「レクスス様! レクスス様!」 衛兵の大声と騒々しいノックで不快な目覚めを強いられたプロウィコスは、それに比例しての不愉快さで以って、負けず劣らずの大声で声を上げ返した。 「何だ!」 衛兵が慌てふためいた様子で寝室の中に転がり込んで来た。 「ええい! 朝っぱらから騒々しい! 一体何だというのだ?」 カーテンをそのまま身に纏ったような様相の寝巻き姿で、恐ろしく巨大なベッドから巨体を起こしたプロウィコスは、拳を握り締めながら、入室してきた衛兵を藪睨みした。 「も、申し訳ございませ……」 「いいから、とっとと申せ!」 「あ、はい! 子供が……」 「子供?」 「ええ! 子供が……逃げました!」 眠気が吹き飛んだ。 「ああ? 何だと? 逃げただと!」 「は、はい!」 「どうやってだ? あの牢からか?」 「ええ、その、あの牢の石壁に、石を動かした跡がありまして、その……」 「何だと言うのだ! 何て手落ちをしてくれる! 壁石を動かせるなんて、さてはクリッジか! 修理してなかったのか? 見落としなんぞしおって!」 「何せ、ここ随分と牢は使用されておりませんでしたから……」 「そんなこと言い訳になるか馬鹿め! いなくなったガキは三人ともか?」 「はい」 「あの、ケイゴと言うガキもいないのか?」 「はい、三人とも姿がありません」 飄々とした雰囲気のその衛兵の姿を見ていて、プロウィコスの腹の虫はだんだん収まりが付かなくなってきた。 「ええい!」 プロウィコスはそう声を上げると、ベッドサイドのテーブルの上に置かれていた水差しの瓶を、右手で力任せに叩き落とした。瓶は床に敷かれた絨毯の上に落ち、鈍い破裂音を残して割れた。水が跳ね飛び、プロウィコスの足下を濡らす。 「貴様! クリッジは今、牢の中か?」 「は、はい! おります」 「ぬう……っ」 プロウィコスの表情が醜く歪む。寝巻きの上にけばけばしい上着を羽織ると、ルキフェルとミカエルとが互いに睨み合う天井画の描かれたあの部屋へと歩いて行った。
薄暗いダクトの中を、這いながら啓吾は進んでいた。明かりは、各部屋や廊下にある通風孔の蓋から漏れてくるものだけが頼りだ。小柄な子供なので、ある程度は進むことに難を感じることはないが、それでも肘や膝が痛み出している。大人なら腰も痛むところであろう。 啓吾は常に耳を澄ましながら進んでいた。時折、衛兵達が走ってきたり、ゆっくりしたペースで歩いてくる。彼等に物音を聞かれるわけにはいかない。どうしても、ごそごそという物音は立ってしまうのだ。おまけに、入り込んだはいいが、何処でダクトから出て行けばいいのかが分からない。先ずはクリッジのいる牢を探さなくてはと、啓吾は思いつつも、若干焦りを覚え始めていた。 前方に、T字に分かれた箇所が見えてきた。どちらに行けばいいのか、普通ならそんな風に迷ったりするのだろうが、啓吾は止まることなく、右へ左へと進んでいた。だが、啓吾からすると、決していい加減に方向を選んでいるわけではなかった。頭の中で「何か」が方向を選択し、それに素直に従って進んでいるのだった。まるで、潜在意識が自分の脳に直接語り掛けてでもいるような感覚を覚えていた。 『右だ』 『左へ行け』 『そのまままっすぐ、突き当たりの手前を左へ曲がれ』 このような具合で、脳内にインスピレーションが浮かんでくるのだった。 そのうち、側面にある一箇所の通風孔の蓋のところまで来ると、 『ここだ』 という強い思いに行動を止めさせられた。まるで何者かに導かれているかのようだった。 啓吾は外をそっと覗き込んで見た。やたら長たらしいダイニングテーブルがあり、その端に不自然に大きな椅子が見える。天井には何やら仰々しさを感じる絵画が描かれている。天使と悪魔の軍団同士が戦争でも始めるのではないか、という印象を持たされるものだ。中をもっとよく見ると、窓際に常識外れなまでに丸々と太った男が見える。 プロウィコスだ。
間もなくして、クリッジが後ろ手を縛られた状態で連れて来られてきた。 「やってくれたな、クリッジ」 プロウィコスには、クリッジの相変わらずの鉄面皮な表情が憎々しく思えてならなかった。 クリッジは口を開いた。 「私がお前の申し出を受け入れれば、子供達に用はなかろう?」 「あのガキは別だ!」 プロウィコスが吼える。 「あのガキは女王と交渉するために必要な切り札なのだ! よくも余計なことを!」 そう言うと、椅子に掛けてある改造ウィンチェスター銃を取り、プロウィコスをその銃身で力任せに殴り付けた。クリッジは一言も声を漏らすことはなかったが、足下がふらついた。クリッジを抑えていた二人の衛兵が、前のめりになったクリッジを、背を反らせた姿勢にさせる。 「ああ、そうだ。お前にグリフィスの専属調教を命じたのは、我が衛兵隊とこれから新設する予定の親衛隊の戦力を増強することが目的だ。この自治領はまもなく独立国となる! そのための自衛戦力が必要なのだ! 私はもうじき国王となる! そしてお前達愚民共はこの国を護るために尽力する義務を負うのだよ!」 目を剥いてプロウィコスはクリッジを睨むと、今度はみぞおちに更に一撃を加え、勢いに任せて顎にも新たな一撃を加えた。 口角から流れる鮮血をぺっと床に吐き付けると、きっと顔を上げ、クリッジはプロウィコスを睨み返した。 「己の身に不相応な欲望を抱えていると、その身を滅ぼすことになるぞ、レクスス!」 「お前の知ったことかあ! よくもあのガキを逃がしてくれた!」 銃口がクリッジの頬に押し当てられた。その力でクリッジの首が右へと傾いた。 「お前……! 撃ち殺してやる! その顔に大穴をぶち開けてやる!」 クリッジは低い声で言い放った。 「やれるものならやるがいい……レクススよ!」 「おじちゃーーん!」 突然、壁の辺りから声が上がった。プロウィコスの手に込めた力が緩む。 「おじちゃんを苛めるなあっ!」 銃口をクリッジの頬から離し、プロウィコスは辺りを見回した。 「ガキ……か?」 「ケイゴ!」 クリッジは叫んだ。壁にある通風孔の蓋越しに、啓吾がこちらを覗き込んでいる。 「おお! 戻ってきたのか!」 満面に見苦しい笑みを浮かべると、プロウィコスは手で衛兵に合図を送った。二人のうちの片割れが、啓吾の姿が見える通風孔へと駆け足で近寄っていった。啓吾の頭が奥に引っ込む。 壁際に置かれていた、普段使わない椅子を運び、壁の傍に置いた衛兵は通風孔の蓋を開け、中に顔を突っ込んだ。だが、大人一人が入り込んで捕まえられるほど、啓吾はのろくはない。既に突き当たりを曲がって進む啓吾の足先が衛兵には見えるだけだった。衛兵は頭を出して下に下りると、部屋の扉を開け、大声で怒鳴った。 「子供がいるぞ! 通風孔を塞げえっ!」 何人かの衛兵が新たに入室してきた。他の衛兵が廊下をばたばたと走っていく。プロウィコスは入ってきた衛兵達にクリッジを見張るよう命じ、そのうちの一人に、クリッジへ銃口を向けたまま、銃を手渡した。 「少しでも余計な動きをしたら撃て。まだ殺すな。肩か足でもぶち抜いてやればいい」
啓吾はまた「導かれた」。 『そこから下に下りろ』 蓋の下を覗くと、缶詰や瓶詰めの並べられた棚が見える。保存食の保管庫のようだ。啓吾はそっと蓋を開けようとした瞬間、保管庫の扉が勢いよく開いた。啓吾は咄嗟に顔を退いた。入ってきた衛兵は、啓吾の隠れる通風孔の蓋の傍に顔を寄せ、気配を探ろうとしている。啓吾はじっとして動かずに息を殺した。衛兵は壁にあるランプのコックを捻った。青白い火花がガラス管の中でスパークし、電気のような炎のような、妙な球形の光が中で点り、室内をおぼろげに明るくした。衛兵は更に顔を蓋に近付ける。蓋に手を掛けて揺するが、蓋は開かない。鼻をくんくんと鳴らすと、ふんと鼻息を鳴らし、再びコックを捻って明かりを消し退室していった。 啓吾はほっと息をつくと、再び蓋の網板に手を掛けた。不思議なことに、衛兵が開けられなかった蓋が、啓吾が掴むと難なく外れた。そのことに多少の不思議さを感じつつも、啓吾はゆっくりと足から出た。棚に並ぶ瓶がかちゃかちゃと音を立てる。息を止めつつ、注意を払いながら、足先の届かない床の上に飛び下りた。忍び足で歩き、扉に手を掛けるとそっと開いた。廊下には誰の姿も見えない。衛兵と思われる声が響いている。 「向こうへ回れ!」 「そこに張ってろ!」 「裏口に行け!」 啓吾はそっと保管庫を出ると、はす向かいにある曲がり角へと早足で移動した。端に飾られてある甲冑の影に身を潜める。ダクトを移動した方向を逆に辿れば、先程クリッジがいた部屋は左の壁にある、あの扉の部屋だろう。クリッジは一人きりでいたわけではない。衛兵が周りにいる。さあ、どうやってクリッジだけをあの部屋から出せばいいのだろうか。考えている時間はない。啓吾の心に焦りが生まれた。 「何をしている?」 後ろから声がした。啓吾はぎょっとして振り向いた。 けばけばしい格好をした巨漢の男がじっと啓吾を見ている。
「放せ! 放せよ!」 大声を上げる啓吾の襟首を掴んだまま、プロウィコスはクリッジのいる部屋へと入ってきた。 「ケイゴ……何て馬鹿なことを!」 クリッジは苦々しい表情で声を掛けた。 「おじちゃん……!」 啓吾はクリッジの血に気が付いた。 「ふん! 優しい心の持ち主ってわけか、小僧」 プロウィコスはにたりと笑った。 「レクスス! その子から手を放せ!」 クリッジは大声を上げた。だがその気配はプロウィコスには全く見られない。 「おい! 聞いているのか!」 再びクリッジが叫ぶ。プロウィコスは啓吾を前へと突き飛ばした。小さな体が前へと転がり、床の上にひっくり返った。そこに衛兵が駆け寄り、啓吾をつまみ上げた。 「さて、大人に歯向かう悪い子にはお仕置きが必要だな? ケイゴとやら?」 プロウィコスはテーブル横のフックに掛けてあった杖を持ち上げた。それを右手で持ち、杖の真ん中辺りを左手の平に当てつつ、啓吾の傍へと寄っていった。杖が手の平に当たってぺしぺしと鳴る音がする。 「ケイゴに手を出すな!」 杖が空を切り、その先がクリッジの鼻先へと向けられた。 「私に命令するな、愚か者が!」 その時、クリッジは気付いた。プロウィコスの背の向こうにある窓から、一羽のグリフィスが見える。 銀だ。 啓吾は叫んだ。 「ぎーーーーーーんっ!」 それと同時に、窓の傍の大木の枝に留まっていた銀色のグリフィスは、その羽を広げ、ふわりと舞い上がると、一気に窓を破って部屋の中に飛び込んで来た。銀はそのままプロウィコスに頭から突っ込むと、その巨体を床へと横転させた。そして衛兵達に口を大きく開けて飛び掛った。足で掴み掛かり、羽で払い除けられた衛兵達は口々に「ひい」と声を上げると、部屋を出て行った。 「お、お前っ!」 プロウィコスはそう吐き捨てつつ体勢を直すと、床に落ちている銃に手を伸ばした。それを駆け込んできた啓吾が足で蹴り、銃は床の上でぐるぐると回りながら隅へと移動した。それと合わせて、銀が足でプロウィコスの肩を掴むと、テーブルのほうへと払い飛ばした。後頭部をテーブルに打ち付け、プロウィコスはその場で気を失った。 「おじちゃん! 大丈夫?」 駆け寄る啓吾の顔をじっとクリッジは見つめた。この子は……この子は危険を顧みないで、自分のためにここまでやって来たのか。何て子だろう。クリッジの脳裏にそのような思いが駆け巡った。だが思いに耽る時間はない。 何時の間にか、屋敷の外でも騒ぎ声が上がっていた。待機していたグリフィス達が一斉蜂起を掛けたのだ。走り回る衛兵の背中を突き飛ばし、手にした銃や警棒を嘴で摘み上げると放り投げていた。襟首をくわえられたまま宙へと上げられた衛兵が池に落とされる。またはベランダから下へと突き落とされる者もいる。銃口を向けられたグリフィスは上手い具合に弾道を避けつつ、他のグリフィスが発砲する衛兵に襲い掛かっている。グリフィス達は銀と異なり、大の大人を背に乗せて、悠々と大空を飛び回ることの出来るだけの体格を持っている。そんなものに頭上から、背後から、このように襲われたらひとたまりもない。 衛兵達は全く統制が取れておらず、無茶苦茶な醜態を呈していた。 「んんぅ……」 プロウィコスが呻き声を上げている。その時点で既に、その腰に付けらていた鍵束は啓吾に取られ、クリッジの手錠を外していた。 「ケイゴ! お前、怪我はないのか?」 クリッジはしゃがみ込んで啓吾と視線を合わせると訊いた。 「うん、大丈夫!」 その声を聞いて安心したクリッジは、その大きな手を啓吾の頭に置いた。 「全く……無茶をする!」 「だって!」 「ああ、分かっている。ありがとう!」 鉄面皮が崩れた。クリッジは啓吾に笑みを向けた。 その時、衛兵達がこちらに向けて走ってくる音が聞こえた。クリッジは改造ウィンチェスター銃を手に取ると、啓吾を自分の後ろに回して外に出た。 「おい! 貴様!」 衛兵が声を上げた。その衛兵の頭の傍にある壁が、クリッジの放つ銃弾を受けて砕け、破片をその頭の上に降った。 「来るな!」 無防備だった衛兵は手を上げ、後退りした。 銀は窓から外へと再び飛び出し、他のグリフィス達と合流していた。 クリッジは壁際を伝いつつ、啓吾の胸に手を置き、庇いながら横走りで出口に向かった。 プロウィコスは後頭部を押さえながら、ゆっくりと体を起こした。 「馬鹿なことを……シネカス! シネカーース!」 息子を呼んだが、返事の代わりに耳にしたのはシネカスの素っ頓狂な叫び声だった。 「な、何だ? 何だってのよこらあっ! いやあああ! ちょ、ちょっと……お前達、も、もう、死んでおしまい! あ、嘘、今の嘘だから、やめなさあああい!」 頭を抑えながらプロウィコスが立ち上がると、そのタイミングに合わせたように、一人の男が室内に飛び込んできた。 アグゲリス側の「大使」である。 「何だ? 今は話をしている場合じゃ……」 プロウィコスの言葉を封じて「大使」は叫んだ。 「もう終わりだ、プロウィコス殿!」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 「もう終わりなんだ! 大公が、アムリス大公が今朝、急に政策転換を宣言した!」 「何? 何を言っている?」 「だから、大公が急にこれまでの政策転換を言い出したんだ! 国境沿いの部隊に撤退命令が出された! それだけじゃあない、私達の仲間が一斉に逮捕され始めている!」 「ああ? だから何だって言うんだ! ガキが逃げる……」 「知らん! 私達はもう、貴方への協力が出来なくなったと言っているんだ!」 プロウィコスの頭の中が一瞬、真っ白になった。 「な……何だと?」 「私は国外に逃げる! 本国にはもう戻れないし、ここにもいられない!」 おろおろした表情で「大使」は言い放つと、プロウィコスの両肩を鷲掴みにした。そして、館に保管されているこれ迄のテクタイトの不正取引の証拠資料を全て引き渡すよう言った。 「このままじゃ私も貴方もまずいことになる! 今すぐ資料全てを出してくれ! 処分しなきゃならんのだ! そして逃げるんだ!」 「に、逃げるって何処へだ? 『ビストリアン』の国にでも身を隠すか?」 プロウィコスは嘲笑めいた笑みを浮かべて「大使」を見た。 「ふ、ふざけている場合じゃない!」
その二人の間に黒い靄が天井から滝のように下りてきた。それは黒き布を纏い、フードを深々と被った人型になると、プロウィコスと「大使」を交互に見やった。 「な……お前は『我欲』? 何故こんな時に……」 プロウィコスは目を皿のようにして「我欲」を見た。 「ああ、もう駄目だと思ってね。汐時か」 「な、何を言っている……?」 「あの大男が言っていたじゃないか? 『己の身に不相応な欲望を抱えていると、その身を滅ぼすことになる』と。ん?」 アグゲリスの「大使」は床にぺたりと座り込んだ状態で、ぶるぶると震えながら「我欲」を見ていた。 「こ、これは……何だ?」 ゆっくりと「顔」を「大使」に向けると、「我欲」は答えた。 「何って、もうお分かりだろう? お前達から「欲」の力、それなりに戴いていたのだがね。だが、もう、汐時だと言ったろう?」 そう言うと「我欲」は右腕を一閃させた。プロウィコスは「大使」が上半身をなくした姿で、ずるりと床に崩れ落ちる様を見た。 「あ……うああああ……!」 「これ迄とんとん拍子で事が上手くいっていたのは何故だと思う? 私がお前達の「運」をいじっていたからさ。願望は叶うと信じていればいずれ叶う。まあ、それに対するだけの努力は本来必要とされるのだが、私はそこに敢えて力を貸してやったのだ」 赤い瞳のみが真っ暗なフードの内側に光る。 「思いは実現する。あっちの世界ではこれを『引き寄せの法則』とか何とか呼ぶ者もいる。その通り、私がお前の願望を引き寄せてやったのさ」 「お、お前……」 「案の定、お前はそれに満足せず、ひたすら求め続けた。ひたすら己の欲望を奮い起こしていた。見ていて実に壮快だったよ。あまりの滑稽さにな。そうやってお前達人間は欲に溺れ、周囲を見なくなって自ら盲目となり、他人を従わせ、己の欲望の砂漠の中に落ちて行く。だが、その砂漠の砂はやがて流砂となり己は飲み込まれていく。そうやって自滅の道を歩むのだ」 「な、何を言っているのだ、お前は?」 「そうだ、ちょいと気が変わってな。一つ余興を用意したのだ。それがこれだ。何故頑強な石壁に隙があったと思う? 何故ここまで下僕をはべらしてある屋敷に、子供が悠々と入ってこられたと思う? 何故この広い屋敷の中を、この部屋まですんなりと来られたと思う? あの子供の願望を叶えてやったのさ」 「な、何だと?」 「あの子供の潜在意識に声を掛けたのさ。子供からすれば、冴えた思い付きがどんどん浮かんできたのだと感じていることだろう」 くすくすと「我欲」は笑い声を上げた。 「じゃ、じゃあこれは……お、お前が仕組んだことなのか!」 「いいや、仕組んだのではない。子供に案内をしてやっただけのこと」 音もなく「我欲」はプロウィコスに近付き、「顔」を昨夜のようにプロウィコスに寄せた。昨夜と異なるのは、プロウィコスがその真っ暗なフードの中に赤い瞳と、そしてどろどろと上へと下へとタールのような重々しい液体状のものが流れている様を見たことだ。黒い汚物がフードの中で対流し、その中に浮き上がるようにして、実に邪な光をたたえた瞳が浮いている。 「愚かなリ、人間よ。そうして苦悶に満ちて滅していく……言った筈だ。私はそんな人間の黒き思いの輪廻を断ち切るために存在すると。そんな人間を救済するためにいるのだと。全ての心、感情、意識、何もかも破壊し、虚無へと帰し、全てを浄化するためだと」 プロウィコスは後退りをした。脂汗をべったりと滲ませ、ひっひっと小刻みに息をしながら、しかしそれでも「我欲」から視線を逸らせずにいる。手足はぶるぶると震える。失禁もしている。 「や、や、やめ……」 「お前を『救済』する」 そう言い残し、「我欲」は再び黒き靄へと変貌し、プロウィコスの全身を頭から覆い尽くした。 プロウィコスは悲鳴一つ上げる間もなく消えた。
クリッジと啓吾は、館の正門まで走って来た時点で、館のほうで轟く大音響を耳にした。振り向くと、館の屋根を突き破り、真っ黒な靄、いや煙が猛烈な勢いで噴き上がっている光景が目に飛び込んできた。全ての窓ガラスが粉々に砕け散って外へ舞い上がり、壁にも亀裂が入り始めている。 「何だあれは……」 クリッジは唖然としていた。だが啓吾には見覚えのあるものであった。アイーダとシャリーズを奪った黒き異物、黒き靄、黒き煙。啓吾は目をこれでもかと言わんばかりに大きく見開き、それを凝視していた。クリッジはその啓吾の表情を見た。 「ケイゴ?」 クリッジが呼び掛けるが、啓吾は返事が出来なかった。 その黒煙の周囲をグリフィス達が飛び交っている。皆、威嚇の鳴き声を上げていた。 黒き異物は屋根から抜け、雲のように館の上に留まると、その中に巨大な「顔」を浮き上がらせた。 「見るな!」 咄嗟にクリッジは啓吾を抱き寄せ、その目を自身の手で塞いだ。啓吾はクリッジに抱かれたまま、体を震わせている。 「また会おうぞ、この世界の住人でなき少年よ」 漆黒の「顔」はその口角を歪ませてにやりとした笑みを浮かべた。クリッジはその言葉を聞き、再び啓吾のほうに視線を落とした。 「また会おうぞ、ケイゴ」 そして「我欲」は四散した。
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