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作品名:リフレクト・ワールド(The Reflected World) 作者:芽薗 宏

第68回   第二部 第十五章 リーガン・アブダイク 【10】 世界の終焉、そして 【後編】
 夜の暗闇の広がる空に浮く雲を尻目にしつつ、F15は轟音を立てて東海岸方面へと飛び続けていた。リーガンとエマーソンの二人は、自分達が移動してきた後方の方角で何が起きているのか、視認したくもなかった。ひたすらバイザー越しに前を薮睨みしている。
 F15の飛行してきたコース上では、二人の搭乗する機体を追い掛けるように、二色の毒々しいまでの鮮やかな二色の色が迫ってきている。
 雲の混じる、むらのある夜空の闇の黒色、そして地表を埋め尽くさんとする、鮮血にも似た赤色を帯びたオレンジ色である。

 ギャレスの遺体を残したまま、途中に止めたバギーへと急いで戻る二人を突如、異変が襲った。辺り四方から響き渡る地響きの、冷たくおどろおどろしい轟音と共に、地面が大きく縦に揺れ出し、地表にあるあらゆるものが飛び跳ね始めたのだ。揺れに足下を取られつつ、二人は何とかバギーに辿り着き、飛び乗ったエマーソンがすかさず挿しっぱなしにしてあったキーを回す。勢いよく走り出した車体の前方の地面が突然、一度崩れ落ちるように下方へと下がると、次に丘陵が現れたかのごとく持ち上がる様が見えた。必至にハンドルを切り、アクセルをふかすエマーソンの横で、リーガンはダッシュボードに右手を付き、横に体を逸らすような体勢で、シートの後ろに左腕を回しつつ、懸命に揺れに耐えた。リーガンの身体が跳ねると同時に、それ以上にシートベルトがぱたぱたと飛び跳ねている。車のエンジン音は周囲の音と相成って鼓膜をつんざくほどの大音響となり、小さな車体の上の二人に容赦なく降り掛かってくる。
 その中、一際大きな、爆発音か破裂音にも似た音が左方向で轟いた。見ると、地面が、いや地殻を覆っていた被膜の如き地表がべろりとめくれ上がったかのような光景があり、その下方からオレンジ色の溶岩が噴き上がってきたのだ。
「危ない!」
 リーガンが前方に視線を戻した途端叫んだ。何やらくねくねとした長い塊が空から落ちてくるのが見える。連結したままの状態で上空へと舞い上がった地下鉄車両だ。エマーソンはアクセルペダルを最大に踏み付け、下手にハンドルを切らず、その車両が落ちてくる寸での差でくぐり抜けた。がしゃんという音と共に、車両はまるで上空から叩き付けられてもんどりうつ蛇の身体のように、捩れ曲がりながら二人の後方へと消えていった。
 辛うじて立ち続けていた高層建築物の残骸は脆くも崩れ去り、または複数が相重なるように互いに倒れ掛かり、一つの巨大な誇りの塊となって、視界から消え去っていく。車体は何度も地表から飛び上がり、着地する度に二人の搭乗者の身体に暴力的な衝撃を伝えた。
「糞ったれがぁっ!」
 エマーソンは叫ぶ。今や周囲は段丘のような地形へと変貌を遂げていた。そして、あちらこちらから夜の闇をオレンジ色に染める、禍々しささえ感じさせるほどの鮮やかなコントラストを穿つ溶岩が、空高く噴き上がっている。リーガンの目にはそれが、まるで映画のワンシーンに出てくる、頚動脈を切られた人物が宙へと撒き散らしている鮮血のように映っていた。
 もう言葉が出ない。恐怖と緊張で呼吸さえままならない。
 ふと揺れが小さくなった。エマーソンは割れ目の残るフリーウェイ跡を猛然とバギーを飛ばした。

 リーガンは少しばかり気を取り直すと、両手で周りを押さえつつ、後ろを振り向いた。
 上空に何かがいる。
 人?
 その「者」は何かしらのファンタジー映画にでも出てきそうな、妙な出で立ちをして浮かんでいた。
 夜の暗闇の中で、流れ出た溶岩の熱と光で浮かび上がらせた姿ではない。その「者」の色がはっきりと目に映る。足下が隠れて見えないくらいの長い真っ白なローブを纏い、尖ったような襟は頭上より高く跳ね上がっている。フードのようなものをすっぽりと頭から被っているせいか、顔は見えない。いや、顔の部分は真っ黒だ。真っ暗ともいえよう。闇しか見えない。右手には大剣を持ち、背中からは巨大な、神々しいほどに真っ白い、天使のような翼を大きく広げていた。それは身動き一つしないまま、二人のバギーに付かず離れずの距離を保っている。
「な……何よ……あれ……」
 リーガンは声にならない声で呟いた。
 あれは神なのか? 
 いや、そんな筈がない。
 神の存在など、この状況下なら尚更のこと、信じられようもない。それに、その純白の服装で飾られた「者」の周囲には、どす黒いオーラのような黒い「輝き」が渦のように流れ、対流しているかのように見える。
 途端、一つの単語がリーガンの脳内を高圧電流のように流れよぎっていった。そんなものは生まれて初めて見るものだし、その空中に浮いている存在が名乗ったものでもない、言葉を発したものでもない、しかし脳の中によぎった言葉は、それがその存在の名前であるかのように思えてならなかった。

「センチュリオン……」

 リーガンがその名を口にした途端、その「白い闇」は高速で、とてつもないまでの高速で、上空へと飛び去っていった。
「リーガン! おい、リーガン!」
 エマーソンの大声でリーガンは我に返った。
「何をしている? 気をしっかり持て!」
「え、ええ……」
 駐機させてあるF15の傍にバギーを横付けした途端、再び巨大な揺れが二人を襲った。
 慌てて二人は機体に乗り込み、各確認作業を全省略して、一気に機体を滑走させた。F15が浮上したその瞬間、フリーウェイ跡のあった地表は全て、砕かれたパイ生地のように粉々になって、真っ黒な地中へと消えていった。そして、それを盛り返すが如く、大量の溶岩が噴き上がり、周囲を真っ赤に近いオレンジ色に染め上げた。無数の溶岩の小さな纏まりが周囲に降り注ぐ。

 北アメリカ大陸の西岸地域の地殻が崩れ、海中へと没していく始まりである。そして、地上の全ての終焉の始まりでもある。

   ※ ※ ※ ※ ※

「どんな理屈で正当化させようとも、人は己自身の心の弱さからは目を背け、逃げようとする。お前もそう。己の選択した道で妻と別れ、愛する息子を手放すこととなった。己の不甲斐無さを理由にしたり、別れた相手のせいにしたり、いくら心を埋めようとしても、結局後悔が残る……」
「悔恨」はゆっくりと、着実に、シュウへと歩を進めていた。シュウは銃口を「悔恨」へ向けたまま、小刻みに身体を震わせていた。首に、背中に、嫌な汗が伝い流れる。
「悔恨」の手にはいつの間にか一冊の書物が握られていた。シュウが読んでいた「名言集」だ。
 本はその手の中で、一瞬にして黒い靄となり四散した。
「千の言葉よりも一の行動。言葉には何の力もない。くだらんものを読んで心を癒していたか? しかし、何にせよ無駄だ。いくら前を向こうとしても必死に前へ進んで行ったとしても、己の成した過去は変わらぬ。記憶は心の隅に追いやることは出来ても、決して消えはせぬ。思い出す度に苦痛に苛まれる……そんなお前のような人間が私を作り出した……私を生み出した……私にあるのはただ理不尽なまでの後悔の念、贖罪の念、そして……それらを上回るほどの己自身を恨む自責、自苛、自恨の念……」
「何を……何を言っている?」
 シュウは噛み潰すような声で言い返す。
「悔恨」は更に続ける。
「そんなお前達の黒き念はもう飽和状態なのだ。この全世界、いや大宇宙における、お前達の如き弱き不自然たる存在が抱く、更なる不自然で不恰好な思いや念は満ち溢れ、もう何処にもその行き場がない。我々はそれを浄化するためにある」
「悔恨」の胴体が突如、大輪の花のように大きく開くと、何本もの細い、黒き「触手」を高速でシュウ目掛けて放った。シュウはまたしても飛び退いてそれを避けるが、「触手」はうねうねと蛇のように蠢き、シュウを追った。
「ああ、忌々しき人間よ! 恨めしき不完全で不自然たる存在よ! お前達さえいなければ、こんな私も生まれることなどなかった!」
「悔恨」は絶叫した。
「滅せよ、人間!」
 無数の「触手」は壁に追い詰められたシュウ目掛けて突進を掛けた。
「違う!」
 シュウは叫んだ。
 その時、「悔恨」にとって信じ難きことが目前で発生した。シュウの身体に触れることなく、「触手」は弾かれ、そして四散したのだ。
「お前に言われるまでもない……ああ、そうさ。僕は寂しかった。孤独感に苛まれた。息子を手放したのは僕自身の行いのせいだ」 
 シュウは「悔恨」を睨み付けた。
「だが僕だけじゃない。息子にも寂しい思いをさせてしまった。自分自身が孤独を経験したおかげで、僕は今まで気付こうともしなかった自分のエゴを知った……」
 シュウはゆっくりと立ち上がった。
「息子にも味わせてしまった孤独をいたわろうという気持ちが日に日に強くなっていった……」
 シュウは言葉を続けた。何故だか分からない。このような狂気の存在、且つ自虐的でもある存在に何故このようなことを言っているのか分からなかった。だが言わずにはいられなかった。何かしら心の中に仕舞い込んであったものが、その蓋の錠が外され、中身が飛び出してくるかのような、そんな思いに駆られていた。
「僕の目の前は真っ暗だった。だからこそ、息子という光、家族という光、仲間という光、僕自身を取り巻いている光が……どれだけ素晴らしいのか、思い出させてくれた」
「悔恨」はぎょっとした。いつの間にか、シュウの全身から淡く白い光が放たれ始めている。
「僕は……『悔恨』の念になど、今は囚われていない。だが……息子や仲間を傷付け、そうやってエゴのみを爆発させたような、被害者気取りの物言いをする……お前に怒りを感じている!」
 怒り……そうか。
 この者の情念の光はその怒りのせいで、これ以上大きくなることはあるまい。
 恐れるに足らず。
「悔恨」はにたりと笑った。今やアマンダ・フリードマンの原型を全く留めていない、ただの黒色の異物でしかない、その「悔恨」には表情どころか顔そのものがない、しかしそれでも、にたりとほくそ笑む様は、痛いまでに伝わってくる。どす黒い「雰囲気」で十分に伝わってきている。
「今のお前では我々には何も出来ん。碇や恨みの感情に囚われているうちはな。教えてやろう。あらゆる負の念こそが我々の糧。そして我々を我々たらしめている忌々しき鎖……」
 すっと腕を伸ばし、その先端に「手」のような形を作った黒色の靄から、「指」を更に伸ばしてシュウに突き付けると、「悔恨」は更に言葉を続けた。
「もうじきお前の仲間が戻る。ここを脱出する準備でもしておくがいい。逃げる場所など何処にもないがな……私が手を下すまでもない。お前や息子の住んでいたこの世界が消える瞬間をその目に焼き付けさせてやる」
 シュウは何も言い返さず、ただ黒色の異物を睨み続ける。
「刮目(かつもく)するがいい。全ては無へと帰する」
 そう言い残すと「悔恨」はすっと姿を消した。

 一つの宝石の原石がここにあるとしよう。これは傷を付けないと磨くことも出来なければ、輝かせることも出来ない。人の心も似ていると言えよう。心に穴が穿たれた時、人は恐れや痛み、不安等を感じ。自分自身を無力だと苛んだりもするであろう。だが、そのような経験を踏まえて人は大きく成長するのであり、他の者の気持ちや思いを理解しようと努力することが出来るようになる。孤独は人を成長させる要素の一つなのだ。その闇が深ければ深いほど、そこから得た経験から自分を磨き上げ、そして得られる光も強くなる。闇と光は表裏一体であり、この二つは必ず存在するものである。闇を光に変えられるか否かは、その者次第なのだ。
 シュウは気付いた。「悔恨」と名乗ったあの存在は、そしてペインキラーと称されている黒色の異物が全てあのような存在であるとするのなら、それは人の心の闇が闇へのベクトルのみに向かって偏って肥大化した、まさに不自然且つ不安定な存在なのであると。
 まるで人間の心の闇そのもののようだ、と。

 そして。
 静けさを、異常なまでの静けさを取り戻した基地内に、足下から異様な地響きと微弱な揺れが伝わってくるのをシュウは感じ取った。

   ※ ※ ※ ※ ※

 地表は至るところが赤、若しくはオレンジ色の毒々しさに覆われていた。平原、山脈、全てはその形をいびつなまでに変え、そして割れ、見ている間にも変化は猛烈な速度で進んでいっていた。最早、今どの辺りを飛んでいるのかさえ分からない。だがそんな地獄のような地表も、徐々に夜の闇の景色を取り戻していった。変化がF15の飛行地点に追い着くよりも早く、リーガンとエマーソンは東へと進んでいたのだった。途中、赤やオレンジ色が一度真っ黒な色に戻ったが、やがてその黒色の面のあらゆるところから、鮮やかな猛毒じみた色が再び噴き上がりだしていた。猛烈な高さの津波が太平洋岸から押し寄せ、地表を海水で覆ったのである。だが地中から噴出する力のほうが勝っていただけのことであった。
 夜空にも変化は起こっていた。厚く空を覆っていた雲という雲が消え、星空が見え始めていた。しかし、これまで見慣れていた星空とは違う。まるでハッブル宇宙望遠鏡を通してみた宇宙空間のように、あまりにも明瞭過ぎる星空なのだ。F15の周囲を取り巻く気圧が異常に下がり始めていた。機体が激しく震えている。飛行時に於ける機体振動とはかけ離れた、異質なものだ。
「フリッツ……!」
「大気が……なくなり始めたようだな……信じられん!」
「基地は、基地は大丈夫なのかしら?」
「分からん!」
 エマーソンは西岸地域に突入した辺りから、避難施設として使っている米軍の地下基地宛てに通信を試みていたのだが、そこから返ってきた答えは二人が恐れていた内容に酷似していた。返信はシュウからのもので、シュウ一人しか生き残っていない、皆ペインキラーにやられたというものだったのだ。更に通信を続けようとしたが、それきり通信は途絶えてしまっていた。
「低空飛行に移る!」
 エマーソンは大声を上げると、操縦桿を倒した。
 地表の様子がはっきり視認出来る高度までF15は降下すると、残りの距離を一目散に飛んだ。まだこの辺りは溶岩で覆われてもいなければ、巨大な地震で地形がすっかり変貌してしまうといった状態にはなっていない。だが、地表を覆う黒色のヘドロは不気味に波打っていた。下では今、地震が起きている真っ最中なのだ。もうじき、この地震が更に数倍の、それ以上の強さに膨れ上がっていく。

 その頃西岸地域では、チェサピーク湾内を震源とする、マグニチュード十以上の、異常なまでの地殻エネルギーの暴発が発生、爆発的な揺れは西岸の各都市跡を完全なまでに破壊し尽くした。また、この時発生した津波は、欧州が海中に飲み込まれたことで発生した巨大津波とタイミング悪く一体化し、更なる巨大な津波、いや海水の大山脈となり、沿岸一帯を一斉に飲み込むと、内陸へと進行中であった。

 F15は無事に到着した。だが地面は揺れの最中である。大きく蛇行しつつ、何とか機体を制止させたエマーソンは、リーガンに言った。
「シュウを呼んでくるんだ! ここを離れる!」
「離れるって……何処へ?」
「ここにいたらどのみち死ぬぞ! 急げ!」
 そう叫ぶと、エマーソンは駐機させてあるB−2爆撃機、「スピリット・オブ・ニューヨーク」の方へと走っていった。
 リーガンはよろめきながらも基地入口へと急いだ。
 揺れのせいでエレベーターが止まっている。横にある階段を使おうと急ぎ、重い金属製の扉のノブに手を掛けた途端、扉が開き、シュウが飛び出してきた。
「シュウ!」
「リーガン! 無事か?」
「ええ! 貴方も無事で……皆は……」
「やられた。奴は『悔恨』と名乗っていた」
「『悔恨』? 名乗っていたって……」
「話は後だ! 行こう!」
 二人は格納庫へと走り出した。途中、リーガンは「我欲」と名乗ったペインキラーを思い出していた。
 あれは意思ある存在だというのか?

 奴らにとっての「本体」があるのかもしれない、ギャレスはそう言っていた。「本体」とは何だ?

 B-2爆撃機はミサイル格納庫を改良され、輸送機のように様変わりしている。中にはバギーや二輪駆動バイクが収納されており、それぞれが強固なベルトで固定されていた。その爆撃機のエンジンに火が入る。
「行くぞ!」
 コックピットに座るエマーソンは、ただ前を凝視して、操縦桿を動かす。続いて隣に座ったシュウも、エマーソンと動きを共にする。
 機体はゆっくりと、荒れた滑走路の上を走り始めた。ぼやぼやしている暇はない。必要滑走限度ぎりぎりの距離を、必要滑走最低限度ぎりぎりの速度で、機体は浮上を始めた。
「いけーーっ! でかい尻を持ち上げろーーっ!」
「飛べーーっ!」
 エマーソンとシュウは互いに大声を上げた。その後ろにリーガンが席に座りつつ、二人と同じように前方を見詰めていた。
 前に広がる光景はもうこの世のものではなかった。クリア過ぎるほどの夜空と、そこにまるでガス星雲のように広がる、端切れのような若緑色の空間。地表では、エマーソンとリーガンを追い掛けるように迫っていた溶岩流出を伴う地殻変化が放つ、異様な地獄の光、そして三人を後方から追い詰める巨大津波とが今、「スピリット・オブ・ニューヨーク」の下方で合流した。猛烈な水蒸気の煙が一瞬舞い上がったが、それはすぐに雨のようになって地上へ落ちていった。
 異常過ぎるほどの急激な気圧低下により、機体の制御が上手く出来ない。コックピット内にアラーム音が鳴り響く。
 そんな中、三人は更なる異様なものを目にした。つい十数分前まで地面のあった場所に「海」が出来ている。そして巨大な崖が崩落していくかの如く、大陸が崩れ始めている。夜空には不気味に、そしてあまりにも明瞭に白く輝く月があり、その「後ろ」に巨大な何か……夜の闇よりも更に黒いな「何か」がある。そしてそれはゆっくりと動いている。まるで人の上半身のように映る。下半身に当たる部分は、地平線だか水平線だかはっきりしない境界で遮られている。
「何だありゃあ……」
 エマーソンは呆れたような声を上げた。その声には全く力が入っていない。
 その上半身はゆっくりとこちらを向いた。

『ついにこの時が来たり』
『生き残りし不自然たる存在に告ぐ。見よ』
『我等こそは虚無を司る者……大神タナトスはここに降臨する』

 その巨大な、余りにも巨大な「何か」の前にある月の光が逆光となり、その「何か」の「胸」に当たる部分がよく見えない。その代わり、七体の物体が浮かんでいる様が映る。七体とも、その月の後ろにあるものと比べれば遥かに小さいが、それでも自分達がまるでリリパット国の住民で、七人のガリヴァーを見上げているかのような、それ程の大きさを伴っている。
 七体とも同じ姿をしている。純白のローブに身を包み、天使の如き真っ白な羽を持ち、顔の見えぬ、いや顔の当たる部分に闇を携えた、そして大剣を各々の右手に握る、巨大過ぎる「人物」……
『我等はセンチュリオン也。今ここに集い、全ての終焉を見届けよう』
『救済の時が来た』
『甘んじて享受せよ』

 目前にある七体のセンチュリオンと、月の後ろで蠢く虚無神タナトス。

 その中、「スピリット・オブ・ニューヨーク」はある一点を目指していた。
 ペインキラーの「本体」があるやもしれぬ、あの若緑色の空の向こう、前人未到の異世界へと三人は向かっていた。

 コックピットの外が若緑色の淡い光で満たされ始めていく。
「あれは……!」
 シュウが苦々しげに言う。
 前方から無数の黒き異物が、彗星のような形状をとって飛び交い、三人の搭乗する機体へとまっしぐらに突っ込んでくる。
「来やがったか!」
 エマーソンが吐き捨てるように言った。リーガンは何も言葉を放たず、口を真一文字に結び、これからどうなるのか、何処へ着き、何が起こるのか、どうすべきかを必死に考えようとしていた。だが考えは全くまとまらない。
 子供の戯れた笑い声のような声が聞こえる。しかしその声は、子供の無邪気さを兼ね備えつつ、それでいて邪なものに聞こえてならなかった。ペインキラー達は笑い声を上げていた。そして、機体をじわりじわりと傷付け、こそげ落としている。アラーム音が幾重にも鳴り響き、警告ランプが一斉に点滅し始めていた。
 突如、異様なまでの力の向きを三人全員が感じた。機体は錐揉み状態に陥った。
 重力の向きが変わったのだ。これまで上と思っていた方向が下となり、頭上から重力が圧し掛かりだしたのだ。エマーソンとシュウは必死に操縦桿を握り、機体を安定させようとしている。
 コックピットの前面の窓ガラスが砕けて飛び散り、そこから一体のペインキラーが、ずんぐりした「蛙」のような形となって現れた。窓の前にぺたりと座り込み、三人の表情をしげしげと見つめると、げらげらと笑い、何処かへと飛び去っていった。
 電気系統はショートし、エンジン部から火の手が上がり始めた。
 この機体はもう保たない。
「フリッツ! 降下準備をするんだ!」
 シュウが叫んだ。
「機体はそれまで何とか僕が制御する! 君はリーガンと一緒に降りるんだ!」
「何だって?」
 エマーソンは驚愕の表情を浮かべてシュウを見た。シュウは覚悟を決めた表情を浮かべている。
「こいつじゃ着陸出来ない! 奴らにやられ過ぎた……なぶり殺しにされる前に降りろ!」
 シュウが再び叫ぶ。
 リーガンがそれに答える。
「シュウ……貴方はどうするの?」
「この状況じゃオートパイロット機能は使えない。使っても機体制御は一気に失われる。三人とも一緒に墜落する! 誰かがこいつを出来る限り安定に保たなきゃならないんだ。ぎりぎりまでねばったら、僕も降下する! さあ、早く!」
「……分かった。シュウ、必ず合流するんだぞ! いいな!」
 エマーソンはシュウの肩に手を置き、力強く言った。
「早く行け!」
 エマーソンは戸惑うリーガンの手を取り、格納庫へと下りていった。だが格納庫の底面には穴が開き、四人乗りのバギーの中央にも大穴が開けられている。使用可能なものは両輪駆動バイクのみだ。
「……やってくれる!」
 エマーソンが苦々しげに言った。だがじっとしてはいられない。二人はバイクに跨り、車体後方に取り付けられているパラシュートと、自分達が背負った非常用パラシュートを素早く確認した。
「地表が見える!」
 機内放送でシュウの声が響いた。
「地面があるのなら降下可能だ! 行くぞ、リーガン!」
 格納庫の扉が開いた。庫内の気流が激しく荒れる。リーガンとエマーソンはバイクと共に大空に飛び立った。

「パパ」
 息子の声が聞こえる。いつもの、毎日聞き続けていた、懐かしいあの声。
「パパーーっ!」
 明るく元気な声だ。家を出る前に、そして帰って来た時に、朝ダイニングで「おはよう」と挨拶を交わした時に、いつも聞いていた永輝の声。
 シュウは顔を上げた。
 永輝は目の前にいた。短く刈り込んだ髪に、ニューヨーク・ヤンキースのロゴをあしらったブルーのTシャツ、ハーフパンツにクロックスのサンダルを履いた姿で、永輝はにこにこと笑っている。
 永輝は両腕を上げ、シュウの前に差し出した。
「えいちゃん……パパ、もうすぐ傍に行くからね」
 シュウは笑みを浮かべて言った。その穏やかな声を聞いた永輝は、大きく頷いた。その後ろにはかつて妻であった、永輝の母である、シュウが愛した女性が立っている。永輝の両肩に手を置き、彼女も微笑んでいた。
「パパ……また三人一緒になれるね」
 彼女の言葉にシュウはゆっくりと頷いて答えた。
「僕を……許してくれるのかい?」
「パパは永輝のパパよ。世界中の何処にいてもパパだもの。パパがどれだけ寂しく辛い思いをしたか、私には分かっている……」
「それは僕も同じだ。君を……そして永輝を、辛い目に遭わせた」
「もういいのよ。もう……いいの」
「美由紀……」
「私達はこれからも家族よ。だからもう私達に寂しい思いはさせないって約束して頂戴」
 美由紀と呼ばれた女性の頬には一筋の涙が流れている。
「ああ……勿論だ」
 シュウ、安西崇の頬にも同様に、涙が溢れ流れている。

「パパ、大好き!」
「ああ、パパもえいちゃんが大好きだ!」

 黒煙を巻き上げる「スピリット・オブ・ニューヨーク」は、リーガンとエマーソンを降ろして数秒後、猛烈な爆音と共に炎に包まれ、そして飛び散った。
「シュウーーっ!」
 リーガンは叫んだ。その叫びがシュウに届いたかどうかは定かではない。

 足下に草原が迫ってきた。だがそれは、遥か後になって、須藤一樹・啓吾父子が踏みしめることになる草原とは異なり、一面に枯れ草の広がったものであった。




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