地上での交信が途絶状態となり、何処で如何なる部隊や集団が生存しているのか、皆目把握する手段がなくなったこの時。どの土地へ行っても、生存者はおろか、生き物や植物でさえ見掛けなくなっていた。衛星回線を通じて、世界各地の緑地帯が枯死、または腐敗、消滅し、地上での酸素の供給源がなくなってしまったことを掴んでいたので、リーガン・アブダイクやフリッツ・エマーソンのいる地下シェルターにおいては、主に水を電気分解して酸素を供給する手段に切り替えていた。だが、それでも十分な量の酸素を供給出切る筈もなく、地上にいる時は携帯ボンベだけに頼らずに、残り少ない地上の酸素を呼吸して取り込んでいた。 その地上では、主にその行動を生存者の探索に当てていた。だが、それも最近は回数がぐっと減ってきていた。生存者が発見出来ないことに併せ、避難して過ごしていたシェルター内でも、民間人や軍関係者が一人、また一人と死んでいき、そのことであらゆるモチベーションが削がれていたのである。勿論、探索を諦めたわけではなかった。但し、それは酸素の問題だけでなく、地上に出ることで何処からかともなく襲来してくる黒色の異物との交戦という危険性も帯びていたのだ。実弾兵器の全く通用しない相手とは最早、「交戦」という言葉を用いることでさえ、おこがましく感じられるものになっている。自分達が完全に孤立化するまでは、まだあちらこちらで異物との「交戦」記録が報告されていた。だがその殆どは、ほうほうのていで逃げ惑う部隊の有様を露呈するだけのものであった。逃げ切ることが出来れば、まだ幸運であった。それもかなりの幸運である。殆どの部隊はその場で全滅させられるか、逃げ込んでいたシェルターや施設そのものを急襲され、丸ごと消し去られていた。 そのうち、数少ない生存者は上空に起こったある異変に息を呑むこととなった。空が切り開かれたようになり、その「裂け目」からは全く色の異なる別の空が顔を出している姿を目撃し始めたのだ。若緑色の空に、そこに浮かぶ白い雲。そして、黒色の異物達はその別の空、いや異空間から降り立ち、または流れ込んでは、地上を席巻し続けているのである。 今やまともに機能する都市や集落は地上に存在せず、ましてや国家などという政治的集団は消滅している状態であった。 それはここアメリカ合衆国においても同様のことが言えた。政府や大統領、まともな軍隊などというものはもう何処にもなく、如何なる組織とのやり取りも消え、リーガンは自身がいるコミュニティだけが、現在生きる「世界」となっていた。
外見はただの崩れかけの巨大な倉庫にしか見えぬ建物が一棟、広大な荒地の中に、地上に這いつくばるように建っている。中には一機のみ辛うじて残ったB-2爆撃機が、そののっぺりした機体を潜ませている。通称で「アフタヌーン・デライト」と呼ばれる機体だ。正式名称は「スピリット・オブ・ニューヨーク」。駐機している姿はまるで地面に落ちた巨大な蛾のようなイメージを彷彿させてくれる。表面には多量の砂埃を付着させ、何時飛行する時が来るのか、あてもなく待ち続けているかのようにも見受けられる。埃を纏う巨大な静物のある建物の外は、乾いた風が埃を巻き上げつつ吹き荒れており、その音がただ不気味に響いている。その風の音以外の音はなにもしない。枯れ木のように錆びた鉄塔が数本見えるが、それらは全て根元からぐにゃりと曲がっている。三階建ての小さなビルもそばにある。窓は殆どのガラスが割れた状態で、壁のコンクリートもぼろぼろになっている。長年の月日を雨風に晒されて放っておかれたかのような姿を呈している。鉄屑と成り果てた軍関係車両が、その建物の傍で、錆びた腹を上空に呈して転がっている。周囲は鳥はおろか獣一匹として姿は見えない。緑色の植物もない。草一本さえ見かけない。一面の死の世界。 その中を一機のヘリコプターが飛来してきた。鈍いエンジン音が徐々に近寄って来る。以前ほど異物の襲来が頻繁ではなくなったにしても、それでも搭乗している者達は神経を限界まで尖らせていた。衛星機能は辛うじてまだ動いていたので、レーダーやGPSは何とか使用可能だ。それで異物の所在の有無、位置等の情報を得ながらの生存者探索から戻ってきたところであった。 ヘリコプターは埃を新たにもうもうと巻き上げながら着陸した。ローターがまだ回っている中を、搭乗者が前屈みになりつつ降りる。三名。その中に、金髪を巻き上げた上に黒いキャップを被った女性の姿があった。もう一人は男性。東洋系の比較的小柄な男。もう一人はすらりとした体型にシャープな顎のラインが特徴的な白人男性だ。女性と東洋系男性は肩にサブマシンガンを下げ、白人男性はライフルを手にしていた。 三人は小走りで地下鉄の入り口を思わせる小さな建物に向かっていき、中に入るとエレベーターに乗り込んだ。金属製の網扉を二枚閉め、スイッチを押すと、エレベーターは鈍い音を立てて地下へと下がっていった。 女性はキャップを脱いで溜め息を吐いた。 「今日も駄目だったか」 ライフルを下ろしたエマーソンが呟いた。 その言葉にリーガンは小さく頷き、無言で答えた。 崩壊した大都市から辛くも逃げ延びたリーガン達はこの基地に辿り着いたのだ。そこで事態が急激に悪化していき、これまで自分の生活してきた世界が世界として機能しなくなったことを知り、愕然としたのだった。その後は人が変わったように、リーガンは筋肉トレーニングと銃火器の使用方法を学んだ。 愛息を失った悲しみに打ちひしがれている暇はない。当てはないが、それでも何時か必ずこの手にジョシュアを取り戻したい。その気持ちがリーガンを絶望の中に留まらせることを許さなかった。今出来ることをする。何もせずにいて、それこそ手をこまねいたままでは、心の中の残り少ない希望までをも根元からむしり取ることになる。そのようなことはリーガンには耐えられなかった。 「連中、今日も出て来なかったですね」 東洋系の男性、シュウが漏らした。 「ああ。辛うじて、な」 エマーソンが答える。エマーソンとシュウは、所属していた部隊こそ違えど、同じ米軍従事者であった。シュウは前線で負傷し、取り敢えずの任期が終了したこともあって、母国に帰還していたのであった。そして、新たな配属先に向かう前になって、今回の襲来に出くわしたのだ。 シュウは見た目で言えば、須藤一樹とうり二つの外見を持っている男であった。パラレル・ワールドに存在する、もう一人の須藤と言うべきであろうか。そんなシュウは小柄ではあっても、その体格は良く、逆三角形に近い体型に締まった両腕と下半身、幅のある肩に丸っこい頭が特徴的な男だ。東洋人の年齢は分からない、若く見えるという欧米人の言い分も分からないわけではないという理由を具現化したような風貌をしている。濃い眉に奥二重の目を床に向け、シュウもふうと息を漏らした。 がこんという鈍い音と振動と共に、エレベーターは停止した。二枚の扉を開けて、三人は先に伸びる薄明るい廊下を先に進んでいった。各々の足音が淡々と響く。 その地下基地には三十余名の生存者がいた。何をするわけでもなく、沈み込んだままの者もあれば、失った家族のことばかりを思い返して悲しみに沈む者、苛立ちを隠せない者、様々である。映画によく出てくるような、そういった場合での傍若無人なリーダーと言う者はいない。大抵、無茶苦茶な現状に精神を押し潰され、暴走するような者が出てもおかしくはないのだが、その点ではリーガン達は恵まれていると言えようか。 だが、絶望に蝕まれた精神はじわじわと生き残った者を押し潰し始めていた。周囲を圧迫し、威嚇し、理不尽な命令を下し、従わぬ者に理不尽な制裁を加えるような狂気的リーダーはいなくとも、それは狂気の向く先が他人でなく自身に向いただけの違いであり、泣き叫びながら暴走する精神を抑えられず、その命を絶つ者が一人、また一人と現れ、そして全体の人数は少しずつ減っていくという状況である。 リーガンは硬い表情を崩さないまま、水の入ったペットボトルを鷲掴みにして、水をぐいと一口飲むと、そのまま射撃練習場へと姿を消した。その後をエマーソンが追う。 灰白色一色で覆われた一室に入ると、リーガンは肩からサブマシンガンを下ろし、耳当てとゴーグルをつけ、無表情のままで練習用の短銃を手にして、的に狙いをつけた。従来の実弾を使用した訓練ではなく、レーザー照射によるものだ。だが、実弾を発射する際の振動や衝撃も見事に再現されたもので、ゲームセンターで扱う感覚で行うと、慣れない者はそのショックで驚かされる。的も穴を開けられ放題になる紙でもなく、何度も再利用可能なものである。 「上手くなったもんだな、リーガン」 エマーソンが声を掛けてくる。 「ありがとう」 無感情な口調でリーガンは答えた。 「だが、何度も言うがあまり無茶するんじゃない」 エマーソンの声にリーガンは耳を貸す素振りを見せず、新たに的をセッティングする。 その様をエマーソンはしばらく黙って見つめると、自身も訓練用の短銃を手にし、構えると立て続けに的に撃ち込んだ。 「フリッツ、あなたパイロットだったのよね」 リーガンが声を掛ける。 「ああ」 「その目でいろんなものを見てきたんでしょう?」 「ああ。見てきた」 「戦闘機の中からでしょう?」 「どう言う意味だい?」 二人は撃ち込みを続けながら言葉を交わす。 「私は地上で見たわ。特段変化のない毎日を送っていた、いつもの世界で突然見る羽目になった。貴方と違って何日も戦場にいたわけじゃない。でも、あんなものは一度見て、この身で体験すればもう十分。少なくとも私にとってはね」 リーガンはニューヨークでの修羅場を思い返しつつ、それでも淡々と言った。 「あんなものに一度も何度もない。皆そうさ。何の変わり映えもない、通常の生活。通常の環境。見慣れた隣人や話し慣れた友人、そんな環境が一気に変貌する。でなきゃじわりじわりと狂気が迫ってくる。そうやって全てが壊れていくんだ。まして、そんなものを何度も見続けていけば、人間の感覚が麻痺してくる。異常が普通と思えてくるのさ」 エマーソンが返す。 「コンピューターの画面を見て、スイッチを押して、それで済むようなものじゃない」 リーガンがそう言うと、エマーソンは眉に皺を若干寄せて、リーガンに視線を向けた。 「だから、そんな変貌をその目で見たから、ただ立ち止まっているなんて出来ないと言うのかい、君は?」 いくらディスプレイ越しの戦争が兵士の感覚を麻痺させる、ゲーム感覚で、人の命を実際に奪っているという感覚、罪悪感等を植え付けないようにし、兵士の精神崩壊を防いでいるのだという世論があったにしても、面と向かってそのような物言いをされると、あまりいい気持ちになるわけでもない。それがエマーソンに一種の不快感を覚えさせた。 「少なくとも私は目の前で息子を奪われた。あの子の亡骸を抱き寄せたわけじゃない。この目で見たわけでもない。だから諦められないの。ひょっとしたら、いえ、必ず何処かで私を待っている、そう思いたいの。そんな気持ちが私の今の原動力よ」 リーガンは銃を下ろした。 「そうか」 エマーソンは短く答えた。 「こんな状況だ。君みたいに生き急ぐ者が現れても不思議じゃあない」 リーガンは答えない。 「だが、それじゃ君も死ぬぞ」 エマーソンの言葉にリーガンは尚も答えなかった。 そんなことは言われなくても分かっている。それでも何かしらの衝動に捕らわれている自身を抑えられなかった。 「リーガン」 「もう皆死んだわ。でも私は今のままじゃ終わりたくない」 エマーソンの言葉をリーガンはそう言って遮ると、訓練用の銃を置き、飲みかけの水の入ったペットボトルを握り、射撃場を出て行った。
夫と別れたのは三年前。いや、今から見れば三年半になろうとしている。父の経営していた冴えない食堂でウェイトレスをしていたリーガンは、そこで夫となる男性と出会った。元々保険の外交員をしていたリーガンは、母親の突然の死去の後、体の丈夫ではない父を手伝うために仕事を止め、父の店に入ったのだった。そこに常連として通っていた男、クレイと何時の頃からかよく話すようになり、そしてプライベートでも会うようになっていった。クレイはリーガンの勤めていた店の傍にある総合病院で内科医をしていて、簡単な食事をしにちょくちょく足を運んでいたのだ。クレイの注文するいつもの品、マンゴーソースをかけたハラペーニョ・チリドッグにひよこ豆入りシーザーサラダ、ピーチパイ、濃い目のコーヒーというメニューをリーガンは覚え、クレイが来店する度に 「何時ものでいい?」 の一言で応対するようになっていた。クレイの温和な口調に柔らかく、自分を見る友好的な眼差しに毎日のように触れているうち、彼の好みは他に何があるのだろうと考えるようになっていた自分に些か驚いてもいたリーガンであった。別に強烈な魅力を感じるわけでもない。何処にでもいるような男だ。そんなクレイが気になるようになっていったのは、きっと自分が心の何処かに寂しさを感じていたからであろうということに、リーガンも気付いてはいた。学生時代の頃を最後に、付き合っていた相手がいたわけじゃない。強い女を自称しているわけでもない。誰かと共に歩める、そんな伴侶をリーガンは求めていた。 そのうち、父は再婚することになった。物腰の柔らかい初老の女性だ。妻であり、母である女性を亡くしてあまり時間が経ったわけではない。だが、それでも「私がいるから大丈夫」とリーガンは考えていたわけでもない。四年。母への愛を消したのではなくとも、やはり父も寂しいのだ。その寂しさを受け止めてくれる相手が現れたのだ。父は若くない。母への愛情と、それを上回る寂しさを抱えたままで、父に晩年を送っては貰いたくない。二つ返事ではあったが、リーガンは父の再婚を承諾した。そして、店は新たな二人に任せ、リーガン自身はクレイと一緒になった。 だがリーガンの結婚生活は長くは続かなかった。内科医から救急救命医となったクレイは家を空けがちになり、自分に対してあまり関心を示さないようになっていった。夫であるクレイの気を引くつもりで、自分ももう一度働いてみようと思うと話を持ちかけたリーガンは、あまりにもさらりとした承諾の返事を受け、内心がっかりもした。その後は実にべたな展開である。保険外交員として返り咲いたリーガンは、自分の家の傍に住む新規クライアント宅を訪問後、軽く自宅でランチを取ろうとして帰ったリーガンは、若い看護士を連れ込んでいた夫と鉢合わせしたのだ。 その頃には息子、ジョシュアを既に授かっていた。だが夫は親権を全く要求しなかった。勿論、求めてきたとしても、すんなりと受けるつもりは毛頭なかった。そんな夫に対しても、「やっぱりね」という感覚をリーガンは持っていた。優しくはあっても、流れるがままに身を任せる帰来のあったクレイ。夫は息子に対しても自己主張をせず、その新たな相手と共にリーガンの元を去って行ったのだ。慰謝料と養育費、これを得る権利だけはしっかりとリーガンは主張させてもらい、クレイも「ああ、そうだね」とでも言わんばかりにすんなりと受け入れた。弁護士を通じての話にしたのは、法的なバックアップを保障として得るためであった。 空虚感。寂寥感。リーガンの心の中にはその二つが常に存在していた。息子のジョシュアにそれらを埋めようと求めても、それは叶わなかった。漠然としたその二つの感覚、感情。リーガン自身もそれらを切り離せず、それはジョシュアに対する態度にも表れていた。次第に息子は母にあまりなびかない性格になっていった。子供なりの不完全な自主性が養われていくきっかけにもなったのだが、そのことに対しても、リーガンは「ふうん」とでも言うが如くの感覚で捉えていた。 そして突然、息子のジョシュアはリーガンの元から去った。あまりにも理不尽な去り方をした息子に対し、リーガンは初めて思い知ったのであった。 自分は決していい母親ではなかった。いや、寧ろ駄目な母親である。駄目過ぎる。いなくなって初めてその掛け替えの無さが分かる。失って初めて……いや、この物言いは卑怯だ。そんなステレオタイプな言葉で片付けていいものではない。 父はどうなったのだろうか。友人は、クレイは、いや、クレイは別にいいような気がしないでもない。 ジョシュアは、息子は今何処でどうしているのだろう。
『お前が心を寄せようとして去った不甲斐無い相手。それに未だ執着しているから気になるのであろう?』
突然、リーガンの耳に聞き慣れない声がした。通路を歩いていた足取りがはたと止まった。
『息子に対しての愛情ではない、寧ろ一種の「独占欲」なのではないか? 愛情を向けてくれても良い筈の相手、息子を放さないでいることで、寂寥感に包まれている自身の心を認めずに済むからの「所有欲」でしか過ぎないのではないか?』
リーガンは腰に付けていたホルダーから銃を抜き、構えた。そしてぐるりとその場を一周した。 誰もいない。
『その寂しさからいつでも解放してやる……女よ』
「誰?」 リーガンは大声を出した。 だが、その耳障りな声はそれ以上聞こえてくることはなかった。 「ペインキラー……」 リーガンは呟いた。 ペインキラーとは「鎮痛剤」の俗称である。だが、今回のこの言葉の使われ方は全く異なる。件の黒き異物の呼称だ。 崩壊する世界で、神からのお告げでもあるかのごとく、何処からともなくこの言葉が降ってきた。それはあらゆる言語で轟いてきた。耳で聞くと言うよりも寧ろ、脳に、潜在意識に直接響いてきたのだ。 それは世界中全ての人間に「聞こえた」。
『人の心、感情、意識……全てを破壊し無に帰す、これのみが苦しみ続ける人への救済の道。まさに涅槃の境地であり、唯一無二の正義である。我々はそのために来た』
ここから彼等に対して付けられた呼び名が「ペインキラー」である。
「大丈夫か、リーガン? 真っ青な顔をしているが」 シュウが声を掛けた。 食堂として使っている一室に入ってきたリーガンは、何かしらとんでもないものでも見たかのような形相をしていたのだ。 「いえ、別に……大丈夫」 シュウは椅子に腰を下ろし、空の椅子一脚を自身の前に運び、そこに両足を乗せていた。手には一冊の本があった。 「シュウは本が好きね」 リーガンは前髪を掻き上げながら言った。 「ああ。こんな今だからこそ、心だけは占拠されたくなくってね」 「占拠? 何に?」 「絶望感さ。人として生まれてきたんだ。最後まで人としてありたい、僕はそう思っている」 シュウはにこりと笑った。 リーガンは紙コップに熱いコーヒーを入れた。今では貴重なコーヒーだ。「一日一人三杯まで」という張り紙がコーヒーメーカーにぺたりと貼られている。 「何を読んでいるの?」 カップを持ってリーガンはシュウの横に行き、空いている片手で椅子を寄せると、そこに座った。 「名言集さ」 「名言集? 日本の?」 「いや、残念ながら」 シュウは日系アメリカ人で、フルネームは「シュウ・アンザイ」。「シュウ」という名前は日本語でも英語でも呼び易いということで、そのまま使用しているのであった。ちなみにミドルネームはない。クリスチャンでもなければ、戸籍にも載らないと言うことでの名前らしい。 「僕の好きな言葉なんだよ。ルーマニアの作家で、ゲオルギーって人のでね」 「へえ。私、そんなのはてんで疎いから」 シュウは軽く笑って返し、その言葉を読んで聞かせた。
「如何なる時でも、人間のなさねばならないことは、世界の終焉が明日であっても、自分は今日、りんごの木を植えることだ」
コンスタンティン・ヴィルヂル・ゲオルギウ。ルーマニアの作家で、この言葉は彼の小説「第二のチャンス」で見られる。マルチン・ルターが言った言葉として紹介してあり、訳文は「明日」が「明白」という言葉になっている等、若干の差異が見られる。
「ふうん……」 シュウは本を閉じ、相槌を打つリーガンの目を見て続けた。 「こんな今だからこそ、僕は人として最期まで生き抜きたいんだ。たとえこの先に絶望しか待っていないとしても、その中にある一条の光を見つけ出し、それに向かって進んで行きたい」 「楽観論者ね、シュウは」 「周り中、悲観論者ばっかりじゃないか。こんな世界になっちまったんだ、それは些か仕方ないのかもしれないけれど」 「でも、嫌いじゃないわ。その言葉」 「そうかい? 良かった」 「たとえ明日地球が滅びるとも、今日自分は林檎の木を植える、か。私は木の苗を植えるよりも寧ろ……」 そう言ってリーガンは言葉を濁した。 そんなリーガンをシュウはなだめるように言った。 「君なりの林檎の苗が心の中にあれば、それでいいんじゃないか?」 リーガンはそんなシュウの目を見詰め、そして床へと視線を移すと、貴重品となった一杯のコーヒーを口に運んだ。
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