宿の一室で須藤はベッドに寝転がっていた。この世界に来て以来、初めてお湯でのシャワーを浴び、すっきりはしていたものの、その心はあまり穏やかであるとは言い難かった。ジュデッカで「不信」なる黒色の負の思念体と対峙していた時の、その最後の「不信」の残した言葉が心にどうしても引っ掛かっていたのだ。
「覚えておくがいい。この温かさは人の心の持つもの。だが、この温かさを持つ人間は同時に、冷ややかに他人を傷付け、苦しめ、追い込むのだ。私は望んでいるのだ……人が未来永劫に救われることを……それはもう無へ帰るしかないのだよ……」 「我が神よ、どうぞ人の呪われし因果を、呪われし枷をお外しください……我が神よ……」 「人を……私を……お救い……くだ……さ……」
最後に絶望へとその救いを求めた悲しき存在。希望に救いの光を見出せず、しかしそれでも心の何処かでは、その救いを求めて止まない。縋り付けるものは残った絶望のみ。全てを破壊し、全てをゼロの状態にするしかないのだと、それでしか人は救われないのだと、あの思念体は言い残し、そしてその存在を消していった。 何と悲しすぎる結果なのだろうか。何と寂しすぎる存在だったのだろうか。 須藤はうつ伏せになり、顔を枕の中に埋めていた。 自分はこれまでどうだったのだろうか。心に深き傷を負った者に対し、ちゃんと真正面から向かい合ってこられたのであろうか。自分の思い、信念が「強者の論理」だとは思わない。だが、光に手を伸ばし続けることに疲れ、絶望し、その手を下ろしてしまった悲しき者に対し、自分はその心情を理解出来ていたのであろうか。いや、出来ていない。そこに共感してしまえば、あらゆるものが否定されてしまう。どんなに苦しくとも、希望は潰えたと思えた時でも、それでも歯を食い縛り、石にしがみ付いてでも前へ進もうとしている者を否定することになってしまう。須藤にはそう思えていた。 勝者がいれば、必ず敗者もいる。負けた者はどうなる? それでも挑み続けるしかないのだ。そこに留まっていては何もならない。自ら光を掴むことを放棄してしまえば、何も残らない。あの思念体は、いや、あの者は自分自身に負け、全てを放棄し、周りに対して逆恨みして、全てが壊れてしまえばいいと勝手な思いを撒き散らしているだけの存在でしかないのだ。それこそ「敗者の論理」だ。須藤はそう思おうと懸命だった。 だが、心の中に払拭し切れない、何かしら嫌なものが心に残る。 須藤は嫌いだった。裏で誰かを誹謗中傷する者が嫌いだ。自分は常に正しいのだと主張する者は嫌いだ。精神的な安定感に欠ける者が嫌いだ。自分の不安や愚痴を周りに撒き散らす者が嫌いだ。そのような者と一緒にいると、その者の持つ黒きオーラに包まれてしまう。それが嫌だった。そして、そのような者とは常に距離を置いてきた。 自分は聖人君主などではない。人間だって完全に出来ているわけでもない。好きな者もいれば嫌いな者だっている。人間なのだから、それは当然であり、自然でもある。 しかし、この心に引っ掛かる嫌なものは何なのか。自分は「嫌だ」と思う者に対して、心をずっと閉ざしているせいなのか? それは人間が出来ていない、自身が狭小な心の持ち主であるが故でのことなのか? 自分はひょっとして、これまで「これでいい」と思い感じていたことによって、逆に自分の世界を狭めてしまっているというのか? 須藤は枕に顔を埋めたまま、力強く首を振った。心の中で「嫌だ」「嫌いだ」という言葉を連呼しているうちに、気分が滅入ってきたのだ。 手を差し伸べることは幾らでも出来る。だが、その手を拒み続ける者に対し、何が出来るというのか。その者自身が前へ進もうとしない限り、そのように気持ちを切り替えない限り、どうにもならないのだ。自分自身を救うことが出来るのは、最終的には他の誰でもない、自分自身だけなのだ。謙虚になり、周りの者達によって生かされているということを素直に受け止め、感謝を決して忘れず、共に行こう、行きたいと願えば、如何なる絶望の底に叩き落されても、それは可能になる。 全てを放棄した者に救いはない。自分自身さえをも放棄した者に光は差さない。これが強者の論理だと言うのなら、他にどうすればいいのか? 須藤は心の中で自問していた。 自分は決して「上から目線」で物を言っていたわけではない。そう、そんなわけではない……
部屋の扉がノックされた。 「俺だ。一樹、寝たか?」 澤渡だ。 「ああ、いや、起きてるけど……ちょっと待って」 澤渡は「待つって何を?」と言いながら扉を開けた。 「お前……真っ裸で何やってんの?」 澤渡はぽかんとした表情を浮かべた。 「あ、いや、着ていた服を洗ったんだ。浴室にぶら下げて干してる最中でさ」 慌てて毛布を身に纏い、困った表情を浮かべている須藤の姿に、澤渡は思わず吹き出していた。 「何だよ」 須藤は膨れっ面になって言った。 「ああ、悪い悪い。明日出発だから、そのことを言っておこうと思ってな」 「明日、か」 「ああ。今日は疲れたろう? よく眠っておくといいさ。ギシュドバードまで列車で移動する。到着は明後日の早朝だ。そこから船をチャーターした。それで国境を越える。そのまま一気にエリュシネまで飛ぶぞ」 「そうか……ありがとうな」 澤渡は笑みを浮かべて返した。 「それは俺の言う言葉さ。一樹、ありがとう。本当にありがとう」 須藤も笑みで返した。 「息子さん、必ず見付かるさ。俺もそう信じている」 「ああ」 澤渡の言葉に須藤は力強い一言で返した。 澤渡はそっと扉を閉めた。 須藤はここに来る途中で寄ったアタワ村の残骸の中から、奇跡的に自分のデイパックを拾い出していた。その中に小さなアルバムが入っていた。そこには息子、啓吾と共に写った写真が何枚か入れられている。この世界に来る前に、何枚かをそのアルバムに移し直して持って来ていたのだ。夏の日に共に出かけたアウトレットのベンチに座り、おどけた表情で撮った一枚。共に出かけた南紀白浜で、シーカヤックの前でポーズを取って収めた一枚。丹沢湖で、見事なまでの夕日をバックに啓吾を撮った一枚。そして、妻である真弓香と啓吾、そして自身の三人で写った一枚。これからここにどんな写真が加わるのだろう。運動会で力一杯走る一枚でもいい。何処かへ出掛けた時に撮った一枚でもいい。小学校の卒業式の一枚。そして……そして…… 須藤は呟いた。 「マユ……頼む。力を貸してくれ。啓吾を助けるんだ。連れて帰るんだ……必ず」 須藤は開いたアルバムで目を塞ぎ、吐息を一つ漏らした。
澤渡はメイスと同じ部屋にいた。ベッドの中、隣にメイスがいる。美しい小麦色の肌を出し、こちらを向いている。メイスは常に自分の傍にいた。互いに馬鹿な話もしながら、笑いながら、共に涙を流し、時に苦痛を分かち合い、一緒にここまでやって来た。自分が現世で命を絶つ直接の引き金の一つにもなった、恋人の突然の離縁のことも、今では過去の思い出として整理が出来ていた。メイスが自分を成長させてくれたのだ、澤渡はそう思っていた。 メイスがいとおしい。この気持ちは陳腐な言葉などで表現したくはない。 だが今、澤渡の心は決まっていた。 「ユタ」 メイスが小さく呼び掛けてきた。 「何だ、寝てなかったのか?」 澤渡の質問にメイスは答えなかった。 「ユタ……カズキと一緒に行く気でしょ?」 メイスの視線が澤渡の両目を捉えた。 「……ああ」 軽く息を吐いて澤渡は答えた。 「あんたらしいわ。仲間を見捨てるなんて出来ない人だもの」 メイスは軽く身じろぎをする。 「無鉄砲で、時々前が見えなくなって、猪突猛進して。自分のためにでなく、人のために涙を流して……」 「それは褒めてるって捉えていいんだよな、メイス?」 澤渡は軽く笑って言った。 「茶化さないで」 メイスの表情に冗談を言っている雰囲気など皆無であった。 「奴は現れた。私達の目の前に現れたわ。あれには剣も銃も何も通じない。カズキには直接手出しを出来なかったにしても、貴方や私なんかには別よ。腕一本で済んだのは奇跡。あいつは……危険すぎる。そんな相手に何が出来るの? そんな体で何が?」 「分からん。だが、あの真っ黒い化け物に対抗するには、そんな武器なんかでじゃないんだ。分かった気がする」 「分かったって?」 「気持ちだよ。精神さ。奴を退けるには、奴の力に負けないだけの精神力が必要なんだ。カズキはそれで奴に勝った。だったら、俺には仲間を思う気持ちがある。カズキには無事に旅を終えて貰いたい。息子さんに無事出会い、そして連れて一緒に現世に戻って貰いたい。そのためなら、俺は何だってする。あいつは俺達を救ってくれた。あいつはそんなこと望んじゃいなかったかもしれないが、結果的にあいつは皆を救ってくれたんだ。その恩に報いなくてどうする?」 「恩返しってわけ?」 「……いや、そんなチープなもんじゃあない。ただ、あいつを助けたいんだ。何かしらの力になりたい。思いは単純さ。だが強い」 メイスはそっとベッドを抜け出した。そして真っ白なガウンを羽織い、窓際に立った。外には所々に明かりを残し、夜の闇の中にひっそりと沈むラムジャプールの市街地が見える。 「あんたが行くんだったら、私も行くわ」 「何だって?」 澤渡は上半身を起こしてメイスを見た。 「あんたが行くのなら、私も一緒だって言ったのよ」 「メイス! だって……お前」 「危険なのは重々承知よ。相手がセンチュリオンだかアムリスの部隊だか関係ない。入れ替わっただけのこと。片腕だけになったあんた一人よりは、ずっと役に立つと思うわよ」 「しかし……」 「しかしもへったくれもないの。私は決めているんだから」 メイスは力強く言うと、窓の外から視線を澤渡に戻した。 「私達、ずっと一緒だった。これからも一蓮托生よ。そのことに変わりはない」 「メイス……!」 「黙って」 メイスは一言で返すと、澤渡の傍へ戻り、その横に身をはべらせると、澤渡の体を強く抱き締めた。 「私はユタを一人にしない。だから、私を一人にしないで」 メイスはそう言い、澤渡の胸に顔を埋めた。そのメイスの頭に澤渡はそっと、自分の左手を置いた。 「一蓮托生か……だが悪い結果なんぞ招くつもりはない。行くなら、必ずお前を連れて帰る。メイス、俺は……」 「言わなくていい。言葉は要らない」 月明かりの差し込む部屋にて、二人はそのまま一つになった。
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啓吾はグリフィス小屋の前に立っていた。自分を助けてくれたグリフィス達は今、めいめいに休み、止まり木から別の止まり木へと飛び移り、そして中には欠伸をしているものもいる。 「みんな、ありがとう」 啓吾は言葉を掛けた。だがグリフィスは勝手気ままに動き回っている。 「グリフィス達はちゃんと、お前の気持ちを分かっている」 クリッジが後ろからやって来て、啓吾の肩に両手を置いた。 「グリフィスの調教なんてものをやって、もう十何年にもなるが、本当はグリフィス以上に乗り手となる人間の教育が必要なのだ」 クリッジは語った。 「私は人間に対して心を開くよう、彼等と共に過ごし、共に一つの作業をし、そして世話をするだけだ。だが、人間が心を開かなければ何にもならん。鳥だと見下したり、または穿った、汚れた考えばかりをするような者にグリフィスは乗りこなせない。共にパートナーという関係など築けようがない。二つで一つの心になれなければならん」 クリッジはしゃがみ、啓吾の視線と自分の視線とを合わせた。 「だが、お前は彼等と心を交わすことが出来た。心で彼等と話すことが出来た。お前の純粋な心がそうさせたのだ。きっと、他の人間とも心を交わせるだろう」 啓吾はじっとクリッジの目を見詰めていた。 「啓吾、お前はもう、立派なグリフィス・マスターだ」 そう言い、クリッジは啓吾を抱き締めた。 「短い間であったが、お前を本当の息子のように思えた。お前に会えて良かった、ケイゴ」 堅物男の心は今や優しく柔らかくなっていた。 「おじちゃん……」 啓吾はクリッジの肩に、自身の小さな腕を回した。大きく、そして広い、それこそ父親たる者の持つ肩であった。 「ケイゴ、お前はこの先、何をしたいと思う?」 「え?」 啓吾は訊き返した。 「この旅の行き着くところで、お前は何を望んでいる?」 クリッジは啓吾がこの先に何を求めているのか、その希望を知りたかった。 「パパに会うの」 「親父さんに?」 「うん。大好きなパパ。パパのところに帰るんだ」 「そうか……」 「そして、『ごめんなさい』って謝って、それから……またずっと一緒にいたいんだ」 「ごめんなさい、か。大丈夫だ。何を言ったかやったかは知らぬが、きっとお前の親父さんは、お前を息子に持てたことを誇りに思っているだろう。そして間違いなく愛している。勿論、今でも愛している。大丈夫だ。必ず会える。私が保証する」 クリッジは優しく、そして力強く言った。 「ケイゴ、私もお前を愛している」 その二人の姿を気遣ってか否か、グリフィス達は特に関心を示すこともなく、相も変わらず気ままに動いていた。
啓吾は今やトガではなく、ここに来た時の服装に戻っていた。途中で破れたりした箇所は、ダフニが目立たぬように繕ってくれていた。 「さ、お腹が空いたら食べて。腕によりを掛けて作ったわ」 ダフニはにっこり笑って言うと、布で来るんだランチボックスを啓吾に手渡した。それと、背中から背負えるような手作りの布袋に、新しい衣服を入れてもくれていた。 「取り急ぎだけど、ケイゴがここに来てから作ってみたの。ケイゴの服と同じ型でやってみたわ。着替えはこれで大丈夫だと思うけど……ちょっと着てみて」 ダフニ特製のTシャツとズボンに、啓吾は腕や脚を通してみた。見事にサイズはほぼぴったりと合った。ただ、少しばかりズボンは股上が合わないみたいだ。 「ま、それは愛嬌ってことで」 そう言うと、ダフニは目に涙を浮かべ、啓吾をぎゅっと抱き締めた。 「色々と本当にありがとう。ケイゴ、私、貴方のこと忘れないわ」 啓吾もダフニを抱き返した。 「おばちゃん、ありがとうございます」 外にはレンとフスハ、そしてクリッジが待っていた。その傍には銀を始め、他に二羽のグリフィスがいた。 「ケイゴ。気を付けて行くんだぞ」 クリッジは啓吾にそう言うと、銀の上に真新しい鞍と鐙を付けた。そして綱を渡すと、 「振り落とされないようにな。ケイゴのグリフィスに乗る技術はまだまだのようだからな」 と言って、再び啓吾の頭を大きな手で撫でた。 「レン、フスハ。ケイゴをしっかり見守ってやれ。エワンジェリスタに着いたら、ちゃんと連絡するんだぞ」 「分かってる」 「大丈夫さ。任せて」 心配げな表情を再び浮かべたダフニを気遣ってか、かなり威勢良く二人の兄弟は答えた。 「クリッジおじちゃん、ダフニおばちゃん……僕……」 「何も言わんでいい。無事にお前の旅が終わることを祈っている」 そう言い、クリッジは銀に乗るよう啓吾に促した。 乗馬の経験などない啓吾は、最初鞍に座った感覚に些かの違和感を感じていた。 「そりゃあ椅子じゃないんだから、最初は変な感じがするかもな」 フスハが笑って言った。 「これ、トランスソールムになるかな?」 レンが言った。年頃になった子供が一人旅をするという、あの儀式のことだ。 「一人じゃないからどうだろう?」 フスハが呟いた。 「大切な役目を果たすんだ。レン、これは立派なお前のトランスソールムだ。立派にやり遂げて来い」 クリッジが答えた。その言葉にレンは笑顔になり、力強く頷いた。 「さあ、行こう!」 フスハの掛け声と共に、兄弟を乗せたグリフィスは助走を付けて、大きく舞い上がった。それに一歩遅れる感じで、銀は啓吾を乗せて、二羽のグリフィスに追随するように舞い上がった。 三羽のグリフィス達は子供達を乗せ、地上からどんどん離れていった。その光景をダフニはクリッジに寄り掛かりながら見詰め、ほろりと涙を流した。 クリッジはそんなダフニの肩に手を回し、三人を見送った。 「私達の三人の息子達が旅立って行く」 クリッジは呟いた。
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「あ……ブジャンガ」 ギシュドバード行きの列車の車掌は、嘗て草原を彷徨う須藤を拾い、ラムジャプールへと送り届けた時のあの車掌であった。 「ブジャンガ?」 澤渡は妙なものでも見るかのような視線で、須藤の顔を見た。こんな所で須藤が毒虫呼ばわりされるなど、澤渡には想像も付かなかったことだった。須藤は何も言えず、ただ笑ってその場を誤魔化した。 「何だ、お仲間さんと一緒か! そりゃあ良かったな! で、ギシュドバードに戻るのかい?」 車掌は訊いた。 「息子のところへ戻るんです」 須藤は笑顔で力強く答えた。 「そっか。じゃあ、乗った乗った! もう出発するぞ!」 「カズキって、ほんと、何処でも誰とでも知り合いになっちゃうのねえ……」 メイスは感心したような口振りで言った。 「ああ、なれちゃうんだな、これが」 須藤のその答えに、メイスはぷっと吹いた。 「カズキ、あんたって面白い男よね」 「そうかい?」 メイスは再度吹いた。 「もう……ユタといい、あんたといい、本当面白いわ。デコとボコみたい。二つで一つって具合?」 「どっちがデコでボコか、それが問題だ」 澤渡は茶化したように言い、三人は笑い合った。 「澤渡、メイス……本当にありがとう」 須藤は二人に真摯に言った。 「それはこの旅が終わってから、改めて聞かせて貰うわ。さあ、乗って!」 メイスは照れ隠しのような笑みを浮かべながら、須藤を車両に乗るよう促した。 「無事に終わらせるさ。俺達が付いている」 澤渡が言うと、須藤はそれに対し大きく頷いた。 「ああ。心強い仲間が自分にはいるんだから、間違いないさ」 須藤のこの言葉には、これから待ち受ける未知の土地や出来事に対しての、心の底に横たわる不安を払拭させる意味合いをも含まれていた。 それ以上に、啓吾との無事なる再会を信じてのことでもある。 出発の合図である、列車の汽笛が一際大きく響いた。
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その頃、エワンジェリスタ郊外にある空間近衛騎士団駐屯地は黒煙を上げていた。建物は瓦解し、そこに生きて動く者やグリフィスは皆無であった。 その破壊され尽くした光景を、一つの黒き者が立ち尽くしながら見詰めていた。太古のエジプト王朝期に、王族を葬る際に使用された棺のような姿を、漆黒のフードの中に浮かび上がらせ、緑色に鈍く光る両眼は遥か空の向こうを見上げているようでもあった。 その漆黒の使者、「絶望」はこれから啓吾達がやって来ようとする方向にある雲に視線を送りつつ、低く呟いた。 「さあ、来るがいい、少年よ」 そして、「絶望」は元の黒き靄となり、その場で姿を四散させた。
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足下を緑で覆われた地表が広がっている。アラキノフス上空を越え、プロウィコス自治領の境界まですぐの地点に三人は差し掛かっていた。啓吾にとって、陽の高い時間帯で空を飛ぶのは初めてであった。啓吾の目の前に広がる光景は、啓吾にとってまさに筆舌に表せないほどの美しさを伴っていた。低い山を幾つか越え、森の上を滑空し、銀はレンやフスハを乗せたグリフィス達を追って、更に高度を上げた。白い雲が手に届きそうな位置に見える。 啓吾は思わず声を上げた。風は心地よく、その頬を優しく撫でるように吹き抜けていく。今、啓吾は一人ぼっちではない。二人の仲間が傍にいる。 何と心強いのであろう!
そして、列車に揺られ、ギシュドバードへ向かう途中の須藤も、同じ心強さを感じていた。須藤も一人ではない。新たな二人の仲間と共に、今、確実に息子の元へと近付いているのだ。 須藤は車窓を開け、外を流れる風に胸から上を任せた。 きっと啓吾も今、自分と同じ空を、同じ雲を見ているのかもしれない。同じ空の下、啓吾は何処かにいる。必ず見付け出す。そして必ず会い、そして先ず思い切り抱き締めよう。啓吾をこの手で力一杯抱き締めるのだ。 須藤は若緑色の空に思いを馳せた。 「必ず行く。啓吾、待ってなさい。パパは必ず、お前を迎えに行く」 須藤は声に出して呟いた。その声は車窓に吹き込む風と共に、澤渡やメイスの元にも届いた。それに対して、二人は何も言わず、須藤の背をじっと見詰めて返した。
各々の思いを、若緑色の空は受け止めたかのように、白き雲を携えたまま、何処までも果てしなく広がっている。
目指すは王都エリュシネ。
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