十二月二十一日。 午後五時。
地下鉄を乗り継ぎ、慌てていたためにトークンをうまく投入出来ずに数秒ほど掛けてしまい、それから弾き飛ばされるが如く改札を飛び出す。階段を駆け上がって先ず目に飛び込んできたものは、猛烈なまでの雲の流動と、突風に揺れる電線、信号機さえもがぐらついている。路上のゴミが一層されるかのように風に乗って流されていくかと思えば、上に巻き上がり、再び落ちては流されていく。暴れる髪を書類鞄で押さえながら、リーガンは会社のあるビルへと走っていった。 先程、ニューヨーク州南部、ペンシルバニア州及びニュージャージー州全域に竜巻警報が発令されたことを知った。この十二月の年末に竜巻? だが警報の下、JFK、ラガーディア、ニューアーク空港は共に閉鎖され、高速道路や下の環状線は渋滞で流れが止まっている。だがジョシュアのいる学校へは車で行かないと些か厳しい立地にある。ましてや、二人で逃げるなら徒歩や駆け足では限界がある。リーガンの不安は竜巻に対してだけではなかった。今、世界各地で起こっている妙な天災が自分達の住むこの地にも襲ってくるのではないか、というものだ。ともすれば、竜巻のレベルでは済まない可能性だってある。そんな思いが直感となって脳内を駆け巡っているのだ。 リーガンの勤める会社はスタッテン島の北東部に位置し、それなりの敷地面積のある駐車場の中央に、平たく広がった五階建てのビルが建っているという様相のもので、リーガンは会社に着くや否や、すぐに自分の車のところへと走っていった。申し訳ないが今はオフィスに顔を出すということが出来るだけの気持ちの余裕がない。車に転がり込むようにして乗り込み、キーを差し込んで回す。きしゅんきしゅんと乾いた音が鳴るだけで、エンジンは掛からない。 「ちょっと、いい加減にしなさいよ、このポンコツ! 廃車にされてスクラップになって、どっかの部品に生まれ変わってみたいの、お前?」 大声でそう怒鳴るとハンドルのリム部分を握りこぶしで叩いた。その瞬間、エンジンは悲鳴を上げたかのような音を立てて始動した。リーガンは前髪を掻き上げて、 「やれば出来るじゃない」 と呟くと、アクセルを踏み込んで一気に駐車場から駆け出した。 とにかく、島からブルックリン方面へ行かねばならない。スタッテン島を出るには四本の橋があるが、ニュー・ブラウンズウィック方面に向かう道はかなりの混み具合を呈している。だが、ブルックリン方面に向かう側ではまだ車の流れが止まっていない。二七八号線を走り抜け、リーガンの車は辛うじてブルックリンに入った。ラジオではニ八七号線沿いにて竜巻が発生したことを伝えている。今は頑強な建物の中か地下へ逃げることが先決なのだが、ジョシュアの元へ急ぎたい。ジョシュアの通う学校の建物はかなり老朽化が進んでいる。まともにヒットされれば崩壊は免れないだろう。リーガンは焦っていた。 このままじゃ終わらない。そんな考えが脳を席捲しているのだ。 リーガンは携帯電話を取り出し、ワンセグによるニュース放送画面を出して、携帯電話用のホルダーに入れた。CNNのライブ映像が、市街地の空を覆う雲を映し出している。すると突然、フロントガラスに猛烈な速度で叩き付けてくる雨粒のせいで、その視界を大いに遮られた。リーガンはワイパーのスイッチを入れた。路上をもうもうと水煙が立ち上がっている。 CNNのニュース番組の映像が切り替わった。メッカで祈りを捧げる人々の姿が映し出された。テロップには「地球の様々な地域で祈りを捧げる人々」と表示されている。だがリーガンには生憎と祈っている時間はない。そして再び、「ニューヨークに竜巻警報」のテロップと共に、今自分が車で走り抜けている街並みが表れる。 主道と裏道を走り抜け、ジョシュアのいる学校が見えてきた。見ると、近所の人達であろうか、何人もの者達が学校の中へと入っていく。非難してきたのであろう。リーガンは車を降りると、走って学校へと飛び込んでいった。 「ジョシュアーッ! ジョーッシュ!」 子供の名前を叫びながら、リーガンは子供達や避難者の間を抜けて中へと入っていった。 「ママ!」 程なくしてジョシュアが現れた。 「ママ、どうしてここに……」 「ジョッシュ! いいわね、逃げるのよ!」 「でも先生がここにいたほうが安全だって」 「ここは危険よ! さ、急いで!」 ジョシュアの手を握ると、リーガンは元来た廊下を走って玄関に向かった。その二人の姿を見かけたジョシュアの担任の教師が大声で叫んだ。 「ちょっと! アブダイクさん! 今外に出たら危険です!」 「ここじゃダメよ! 建物が崩れてくるわ!」 「何をおっしゃっているんですか? ここは……」 その時、教室や廊下などにある窓ガラスが立て続けに激しく割れる音が聞こえてきた。破片が無数に飛び散り、子供達に襲い掛かる。子供達の叫び声が上がる。その時リーガンは異様なものを見た。ガラスの砕け散った後の窓から中へ入り込んで来るものがある。それは黒い煙状のものだった。何本にも及ぶ煙状のそれは、猛烈に突っ込んで来る弾丸の如く、その軌跡をうっすらとした黒い靄として残しながら建物の中に突入し、うねうねと天井付近を動いては、下にいる子供達の中へ急降下を掛ける。悲鳴が上がる。その黒き煙は子供達の小さな体をロープで縛り上げるかのように巻き付き、その子供ごと宙へと浮き上がっては猛スピードで暴風雨吹き荒ぶ外へ飛び出し、空高く上がって行くのだ。その煙は次々と建物内に侵入して来ては、子供達を「さらって行く」。 「何よあれは……何なのよ!」 リーガンの前に立ちすくんでいる太った女性教師の怯え叫ぶ声が聞こえてきた。ジョシュアの手を強く握りつつ、二人は学校の外へ飛び出すと車のほうへ一目散に駆けて行った。後部座席にジョシュアを放り込むように乗せるとリーガンは力強く扉を閉めた。運転席の扉に手を掛けた時、リーガンのすぐ目前にその黒い煙状のものが直立している様が見えた。それは煙ではなかった。まさに「異物」としか表現出来ない。縦に伸びた真っ黒なガス体の中央辺りに、眼球を失った死人のような顔が浮かび上がり、穴のような両目でリーガンを見つめながら「呟いた」。
「享受せよ」
リーガンは声を一切漏らすことのないまま、それを睨み付けつつ扉を開けて車内に転がり込んだ。その異物は学校のほうへと飛び去って行った。学校では異様な光景が呈されていた。轟音を立てて屋根という屋根が吹き飛び、何十本もの黒く細長い異物が、イソギンチャクの触手か蛸の足のようにもつれては中へと突入し、子供達を次々と上へ巻き上げては高速で上空へと飛び去って行き、新たな異物が空から下りてくるのだ。その場の空気をずたずたに切り裂くような、泣き叫ぶ声が幾重にもなって聞こえてくる。突然、車の後部が持ち上がるのを感じたリーガンは、クラッチを即座に調整しつつ、アクセルを一気に踏み込んだ。ルームミラーから車の後部が見える。真っ黒な異物が車の後部を持ち上げている様がそこにあった。前輪駆動のセダンは一気に駆け出し、後部がどすんと音を立てて路上に落ちた。ジョシュアの体が後ろでもんどりうっている。 「いやあっ!」 「ジョシュア! 頭を低くして! いいわね?」 リーガンはそう叫ぶと、二人を乗せた車はその場を走り去った。
外からは雨音や風の音と共に、「声」が響いて聞こえてくる。いや、声というよりは脳に直接響いてくる感じだ。だが、その「声」が何を言っているのか、その意味はリーガンには全く理解出来なかった。
「大神タナトスの救いを享受せよ」 「甘んじて救いを受け入れよ」 「我等は神の僕」 「我等はセンチュリオン」
一体何なのだ? 何が起こっているのだ? あの子供達をさらっていった黒いものは何なのだ? 叫び声を上げなかったリーガンだが、決してその肝が据わっているというのではない。叫ぶ心の余裕が無かったのだ。リーガンはフロントガラスから前方を、一方からもう一方へと視界に映るもの全てを見ていた。 そこには地獄が広がっていた。 暴力の象徴とでも表現出来る黒々した竜巻が何本も市街地を舐め尽くすように蠢いている。それと共に空から黒く細長い尾を引いた「異物」が地上に降り、人の体に巻き付いては浮上している。中にはその異物から離れ、上空から体を地上に叩き付けている者、道路に落ちてそのまま車の下敷きになったり、建物の屋根に落ちて体をバウンドさせてリーガンの視界から消えていく者もいる。破壊された建物の破片や、巻き上げられた瓦礫屑の中に、細長いものとは異なった、様々な形の「異物」が飛び交っている。人? 魚? 鳥? 様々な形が様々にその姿を変えながら、次々と地上に舞い下りて来るではないか。 市街地では既に数ヶ所から火の手が上がっている。ガラス張りの高層オフィスビルはその窓ガラスを砕かれ、無数の破片を地上へと振り撒いている。鉄骨がぐにゃりと曲がり、建材を剥がされ、目の前で土埃を舞い上げながら倒壊する建物も見える。その埃は風に乗り、一気に風下へと広がっていく。前方左手にあるガソリンスタンドに、何処からかタンクローリーが落下してきて大爆発を起こした。リーガンは揺れる車をハンドルを捌いて制御し、火柱を避けた。すぐに黒い異物に包まれたスクールバスが屋根を下にして落下、そのボディをぐしゃりと潰した形で路上に落ちた。あのバスには何人の子供達が乗っていたのだろう。突風に巻き上げられた瓦礫屑や看板、車や人間が次々と落ちてくる。 そこでリーガンはやっと悲鳴を上げた。つんざくような悲鳴。 目の前で雑居アパートの建物が転がってきた。道を塞がれたのを見ると、リーガンはハンドルを回し、車を裏道へと進めた。ゴミ箱やトロ箱らしき木の箱、ホームレスの使っていたであろうキャスターワゴン、その他色々なものを跳ね飛ばしながら、前へ前へと進んで行った。再び前方を見る。ヘリコプターが見える。 「軍隊?」 そこに飛空していたのは明らかに軍隊の攻撃用ヘリであった。それに黒い異物が槍のように何本も突き刺さり、ヘリはその場で爆散し、燃え盛る破片を路上や近辺の建物の上へと振り落としていた。いつの間にか軍隊が出動している。州兵だろうか。彼等は手に銃を持ち、市街地を走り回っているのだ。数機の「アパッチ」が編隊を組んで飛空しているのが見えたが、間もなく巨大なものが飛んできて編隊を直撃し、火柱が宙に上がった。リーガンはその巨大なものが自由の女神の頭部であることをその目で見た。自由の女神の頭はそのまま滑空し、高層ビルの腹へ直撃した。ビルの真ん中に大穴が開いた。 車が再び衝撃に襲われ、横滑りしながら一回転して止まった。頭部と肩を打ち付けたリーガンは、眩暈を起こしつつも車の外に出た。リーガンのセダンの後部に追突痕があり、その傍らではニューヨーク市警の装甲車が白煙を上げながら横転している。リーガンは運転席から後ろへと腕を伸ばし、泣いているジョシュアを引っ張り出すと、その両腕で抱きしめた。 これはただの天災ではないのか? 雨風の音と共に、銃声やロケットランチャーらしきものを撃つ轟音、そして妙な「声」が辺りを席捲している。 リーガンはジョシュアを抱きしめたまま走った。
竜巻はその数を増やし、轟音とその破壊力で地上のあらゆるものを木っ端微塵に打ち砕き、空へと舞い上げている。同時に空から垂れ下がる黒き異物は分散し、それぞれが異形の姿で人々に襲い掛かっている。あるものは丸い兜を被ったゴブリンの姿を呈し、地上で空中でまん丸い体を転がしている。あるものは下半身が人間の女、上半身が池や川を泳ぐ鯉のような姿をし、手には槍を握っている。あるものは両脚を腕に変え、長い鎌を構えた烏の姿で、地上を逃げ惑う人々の頭や胸に切り掛かっている。漆黒のウツボが地上から頭をもたげ、多くの人間の胸に飛び込み、背中から飛び出してその目の下深く切り込んだ大口を開け、醜悪な姿を呈しつつ他の者をまた襲っていく。地上を阿鼻叫喚の地獄が席捲し、それに対抗しようと武器を手にする者も次々と倒れていく。軍隊の力も全く歯が立たない。 異物は人を次々と「もぬけの殻」へと変えていった。異物に襲われた者はその場で逃げることを止め、その場に立ち止まり、呆けた表情で空を見上げている。そして飛来してくる瓦礫に潰され、巻き上がる火の手に包まれ、生きたままで、しかし声を上げることなく、その場で炭へと変わっていく。心を失い、感情を失い、意思を失い、空っぽの存在にさせられた人間は何をするわけでもない、心臓が動くだけの亡骸となり、その場へ倒れていく。その中、異物は子供達を次々とさらっていった。親を求め、小さな手を伸ばし、泣き叫ぶ子供達は黒き霧や靄に全身を包まれ、そのまま宙へと放り出され飲み込まれていった。 泣き叫ぶジョシュアを胸に抱き、逃げ惑う人々の合間を掻き分けながら、リーガンは燃える市街を走り続けた。燃え盛る建物から舞い落ちる無数の火の粉を、何処かしらで拾い上げた大判のタオルでジョシュアの頭を庇い、足場の悪い道を潰れた車や落下してきた看板、瓦礫の屑などで足元を取られつつ、リーガンは懸命に走った。叫び声を上げながら落ちてきた者が地面でぐしゃりと鈍い音を立てる。爆発音の後にガラスの砕け散る音が追い討ちを掛け、辺りを異臭が走り抜けている。膨大な埃と火の粉に熱風が襲い掛かってくる。つまずきながらも、飛んでくる破片で頬や額を切りながらも、火の粉で髪を焦がしながらも、リーガンは走った。何処へ行けばいいなど分からない。逃げ場など何処にもない。炎と共に黒き異形の侵略者に建物は包まれ、地下鉄の出入り口からも意思を持つ黒き気流がつむじ風の如く吹き上がり、何人もの人間が吹き上げられる。舗装された路面は見るも無残に引き裂かれ、その合間からも固有の形を持たぬ侵略者達が「腕」を伸ばしている。 リーガンは足をとられた。倒れ行く自身の体のバランスを保とうとするその一瞬の隙に、目の前を漆黒の腕が伸びてくる様が目に映った。腕の中に抱えていた温かいジョシュアの感触が消えた。転び、頭を上げる。 「ママーーーーッ!」 ジョシュアの泣き叫ぶ声が一瞬聞こえるも瞬く間に周囲の轟音に掻き消されていった。 軍隊の放つライフル銃やマシンガンの無機的な音が何処からか聞こえてくる。 「撤退だ! 退け、退けぇっ!」 絶叫に似た軍人の声がする。轟音を上げ、低空を数機の戦闘機が飛んでいく。それらは何の反撃も出来ないまま、その機体を空中で四散させていった。漆黒の霧の弾道が何本も空を駆け抜け、うねうねと動きながら方向を変えては、一部は地上に下り、軍車両や関係者を跳ね飛ばし、近くに建つビルの外壁へと叩きつける。 相変わらず、脳に直接響く「声」が聞こえている。
大神タナトスの救いを甘んじて享受せよ 我等は神の僕、センチュリオン
リーガンは息子の名前を叫んだ。そして腹の底から言葉にならぬ叫びを上げた。何度も息子の名を呼んだ。その声はやがて空全体から、まるで吊り天井が落下してくるかのようにやって来た漆黒のダウンバーストで掻き消された。リーガンはその豪風に体を飛ばされた。地上に未だ立つ者、倒れた者、形を持って建つ物全てをなぎ倒した。黒いモップが床を一気に掃除するかの如く。 ニューヨークの摩天楼はもはやただの鉄屑の塔と成り下がってしまった。業火が地上を飲み込み、竜巻は炎の渦となって全てを破壊し、その後に漆黒の突風が全てを飲み込み、闇で覆い尽くした。
※ ※ ※ ※ ※
「おおい! こんなとこに潜ったって、あんなもんが来りゃあ一発で吹っ飛ばされるぞ!」 「じゃあお前は好きなところに行きゃあいいだろ!」 そう言って米兵はシェルターの蓋を閉じた。 州都トピカ郊外で発生した黒色の「蒸気」。地殻を破壊し、上空へと一気に吹き上がるそれはトピカの市街を瞬滅し、波状に拡大している。今やカンザスシティの高層建築物を、根ごと抜かれた雑草の如く上空へと巻き上げ、ここ核ミサイルのサイロに近付いている。 「お、おい! 今から何処へ行けって言うんだ! い、入れてくれ! 頼む!」 そう叫ぶ米兵の声は轟音で掻き消された。米兵は振り向いた。目の前にある草原、その向こうにある林、さらにその向こうには黒いカーテンが遥か上空にまで達する高度で以って、目の前に迫りつつある。 米兵は一際大きな叫び声を上げた。恐らくは人生の中で最も大きな金切声。 彼はサイロやシェルターもろごと吹き飛ばされ、上空へと巻き上げられ、塵となった。 黒色の「蒸気」のカーテンは二分し、そのまま東のセントルイスへ進むものと南のオクラホマシティにへと進軍していった。
突風にあおられ逆さになったタクシーの中では、一人のフランス人女性がもがいている。三日前に出張でここシアトルに来ていたメイス・フランジェリン・ベノワは、ひしゃげた窓から体を出そうと必死に動いているが、脚が挟まって身動きが出来ない。割れた窓からは、風に混じり、ガラスや建材の細かい破片が容赦なく入ってくる。まともに目を開けていられない。 轟音に混じり、子供達のものと思われる叫び声が聞こえてきた。メイスは顔を声のした方向へと向けた。そこには同じくひっくり返ったスクールバスがある。その窓には多くの黒色の異物の長き体が飛び込んでいる。それは泣き叫ぶ子供の体に巻き付き、そのまま次々と上空へと消えていく。 「何だよぉ……何なんだよぉぉぉ……」 額から流れる血が目に入る。視界が遮られる。メイスの意識も次第に遠のいていく。
惨劇は今や、様々な形で全米に拡大していた。
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十二月三十一日。
ニューヨークを襲った惨劇は今や世界各地で発生していた。またブラックアウト状態になった各都市、各地域も、軍や救助隊が雲の中に突入出来ぬまま、雲が移動した後になり、そこには生存者はおろか、全ての生命が殲滅された状態にあることを発見しただけの結果を迎えていた。アフリカ大陸を襲った砂嵐は大陸全体に広がり、多くの生存圏を砂の中に埋め尽くした。突如振り出した豪雨は洪水や未曾有の高潮を生み出し、全てを水没させた。太平洋上の島々では地殻変動が襲い、従来あった火山はおろか、都市の中央からもマグマを吹き上げ、島そのものが沈下し地上から姿を消した。世界各地の熱帯雨林は、突如全ての木々や植生が枯死し、地上への酸素の供給源は消えた。 そうした様々な異変の中、黒い異物の姿が共通して確認された。それらは子供達を何処へとなく連れ去り、大人達は心を奪われ、生ける屍となり、そのまま肉体の死を迎えた。地上を死の風が吹き荒れた。 政府も軍もその機能を失い、世界中の経済活動は完全に停止、これまでの人間社会というものはその姿を完全に変えた。生き残った者達はある程度までは世界で何が発生しているか、情報を手に入れることは出来たが、それも完全に潰えた。 最後に手に入った情報。それはヴァチカンからの法王の緊急演説で、悪魔の存在及びハルマゲドンの発生を公式に発表したと言うものであった。世界中を襲う黒き異物はその悪魔が魔界から現れ、人間をはじめ全ての生命に対して牙を剥いたのだという内容だ。 たとえ悪魔が実際に存在したのだと言われても、これがハルマゲドンだとしても、その公式発表が今この世界を破壊し尽くされている状況を改善してくれるわけではない。
破壊されたニューヨークの市街地を高潮が襲い、全ては徹底的に粉砕された。その中、辛うじて生存者がいた。リーガンもその中の一人であった。地下鉄の構内に逃げ込んだリーガンや複数の生存者は、息を潜めて地上の地獄が落ち着くまでを待っていたのだが、市街地全域を飲み尽くす高潮が到来し、構内に海水の激流が襲ってきたために、そこの生存者達は暗闇の中へ、死の淵へと流されていった。 リーガンはその中を堪えた。奇跡的に逃げ切り、数えるほどしか残らなかった生存者と共に、この年末の最後の日に地上に出た。 赤と黒が入り混じった厚い雲が空を覆い、地上は一面の瓦礫に覆い尽くされていた。 生存者の集団の中から、一人のスーツ姿の男が前に進み出ると、絶望に満ちた叫び声を上げた。その背後を見ながら、リーガンはいなくなった息子ジョシュアのことを思い浮かべていた。もっと話をしたかった。もっとよく見てあげればよかった。もっと……もっと……後悔の念ばかりがリーガンの心を襲った。 だが、それは結局は「すべきことをしなかった」という悔恨の気持ちでしかなかった。 そして、これからどうなるのだろうかなんてことを考える余裕など皆無でもあった。
※ ※ ※ ※ ※
そして壊滅した地上に新たな季節がやってきた。
かつてアメリカ合衆国と呼ばれた地の、かつてニューヨークと呼ばれた都市跡のこの地は春を迎えた。
リーガン・アブダイクは生きていた。 自ら志願し、生き残った米軍兵士と共に軍事訓練に勤しむ日々を送っていた。
その頃、世界各地の空で妙なものが見えていた。 青空が「裂け」、そこから別の空間が顔を出していたのだ。そしてその裂け目から黒き異物が時折地上へ下りて来ては、生き残った人間達に襲い掛かっていた。
その裂け目には「若緑色の空」が見えていた。
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