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作品名:リフレクト・ワールド(The Reflected World) 作者:芽薗 宏

第51回   第四十九章 アフターマス 【前編】
 南アジアの雑多な街並みを髣髴とさせる都市ラムジャプール。様々な人種の顔ぶれが、明るく降り注ぐ陽の光の下、めいめいに通りを行き交う。その通り沿いには、建てられてかなりの年月が経ったのではと思わせる雰囲気の、レンガ造りの建物が所狭しと並んでいる。また通りでは、露天商が様々な店を並べている。串に刺した果物や、グラスに入れたメランジの絞り汁を販売している所もあれば、シシュ・ケバブのような肉の塊を焼いた料理を皿に乗せて出している店から、何とも食欲をそそらせる香りが漂っている。手作りと思われる様々なアクセサリーや小物類、壺や皿などの日常雑貨を売る男がいれば、色鮮やかな反物を売る子連れの女性もいる。威勢のいい呼び込みの声が飛び交う中、集合住宅らしき十階建ての建物のベランダで、干していた洗濯物を取り込んでいる女性が見える。路地裏では子供達が、未舗装の路面に木の枝で升目を描き、そこに短い棒と小石とを並べ、飛んだり跳ねたりと何かしらのゲームをして遊んでいる。その街路を須藤達は歩いていた。
 ジュデッカ特区を発って約六ホールスの時間を掛け、飛空挺はラムジャプール機動隊本部の基地へ着陸した。アタワの村を発つ時に乗せられたものと同じ機体だ。だが今回は道中における人々の心持ちが違う。皆、開放感に喜びを隠せずにいた。
 元々アタワという村は、中途転生者がレジスタンス運動を行うための拠点として、廃村だったその地に集まったことから始まっている。元々彼等は、ラムジャプールや国境沿いのギシュドバード、首都であるアグゲリアード等、様々な地域、都市、集落で暮らしていたのだ。村を焼かれて途方に暮れている者よりは、新たに生活を立て直せるという期待に胸を膨らませている者のほうが断然に多かった。もう中途転生者として周囲に怯えなくてもいいのだ。たとえ誹謗中傷があったとしても、身分が国から保障されたのだ。これは大きな一歩である。
 須藤と澤渡、メイス、クミコとラムジャプール及びギシュドバード出身者は同じ飛空挺に搭乗し、この都市に到着した。夕方になる少し前である。ギシュドバードへ行く者は、ここから列車で旅立つことになっていた。艇内で澤渡は右腕の傷の治療を受けた。見た目こそ須藤や啓吾とそっくりの肉体であり、血液の色も同様に赤い。ただ、構成する物質が現世の者の肉体と異なり、思念というエネルギーが物質化しているというのか、現世の者には理解し難い組成をしているため(昔言われていたエーテルなる物質とも異なる。元々エーテルとは想像上の産物なのだ)、自然治癒力はすこぶる高かった。本人の精神力が強ければ強いほど、その治癒力も高まるということらしい。傷口の包帯を巻き直され、その上から大判の布をポンチョのように纏った澤渡は、
「もう大丈夫だ。心配掛けて済まない」
と笑って須藤達に言った。
「もう……それで大丈夫なのか、澤渡?」
 須藤は不思議なものでも見るかのような目付きで、いや実際須藤にとっては不思議でならなかったのだが、澤渡に念押しで訊いた。
「流石に痛みはあるぞ。腕一本持っていかれたんだからな」
 苦笑いを浮かべた澤渡に、メイスは笑い掛けた。
「あんたは何にせよ、不屈の男だからね。こんなことでぶっ倒れはしないでしょ、ユタ?」
「おいおい、少しは気遣ってくれてもいいだろう?」
「十分気遣ったわ。これ以上を求めるなら、あんた宛に請求書書くわよ」
「ああ、分かった分かった」
 二人のやり取りを聞いて、須藤も笑った。
 ラムジャプールの基地での彼等に対する機動隊員の態度は、手の平を返したように変わっていた。今朝のアムリスの電撃宣言により、中途転生者に対するこれまでの暴力的な処遇が全面的に禁止されたのだ。機動隊員の中には、嫌悪する眼差しで須藤達を見やる者もいる。流石に居心地のいい場所ではなかった。一行は早々に基地を出て、市街地に入ったのだ。

「生活感が溢れている。人達の精一杯生きる力を感じられる。ここがあの世だなんて、とても思えない」
 須藤の言葉にクミコが笑って答えた。
「私達からすれば、カズキのいた世界こそがあの世なんだけどね」
「そうか」
 須藤も笑って返す。
「あそこだ」
 澤渡が左手の指で前方を指した。六階建ての建物がそこにあり、入り口の扉の上には、緑色のほろが斜めに掛けられている。
「仲間の店だ。市内で諜報活動を担当していた男がいる。元々は宿屋なんだ。一階は飲み屋になっている。ちょっと声を掛けてくる」
 そう言って澤渡は先に行った。
「傷も癒えてないのに、あんなに走って……」
 メイスは呟いた。しかし、その言葉に心配げな感じはない。優しく見守るといった口調だった。
 須藤はメイスの顔を見た。ミルクチョコレートのような色の肌には艶があり、大きな目には鳶色の瞳が輝いている。短く刈り込んだ髪が特徴的で、マニッシュな雰囲気で猪突猛進している感じの女性である。その瞳に湛えた光は実に優しげであった。
「メイス」
 須藤は呼び掛けた。
「何?」
 メイスは須藤のほうを向いた。その顔がにんまりと笑っているように映る。
「何よ、にたにたしちゃって」
「いや、元々こんな顔だから」
 須藤は笑って返した。奥二重の細い目に、心情を露わにした瞳を持つ顔は、元フランス人のメイスにはそう見えても、ある程度は仕方がないかもしれない。
「ああ、東洋人だものね、カズキは。ごめんなさい。私にはどうにもそう見えちゃうの。ユタとは正反対ね」
「正反対?」
「ええ。ユタは……いつも何処か寂しげなの。いつも遠くを見ている感じで。時々、心ここにあらずってオーラを出している時もあるわ」
「そうか……そう映るかもしれないな、澤渡は」
 須藤は思い返していた。澤渡が自殺していたことを。
「でもいいやつさ。仲間思いで」
「知ってるわ。もう嫌っていうほど」
 メイスも笑って答えた。
「心から……私はユタの力になりたいと思ってるの。いつも横にいて、何かあればそっと手を差し伸べて、ユタを支えてあげたいって」
「そう……」
「ええ」
 須藤はメイスに右手を差し出した。
「澤渡、いや、ユタを……友人を頼むよ」
「え?」
「メイス、君はあいつの支えに十分なっていると思うよ。そしてそう信じている。これからもお願いだ。あいつの傍にいてやって欲しい」
 照れ笑いのような、苦笑いのような、何とも複雑な笑みを浮かべたメイスは、差し出されたその右手を力強く右手で握り返した。
「ええ」
 その二人をクミコが後ろから微笑みながら見詰めていた。
 
「よお、ムスガル!」
 ムスガルと呼ばれた毛むくじゃらの大男は、バーのカウンター越しに澤渡の顔を覗きこみ、驚きの声を上げた。
「ユタ! ユタじゃねえか! お前、無事だったんだな!」
 大声で答えると、ムスガルはカウンターから飛び出してきた。握手しようとしたが、澤渡は苦笑いを浮かべ、左手を上に上げた。
「悪い。今はこれ一本だけなんでね」
「何……どうした? お前、お前! 右腕は……」
「まあ、名誉の負傷ってことにしておいてくれ」
 ムスガルは澤渡の片腕だけの姿をじっと見ていたが、表情を引き締めると、その左手を力一杯握った。
「いやあ、命が無事なだけでも儲けもんさ! よく来てくれた!」
「ありがとう。奥さんは元気かい?」
「ああ、実家からこっちに出てきてからは、一緒に店の手伝いをしてくれているよ。あっちじゃ避難命令が出ていたからな。だがまた、故郷に帰られるんだ。俺もここをメルバに譲ろうと思ってんだよ」
「メルバ? ああ、厨房担当のおばちゃん?」
「ああ。メルバはここラムジャプールの人間だしな。俺とかみさんとで故郷に戻る予定だ」
「そうか……寂しくなるな」
「なあに、元々お前は宿無しの風来坊みたいなやつだ、何処でもやっていけるだろう? 気が向いたらギシュドバードに出てもいいんじゃねえか?」
「ああ、考えておくよ。あ、連れがいるんだ」
「連れ? ああ、メイスか?」
「あとクミコもいる」
「何だって? あのクミコさんかい?」
 ムスガルにとってクミコは尊敬するリーダーでもある。途端に表情に緊張が走った。
「おいおい、俺達レジスタンスはもう解散、自由だ。クミコとお前はもう対等の立場でもあるんだぞ。緊張してどうする?」
 そう言う澤渡を戒めるようにムスガルは返した。
「馬鹿言ってんじゃねえよ! あのお方は俺達中途転生者を導いてくれたんだ。たとえ俺達が解散だとしても、クミコさんはクミコさんに変わりはねえさ!」
「そうだな」
 澤渡は笑みを浮かべて答えると、店の前に出て、残っていた三人に手招きをした。
「やあ、ムスガル! 元気?」
 メイスが満面の笑みで挨拶をした。
「おお、メイス! お前さんも無事で何よりだ!」
 そう声を掛け合って、力任せのハグをした。そしてクミコに向かい、ムスガルは握手を求めた。
「ようこそ、クミコさん。あんたのおかげで俺達はこうやって生き延びられた。本当に感謝しています」
「いいえ、皆の力と心があっての賜物よ」
 笑ってクミコは握手を返した。
「で、そっちの男は?」
 ムスガルの問いにクミコが答えた。
「ああ、彼の名前はカズキ。今日の『革命』の立役者よ」
「ええ?」
「彼がアムリスと直接対峙したの」
「何だって? そりゃあ……」
 ムスガルは睫毛の長い目を丸くして須藤を見詰めた。
「初めまして」
 須藤はぺこりと頭を下げた。

「船か。だがここラムジャプールからは飛ばせねえぞ」
「そうなのか?」
 夜も更け、澤渡とムスガルは客のいなくなった一階のバーのテーブルで話し合っていた。
 ついさっきまで、澤渡達が無事にジュデッカから生還したことを祝って、店を貸し切り状態にし、同じレジスタンス仲間とで集まって祝杯を上げていたのだ。大量の酒と、厨房でメルバとムスガルの妻とが作る様々な美味な料理とで、澤渡一行はもてなしを受けていた。
「あら、あんた! 確かこっちに来る途中の列車で見たことがあるわ!」
 須藤の顔を見たムスガルの妻が大声を上げて笑った。須藤もその顔をしっかりと覚えていた。草原の真っ只中から乗り合わせた列車の中で、須藤にメランジを寄越した、あの子連れの女性だったのだ。
「ああ! 自分も覚えていますよ! こんな所でまたお会いできるとは思っていなかったです!」
「いやあ、偶然って言うか何て言うか、とにかく元気そうで良かったよ」
 手を握り合っている二人の姿を見て、ムスガルと澤渡は目を丸くしていた。
「こうやってまた出会えたのも、きっと何かのご縁だよ! さ、さ、どんどん食べて飲んでおくれ! 今夜は思い切り騒いじゃえ!」
 ムスガルの妻は豪快に笑いながらそう言うと、厨房に戻り、そして直径八十センチはあろうかと思える大皿に山盛りになった料理を持って出て来た。
 しかし須藤は心から楽しむことが出来ず、早々に上の階に用意された部屋へと入って行った。
「息子さんのことが気になるのね。そっとしておきましょう」
 心配げな表情を浮かべる澤渡に、メイスはそっと言った。
 それから暫くして、皆が帰った後にムスガルと澤渡は、須藤を国外に出すための船の手配について話し合っていたのだ。
 ムスガルが重々しい口調で語った。
「今、この一帯は国境に集結していた部隊の帰還や、何でも『新たな脅威』とやらに警戒するってことで、渡航制限令が出ている。まともに飛びゃあ、途中で強制着陸させられるぞ」
 澤渡が答えた。
「だが、一樹がアグゲリスを出ることをアムリスは許可している」
「あのアムリスが? あの男個人のことを直々に許可? 何ともまあ……すげえな」
「なあ、その『新たなる脅威』って……センチュリオンのことか?」
「さあな。そこまでは分からん。ジュデッカでの出来事については、情報統制がされているから詳しくは知らんが、それでも生存者の話からすりゃあ、『出た』ってことなんだろ?」
「ああ。あのアムリスにぺったりとくっ付いていやがった。あの急激な政策転換やその後のことは、アムリスがそいつに操られてのことなんだそうだ」
「ふん」
 ムスガルは鼻を鳴らすと、大ジョッキよりも一回り大きなゴブレットに入った発泡酒を飲み干した。
「何にせよ、ユタよ、ラムジャプールからじゃ話がややこしくなる。ギシュドバードからなら大丈夫だろう。国境沿いの町だし、全速でぶっ飛ばしゃあ、或いは追っ手を振り切ることが出来るだろう。アムリスが仮に……いや、こう言っちゃあなんだが、俺はあの大公を未だに信じられなくてな。で、今になって、渡航許可を出したところで、そりゃあ口頭でだろ? おまけにその許可が奴の手下一人一人にまで行き渡っているとも思えん。追っ手は想定しておいたほうがよかろう」
「ああ、分かった。じゃあ、ギシュドバードからなら船はあるんだな?」
「サンジェイに頼んでみよう」
「サンジェイ? サンジェイって……」
 澤渡の表情が曇る。
「ああ、こういう仕事にはうってつけの奴だ。海賊だからな」
 はあと澤渡は溜め息をついた。
「海賊ねえ」
「何だ、不満か?」
 ムスガルは何故と言いたげな表情をした。
「確か、レグヌム・プリンキピスにある何とかって自治領から、政府の右翼連中に横流しにする予定のテクタイト運搬船を襲っていた奴だったな?」
「そうだ。だからうってつけ。政府の連中相手にびびるこたあ先ずねえさ。まあ、海賊稼業やってっからな、ただじゃあねえ。言い換えりゃ、金さえありゃ何でも引き受ける。そしてきっちりと仕事をやり抜く男だしな。あいつには何処かを贔屓するようなことはしないし、信頼してもいいと俺は思う」
 ムスガルは自信ありげに言い放った。
「んん……まあ、そうだな」
 澤渡は二つ返事で了承した。
「この国を出てから何処へ行くんだ?」
 ムスガルが訊きながら、親指ほどの太さの葉巻をくわえ、火を点けると、椅子の背に体をもたせ掛けて軽く背伸びをした。
「エリュシネだ」
「レグヌム・プリンキピスの? 大体七千ミル程度の距離か」
「もしそこまで飛んで貰えたら、幾ら掛かる? 本当ならそのほうが助かるんだがな」
「急ぎか?」
「ああ。そうだ」
 澤渡の返事を聞くと、ムスガルは立ち上がり、店の壁のほうへ歩いて行った。壁には旧式の電話機が備え付けられている。剥き出しのベルが二つ付いていて、通話口と受話器部分が分かれている、箱型の代物だ。
「交換かい? ギシュドバードまで頼む。ああ、相手はファリード・ナーナク。『ナーナクの酒場』で登録されている……そう、そうだ。頼むよ。こっちの名前はムスガルだ」
 ムスガルは澤渡のほうを振り向いて言った。
「サンジェイはそこの酒場に滞在している筈だ。このこたぁ、俺と他三人しか知らんことさ」
 それからムスガルは酒場の店主である、ナーナクなる者と話をし始めた。

   ※ ※ ※ ※ ※

「貴方!」
 玄関から飛び出してきたダフニは、クリッジの姿を視認すると、そのまま飛び付いてしっかりと夫を抱きしめた。
「ああ、何でもない。大丈夫だ」
 クリッジはダフニの肩に手を置くと、次に腰周りにしがみ付いて来た二人の息子達の頭を撫でた。
「父さん! 父さん!」
 レンとフスハは満面の笑顔で以って父を迎えた。
「心配掛けたな。お前達も無事で良かった。怪我はしなかったか?」
 二人は大きく何度も頷いた。
「俺達は大丈夫だよ。父さんは怪我してない?」
 フスハが訊くと、クリッジはフスハの頭を大きく撫でて答えた。
「ああ。この通りだ」
 クリッジは笑った。
 その光景を後ろから見詰めている啓吾は、ふと父である須藤一樹と共に語り合った、あの夏の日の朝のことを思い出していた。最後に父に乱暴な答え方をして、マンションを飛び出していったあの朝を。
「ケイゴが助けてくれた」
 クリッジは啓吾のほうを振り向き、手を差し出して声を掛けた。
「おいで、ケイゴ」 
 啓吾がゆっくりとクリッジのほうへ歩き出すと、それを待たずにダフニが駆け寄ってきて、啓吾をぎゅっと抱きしめた。
「ケイゴ、ありがとう……ありがとう! あなたも大丈夫なの? 怖かったでしょうに……!」
 二人の兄弟もやって来て、啓吾の肩にそれぞれの腕を回した。
「お前、すげえよ! まさか、本当に父さんを……お前、すげえ奴だよ! ありがとな!」
 レンが嬉々とした声を上げた。
「一人で行っちまうんだもんな。びっくりしたぞ! でも無事でよかった。父さんを連れ帰ってきてくれて、本当にありがとうな、ケイゴ!」
 フスハが驚きと喜びの表情を浮かべつつ言った。
「うん……」
 何処となく冴えない表情を浮かべていた啓吾をクリッジは見逃さなかった。
 アラキノフスでは今では大騒ぎになっていることだろう。レクスス・プロウィコスやその息子のシネカスがどうしているか、クリッジには分からなかったが、館の窓や外壁を吹き飛ばし、あの黒色の異物が噴き上がってきた様は皆が見ている筈だ。そして、それが何なのか、はっきりとは分からずとも、伝承のあの「悪魔」であろうと想像することは容易い。皆、それを心底恐れているからだ。恐怖は幾らでも制御することは出来る。この世界の者なら出来る筈である。そのように教育されてきたからだ。だが、潜在的な恐れまでは拭い去れない。だからこそ、それに蓋をして考えないようにする。今、この場で、実際に発生している最中の厄介事以外に心を惑わせることはナンセンスだと、皆教えられている。そして躾もされている。実際に起こり得る可能性のない、または著しく低い事柄に悩んだり、煩わせられることなど無意味なのである。
 だが、本来なら出くわすことのない、いや、出くわしたくなどない、潜在的な恐怖が今目の前にいきなり出現されたら、そうした者達は如何に動くだろう? 現実と捉えて行動するか、若しくは蓋をし続ける。なかったこととして、一瞬の気の迷いか、その時限りのもので後には引かないと期待し、蓋を再びするのだ。果たしてそれが懸命なことなのか否なのかは、そのことに対峙した者が後に思うことでもある。
 今回の事例に関して言えば、事勿れ主義的な考え方で済ませるには、あまりにも危険である。
 幸か不幸か、グリフィスに乗り、ここまで戻ってくる間に追っ手は一切なかった。とは言っても、この土地を治める領主の館で大騒ぎを引き起こしたのであるから、何もないまま終わるとも思えない。
「ケイゴ、部屋で少し休むといい。寝ていないのだろう? 急いでお前のために準備をしよう」
 クリッジは啓吾に言った。
「準備?」
「そうだ。お前は一刻も早くここを発ち、エリュシネへ向かわねばならん」
 この国の女王が自分のことを捜している。父の元へ戻るための足懸かりになるやも知れない。だが、啓吾は不安でもあった。寂しくもあった。ほんの短い間とはいえ、この見知らぬ世界で共に過ごしてくれた者の傍を去るのは、やはり心もとないものがあるのだ。
「ダフニ、いいな」
 クリッジがダフニに視線を送り、促した。
「……分かりました」
 温和な表情をきっと引き締めたダフニは、啓吾の元へ寄り、その小さな頭を自身の体へと当て、ゆっくりと優しく撫でた。
「何処から来たのか分からないまま、また新たな場所へ旅立っていく……小さな小さな旅人さん。そして、私の家族を改めて一つにしてくれた大きな大きな恩人さん」
 ダフニは優しく啓吾に語り掛けた。
「私は、今貴方に出来ることを、ケイゴのために出来ることを精一杯するわ」
 ダフニが何を言っているのか、啓吾には最初ぴんと来なかった。だが、これが目の前に別れの時が迫っていることを告げたのだと感じ取り、目に涙がじんわりと浮かび上がってきた。

「何?」
 クリッジがレンとフスハに厳しい視線を向けて言った。
「だって、ケイゴ一人っきりなんでしょ?」
「そうだよ。それでいきなりエリュシネへ行くなんて遠すぎるよ」
 兄弟が口々に言う。
「だから、お前達がケイゴと共に行くというのか?」
 ダフニも驚いた表情で、台所から出て来た。出発の前に、啓吾のために着替えと弁当を用意していたのだ。
「馬鹿なことを言うんじゃない! それはならん」
 クリッジは険しい表情を浮かべ、息子達に言い放った。
「ケイゴは父さんを助けてくれた! 怖かっただろうし、何も分からない場所なのに、たった一人で乗り込んで、父さんをあの領主から助けたんだよ! 今度は俺達がケイゴを助けなくってどうするんだ!」
 父に睨まれつつも怯まずに、きっとした表情でレンは言った。
「俺もレンに賛成だよ。一人きりで行くよりも、何かの手助けになれると思う。ケイゴはもう他人じゃないんだ。俺達にとっては父さんの恩人だし、もう仲間なんだ!」
 フスハも負けずと言い放った。
「お前達に一体何が出来るというんだ! ほんの一時の感情でそんなことを言うもんじゃない!」
 クリッジのこの言葉に、兄弟は一斉に噛み付いた。
「そんなんじゃない! そんなんじゃないよ!」
 レンが大声を上げた。
「俺達、ケイゴがいない間二人で考えたんだ。ずっと話し合ったんだ。確かに俺達はまだ子供だ。何にも分かんない、ただの子供でしかないよ。でも、それでも分かることだってあるんだ! ケイゴを、あいつを放っておいちゃいけない! 仲間を、友達を助けなくちゃ!」
「それは分かるけど、でも危険だわ!」
 ダフニが横から心配げな表情で言った。
 フスハは息を大きく吸うと、落ち着きを取り戻して言った。
「分かるよ。ケイゴと初めて会った時のこと、覚えてるんだ。そこでケイゴが言ったことも覚えてる。あいつ、大変な目に遭ってここまで来たんだと思う。よくは知らないし、ケイゴはそのことを詳しくは話そうとしないから、俺も訊かないようにしている。それでも、あいつは頑張って、負けないように頑張って頑張って、今ここにいるんだ。そして父さんを助けてくれた。そんなケイゴを放っておけるわけないじゃないか! ケイゴには助けが要るんだ。ケイゴは一人なんかじゃないってことを……」
「もういい!」
 クリッジがフスハの言葉を遮った。そしてじっと兄弟の目を見た。その厳しい、いつもにもまして厳し過ぎるまでの視線に、二人は背筋を震わせた。そして、ゆっくりと首を横に振りつつ訊いた。
「ケイゴの抱えているものは重い。それをお前達が受け止めることが出来るのか?」
 レンは顎を下げ、上目遣いに父を睨みながら言った。
「そんなの分かんないよ」
 クリッジがレンを睨んだ。
「分かんない。でも、ケイゴがそれに我慢して頑張ってるなら、俺も兄さんも一緒に頑張る。ケイゴと一緒に頑張るんだ。重い荷物だって、みんなで担いだら少しは軽くなるもん」
 フスハも続けた。
「俺もレンと同じ気持ちだよ。父さん、頼むよ。ここでケイゴを一人で見送って、後で嫌な思いをするの真っ平だよ。悔やんだりしたくないんだ。友達を見捨てたって気持ちになるの、絶対嫌だよ!」
 クリッジはふうと息を吐き、再び首を振った。そして顔を上げ、二人を交互に見やると呟いた。
「お前達、何時からそんな生意気なことを言うようになったものだか……」
 そして立ち上がり、二人の傍へと歩み寄った。二人の兄弟はびくっと体を震わせた。クリッジは二人の前に立ち、その大きな手を二人の頭の上に載せた。
「だが、お前達の言うことは間違っちゃいない。仲間を、友達を思いやるその気持ち、それは立派だ。誇りに思う」
 ダフニの心配げな表情が一層強くなった。
「貴方、まさか……」
「だが、エリュシネまでは遠過ぎる。ここから六千ミル以上もあるんだ」
「父さん……!」
「この土地を出て、東へ三百ミル離れた町に近衛騎士団の駐屯地がある。エワンジェリスタだ。そこへケイゴを送ってってやれ。そして、そこの騎士団員にケイゴを預けなさい。アフェクシア女王がケイゴを捜しているのなら、きっと無事に送り届けてくれるだろう」
 そう言うと、クリッジは二人を両腕で力強く抱きしめた。
「お前達……この悪ガキどもが。お前達はやはり私の息子だ」
 それをダフニは、心配げな表情のままながらも、それでも笑みを浮かべていた。
「お前達を愛している」
 クリッジはそっと優しく言った。


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