荒廃。 無機質。 鬼哭啾啾として不気味な雰囲気が辺り一面に漂う。全ては突然のことであったように思われる。だが、それは徐々に忍び寄っていたと言うことに、漫然と日々を過ごしてきた我々が気付かなかっただけなのだろう。 人の抱く様々な負の思念。感情を持ち、心を持ち、そのことで生き長らえている人類。それは至って自然のことであり、何ら疑問視することもない。その必要もない。あるがままの姿。喜びもあれば哀しみもある。怒りもあれば満たされた幸福感に笑みを浮かべることさえある。それが人間。 だが、そんな感情、思念の中で負の産物のみを糧とする存在がいたなど、そしてそのような存在が牙を剥き、全てをなぎ倒しに掛かるなど、誰が想像し得たであろうか。 古来より、様々な神話が語り継がれてきた。その中に、神に対する悪魔、悪鬼的存在も同様に語られてきている。神と魔。人の歩むべき道を示唆するための二元論として解釈されてきたもの。 彼等は人の心が生み出した、いや、本来人の心の中に棲みついていたものと言う。 その魔はふいに現れ、そして世界を席巻し、破壊し、希望の芽を根こそぎ毟り取り、絶望という猛毒を振り撒いた。
十二月末日。世間は新年をまもなく迎えようとしているこの頃。だが、その筈の世界は不安と恐怖、混乱と混沌が頭の上から黒きベールとなって被さり落ちてきていた。 ニューヨーク州プラッツバーグ基地。カナダ国境に近いクリントン郡にあるこの基地では今、何人もの隊員が慌てふためくように、血相を変えた表情であちらこちらへと走り抜けている。時期外れの竜巻の猛威と嵐に苛まれているニュージャージー州にて、並行して理解不能な異常事態が発生していると言うのだ。そうした中、ロングアイランドにあるミッチェル空軍基地との音信が途絶えたとのことで、ここプラッツバーグ基地にもスクランブルが掛かったのだ。同様に、五大湖の一つ、エリー湖に面した都市バッファローの西にある、ナイアガラ・フォールズ空軍基地からも応援が来るとの話である。 「アラート1だ。今すぐ飛ぶぞ、エマーソン!」 F15にて前部座席で機体制御の役割を受け持つ相棒のブレゲルが声を掛けてきた。 「今日はいつもの暇な哨戒任務じゃあない」 フリッツ・エマーソン中尉はシャープな顎を些か下げ、鳶色の瞳でブレゲルを見やった。 「一体何が起こってるって言うんだ?」 ブレゲルは鼻息を荒く鳴らして、エマーソンに親指で前を指し、歩き出すと、何かしら躊躇うかのような口調で答えた。 「俺にも詳しくは分からん。詳細は飛行中に指示されるってことだが、目標地点はニューヨークだ」 「ニューヨーク?」 「衛星画像もある。ただ、そいつに『何が写り込んでいる』のかが不明なんだ」 ブレゲルが苦虫を噛み潰したような表情で、エマーソンのほうを振り向いて言った。 「何だって?」 「とにかく、獲物は『そいつ』だ。バケモンだか何だか知らんが、合衆国にしかけてきやがったことを心底後悔させてやろうや!」 ブレゲルはそう言うと駆け出した。そして自分に気合を入れようとしているかのような声を上げた。 「畜生! テンション上げていくぞ!」 ブレゲルの後を追うエマーソンは、基地建物の中から曇天広がる外へと飛び出していった。 二人の乗るF15のエンジンには既に火が入っている。二人はそれぞれ手にしていたヘルメットを被り、各々の座席に乗り込んだ。エマーソンは後部席に付く。四枚のディスプレイにSTAND BYの標示が出ている。エマーソンは機体のキャノピーを閉めた。 「シャーク3.8、三番目に離陸しろ」 管制官からの指示が入る。 「シャーク3.8、了解」 ブレゲルが答えた。 エマーソンは生唾を飲み込み、ブレーキやフラップ、スラストの確認を目視にて行った。何かしら嫌な感覚が背中を走る。悪寒と言うべきか、怖気と言うべきなのか。中近東から帰還して来て、まだ日もそんなに経っていない。来年からは東アジアに配置転換される予定であった。現在は世界各地で戦火が上がっている状況だ。主戦場は対中国作戦での南シナ海である。第二次大戦終結から約六十余年。このままいけば本格的な第三次大戦にも突入しかねない、緊迫した状態である。資源枯渇に業を煮やした中国は南方に電撃戦をしかけ、今の戦端が開かれたのだ。合衆国大統領と中国国家副主席とのホットラインでの会談は今も続いている。だが、一中尉にとって、そんなことは正直蚊帳の外での話であった。自分は一介の軍人でしかない。命令は絶対である。ただ、闇雲に命令に従うだけの犬になるつもりは毛頭ない。愛する家族を守りたい。友人を守りたい。ベタではあるが、それ以外に自身にとっての目的はない。ベタであるだけに、その重さは格段のものがあるのだ。 だが、今回のこの出撃には何やら嫌なものを感じてならない。それは動物が本能的に、潜在的に感じ取る危機感のようでもある。手を出してはならない禁忌のものに敢えて手を上げ、ちょっかいをかけるようなものだという感覚がしてならないのだ。第六感というものか? 何にせよ、そんなことに心を惑わせている暇はない。エマーソンは再び唾をごくりと飲み込んだ。音がメットを被った耳に、鼓膜に鈍く、しかし露骨に響く。 「HMDバイザーを起動しろ」 ブレゲルの声がし、エマーソンは気を取り直した。 「兵装、カウンターメジャー、異常なし」 「ラダー、フラップ、スラット、計器全て異常なし。準備よし」 「スタンバイ」 「やってやろうや!」 ブレゲルの掛け声が響く。 二人の搭乗するF15は轟音と共に離陸した。
「エンジンよし」 「速度よし」 「ギアアップ……」 『シャーク3.8、旋回して方位270へ向かえ。どうぞ』 「シャーク3.8、了解した」 『シャーク3.8、こちらシャーク3.4。そちらの右側を併進中』 「了解」 無機質なやり取りが機内に響く。 機体は雲海に突入した。ブレゲルが機体の安定を保たせている。位置としては、ハドソン川を南下している形だ。直に目標地点のニューヨークに達する。ただ、異常なまでの悪天候に襲われているため、積乱雲の更に上を飛行し、激しい上昇気流に機体を翻弄されないように制御しながら進まなくてはならない。編隊は途中のオールバニー市上空辺りで旋回し、マサチューセッツ、コネチカット両州を回り道しつつ、ロングアイランド海峡から進入するコースをとった。 だがまもなく、エマーソン達は未確認の、いや正体不明の異物と遭遇することになった。 『シャーク3.8、こちらヘビー2.2.2。敵だ』 危機感を煽る通信が入ってきた。 『距離八マイル』 「敵だって? 何処のアホどもだ?」 ブレゲルが悪態を付く。 『三機……いや、何だ? 三「体」が迎え角三度で上昇中。そちらの位置から北東だ。旋回して方位310へ向かえ』 「シャーク3.8、了解。方位310、迎え角三度」 「3.4へ。直ちに旋回しろ」 「マスター・アーム、オン。マスター・アーム、オン。異常なし」 機体ががたがたと揺れ始める。しかしただの揺れではない。いくら発達した積乱雲のそばとはいえ、何かしら妙とも感じられる揺れである。 「気流に激しい乱れあり! 何だこりゃ……! 雲の層を出る!」 『了解、留意する』 「シャーク3.8、レーダーに反応、急速接近!」 「来たぞ……おい……おい! 何だありゃあ?」 ブレゲルが悲鳴に似た声を上げる。 そこには三体の漆黒の「竜」が鎌首を持ち上げ、編隊に向けて大口を開けて突っ込んでくる姿が目視出来た。 「IFFに応答なし」 竜は口を開けたまま突っ込んできた。ブレゲルとエマーソンの乗るF15は旋回して避けた。真っ黒な、それでいて雲の塊とも目に映る異物が高速で横切っていく。 「くそったれ!」 「交戦する! 右へ回避! 右へ回避しろ!」 機内に緊張が走る。エマーソンの荒い呼吸がメット内に篭って響き続けている。 『シャーク3.8、奴ら……奴ら分散するぞ!』 竜は旋回するすると、一気に全身を分散させ、それぞれが無数の巨大な「矢尻」となって、編隊の各機を狙い始めた。 『現在交戦中! こいつは……こいつは数が多すぎる!』 「何だってんだよ! エマーソン! 片っ端からロックオンしろ!」 ブレゲルが叫ぶ。 「分かっている!」 エマーソンも叫び返した。 『シャーク3.8、こちらシャーク3.4、追尾されている』 「了解、任せろ」 「六時の方向!」 「フレアを出せ!」 緊張が止まない。全く正体の分からぬ無数の異物が編隊を切り裂き、纏まりを一挙に掻き乱した。 「行くぞ!」 「ロックオン! 撃て! フォックス2!」 AIM9、サイドワインダーが火を噴き、異物目掛けて突撃していった。だがそれは異物を粉砕するどころか、貫通して更に遠くへ飛び去ったかと思うと、その場で爆散した。 「何だ?」 「構わん! 続けて撃て!」 「3.8、フォックス2!」 だがミサイルは全く異物に対して効果を示さなかった。ある物は異物を貫通し、そのまま爆発し、またある物は、矢尻状の形から散開してベール上になった異物に包み込まれ、その場でやはり爆散した。 「エマーソン! 機銃を使え! 撃て! 撃て!」 ブレゲルの声が悲痛めいたものになっている。 エマーソンの被るバイザー越しに、LOCKのオレンジ色のアイコンが見える。だが、どういうわけなのか実弾が全く通用しない。機銃も同様で、異物の形状自体は四散させても、それは再び凝集し、矢尻なり「鳥」の形となって、編隊に襲い掛かってくる。 そんな中、他の機体が一機、また一機と炎と黒煙に包まれ、散っていく。 「駄目だ!」 「ヘビー2.2.2! これじゃ全く歯が立たない! 撤退だ!」 『シャーク3.8、こちら2.2…』 通信は途絶えた。撃墜されたのだ。 「畜生!」 ブレゲルが叫んだ。機体は高度を落とし、異物の群れの中を一気に抜けた。 地上が見える。 阿鼻叫喚に包まれ、無数の異物が人を、どうやら子供らしき小さな人影を包み込み、次々と上空へ上がっては姿を消している姿が見える。 多くの竜巻が生き物のようにうねりつつ、建築物を破壊し、市内のあちこちで火の手が上がっている様が見える。 機体の真横をぴったりと併進し、槍を持ったゴブリンの形をした黒色の異物がその顔を向け、二人を見てげらげら笑うかのような姿が見える。 「バケモノどもが!」 ブレゲルの泣き声に近い叫びが聞こえてくる。 エマーソンの呼吸は過呼吸の一歩手前のような激しさを伴っている。バイザーの中の呼吸音が激しく乱れている。 ビル街の上を飛ぶ他のF15が四散し、高層ビルの横腹に突っ込み、爆煙を上げる様が見える。 ブレゲルとエマーソンの乗る機体はその中でも、辛うじて、寸での差で異物の体当たりを回避しながら、退路を確保しようと躍起になっていた。 そのうち、信じ難い光景が二人の目の前に広がった。キャノピー越しに、嵐の中、火災旋風に覆われるニューヨークの市街地を、津波とも思われるほどの巨大な高潮が襲い、多くのビルをドミノ倒しの如くなぎ倒していく。 そんな二人も、異物の攻撃からそう長く逃げ続けることは出来なかった。気体の右翼をもぎ取られたのだ。機体は急に錐揉み状態となった。 「脱出するぞ!」 「ここでか? 波に飲まれるぞ!」 「このままいりゃあ、確実に死ぬぞ! 一か八かだ!」 「畜生ーーっ!」 風防が吹き飛び、二人の座席は上空へと舞い上がった。 意識が遠のく中、エマーソンはブレゲルの姿が異物に飲み込まれ、視界から消滅する様を目にしていた。
肌を刺す寒気でエマーソンは目を覚ました。ぶるっと身震いをする。パラシュートが倒れずに残っていたビルの屋上に掛かっており、エマーソンの足下一メートルの地点には、その屋上の床があった。 エマーソンはそのままの格好で、周囲をぐるりと見回した。竜巻は見えない。そして、黒き異物は遥か遠くの上空を蠢いていた。その群れはどうやら移動しているようだ。南下している。そのまま行けば、フィラデルフィアやボルティモア、更にはワシントンD.C.がある。 エマーソンはバイザーの付いたヘルメットを脱ぎ、足下へと放り投げると、ポケットからナイフを取り出し、切り離せなくなっているパラシュートの縄を切断し、そしてそのビルの屋上へと降り立った。ビルは傾いている。いつ倒壊するか分からない。先ずは降りられるところまで降りよう。そう思うと、手で掴まることの出来る部分は片っ端から掴まりつつ、ビルの階段のあるところまで行き着いた。 耳にするのは風の音と、海水の流れる音のみだ。上空は相変わらず暗雲で覆い尽くされている。 傾斜角に足下を取られながらも、エマーソンは下へ階段を下りていった。そして、海水に漬きこれ以上下へいけないところまで来た。壁には七階の表示がある。金属製の重い非常扉を開け、エマーソンは七階に入った。全ての事務機器、棚や家具類が一方の壁に集まっている。窓ガラスは砕け、外からは冷たい風が吹き込んでいる。 ふとエマーソンは気付いた。幾つかのゴムボートが見える。どうやらこの災禍を運良く生き残った者達の様だ。 「おおい!」 エマーソンは声をあげ、腕を振った。 そのうちの一隻が寄ってきた。スーツ姿の男性と女性が数人乗り合わせている。 「貴方一人? 他には誰かいる?」 一人の女性が声を張り上げてきた。 「いや、分からない。ここには私一人だけだ」 「そう……気を付けて。降りられる? 乗って!」 リーガン・アブダイクはエマーソンに再度声を掛けた。
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