全ての森が消えてしまっている。 地表全てが黒色のタールのような物質に覆われているかのようにも映る。 「何てこと……」 リーガンは思わず声に出した。 「全ての木が、植物が、ああやって腐ってどす黒い液体になっちまってるんだ」 リーガンの前で陣取るエマーソンが答えた。 「ヘドロみたいなもの……ね」 「まさにヘドロさ。こいつが世界中の至る所に広がっている。衛星画像でも見たろう? ブラジルのアマゾン、アジアの熱帯雨林、ヨーロッパの針葉樹林、全てが……全てがこうなっちまっている」 リーガンの唾を飲み込む音が、彼女の被っているヘルメットの中で低く、しかし鋭く響く。この光景にこの音は、リーガンにとっては暴力的で破壊的なもののようにも捉えられた。 山の表面だけではない。平地における草原地帯も同様の異様な変化を遂げていた。そこに命の存在を感じさせるようなものは何一つ存在していない。 荒く剥き出しになった土だけの地表、そして天体望遠鏡で覗いた月の表面を髣髴とさせる、黒色の地表、その中をアスファルトで舗装された道路が長々と続いている。途中の建築物は全てが原形を留めていない。村も、都市も同様であった。瓦礫の山。広大な瓦礫がうず高くなり、そして累々と広がっている。 空はどんよりとした雲に覆われ、その中にパッチワークのように見慣れぬ色の空が垣間見えている。 若緑色の空。ペインキラーが出現し、世界を席巻し、あらかた破壊の限りを尽くした後頃から見え出した、何処に通じるかも分からぬ空である。 その空の向こうには、見慣れた色の、即ち白い雲がぽかりと浮いているのだが、青い空の下で見る雲とは違い、若干緑がかっていて、何処となく薄気味悪く目に映る。 「あの向こうには何があるのかしら」 リーガンがエマーソンに声を掛けた。 「さあな。覚えているだろう? まだネット回線がまともに機能していた頃、科学者や技術者があの空の向こうにプローブを打ち込もうとしたって話を読んだろ?」 「ええ。でも確かあれは……」 「そう。打ち込むどころか、プローブはおろか、それを打ち込もうとした連中のいた場所が、ペインキラーの真っ黒な『槍』なり『棘』で貫かれ、施設もろごとぶっ壊された。消されちまった。跡形もなく。却って連中の刃を打ち込まれる結果になった」 「そうだったわね」 沈むような声を出すリーガンに「しっかりしろ」とエマーソンは檄を飛ばした。 「そんなんじゃこの先もたないぞ。向こうには何が待っているか分かっちゃいないんだ」 「そうね」 「まあ……正直な話、真っ黒になって砕かれたLAなんて、見るのもご免なんだけどな」 エマーソンは溜め息をついた。 「こんな地上、私だって見たくない」 「だが申し訳ないが、高度を上げるわけにはいかないんだ。あの藻でも生えまくっているような色の空には近付きたくないし、あまり上に昇って連中に頭から刺し貫かれるのもちょっと、ね」 「でも……燃料は大丈夫なの? 高度が低いとそれだけ、実際の飛行距離も長くなるんじゃなくて?」 「まあ、その点は心配いらないさ。とりあえずはエドワーズ基地で燃料が入れられたらラッキーだけど」 「エドワーズ基地?」 「そう。LAの北東、モハヴェ砂漠の中にある。連中に追い回されない保証はない。一気に振り切ることの出来るだけの燃料は確保しておくほうが無難だからね」 「そう……」 エマーソンの頭が微かに動いた。リーガンのいる後ろへと首が少しだけ回る。 「リーガン、大丈夫なのか?」 「え?」 「……それだけ喋ることが出来ればOKだな。息でも詰まらせちゃいないかって思ってね」 「多少は胸が圧迫される感じはするわ。でも……ええ、大丈夫」 「すごいね」 半ば感心、半ば呆れたかのような声をエマーソンは出した。 「フリッツ」 少しの間の後、リーガンが声を掛けた。 「何だい?」 「私……私、確かに、と言うか、私も時々思うことがあるの」 「何を?」 「貴方言ったじゃない。私は生き急いでいるって」 「ああ」 「確かに私自身もそう思うことがある」 エマーソンは無言で応える。 「でも、そうしていなきゃ私、壊れてしまいそうな気になるの。怖いのよね。強がっている」 「じゃあ、もっと素直になればいいじゃないか。君は一人じゃない。こんな世界になっても、俺達が君の傍にいる。何も無理に……」 「分かっている。分かってるのよ。でも……」 「こうなる以前の……母親としての自分が許せないんだろう?」 「え?」 エマーソンは穏やかな口調で言った。 「息子さん、ジョシュアって言ったっけ。本当に気の毒に思っているんだ。リーガン」 今度はリーガンが無言でエマーソンに応える。 「俺、除隊したら結婚する予定があったんだ」 「そう……だったの」 「ああ。彼女は……シャナンっていってね。こいつがそうさ」 そう言うと、エマーソンはおもむろに胸元のポケットに手を入れると、畳み込んだ一枚の写真を取り出し、後ろにいるリーガンのほうへと渡した。リーガンはそれを受け取るとそっと開いた。折り曲げた写真の皺の中に、愛くるしく笑う一人の女性の姿が見える。 「彼女、この写真を撮ったちょうどひと月後に『貴方のジュニアが出来た』って言ってきたんだ。もう驚いたさ。そして、それ以上に嬉しかった」 「フリッツ……」 「そして、もっとそれ以上に……不安にもなっていた。俺に万が一何かがあったら、シャナンとまだ見ぬ俺のジュニアはどうなるんだろう、って思ってね。こんな時ってよく言うんだよね。愛する者のために、その者の住む祖国を守る、自分はそのために戦うんだってね。でも……」 エマーソンの声のトーンが些か落ちた。 「でも、皆が皆そう言うわけじゃない。そう思っているわけじゃあないんだ。俺は愛国者であるつもりは正直なところ、あまりない。仕事が終われば、やっぱり好きな女性の元に帰りたい。好きな子供と一緒に過ごしたいし、休みにはバーベキューもしたいし、家族で一緒に犬小屋なんか作って、犬なんて飼ってさ、そうでなくても、たまに子供の宿題なんてみてやったり……そんな素朴な毎日が送りたい。俺が望むのはそれだけなんだ」 エマーソンが大きく息を吸い、そして続けた。 「それだけだった」 リーガンは黙ってエマーソンの言葉を待った。 「シャナンに会えなくなって……生きているかどうかさえ分からない、いや、生きているとも思えない、そんな今になって、俺はシャナンに何をしてやってきたんだろうって思うことがある。こうして軍に籍を置いて、離れた地で任務に就いて……世間じゃ戦争の真っ最中だったろう?」 真っ最中「だった」と言うのはある意味正解である。終戦を迎えたわけではないが、この異常事態になり、各国が軍を失う羽目になり、政府も瓦解した今、とてもではないが戦争などしている状況ではなくなっている。米国政府はおろか、戦争の引き金となった中国政府、そして欧州で生まれたファシズム政権、全てが消え去り、戦争継続の意味も目的も消失した。そして戦争の当事者である人間そのものが急速にその数を減らしている。何人が生き残っているかさえ判る術はない。 「シャナンは心から危惧していただろう。メールじゃ顔が見えない分、健気に振舞っているようにも感じられていた。だが電話なんかで話していると、何時も最後には涙声になっていた。不安だったろうし、寂しかったろうし、不安だったろう。俺のジュニアを身篭っていた彼女は、そんなまだ生まれぬジュニアを支えにしていた」 エマーソンの声が沈む。 「後悔しないで済むように、なんてことは有り得ないんだ。たとえ精一杯やっていたとしても、やはり最後には『ああすればよかったんじゃないか』とか、『こんな選択肢もあったんじゃないか』って思ってしまう。俺はシャナンを幸せにさせていたんだろうか、俺と知り合い、俺と愛し合い、でも却ってそのことが……彼女を辛い目に遭わせる結果になったんじゃないだろうかって。よく言われる言い回しさ。全く、俺の言っていることはただのステレオタイプな物言いだと思う。でも実際にそう感じちまっているんだから仕方ない」 「フリッツ……」 「シャナンのことを忘れたことは一日たりともない……ここのところずっとなんだが、朝起きる時は『彼女には今日も会えないだろう』って思う。で、寝る時は『今日も会えなかった』って思う。彼女の遺体をこの目で確認したわけじゃない。だから……諦めきれないから、しかしとても期待しても無理だって思いが強いから……心が本当にほっとする時なんて片時もありゃしない。全てが物足りなくて、全てを悔いて、全てに絶望しちまっている。そんな感じなんだ。そんな風に思っているから、ひょっともしたら生きて会えるかもしれない奇跡を、わざわざ取り逃がしてしまっているなんて言う奴もいるだろう。だがな……」 リーガンは黙ってエマーソンの言葉を聞いていた。その視線はエマーソンの後頭部のあるシートの後部に釘付けになっていた。 「リーガン。こんな俺だからこそ思うんだ。言っていたろう? 君は息子さんの亡骸を抱いたわけではない、その目で見たわけでもない、だから諦めない、必ず何処かで君を待っているという思いが君の今の原動力だって。羨ましいなってね。俺は……こんな諦めの気持ちになっているってことは、俺のシャナンへの愛情ってそんなものだったのか、って思うんだ。そして……自分が嫌になる」 「お願い、そんな風に自分を追い込まないで」 リーガンの言葉にエマーソンが気を取り直したように続けた。 「だからこそ、俺が今出来ることが何かを考えた。答えは単純だ。俺は俺が感じたような気持ちに他の誰かが陥らないよう、出来るだけのサポートをする。そんな俺の前には君がいる。リーガン、君には希望を失ってもらいたくない。だからこそ、焦らないで欲しいんだ。君自身をもっと大切にして貰いたい。いつか君の希望が叶うように……いや、叶えるように、その希望に一歩でも近くまで歩み寄られるように、無理はして貰いたくないんだ。そして……」 エマーソンは一瞬間を置いて、そして言葉を結んだ。 「それが……俺が今、シャナンやジュニアに出来ることでもあるんだって思う」 「フリッツ……」 エマーソンは後ろを振り向くことのないままで口を閉じた。 機内にジェットエンジンの音が響く。 「ありがとう。話してくれて……」 エマーソンは答えない。ただ、とても軽く、そして短く、息を切るような音が漏れてきただけであった。
「……来た!」 リーガンの声が響く。 二人の乗る機体の後方、立ち込める雲が何本もの細い竜巻のような形状で、地上に向けて垂れ下がって来ていた。そしてそれは地上に向けていた先端を持ち上げ、イーグル目掛けて高速で接近し始めたのだ。 「おいでなすったか!」 エマーソンが低い声で返す。 雲の「尾」は次第に色を黒く変え、黒き異物、ペインキラーそのものへと変化すると、その形を「竜」へと豹変させ、その口を大きく開いてイーグルに迫って来た。 「リーガン! 飛ばすぞ!」 そう言うとエマーソンは、使わなければと出発前に言っていたアフターバーナーを点火させた。イーグルは一気に速度をマッハ三へと加速させ、後部に衝撃波のリングを残しながら、現地点から急速に離れていった。黒色の「竜」がどんどん後方へと見えなくなっていく。 「どうだ、糞ったれが!」 エマーソンが勢いよく悪態を付く。 「ちょ……前!」 その悪態を遮るようにリーガンが叫んだ。 「何だってんだ、ありゃあ?」 エマーソンは前方を見ると呆れたように呟いた。 機体の前方に広がる雲が、先程のように細く長く垂れ下がってくると、それらは全て黒色の「竜」となり、進行方向に立ち塞がったのだ。 「旋回する!」 イーグルは大きく十時の方向へと進路を変えた。「竜」が迫る。そのうちの一匹が大きく口を開け、みるみるうちにイーグルに迫って来た。機体の斜め後方からどんどん口が近付く。 「なんとーーっ!」 エマーソンは操縦桿を握り締めつつ、まっすぐ前方を睨み付けていた。 機体は「竜」の上顎と下顎の間を間一髪ですり抜け、次いで「竜」の胴体と並行する位置へと前進、一気に急上昇を掛けた。次に迫る「竜」を機体を旋回させつつ避け、二匹の間をすれすれで抜けた。「竜」達は互いにその体をぶつけ合い、そして形状を崩した。周囲に黒い雲状のガス体を撒き散らせ、その行動を一瞬制止させた。その隙にイーグルは再加速して飛び去っていった。 「あ……あ……」 リーガンが声にならない声で叫ぶ。いや、もはや声さえ出ない。加速による重力で声帯、胸そのものを押さえつけられているのだ。声が出ない。息さえ出来ない。 「リーガン! 落ち着け! マスクを付けているんだ! ゆっくり呼吸しろ!」 エマーソンが叫ぶ。そんなエマーソンにも重力は容赦なく襲い掛かってきていた。 そんな機体の更なる前方、若緑色の空から黒い「筋」が何本か降りてくるのが見える。 「畜生……!」 エマーソンは歯を食い縛りつつ、その恨めしい光景を見つめた。超加速を掛けながら、無理矢理機体を動かしているので、機体そのものの耐久具合が気になりもしたが、そんなことを言っている場合ではない。異物に捕らえられれば、どのみち死ぬのだ。 ならば万に一つの可能性にでも賭けないわけにはいかない。 「頼むぞ……もってくれ!」 エマーソンの機体に対する、いや神に対する願いが潰れたような声になって、口元から漏れ出した。 その時である。 地上から同様の形状を以って急上昇してきた黒い異物があった。それは急速にイーグルの飛ぶ高度に達すると、一気に拡散した。それは黒いベールのような壁となり、二人の前を塞ぎに掛かった。機体は止まらない。旋回も間に合わないまでの至近距離にまで「壁」は迫って来た。 次に起こったことが二人には一瞬理解出来なかった。 イーグルはその「壁」を抜けた。 正確に言えば、イーグルの進行方向に当たる「壁」に丸い穴が開き、そこから機体が抜けたのだ。 二人が抜けた後、穴は閉じられ、そして後方から追尾してくる何本もの「竜」や「筋」を遮った。 「え……何?」 リーガンは何が起こったのか分からないままであった。だがエマーソンは気付いたようである。 「どういう……ことだ?」 だが疑問を感じている暇はない。 「今のうちだ、逃げる!」 イーグルはアフターバーナーを点火させたまま、残り少ない使用時間をフルに使って、その場から去って行った。
『お前達の目的、叶えさせてやる』
リーガンに誰のものか分からない声が聞こえた。 「?」 エマーソンの声ではない。だが、かと言って幻聴でもない。
『行きたいのであろう? 西へ。行くがいい』
リーガンは一瞬ぎょっとした。このひしゃげた、実に耳障りな声は人のものではない。
『我が名は「我欲」……お前達の欲、今は叶えてやろう』
声は止んだ。
二人を乗せたF15、イーグルは無事にカリフォルニア州の領空へと入った。機体は先ず、燃料補給のために無人とかしたエドワーズ空軍基地へと着陸した。奇跡的にも燃料の補給設備は破壊されていない。ただ、全ての戦闘機や軍関係車両がひしゃげた形で残されていただけである。乾いた風が砂埃を舞い上げ、滑走路上に動く砂の波を形作っている。 まるで高山にでもいるかのように、空気が薄く感じられる。 「しかし妙だな」 エマーソンが風の音に負けじと大声を出す。 「何が?」 リーガンも同じような声で返すと、携帯用の酸素ボンベのマスクを口に当てた。 「いくら植物が片っ端から腐っちまったとしても、そう簡単に地上の酸素が少なくなっちまうもんか? 世界の何処かで、それこそ地上の酸素を食い尽くすだけの火災でも起こっているのか?」 言われてみれば確かに妙である。勿論、そんな大火災が発生していれば、既に衛星画像で捉えている筈だ。地上の空気のうち、酸素の占める割合は約二十パーセント。何処かの国家の領土全域が隙なく、そして長時間燃え続けてでもいなければ、一気に地上の酸素が減ってしまうことなど有り得ないのだ。 「でも原因不明の天変地異は、去年の暮れから既にあちこちで起こっていた。幾つもの島がなくなって、大陸の一部までもがその形を変えて、見たことも聞いたこともないような、説明なんて付けようもないようなことが起こったって聞いているわ。海の色まで変わってしまったとか。酸素がなくなっているのもその類いじゃないの?」 「まあ、な」 エマーソンが答えた。 「で? これからどうするの? これでロスの市内に入る?」 リーガンが二人を乗せて艱難辛苦の果てにここまで送り届けたイーグルの風防を、座席に立ちながら手で撫でつつ言った。 「ああ。着陸可能なフリーウェイは幾つかある。そこから何とか、動ける車でも調達出来ればいいな」 「行ってみなければ分からないってことね」 エマーソンは「終わり!」と燃料の補給終了を告げると、コックピットに立つリーガンを見上げた。 「なるべく地上での移動距離や時間は短くしておきたいからな。何時また連中に出くわすやもしれないし」 エマーソンの言葉に短くリーガンは答えた。 「そうね」 そしてロサンゼルスのある方角に広がる空を見詰めた。 「ところで、フリッツ」 「何だ?」 「貴方……さっき聞いた?」 「聞いたって何を?」 「声」 「声? 誰の? 君の声ならずっと聞いているが」 「いえ、そうじゃなくって……」 「君と俺の二人しかいないのに、一体誰の声を聞くって言うんだい?」 「いえ……何でもないの。ごめんなさい」 エマーソンは軽く首を左右に振りつつ、給油ノズルを機体から外す作業に入っていた。
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