み終えた後の空のデミタスカップを手に持った。
「そうですか。じゃあ、頑張ってください。あまり空回りしないように」
「それどういう意味ですか」
 笑いながら箔座はカップを返却口のほうへ持っていき、そして軽く手を振って見せた。


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