20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:リフレクト・ワールド(The Reflected World) 作者:芽薗 宏

第48回   第四十六章 ジュデッカの終焉
 人々が逃げ込んだ城砦の内側では、悲鳴や叫び声が連呼していた。顔を両手で押さえてひたすら泣く者、下唇を噛み締め、涙で潤む目で当てもなく天井を見つめる者、怯えながら、周りを気にして首をあちらこちらへとせわしなく動かす者、抱き合い嗚咽する者、空っぽの胃を震わせて、胆汁混じりの胃液をひたすら吐き出している者もいる。
 逃げ込んだのは中途転生者だけではない。彼等を排斥しようとしたジュデッカ守備隊の者達も交じっている。しかし皆、その区別なく、肩を震わせ、一様にして怯えていた。
 城砦の上からは石壁が砕かれる音や、その破片が落下して当たる音が暴力的に響いていた。
 しかし、その音が止み出していた。今や、ざわめきのみが反響している。
「ちょっと……ねえ、皆静かにして! 静かに!」
 メイスは立ち上がり、声を張り上げた。
「外の音が聞こえなくなったわ! 静かにして! 耳を澄ませて! 奴等の攻撃が収まったのかもしれない! ちょっと……静かにしろっつってんだろうが!」
 メイスは手を握り締め、渾身の力で周りに張り裂けんばかりの大声を出した。
 周囲の様々な声が止んだ。
「メイス……お前のほうがやかましい」
 澤渡は苦しい息の元で言った。
「あ、ごめん」
 メイスは目を伏せ、ばつの悪そうな表情を浮かべると、静かに腰を下ろした。
「確かに静かになったわね」
 クミコが言った。
「それに、周りの空気が変わったわ。殺気みたいなものがなくなっている」
 その声が伝わったのか、他の者達も耳を澄ませ、外の様子を音から窺おうとし始めた。こんな時は一分が五分に、五分が十分や二十分にも、果ては一時間にも感じられるものだ。どれくらいの時間が経ったのか、皆分からなかった。
 その時、何処からか男の声がした。
「おい! 外を見ろ!」
 皆がその声のした方向へと視線を向けた。一人の男が立ち、スリットのような覗き窓に顔をくっ付けては離し、他の者を見やり、そして叫んでいた。
「外を見ろ! 黒いやつが消えている!」
 城砦の中に新たなどよめきが起こった。甲冑姿のジュデッカ守備隊の者達が何人かで扉のほうへと近付いて行った。歩く際の体の振動で甲冑が軽い金属音を立てている。その音がどよめきと共に周囲に響く。どよめきは次第に止んでいった。
 重い金属製のかんぬきが外された。人々は息を殺し、扉をじっと見詰めている。
「開けるぞ」
 甲冑姿の男の一人が押し殺すような声で言うと、扉の取っ手に手を置き、握り締めてゆっくりと引いた。扉が内側に向けて開く重々しい音が内に反響する。
 外には黒色の靄は何処にも見えない。若緑色の空が広がり、所々に白い雲が浮かんでいた。柔らかい陽の光が降り注ぎ、乾いた風が頬に当たる。
 城砦に逃げ込んでいた人々は皆、ゆっくりと歩いて外へ出た。その目の前に広がるのは、破壊された建物の数々だ。動く者は何処にも見えない。倒れた者達の亡骸のみが累々と転がっている。
 そんな中に二人の人物がいる。一人は立ちすくみ、もう一人は倒れている。
 澱みながら流れる川の如き人の群れの中、澤渡を支えつつ歩いて出て来たメイスが、その二人を見て呟いた。
「あれ……カズキよ」
 それを聞いて澤渡は顔を上げた。
「何……あ、一樹!」
 乾いた地面の上に須藤は立ち、目の前で倒れているアムリスを見下ろしていた。
「アムリスもいるじゃない!」
 メイスは呆れたような表情で二人の姿を見詰めた。
 須藤はアムリスのほうへゆっくりと歩み寄った。それに合わせ、アムリスの体もゆっくりと動く。
「……殺してくれ」
 アムリスが苦しげに言った。
「私を……殺してくれ……」
 須藤は黙ってアムリスを見詰めている。
 アムリスはゆっくりと顔を上げた。その瞳は狂気じみた赤い光は最早宿っていない。碧眼を涙で潤ませた、苦悶の表情を浮かべる大公アムリス本人であった。
「私は……取り返しの付かないことをした……どんなに謝ろうとも……どんなに悔いても……私の大罪は消えぬ……私を殺してくれ。もう生きては……」
 アムリスが言い終わらないうちに、須藤はアムリスの胸倉を掴んだ。
「また逃げるのか?」
 須藤はアムリスの目に自身の視線を釘付けにし、そして睨み付けた。
 徐々に二人の周りに人だかりが出来始めていた。捕らえられていた中途転生者、アムリスに仕える者達、分け隔てなく皆が須藤とアムリスを取り囲み、二人が交わす言葉に耳を澄ましている。
「私は……私自身に負けた。私の心の闇に屈したのだ! あんな者を呼び寄せ、この体に宿してしまったのも、全て私が原因なのだ! 私は何をした? この国を危機に陥れ、多くの……実に多くの者を傷付け、命を奪った殺戮者だ! 私はもう、この国を治める大公などではない! 歴史に悪名を残すだけの大罪を犯した重罪人だ! この命を以って罪を償うことしか……そんなことしか私の出来ることは今やもうない。謝罪も、悔恨も、何も私の罪を償うだけの力はない。それだけのことをしたのだ……殺せ……殺してくれ……頼む……もうそれしか……」
「お前の命一つで以っても、償い切れぬ罪ならば、死んだところで何もならないじゃないか! 単に『逃げ』を決め込むだけだろうが! まだ分からないのか?」
 須藤は怒鳴った。アムリスは目を閉じ、ただただ涙を流すのみだった。小刻みに体が震えている。
「死ねば全てが済むと思うのか? そんな簡単にけりを付けようって言うのか? そんなのは自分は認めない!」
 須藤はアムリスから手を放し、その体を前へと突き飛ばした。アムリスの体はぐにゃりと力なく地面に落ちる。
「大公陛下!」
 周りから声が起こった。
「お前は自分のことをどう言おうと、今はまだ大公陛下だ。お前をそう呼ぶ者がいる。どれだけ怒りや恨みを買おうと、お前はまだこの国の統治者だ」
 須藤はアムリスの傍にしゃがんだ。
「お前には果たさなくちゃいけない責任がある。逃げることは許されない」
 須藤はそう言うと、周囲の群衆に目を向けた。
「この男の処遇はあんた達に任せる。自分がどうこう言える立場じゃない。だが、この男の言うとおり、その命で償わせるとしても、それで償いきれるもんじゃないと自分は思う」
 群集から声がちらほらと上がり始めた。
「簡単に転生なんてさせるべきじゃない」
「いいえ、私達と同じ苦しみを味合わせてやるべきよ!」
「こいつに家族や仲間を奪われた! 返せ!」
「この鬼畜を許しちゃいけないわ!」
 怒りの声が噴出していた。
 すっと前に進み出た者がいる。反政府組織リーダーのクミコだ。
「ねえ、みんな。聞いて!」
 クミコはアムリスと群集を交互に見ながら言った。
「アムリスがこれまでの蛮行を行ったのは、確かにあの黒い者がアムリスに憑依していたからだとして、だからと言ってアムリスに責任がないわけじゃない。でも、仮にここでアムリスを処刑したとしても、私達にはもう分かっている筈よ。命は転生する。新たな人生を違う世界で始めることになる。私達もそうよね。今、この世界にこうして生きて立っている。今、転生の機会をアムリスに与えるということは、むざむざ逃がすことに他ならないわ」
 皆、黙ってクミコの言葉を聞いている。
「じゃあ、どうすべきか? 悲しいけど、死んだ者達はもう帰って来ない。悔しいけど、腹だたしいけど、でも帰って来ない。私達は今こうして残っている。現実に目を向けなくちゃいけないわ。それはアムリスにとってもそう。アムリスにはこれまでのことに対する責任を負ってもらうべきだわ。ただ、それはアムリスを排することで果たされるものじゃない」
「じゃあ、またこの国の大公に戻すと言うのか?」
 声が上がった。
「それはアムリス次第よ。大公の座に戻り、この国の内情を建て直せるのか、私達を含む傷付けた人々にどう報いるのか、軍隊などを編成して、威嚇した隣国にどう接するのか、全てはアムリス次第。これまでの責任を取って貰うには、十分すぎるくらいの難題だと私は思うけど」
 クミコはアムリスのほうを向いた。
「どうですか、大公陛下? 貴方に生きて、これまでの罪を償うことにその一生を捧げるだけの覚悟はおありですか? それとも、貴方の決めた現行の法に従い、国家反逆罪として極刑に処せられて、そうしてむざむざと逃げ込みますか? 転生して逃げますか?」
 アムリスはクミコをじっと見詰めていた。
「皆はどう? 守備隊の方々も如何に思われますか?」
 新たなどよめきが起こった。
「生き続けることのほうが、ここで死ぬよりも苦しい道を歩むってことか」
 澤渡は言った。
「死は単なる逃げ道であっちゃならない……」
 メイスが呟く。
 クミコは答えた。
「そう。死はこれまでの人生の集大成でなくちゃいけない。そして、新たな命を受け、それを送るための準備段階でなくちゃいけないわ。決して逃げ場所であっちゃならない。皆、自分の人生には自分で責任を取らなくちゃいけないの。それはアムリスにとってもそうよ」
 その時、周囲がほんのりと明るさを増したことに、皆が気付き始めた。須藤も、澤渡も、メイスも、クミコも、そしてアムリスや他の者達も一斉に周囲を見渡した。
 亡骸が淡いアイボリー色の光に包まれ始めていた。その光はやがて球体のようになり、そして亡骸は掻き消すように消えた。淡き色の発光体はやがて、ゆっくりと空へと上り始めた。そんな光景がジュデッカのあちらこちらで見え始めていた。多くの発光体が徐々に高度を増し、空へと上がっていく。
「あれは……何?」
 メイスが呟いた。
「あれが人の本質の魂と言うものよ」
 クミコが答えた。
「魂……だって?」
 須藤は自問するように呟いた。クミコが答える。
「そう。この世界の私達は、貴方の持つ肉体とは異なる組成の体をしている、前に話したわよね? 思念体。アストラル体なんて言い方もするかしら? でも、それでも貴方は私達に触れられる。思念体と言っても、それなりに生きているし、肉体も持っている。だから、死ねばその中の魂は体から抜け出すの。でも、亡骸は残らない。徐々に消えていく。だから……この世界では墓地と言うものがないの。慰霊碑や記念碑みたいなものはあるけどね」 
「じゃあ……」
「あの魂達は『ポルタ・モルトゥス』まで行き、そこから貴方のいた世界へと旅立つの。そこで再び新しい肉体を持った、新しい命として転生する」
 クミコは多くの光を見上げながら呟いた。
「願わくば、幸福に満ちた次世を送られることを」
 アムリスはその光を見詰め、再び両の目に涙を浮かべた。
「申し訳ないことを……取り返しの付かないことを……済まない、本当に済まなかった……私は……私は……」
 そう言うと、アムリスはその場で号泣した。
 どよめきの中で再び声が上がった。
「私達はその男を許すわけじゃない。でも……」
「ここでくたばらせて、楽な思いをさせるってのも我慢ならねえ」
 その中で前に進み出た者達がいる。甲冑を纏う守備隊の者達だ。そのうちの一人が口を開いた。
「大公陛下だけが悪いんじゃない! 我々も……我々も陛下と同じ罪を犯している。我々も……」
 それに対し、群集から罵声が上がる。
「何だ? こんな話になって初めてそんなことを言い出すなんて。それって命乞いってわけか?」
「アムリスと共に俺達を苦しめ、追い詰めたお前達はどんな責任を取れるって言うんだ?」
「そうだ! ただのアムリスの犬じゃないか、お前達は!」
 その罵声を抑えるようにクミコが続ける。
「死は何の責任も取らせてはくれないわ。何の罪の償いにもならない。そして……私達を癒すことにもならない」
「でも……!」
「このままじゃ気が治まんねえじゃないか!」
 クミコは表情をきっと締めて言った。
「要はそこよ。気が治まるか治まらないか。ただ、何をやっても気は治まらないでしょうね。今は良くても、再び怒りや憎しみの感情に囚われることになる。私達も苦しいままよ」
「じゃあ、どうすればいい?」
 群集から再び声が上がった。
「怒りや恨み、憎しみで動けば、それこそあの黒い者と同じよ。あれは私達人間の負の思いの集まったもの。センチュリオン……名前は聞いたことはあるでしょう? あれはその仲間よ」
「センチュリオン……ありゃあ伝説か神話じゃないのか?」
「だったらいいんだけど、ね。でも現れた」
 クミコは群集を見渡し、声を大にして言った。
「私達は、あの黒き異物と同じになってはいけない! 黒い感情に左右されちゃいけない! そんな感情を抱くこと自体は恥じゃない。それに身を任せることがやってはいけないこと。黒き感情を抱く自分自身を認め、受け入れ、その上で乗り越えていかなくちゃいけない! それが人間のあるべき姿だと……私は思うわ」 
 群集に静けさが戻った。
「私達は……人生ってのは……何にせよ、前へ進むしかないんだから」
 クミコは穏やかに言った。そのクミコを見詰めるアムリスに対し、須藤は右手を差し出した。
「あんた次第だ」
 須藤は言った。アムリスは須藤を見上げると、口を一文字に結び、須藤の手を取り立ち上がった。
「陛下……!」
 守備隊の者達が立ち上がったアムリスのほうを向いた。
「こんな私に対し、君達はまだ私を陛下と呼んでくれるのか……」
「我々は陛下に忠誠を誓いました。その心構えに嘘はありません」
 そう言うと、守備隊は一斉にアムリスに対し敬礼をした。
「皆……」
 再びアムリスの目から涙が流れた。そして息を大きく吸い込み言い放った。
「各施設に伝達する。只今を以って、カイーナ、アンティノーラ、トロメーア、そしてここジュデッカの四特区を全て廃止、転生者全員を無条件解放する!」
 群集からほっとしたような吐息が一斉に漏れた。
「転生者政策は一切廃止することをここに宣言致します!」
 吐息は歓声に変わった。
 クミコはアムリスに言った。
「カズキの言う通りよ。これからは貴方次第だわ」
 アムリスは落ち着いた表情を取り戻し、クミコと須藤に言った。
「私は……許されるならば、首都アグゲリアードに戻ります。そして……自分がやるべきことをやります」
「その前に……」
 クミコは破壊を免れた集落の一角を見つめた。
「ええ。妻は……妻は連れて帰ります。出来うる限りの治療を受けさせます。そして全てを謝ります。思いの全てを告げます。それで妻の心がどうなるのかは分かりませんが、今は誠心誠意を以って妻に、そして皆さんに接することが第一です。それが私の出来る最大のことです」
 クミコは笑みを見せた。
 アムリスは須藤を見た。
「カズキと言われるのですか……本当に申し訳ありませんでした。そして、私を闇から引き上げてくれて……本当に感謝しております」
「……それは自分にじゃなく、これから貴方の国の国民皆に言う言葉です。精一杯の誠意と敬意を持って、これまでの人達、これから出会う人達、皆に接していってください、大公陛下」
 須藤は穏やかな口調で返した。そして澤渡とメイスのいるほうへと歩き出した。
「あ、カズキ殿」
 アムリスは須藤を呼び止めた。
「息子さんを……捜しておられるとか」
 須藤は振り返って答えた。
「ええ。貴方に憑いていた者か、その仲間かに連れて行かれたんです」
「そうですか……御心情、お察し致します」
 須藤は軽く黙礼をすると、そこを去ろうとした。
「もしかしたら」
 アムリスは続けた。
「もしや、息子さんは貴方と同じ……『光』を持っているのかもしれませんね。彼等は、センチュリオンの一族はその光を恐れています。そして、逆にその光の力を取り込めれば、彼等の力は更に強化される。彼等はそのことを狙っているのかもしれない。息子さんを捜す、その充てはあるのですか?」
「いや。先ずは、自分をここに案内した騎士団のいる場所へ行くつもりです。何かの手掛かりがあるかもしれない」
「騎士団……レグヌム・プリンキピスの空間近衛騎士団ですか? 女王アフェクシア直属の精鋭部隊である……では、首都のエリュシネへ向かわれると?」
「自分は、そこのトルソって人に連れて来て貰いました」
「ならば、私のほうから女王に伝えましょう。貴方がここに来ていることを」
「え?」
 須藤はアムリスのほうを向いた。
「トルソは騎士団の副隊長をしている者です。女王と、騎士団総隊長のグランシュに、貴方のことを伝えさせてください。今の状態では、私が招いたことなので言い訳は出来ませんが、隣国であるレグヌム・プリンキピスとは緊張状態となっております。改善に全力を注ぎますが、それまで待っている時間も貴方にはないでしょう。せめて、国境まで案内させてください」
「船はこっちで手配する」
 澤渡だ。メイスと共に須藤の傍にやって来た。
「今みたいな状況だ、民間船のほうが何かと動きやすいだろう」
 須藤はアムリスの顔を、笑みを浮かべて見た。
「ありがとうございます、大公陛下。今は貴方が先ずやらなくてはならないことに専心してください。自分には心強い仲間がいる。大丈夫です」
「カズキ殿……」
「向こうの……女王でしたか、その方に自分と息子のことを伝えてくれたら、それだけで幸いです。息子は啓吾と言います。須藤啓吾」
「スドウケイゴ、ですね。分かりました」
「ではアムリス。お願いします」
「必ず」
 アムリスは深々と頭を下げた。

 須藤はジュデッカの中を一人でゆっくりと歩いた。腐った水や汚物の匂い、傷み、崩れ掛けた建物が密接してひしめき合い、開いた扉の内側には、汚れた毛布や割れた容器などが散乱している。「不信」の奇襲によって破壊されているとはいうものの、その前から街並みは散々たる状況を呈していた。衛生環境の著しく悪化した住環境の中、囚われていた者達は如何なる生活を送らされていたのだろうか。昨夜のように、皆肩を寄せ合い眠り、日中は何処やらかで働かされていたのだろうか。
 足下がぬかるむ中を、須藤はやるせない思いで歩いていた。そんな中、所々に高台が設けられている場所を目にした。その高台が何なのか、次に差し掛かった路地で須藤はその正体を知った。
 高台に二本の太い棒が立てられ、その合間を別の棒が渡されている。そこには三本の縄がぶら下がっていた。縄の先端には輪が作られている。その輪から垂直に下りた高台の床の部分は、観音開きになるように細工が施され、その上に立つ者は下に落ちるようになっていた。だが、その者の足は決して地面に届くことはなかっただろう。
 須藤は誰もいないその高台を見詰め、拳を握り締めると涙を滲ませた。ここで一体何人の人達が、その人生を強制的に終了させられていたのだろうか。

「覚えておくがいい。この温かさは人の心の持つもの。だが、この温かさを持つ人間は同時に、冷ややかに他人を傷付け、苦しめ、追い込むのだ。私は望んでいるのだ……人が未来永劫に救われることを……それはもう無へ帰るしかないのだよ……」

「不信」が言い残した言葉を須藤は心の中で反復させていた。
 理由が何であれ、アムリスのしたことは到底許されるようなことではない。だが、ここでアムリスに手を掛けたところで、亡くなった者達は帰らない。残った者達の怒りや憎しみ、悲しみは消えることはないであろう。よしんば消えるとしても、それには一体どれだけの時間を要することであろうか。
 いや、たとえ時間が経っても、そのままでは変わることはない。時間が解決するなんてチープな言い回しは、そのままだと何の役にも立たない。時間が解決するかどうかは、その者が如何に動いたかで決まってくるのだから。自身の怒りや悲しみに立ち向かい、受け入れ、前向きに生きることでしか解決の方法はない。それでも、個人個人でその時間がどれだけかかるかも異なってくるであろう。
 人は何故そこまで冷酷になることが出来るのだろうか。そんな冷酷さを持つ人は、何故人を愛し、慈しみ、優しくなることが出来るのだろう。
 光と闇は紙一重。

「カズキ」
 振り返ると、そこにはメイスがいた。
「あんた、やっちゃったね」
「何を?」
 メイスは微笑んだ。
「あんた、気付いてないの? この国を救っちゃったんだよ。アグゲリスの英雄ってところね」
 メイスの言葉を聞き、須藤は顔をしかめた。
「止めてくれないか? 英雄だなんて、そんなものなりたくもない」
「少なくとも、これでこの国の中途転生者達は救われたわ。理不尽な扱いをされずに済む。まあ、これからの話なんだけどね。純粋な転生者の意識、そして私達自身の意識がどう変わっていくかで道が決まってくるのだから」
「ああ、そうだね」
「カズキがその突破口を作ってくれたのよ。私からもお礼を言うわ。本当にありがとう」
 須藤はその声には黙ったまま、頭を軽く下げるだけにして答えた。
「澤渡はどう?」
「ああ、ユタは何とか大丈夫。傷口を縛り上げておいたし、ここの医療品を使わせて貰って、取り敢えずの処置は済ませたわ。ただ、無理は一切出来ないけどね。腕一本がもがれたんだから」
「そうか……」
「それにしても、あんた……」
 メイスは不思議そうな表情で須藤に訊いた。
「どうやってあの化け物を退けたの? 剣も銃も何もなしに」
 須藤はメイスの黒く輝く瞳を見つめて言った。
「恐らく、あれを何とかするには、剣も銃も役に立たない。よく分からないけど……きっと……」
「何よ?」
 クミコの声が聞こえてきた。
「受け入れたのよね?」
「クミコ! 何時の間にそこに? 脅かさないでよ」
 メイスが苦笑いを浮かべて言った。
「ごめんなさい。カズキが……絞首台の傍でじっと立っている姿を見掛けたから」
 クミコはゆっくりと歩み寄って来た。
「あれは人の負の思念の塊だって以前に話したことがあるでしょ、メイス? つまりは、誰しもが一度ならずとも抱えたことのある思いでもある。それをむげに否定されたって納得出来ないでしょ? 頭ごなしの理屈をぶつけられたって、却って頭にきたりしない?」
「ああ……」
 メイスは短い髪に手をやり、撫でるようにしながら、一言相槌を打った。
「カズキはあれの言い分を自分なりに受け止めたんじゃないかしら?」
 クミコの問い掛けに対し、須藤は腰に手を当て、「どうだか」と答えた。
「ただ、あれは、とんでもなく『悲しい』『寂しい』存在だって思えたんです。自分で心を閉ざし、周りに目を向けず、一人で悲劇の主人公になり切って、それに自己陶酔してしまっている、そんな者の思いが固まった代物じゃないか、って風に感じたんです」
 クミコはゆっくりと頷いた。
「そんな者と話をする時って、先ずは相手の言い分を聞く、傾聴するところから始めるもんです。そして、一度それを自分なりに受け入れ、そこから話を展開させる。決して自分の言い分ばかりに固執しちゃいけないですから……」
「でも、それが出来ない者があまりにも多くいる」
「自分だって怪しいもんです」
「そうなの?」
 クミコは笑った。
「とにかく、これで貴方は彼等と接触した時にどうすべきか、その取っ掛かりを手にしたわけね」
「だったらいいですが。なるべくならもう関わりたくない」
 須藤は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「貴方の息子さんを連中が狙っているのなら、そうも言っていられないでしょうね」
「ええ……」
 須藤は周囲を見回した。
「これで良かったのでしょうか? ちょっと疑問になってきました」
「何が?」
「あのアムリスと言う男が何をやったのか、こうして見回っていて徐々に見えてきたんです。自分は、ここに囚われていた人達の気持ちを考えないで物を言ったんじゃないかって気になりまして」
 メイスが目を見開いて言った。
「ちょっと、今更何を言ってんのよ、カズキ?」
 須藤はメイスが激昂するんじゃないかという気になって、些か身を引いた。
 メイスは、しかしそこで溜め息じみた息を一つ吐くと、静かに言った。
「でも、結局はこれで良かったのかもしれない。本当に良かったかどうかなんて、今はまだ分からない。何をしたって一緒じゃないかな。きっと皆の気持ちは今は治まらないわ。冷静になる時間が必要なの。そして理性を取り戻す時間もね。そして心を落ち着けて、これまでのことを見つめ直す勇気を持つ時間も」
「そうね」
 クミコが付け加えた。
「そうそう、メイスもカズキも。忘れるところだったわ。そろそろここを離れるわよ。アタワの村は燃えたから、取り敢えずはその先の町へ行きましょう。ラムジャプールへね」
 ラムジャプール。須藤が初めて辿り着いた町だ。そこの駅で殴られた思い出が甦り、須藤の表情は曇った。
「そうだったわね。ユタがそこでカズキのための船を手配するわ」
 メイスが須藤の背中に手を当てて言った。
「貴方は早く出発しなきゃ。のんびりしてられないでしょ」
「ああ」
 須藤は答えた。

 


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 136