一面の穀物畑が広がっている。陽の光を浴びた穂先は白金のように神々しく、そして生気に満ち溢れた輝きを放っている。全身に風を受け、輝きの細波がうねりつつ流れていく。まるで夜空に瞬く星々の如き細かな光を撒いているようだ。その畑の中に何人もの農夫の穀物を刈る姿が見える。額に汗し、刈り取った穂を手にしながら、鎌を持つ手で農夫は額の汗を袖で拭った。農夫の妻が笑顔で手を振っている。農夫は空を見上げて太陽の位置を確かめた。昼食の時間だ。刈り取った実は市場へ売りに出すが、一部を自分達の食料としている。小麦より若干小さめのこの実で焼いたパンを妻は籠に入れて持って来ていた。そして皮袋に入ったお茶だ。些か粗いキメのこのパンは、噛みしめるほど実の甘味と生地に混ぜた塩との相性が抜群に良いと感じられる。香ばしさも申し分ない。この実は全て刈り取るのではない。この白金のような輝きから次第に朱がかった色へと変化し熟してくる。そうなれば米と同様の食べ方が出来る。妻はパンを焼くことに長けているが、熟した後の実を使ったスープも得意である。野菜や塩漬けの肉と一緒に煮込むのだ。四季のないこの地では、育てようと思えばいつでも作物が栽培出来る。過剰な栽培で土地さえ痩せさせなければ可能であった。 畑の外れにある小道で、二人で慎ましやかに昼食を楽しむ二人の頭上には、紡錘形の編隊を組み飛空している小艦隊があった。 「ああ、女王様の船だ。戻られたんだな」 男は両手で持った皮袋から直に茶を飲んでいた口を袋から離し、空を見上げながら言った。
隣国への表敬訪問航海から帰ってきた女王の専用船と、周囲を囲む護衛部隊の船からなる艦隊だ。それらはゆったりと、澄み渡る空を宮殿のある西の方角へ飛んでいる。その船の見た目はまさに帆船である。優雅に真っ白い帆を広げ、そこに追い風を受けて、殆ど音を立てずに前進している。帆船と違う点は、船体後方の左右に尾翼状に突き出た部分があることだ。そのすぐ先には航空機のジェットエンジンに似た主力推進エンジンが二基付いている。上空での追い風があれば、船体から空へ向けて力強く立つ帆柱からたなめく何枚もの帆で風を受け、その風力を補助動力としているのだ。船体そのものが軽量な素材で出来ているので、その際のエンジンの出力を帆を使わない時の約四割減にして航行することが可能である。編隊の両脇及び前後をかためる、両脇にエンジンを備えた飛行帆船は、そのクリーム色の船体に銀色の幾何学的な文様の装飾が施されている。空間近衛騎士団の船団だ。 女王の船は編隊の中央で航行していた。純白で光沢溢れており、真下から見上げるとティアドロップに見える船体だ。尖った先端をした船体前方には、アンカーが収納されている約三メートルのスリットがある。白磁のような船体下部には、若草の蔓(つる)を思い出させる繊細な装飾が先端から後部にかけて見られる。ティアドロップの形を横倒しにし、その上半分を削ぎ落としたような形をした船体の甲板には、唐松のような帆柱が三本立ち、前方から形の異なる帆の丈夫な布が風を受けている。この船は周囲の護衛艦と異なり、エンジンは船体後方に内蔵されており、そこから青白い光を放っている。甲板の正面より向かって左側に船体と同型の艦橋がある。船体の向きを前後逆にして甲板に張り付いているように見えるそこには、正方形の窓が複数、横に並列している。その中には操舵員らしき人物が正面を見据えている姿があった。 艦隊の先頭を務めている護衛艦、「サンクトゥス・クラトール」のブリッジで空間近衛騎士団総隊長のグランシュが進路の先を見つめていた。顔はほっそりとしているが、骨付きのいい顎が顔そのものにどっしりとしたイメージを抱かせる。ほりは深く、鳶色の鋭い瞳が持つ眼力は、志のない者の心臓を容赦なく射抜くような鋭さを持っている。しかし、ぱっと見では人を震え上がらせるような冷淡な感じだけではなく、自らが忠誠を誓う者を命に代えてでも必ず守り抜くという強固な信念とを兼ね備えている。背中に至るまで伸びた黒髪はウェーブが掛かっていて、今身に着けている金色の甲冑の上に流れる流水のように垂れている。グランシュの乗るこの船は、騎士団の所有する艦隊の総旗艦である。船名はラテン語で「神聖なる守護者」を意味している。まさに彼等の存在そのものを表した名だ。
「王都エリュシネへの到着時間、残り一ホールス」 艦内アナウンスが響く。ホールスとは彼らの用いる時間の単位で、正味一時間と考えてよかろう。 「やっと着きますね」 艦長のペイトンが仁王立ちになっているグランシュに声を掛けた。グランシュは腕を組み、「ああ」と一言返事をすると、鼻でゆっくり大きく息を吐いた。この外交目的の航海は今回が初めてではない。定期的に行われているもので、その都度、「サンクトゥス・クラトール」を先頭に女王の船「ベネウォレンチア(仁愛)」を護衛艦で囲んだ陣形で航海している。その度ごとにペイトンとグランシュは同じブリッジで顔を合わせている。見た目が帆船のような船と言えど、昔の大航海時代に一つの航海で費やしたほどの時間が掛かるわけでもない。今回は隣国への訪問だったため、わざわざ「やっと着く」と言う声掛けをして互いに労うような労苦はさほどないのだ、少なくともペイトンにとってはそう感じられた。一国の元首を護衛しているので、自分が感じているその気持ちを言葉にするとあらぬ誤解を受ける羽目となるかもしれないため、口にはしないだけである。ましてや、女王や任務への忠誠度が遥かに高いグランシュにはそのようなことは言えない。 ただ、今回のその声掛けには些か違う意味合いを含んでいた。明らかにグランシュにはどうにも気掛かりでならないことがあった。気を揉むような彼の表情を見ての「やっと」が、ペイトンなりの気遣いだった。ただ、グランシュの耳にはその言葉は右から左へと抜けていた。
「騎士団副隊長トルソが部下を失い帰還」 あの剣の名手であり、冷静な判断と行動力を併せ持つあのトルソが部下を「失った」? 一体何があったというのか。全く太刀打ち出来ずに一瞬でやられたらしいが、「やられた」とはどういうことなのか、そして「誰に」やられたのか。「黒いガス体」にやられたとは何を意味しているのか。 空間近衛騎士団を敵に回す者はいないのだ。「この世界」では「かの世界」と異なり、戦争や内戦の類いは存在しない。軍隊のようなものがあっても、あくまでも儀礼的な意味合いが強い。女王を守るという任務はあれど、これまでに女王を狙った何かしらの出来事があったわけでもない。そこに住む住民間で争いが起こったこともない。 そう、まさにここは理想郷。 ただ一つの例外。彼らが唯一恐れ、そして警戒し続けている敵たる存在。今では殆ど伝承として語られ、一部の者を除く誰もがそれに対してあまり考えようとしなくなっていた。本当はそのままのほうが良い。それこそが「ここ」では平穏でいられる手段なのだ。そうだからこそ、この世界は存在し得ているのだ。万が一、その不安が杞憂でないものになってしまった場合、それはこの世界だけでない、「全て」の存在そのものに致命的な危機が訪れる。 航海中に入ってきた本国からの通信は、実に異様なものに感じられていた。廃墟と化した村、広大な草原地帯に突如現れた汚泥の湿地帯……その地域を航行していた輸送船の船長からの通報があったのだ。グランシュは副隊長のトルソに調査命令を出し、部下と共にその地域へ派遣した。一人だけ生還したトルソからの報告で、その不気味な湿地は通称「白簾霊峰」と呼ばれる高山地帯にまで至っていることが判明した。それを聞いた時、グランシュは背筋に冷たいものを感じていた。話でしか聞いたことがないが、あの山脈の頂にある古い石造りの「門」は……
「王立学術院からです」 通信員が声を上げた。王立学術院は王国での子供達への教育を司ると同時に、様々な事象に対する研究施設としても稼動している一大アカデミーである。その学術院から通信が入ったのだ。トルソが持ち帰ってきた汚泥のサンプルを分析させていたのだ。その結果が出たのだろうか。 「ええ……『サンプルは消えた』とのことですが」 消えた? 紛失したのだろうか。 「学者風情がだらしない」 グランシュは呟いた。彼等はあのサンプルがどういう意味合いを含んでいるのか理解しているのだろうか。もしただの汚泥であれば、それならそれでも構わないが、失くしたのではなく消えたとわざわざ伝えてくるとは何なのか。 「学術院に繋いでくれ」 グランシュは施設の責任者であるクランスを呼び出し、三日月形をしたインカムを耳に当てながら話し掛けた。 「私は空間近衛騎士団総隊長のグランシュである。事の詳細を伺いたい。持ち帰ったサンプルが消えたとはどういうことか?」 インカムを伝わって流れる音声はこう伝えた。研究室に保管していたサンプルは文字通り「消失」したと言うのだ。サンプルの入っていた容器は、下半分ほどがサンプルと共に蒸発したかのように消滅していたとのことである。 「どういうことだ。それは強酸性のものか何かだったのか?」 「いいえ。それが容器を溶かすほどの酸性のものであれば、先ず持ち帰ること自体が不可能でしょう。その泥は自らの周囲にある物質と共に消えてしまったのです」 何が起こっているのだ? グランシュは頭の中を整理して考えようと努めた。 「それと同じ現象だと思うのですが……」 クランスの言葉は続いた。トルソを乗せて帰還した傷付いたグリフィスが死んだという。傷の周りや汚泥が付いた体の一部を「消失」させ、ミイラのように全身を乾燥させた状態で息絶えていたと言うのだ。また、トルソが纏っていた汚泥が付着した甲冑も、汚れた箇所を中心に抉られたかのように欠損してしまったとのことであった。 汚泥が自身の周囲のものと共にその姿を消した……意味が理解出来ぬまま、グランシュはそう解釈した。 その汚泥とは一体何なのか。そして、トルソ達を襲った黒いガス体とは何なのか。そう考えた瞬間、例の汚泥地帯は今どうなっているのだろうという、不吉且つ不安な気持ちが胸の中を嵐の中の豪雨のように吹き荒れた。 「隊長、ちょうどここから北東に直線距離で約三ホールスの地点が、その例の汚泥の出現した場所です。如何されます? 艦隊から一隻そこへ派遣しますか?」 ペイトンが進言した。グランシュは黙って頷くと、通信員に回線を開かせた。 「私だ、グランシュだ。この艦隊の中で一番の速度がある艦は貴様の『イスマイル』だ。よいか、シュナ。ここから北東へ約三ホールスの地点に異変が発生している。現在、その地点……地上がどうなっているのか見て来て貰いたい。貴様の艦なら全速で向かえば半分近くの所要時間で到着する筈だ」 インカムの向こうから、シュナと呼ばれた騎士団員の一人の「御意」と言う返事が返ってきた。 「だが良いか、決して着陸しようとしたり、グリフィスによる白兵武装での調査は控えろ。視認出来る現状のみを確認したら大至急戻って来い」 艦隊から一隻の飛行帆船、「イスマイル」は隊列から外れると、船体両翼のエンジンから青白い炎を吐き出し、高速で飛び去っていった。 「何事ですか」 女王からの通信音声がブリッジ全体に響き渡る。低く、透き通っていて、そして落ち着きを払った声だ。 「ちょっとした懸念事項が発生致しましたので、調査に一隻向かわせたところです。王宮に到着次第、状況を御報告致します、陛下」 そう答えると、グランシュは再び鼻から大きくゆっくりと息を吐いた。間違いない。今生じている変化は良くないものだ。限りなく良くない、不吉と言う言葉を具現化したようなものだ。それだけは確信していた。ただ今は状況の把握と情報の収集が先だ。事態をある程度は掌握しないと行動が取られない。そして「相手」の正体を明確にさせなければ。
その時、確かに汚泥の一帯は劇的な変化を起こしていた。そこに汚泥はなかった。もっと言えば、そこには何もなかった。悪臭を放つ広大な湿地帯はそこには存在せず、代わりに底の見えない巨大な、実に巨大極まりない「穴」が空いていたのだ。ただ、そこまで巨大なものを「穴」と呼ぶかどうかは疑問である。まるで、地の底の更なる深淵、地獄の底にまで到達しそうな「無」の空間がそこに堂々と広がっていた。
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