戸田治美(とだはるみ)は、四ツ谷から代々木方面行きの中央線に乗車し、車体の揺れと共に押し寄せてくる乗客達の波を避けようと体を微かによじらせていた。幡田(はただ)家への介入は今回が初めてだった。異常なまでの子供の泣き叫ぶ声と、ヒステリックな母親の怒号にたまりかねた近所の主婦から、治美の勤める東京都児童相談センターに通報が入ったのだ。そこで児童福祉司である治美が向かったが、そこで出会った幡田美里(はただみさと)の第一印象は例えて言うなら、「今にも割れ砕け散ろうとしているステンドグラス」だった。端正な顔立ちと一見明るく振舞って好印象を与えてきそうな女性、美里は可愛らしさの残る笑顔と、それとは非対称的な冷ややかな眼光と定まらない視線、きびきびしてはいるものの、頭のてっぺんから時折突き抜けるような高さと真逆の低さがアンバランスな声で話すその姿は、治美には違和感を以って感じられた。 まさに壊れんとしている自分自身を何とか他人に見せまいと懸命に繕っている姿だ。崖っぷちで落下ぎりぎりのところで、今にもちぎれそうな枯れた蔓草の蔓を片手の指に巻き付けていて、崩れ落ちようとしている足場に震えながら爪先立ちでいる印象。ここまで分かりやすいのなら、対処はさほど難しくはないであろう。一見、完全なるポーカーフェイスや嘘を演技することに長けた者、自分を「普通」に見せることに全く抵抗も感じていないような者とのやりとりは神経を使わせられる。虐待を行う親のそのような隙のない素振りで気付くことが遅くなればそれだけ、子供への更なる災難を呼び込んでしまう。発見が遅れればそれだけ、場合によっては、子供の命の危険が増すだけの結果になるかもしれない。いや、命が失われることも珍しいことではないのだ。 ただ、現時点だけでは一時保護の決定は難しい。何せ子供の状況が確認出来ていないし、息子の俊哉(としや)にはまだ会えていない。俊哉の実の父親は亡くなっており、今の父親は義理の親だ。義父の幡田歩(あゆむ)は前夫と同様に婿養子として幡田家に入ったのだが、その者に会おうにも現在出張中とのこと。とにかく再度の面談が必要だ。それに、一時保護をしたとしても、そのような子供の数は今は膨れ上がっており、まさにパンク状態である。せいぜい保護期間は二ヶ月が限界である。保護後一ヶ月程度で児童自立支援施設へ送られる子供も多いが、それが児童相談所側の一面的な見方で行われる場合があることに治美は些か疑問を抱いている。対象になる子供を保護し、虐待から守ることが目的ではあるが、そのために十分な調査や面談が出来ず、判断が一方的な見解でなされることも少なくないことは否定出来ないのである。 しかし、あまり悠長に構えている時間はないのだ。その間に取り返しの付かない事態になってしまう。そうなる前に子供を緊急避難させねばならない。勿論、虐待する側の親があまりにも強引に引き取り要求をしてくることもままある。 「何が分かる?」 「勝手に判断するな」 「子供を返せ。お前等は拉致集団なのか?」 たとえ十分に分かっていないとしても、放っておくわけにはいかない。子供をむざむざ殺させてしまうわけには決していかないのだ。 幡田美里は新宿で歴史の長い宝石店を営んでいる。夫の歩は美里と共に店で働いている。美里の母親は銀座で料亭を営み、父親は某大手銀行の支店長だ。かなりの実業家家族である。今日は美里は久しぶりの休みということで自宅にいた。四ツ谷で一軒家を持っている。息子の俊哉は「まだ学校から戻っていない」として、治美の訪問は一蹴されてしまった。「待たせてくれ」と伝えたが、家に戻らずまっすぐ学習塾に行くから、帰りは夜遅くなるとして相手にしてもらえなかった。
とにかく、出来る限り早く再訪しようと思いつつ、治美は携帯を開いた。メールが届いている。高校時代の同期で友人の多々良次朗(たたらじろう)からだ。
「今夜メシ食うぞ〜」
これだけである。相変わらず人の予定などお構い無しの強引さだ。多々良は現在、西新宿にある新宿署にて生活安全課に所属している。その中でも少年犯罪を担当している男だ。年齢は三十二。色黒で短髪、小柄且つ痩せ型ではあるが、一般的な第一印象であるところの神経質さは何処へやら、競馬と酒が大好きなことが難点の「気風のいい」男である(治美に言わせればの話だ)。
「今夜はダメ 会わなきゃいけない子供がいるの」
すぐに返信する。子供とは幡田俊哉のことだ。塾の帰りが夜遅いとは言ってもたかが知れた時間だ。家の前で待ってみようと思っていたのだ。すると間髪を入れず多々良から返信が入った。
「じゃあ今はどうだ? WINSそばのマックで待ってる」
WINS? また馬券と戯れていたわけね、と治美は軽く溜め息をついた。これがあるから、多々良と一時付き合ってはいたが、結婚する踏ん切りが付かなかったのだ。ただ、結婚に至らなかった主因は別にあったのだが。
甲州街道(国道二十号線)沿いに位置するJR新宿駅。新南口と東南口の間を長く緩やかな跨線橋が走り、WINSはその跨線橋を新宿フラッグスとはす向かいで挟むような位置に建っている。WINSは新宿区にある日本中央競馬会(JRA)の場外馬券売場だ。跨線橋とWINS前の道は幅が狭く、片側に多数の店舗があり、常に人で賑わっている場所にあるのだが、その立地条件が故に新宿駅にまで馬券を求める者が行列をなし、入場規制が行われたこともままある。 WINSから新南口に向けて行くと、数件の店舗を合間に挟んで、多々良の待つマクドナルドの店舗がある。 治美はカウンターの前の列に並び、自分の番になってアイスティーを注文し受け取ると、右手にある階段を上がり二階席に入った。二階席の入り口をくぐると、向かって左側のほうが奥行きがあり、大勢の客が狭い店内に張り巡らされたカウンター席や小さなテーブル席にへばりつくように銘々が座って、バーガーやドリンク類を口に運びながら雑談や読書、ネットブックによるネットサーフィンなどを楽しんでいた。 多々良はその左側の奥、跨線橋の見える窓のほうを向いたカウンター席で待っていた。 「よお」 黄色いTシャツに白の短パン、脛毛の濃い両脚の下にはクロックスのサンダルを履いた姿で、多々良はシェイクをずるずると音を立てながら啜っていた。 「それが女性を呼んどいて出迎える格好なの?」 「放っとけ」 「すったんでしょ? いくらやられたんだか」 「残念でした。プラマイゼロ……までもうちょいだったんだけどな」 「ばぁか」 治美は多々良の隣の席に腰を下ろし、アイスティーの紙コップをテーブルに置いた。 「で、どうしたのよ」 付き合っていた、と言えば過去形の言い方になるが、二人の付き合いは恋人関係でなくなった後も友人関係として続いている。ただ、本当に恋人としての間柄だったのかと問うと些か疑問が残る。好きという感情は確かにあったのだが、それが異性として互いに意識しての感情だったのかとなると、応えは「否」だった。多々良が治美を気まぐれで呼び出すことはそう珍しいことではない。普通に食事に誘ったり、オフの日に共に出掛けることもある。メールのやり取りもしょっちゅうあるし、飲みかけのペットボトルを普通に回し飲みしたり、ちょっとしたスキンシップもある。一時は恋人同士としての関係を持ったこともあったが、その意味合いでの体の関係はないままだった。とは言っても、二人でいると自然な感じでいられる。それが恋愛対象としてではなく、友人としての感じ方だということに気付くにはそう時間は必要なかった。それでも心地よさを感じていたことは本当であり、治美と多々良はその感覚を腐れ縁と呼んでいた。 「実は妙な話があってな」 多々良はシェイクの残りを豪快に音を立てて吸い切ってから話し始めた。
それは一人の相談者の生活相談課への来訪から始まった。対応したのが多々良で、相談者は都内で心療内科クリニックを開いている開業医だった。名を甲斐隆一(かいりゅういち)。精神科医が一体何の用だと些か訝しむ気持ちで対応したところ、実に奇妙なことを話し始めたのだ。 「最初、何かしらの原因で集団ヒステリーに似た症状に至ったのだと思ったんですよ……」 甲斐の話によるとこうだ。とある児童養護施設の職員がやって来て、相談があると持ち掛けてきた。どうしたのか訊いてみると、その施設に入所している子供達が「上の空」になってしまったのだと言うではないか。 「上の空……ですか?」 児童擁護施設とは満一歳以上から満一八歳に達するまでの子供のうち、保護者が病気や行方不明になったりなど止むを得ない事情があり、家庭での生活が困難になったり、その他環境上養護を要する者が生活している施設である。その職員の勤める施設にて、朝になったらいきなり何人もの子供が無表情になり、それぞれが独り言を呟いているのだそうだ。何を話し掛けても肩を叩いても、何をしても全く無反応だとのこと。目の前のある一点をじっと見つめているような瞳に生気はなく、半開きになった口には、口角から垂れた涎の糸が伸びている。呟きに耳を澄ますと、その内容には共通点がある。 「『親を呼んでいる』って言うんです。で、その子達は皆、両親か片親を亡くしている経歴があるそうでして」 はぁ、と多々良は気のない返事をした。確かに複数の子供がある朝になって一度にそういう変化を迎えていれば、確かに妙に感じるであろう。ただそれは生活安全課とはいえ、警察がどうこうするような話には到底思えない。 「その子達はその朝から何も飲んだり食べたりせず、全く身じろぎさえしなくなってしまったそうで、今日で三日目に至り、現在点滴の処置を受けているんだとか」 「あの、甲斐さん……でしたね。そのお話ですが、ちょっと何をおっしゃりたいのか分かりかねるんですが」 「ええ、よく分かります」 甲斐は深々と頭を下げて答えた。いや、分かっちゃいないだろうよと多々良は心の中で呟いた。 「それだけなら、まぁ、ウチに来られた職員さんには申し訳ないですが、私も先ずはその子らの体力の維持を優先して云々と考えるところなんですけども」 甲斐は続けた。 「その施設とは全く関係ないんですが、私の周りでも似たようなことがあったんです」 「はぁ……」 「先ず、一人は私が診ている小学生の女子でして。事故で両親を亡くしまして、今は母親の姉に引き取られている子がいるんです。重度のPTSD(心的外傷後ストレス障害)で薬物療法を受けていまして。症状に改善が見られ始めたのですが、昨日その姉から電話がありまして」 この医者、患者に対しての守秘義務なんてなんのそのって感じだな、と多々良は思った。それとも、その義務の範疇を超えるような異変が発生しているとでも言いたいのだろうか。 「早朝、彼女の張り上げる声を聞いてびっくりした姉が部屋に行くと、その子が立ったまま……その、失禁していて、無表情でぶつぶつと『パパとママが来た』と呟きっぱなしだって言うんですね」 「その、ええ、つまり、死んだ両親が会いに来た、と?」 「はい」 「はぁ……」 「保護者である姉に当院に連れてくるよう言いまして、昨日診たんです。かなり苦労したようで、その女子は全く体を動かさず、それこそ石か岩を持参するような感じで来たんです。あれは無表情と言いますか、仮面様顔貌って言うほうがしっくりくるような状態だったんです」 「かめんようがんぼう?」 「ええ。あれは精神疾患と言うよりも、まさにパーキンソン症状そのものって感じでした。動作が殆どなく、反射も見られない。あ、ご存じないかもしれませんが、その疾患は小学生が発症するようなものじゃないんです。いや、若年性として発症歴がないわけじゃないですが」 そんなものご存知じゃないよ、と再び多々良は話し続ける甲斐に対して、何だかやりきれないような感覚を抱いた。この男は何が言いたいのだろう。似たような症状の子供がたまたま自分の周りでぞろぞろ出てきたから、おかしいんじゃないかとでも言う気なのか? 「それだけじゃない。私の知人で規模の大きい総合病院で同じ心療内科医をやってる者がいるんですが、彼もそんな子供を一日で何人も診た、しかも全て初診でって言うんです」 「初診で、ですか。つまり、何ですか、同じような病状の子供が複数の箇所で一度に出たのが変だ、調べて欲しいとおっしゃられるわけでしょうかね?」 「……ええ。気になって仕方がないんです。あんなもの、周りに風邪かインフルエンザみたいに感染するようなものじゃない。それに、彼等……その子供達の間に似たような境遇はあれど、同じ環境下で同じ何かしらのショックを受けたとも到底思えない」 「ううん。確かに妙な話ではありますが……」 「しかも、その知人が診た子供達は皆、片親か両親を亡くしているって言うんですよね。こんなこと、実際に起こっているのにこう言うのもおかしいですが、まるであり得ない」
「確かに妙ね」 治美は半分ほど飲んだアイスティーの紙コップを持ちながら、窓の外を見つめて言った。 「だがそこに不自然性はあったにしても、事件性なんてあると思うか? そんな話を持ち込まれてもどうしろって言うんだか。うちじゃなく保健所に言うべき話じゃないか? 仮に話を持ち込むならのことだがな」 「その甲斐ってドクターは、最初何らかの集団ヒステリーかと思ったって言ってたわけよね? 一番考えられそうな理由の気はするんだけどね。でもその子らには何の共通点もない。親を亡くしているってこと以外は」 多々良は溜め息交じりで「ああ」と答えた。多々良はその話を鵜呑みにしたわけではなかったが、それでも何かしらの違和感を感じていた。そんな作り話を持ち込んだとして、その甲斐という男にどんなメリットがあるのだろうか。 「病院や施設での話ってことだし、何か薬物の類いでそうなったのかとも思ったんだがな」 「そんな子供達が皆薬物療法みたいなことを受けているわけじゃないわ。処方されている薬は子供によってはあるかもしれないけど、それなら被害報告がもっとあったとしてもおかしくない」 何処ぞの製薬会社が販売している薬品による中毒症状なのだろうか。幻視に幻聴……考えられなくもないが、そんな薬品が巷に溢れているのだろうか。それについては専門家ではないから分からない。 「で、お前の元にそんな話が舞い込んでいないか、ちょいと訊きたかったんだ。電話やメールじゃ埒が明きそうでもないっぽいしな」 多々良の言葉を聞いた治美はふう、と声を出して息を吐いた。
幡田俊哉は学習塾には行っていなかった。行っていないどころか通ってさえいなかった。俊哉にとって、学校から家に戻るまでの道は地獄へ真っ逆様に落ちゆく罪人であるかのような気分に陥らせるものであった。元々母親からはあまり相手にされず、寧ろ邪険にされがちだった。仕事に没頭していた母にとって、息子は自分の生活にはあまり必要ない存在だったのだ。再婚する前の夫はそんな俊哉を可愛がっていた。前夫に半ば押し付けるようにして仕事にのめり込んでいた母の美里は、そんな夫にも横柄に振舞っていた。 前夫は今の夫と同様、婿養子で家に入って来た男だ。結婚前に付き合っていた頃は、二人はそれなりに普通の恋人同士の関係であった。だが、結婚する前から女癖が多少なりとも良くなかった前夫に、早々に三下り半を突き付けたい気分で、美里は毎日を過ごすようになっていた。だが家が家だ。世間体をむやみに気にしていた家族にとって、身内の離婚というような「恥」的行為はあってはならないものだった。 結婚後も浮気をする前夫に美里は嫌悪感に満ちた視線を持つようになっていった。態度にもそのような感情が浮き出ているので、前夫は更に美里以外の女性にちょっかいを出すようになっていった。気位の高い妻への不満、結婚するなら婿入りするしか認めないとする妻の両親への不満、妻の現在の自身に対する諸言動への不満。前夫を他の女性に走らせる動機は十分過ぎるくらいにあった。だが、それでも息子の俊哉は可愛らしかった。俊哉も前夫によく懐いた。 それが美里には気に入らなかった。 そんなある日、前夫が愛人に殺害される事件が発生した。幡田家の財産狙いで近寄り、妊娠したという嘘で言い寄ったその女は、実際には妊娠もしていなかった子供の認知を一切しようとしない前夫に対し、逆上して衝動的に鈍器で後頭部を殴打するという行為に及んでしまったのだ。このことは幡田家にとっての最大の恥となった。美里は前夫を恨んだ。その恨みは残った前夫との子供である俊哉に「必然的に」その矛先が向けられた。罵声を浴びせ、躾と称して暴力を振るい、食事も満足に与えず、そして息子を憎んだ。母の両親、つまり俊哉の祖父母も俊哉に対して何があっても無視(ネグレクト)するという態度に出ていた。母の虐待を見て見ぬ振りを決め込み続けた。その後、美里は再婚したが、新しい父も俊哉には関心を持たなかった。 しかし、そんな美里でも俊哉にとってはただ一人の血の繋がった母親だった。如何に針の筵(むしろ)のような家でも、俊哉にとって帰る家はそこしかなかったのだ。 治美が訪問した日の夜、美里の俊哉への暴力はいつも以上のものだった。児童相談所の人間が家に来た、あの女は自分が子供を虐待しているのではないかという嫌疑の目で自分を見つめた、この私が何処の者か分からない女なんぞに白い目で見られた、そんなことは決して許されない。何故? 普通の心穏やかな生活がしたいだけなのに。普通の幸せな生活を送りたいだけなのに。この子がいるから全てが上手くいかないのだ。こんな子がいるから私は不幸なのだ。こんな子供がいるから私は……私は…… 「何よその目は? ええ? 何だってのよ、その汚いものでも見るような目つきは?」 美里の態度はまさに病的だった。明らかに病んでいた。夕食時、美里は熱い味噌汁を俊哉に浴びせ掛け、頭を力任せに叩いた。俊哉は泣いた。俊哉を叩いた自分の手が痛い。俊哉の泣き声と併せ、それらが自分の理不尽な怒りを更に増長させた。 「お前なんていなくなってしまえばいいのよ! 邪魔なのよ!」 母親が子供に掛ける言葉とは到底思えない暴言を頭ごなしにぶつけ、そばにあった皿や箸、グラスを投げ付けた。 「お母さん……ごめんなさい!ごめんなさい!」 自分を「お母さん」と呼ぶ俊哉の声が実に嫌だった。美里は俊哉の髪を鷲掴みにし、味噌汁や夕食で汚れた服装のまま外で放り出した。 「そのまま何処へでも行っちまえ! お前の顔なんて見たくない! 死んだあの男の元に行っちまえばいいのよ! 疫病神!」 美里はそう罵るとドアを荒々しく閉じ、中から鍵を掛けた。更にチェーンを掛けた。息を荒げながら家に入ると、美里はその場で声を上げて泣き喚き、その場に崩れ落ちた。 自分はとんでもないことをやっている。自分のやっていることはまさに鬼畜の成す行為だ。僅かに見え隠れする罪悪心が更に美里を追い詰めた。でもどうにも出来ない。美里は自分の狂気を抑えることが出来なかった。
嫌だ……もう嫌だ……お父さん、助けて……
俊哉は家の前でただただ泣きじゃくっていた。母が怖い。母は自分が大嫌いだ。母を……母と思いたくない。母でなければ多少は心は楽になるだろうに。それでも母は母だ。今の自分にはあの母しかいない。自分を可愛がってくれた父、温かく抱きしめてくれた父、一緒に遊んでくれた父はもういない。あの鬼のような母親しかいない。自分のことを愛してくれる者は誰もいない。自分は一人きりだ。俊哉の絶望の涙は流れ続けた。 俊哉は母のことを嫌いになれなかった。どのような仕打ちを受けようとも、母を嫌いになり切れなかった。そのことが俊哉の心を更に追い込んでいた。 「としや」 俊哉は泣きじゃくる顔を上げた。聞いたことのある声。温かく懐かしい声。 「俊哉」 俊哉の前にいた者はもう一度そう呼びかけてきた。 「……お父さん?」
治美は夜道を幡田家に向けて急ぎ足で歩いていた。何だか胸騒ぎがする。この悪い勘は嫌なことに、結構当たる確率が高い。自分が訪問したことで、子供が更に酷い目に遭わされることは少なくない。本来なら一日も早く保護の準備を整えるほうが先決なのだが、この夜ばかりは治美の勘が、俊哉への危険をひっきりなしに訴え掛けている。 幡田家の門構えが見えてきた。街灯の下、子供が見える。男の子だ。あれが幡田俊哉少年だ。そう思った治美の足が止まった。 「何よ、あれ……」 治美の目には異様なものが映っていた。 少年の前に「黒いもの」が立っている。それは「黒煙の柱」とでも言うべきか。ゆらゆらとした輪郭、特定の形をしているのではなく、ただ煙か霧かガスなのか、黒い「気体」の塊のようなものが俊哉の目の前に垂直に立っていたのだ。 「俊哉君!」 治美の見ている前で、俊哉はその黒いものに全身を包まれた。俊哉は涙を流した跡を顔に残しつつ、泣いて赤く腫らせた両目をしつつ、しかし全くの無表情でその場に座り込んでいた。黒色の異物は俊哉を包み込んだ後、その場で四散していた。 治美は俊哉の元に駆け寄ると、しゃがみ込んで俊哉の顔を見つめた。そして肩に両手を置き、大丈夫かと声を掛けた。だが俊哉は返事をしなかった。代わりに小さく低い声で呟いていた。 「お父さん……お父さん……」 昼過ぎに新宿で聞いた多々良の話が脳裏をよぎった。まさか、あの話ってこういうことなのか? しかし何があったというのか? あの黒いものは何だったのか? 自分の目の錯覚か? 夜の闇より黒い異物はしかし確かに俊哉の前にあった。そして俊哉を頭から「食らいつくように」すっぽりと包み込んだ。確かに見た。
治美は気付いた。俊哉のすぐ後ろに何かがいる。
先程の黒い異物の柱が俊哉の真後ろで、つまりは治美のすぐ目の前でいきり立つようにその姿を再び現した。柱の中心には黒いタールのようなものが重々しくも力強く、汚いあぶくを伴いながら、下から上へ、上から下へ、どろりとした対流を治美に見せ付けていた。そしてその異物はその輪郭を変化させた。闇よりも黒い真っ黒な布を全身に巻きつけ、同じく黒色のフードを深々と被った「人物」のように姿を変え、俊哉の体を突き抜いてその「腕」をぐいと治美の顔に伸ばした。 治美は叫び声を上げた。俊哉の肩から両手を離し後ずさりして「腕」を避けた。フードの中の黒き流れは眼球のない死人のような顔を浮かび上がらせ、次いで男性の顔を浮かべた。俊哉の亡き父、幡田美里の前夫の顔だった。治美はその男性の顔を知らなかったが、俊哉の亡き父親だという直感が鋭く全身を貫いた。 その顔は続けて何人もの人物の顔に変化した。フードの中で複数の男女の顔が移り変わっては、治美にその目を向けた。それらの表情は悲しげな感情に溢れたものばかりだ。 治美は目の前のものが何なのか全く見当が付かなかったが、それが危険なものだという感覚だけはしっかりしていた。今すぐこの場から逃げなければいけない。これは何だか分からないが……間違いない。これはこの世のものではない。 だが体が動かない。脚が動かない。 異物は獣のような雄叫びを上げた。夜空を劈(つんざ)くような、神経を思い切り逆なでするような、不快極まりない叫び声、脳裏に焼き付くまでの醜悪な鳴き声。その瞬間、体を鎖で縛られているが如き感覚が解け、治美は立ち上がることが出来た。そして俊哉の手を引いた。俊哉は石のように固まっていて、その場から全く動かない。治美一人の力ではどうにも出来ないほどの強固な力でその場に括り付けられているようだ。 治美は俊哉から手を離すと、今来た道を全力で走った。逃げた。
今の治美にはそれしか出来なかった。
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