四十畳程の広さを持つ大部屋の壁には、縦長の窓を覆っているカーテンが圧迫感を与えつつ、重々しげに垂れ下がっている。床に広げられた緞帳の如き敷物は、絨毯と呼ぶには厚みがかなりあり、まるで草むらを踏みしめる様な感覚を覚えさせられる。部屋の隅には甲冑が何体か飾られており、中にはアグゲリス公国の親衛隊が纏う鎧も含まれている。映画にでも出てきそうな、西洋の貴族が昔使っていたものと酷似した長々しいテーブルが部屋の中央に置かれており、真っ赤なテーブルクロスが糊の当てられた張りを以って掛けられている。アフェクシアのホログラフと謁見した部屋にあった巨大カウチ程ではないが、それでもプロウィコスの肥大した臀部を収めるには十分過ぎる大きさを持つ大型の椅子があり、そこにプロウィコスは腰を下ろしていた。椅子の背には様々なゴブリンと天使の装飾が施されている。部屋の天井にも、同様のモチーフで巨大な絵画が描かれている。ゴブリン達とその先頭に立つ堕天使ルキフェル、そして大天使ミカエル率いる、弓を手にした天使達の集団が互いに向き合い、一触即発の状態を迎えているというものだ。 プロウィコスは椅子の背に体を任せ、メランジのワインをゴブレットでぐいと飲み干し、天井の絵画を見上げている。 「ケイゴをどうする気だ?」 クリッジは訊いた。 「あの子を牢に入れて何をする気だ?」 だがプロウィコスは答えない。 「……善と悪」 代わりにプロウィコスが放った言葉だ。 「光と闇」 そう言うと天井から視線を落とし、長テーブルの向こう側に立つクリッジへと向け直した。 「陽と陰」 プロウィコスは手にしていたゴブレットをテーブルに置くと、眉を上げ、ふうと息を一つ吐いた。 「世界がこんな二元論で容易に片付くものだとすれば、何とも酷いことになろうな、クリッジ」 これにクリッジは答えず、じっとプロウィコスを見つめていた。 「その対極の合間に位置するもののほうが実は断然に多い。しかし、その丁度中間に位置するものは殆どない。皆、どちらかに傾いている」 プロウィコスは続ける。 「そのどちらに傾いているかは結局、己が何を欲し、何を望むか、その者の立つ位置で変わる。光を欲する者もいれば、闇を欲する者もいる。しかし、両者が最終的に望むものは一つ、心の安寧だ。最後に欲するものは一つなのに、それを求める方向性はその者それぞれで異なる。光の度合いが濃いのか、それとも闇か。それはその者自身にしか分からん」 プロウィコスは右手を上げ、天井を指した。 「この絵、三度描き直しをさせたものだそうだ。先代の領主が中途転生者の画家に描かせた。ロスコとか言ったか? その者、自分の両腕を切り開いて自殺したんだそうだ。そして、その時の年齢のまま転生し、ここに来た」 クリッジは眉間をぴくりと動かす。 「転生だの、前世からの生まれ変わりがどうのという話には興味はない」 クリッジは淡々と、低い声で返した。 「だが真実だ。お前が信じる信じないなど、私の知ったことではない」 プロウィコスは空になったゴブレットに、新たにワインを注いだ。 「この天井には最初、長方形をモチーフにした、実に奇っ怪な絵が描かれたんだそうだ。毒々しい色遣いで、『死』を連想させられると共に、何かしら近寄りがたい『崇高さ』をも兼ね備えた……だが、そんなものは館の居室の天井に描かれるには場違い過ぎる。そこで領主、まあ、私の父だが、父は命じてそれを描き直させた。この絵だ。ところがだ。最初は赤と黒だけの二色で描かれた。どうにも『滅び』のイメージが付きまとう。再三命じ、父はそのロスコなる画家に今のこの絵にさせたのだ。この絵に描かれた世界で待つものは生か死か、繁栄か滅亡か、それは観た者の主観に任せれば良かろう」 「何が言いたい?」 クリッジは両腕を前で組み、顎を軽く引いて訊いた。 「私が光か闇かのどちらに傾いているかなど、私にはどうでもいいことだ。私は私の望むままに生き、そして動いている。クリッジ、貴様もそうであろうが、ここは私の領地、私の力の及ぶ地であり、貴様はそこに住む者だ。私は貴様や貴様の家族ぐらいどうとでも出来るだけのものをこの手に持っている。それは分かるな?」 「薄汚い力の亡者か」 プロウィコスの言葉にクリッジは顔をしかめて言った。 「どうとでも言うがいい。勿論、私にも最低限の良心はある。一線を敢えて超えないでおこうという理性がな。私のために専属のグリフィスの調教師になることぐらい、大したことではなかろう? 貴様の拘るプライドとか誇りだかに固執して、自ら愛する者を犠牲にする結果を招きたくはあるまい? 犠牲を払ってまでも守り通すだけの意味があるのか?」 「グリフィスは家畜ではない」 クリッジは静かに言った。 「人と心を交わし、互いに心を開き合い、そして受け入れ、認め合うことで信頼関係を結ぶ。グリフィスはそんな力を持つ生き物だ。己の私欲のために利用して良い存在ではない」 「いいや、人が上だ!」 プロウィコスは大声を上げ、手に持つゴブレットを力の限りにテーブルの上に、叩き付けるように置いた。中に入っていたワインが跳ね上がり、プロウィコスの手とテーブルクロスを濡らす。 「思い上がりだと言うものもおろうが、それは正しくはない! 自然におけるヒエラルキーにおいては、鳥より我々が上なのだ。これは曲げようのない現実だ。貴様はただ、戯れ事のような言葉遊びをして、自身を美化しているに過ぎないのだ、クリッジ!」 クリッジは冷ややかな目で昂るプロウィコスを見つめつつ言った。 「お前は周りの者を見下すことしかしない。そのような顧客を私は取らない」 「顧客? 私がか? 勘違いするな。私は貴様の主人である。これは貴様と貴様の顧客との契約関係などではない。貴様と私は主従関係にあるのだ。忘れるな!」 「どうとでも言うがいい」 プロウィコスが先程放った言葉をそのまま使って、クリッジは返した。 「そうだ、貴様の質問に答えてやろう」 前のめりになり、プロウィコスはにやりと笑って言った。 「あの子供は元々、女王からの命令で捕らえることになったのだ。貴様が知る必要もない事柄である」 「女王陛下がお命じなったと?」 クリッジはプロウィコスの言葉をにわかには信じられなかった。アフェクシア女王があの子供を捕らえさせた? 「丁重にとのことではあったが、何せ私は今やあの女王に対しては何の義理も感じてはおらん。あの子供が何をしでかしたのか、何処から来て、如何なる理由で女王があの子供を欲しているのか、そんなことは私には関係ない」 「どうする気だ?」 クリッジは組んでいた腕を元に戻し、プロウィコスのほうへと歩き出した。 「動くな」 プロウィコスは椅子の脇に掛けてあった銃を手にすると、その銃口をクリッジに向けた。 「ウィンチェスターとか呼ぶそうだ。この銃、実にいい見栄えがするだろう? 片手で使いやすいように改良を施してはあるがな」 プロウィコスのにやりとする、嫌悪感を催させる笑みがその顔に広がった。 「……あの子を殺すのか?」 「殺す? まさか。いくら私でも子供に手を掛けるなど考えてもおらん。子供にそこまでする価値もなかろう。無意味なことはしない主義だ」 歪んだ口角が更にねじれ、醜悪な笑みはますます大きくなった。 「女王とはいい取引が出来そうだ。何せ、騎士団を動かしてまでも捜そうとしている子供なのだからな」 「子供をだしにして陛下と交渉しようと言うのか……」 「左様。その点においては、あの子供にも価値は見出せよう」 「汚い真似を……」 その時、部屋の扉がノックされる音が響いた。 「何だ?」 プロウィコスは大声を上げた。扉が開き、息子のシネカスが入って来た。 「父上。おや、まあ、クリッジ。元気か?」 シネカスがクリッジに声を掛けた。 「道化か」 クリッジに道化呼ばわりされたシネカスは、一瞬むっとした表情を浮かべたが、父のプロウィコスのほうへ向き直った。 「表の騒ぎですが、取り敢えずは沈静化したようです。騒ぎの張本人であった二人、いや、一人と何かしら得体の知れぬ者とやらが消えてしまった、とのことでして」 「消えた? 何だそれは?」 シネカスは両手を両頬に当て、おどけるような仕草をしてみせた。 「いやあ、それが何ともかんとも……目撃者が口々にそう言っているのです。『消えた』と」 「私の領地で、しかも私の館の傍であんな騒ぎを起こしたのだ! 消えたで済ますか! ただで済ますつもりは毛頭ない! 草の根分けても捜し出せ!」 「ははっ、父上。それとなんですが……」 シネカスは開いた扉のほうへ下がり、部屋の外へ顔を出すと顎をしゃくった。それと共に衛兵二人に連れられて子供が二人、部屋に入れられた。 「お前達!」 クリッジの表情が変わった。シネカスはだらだらと喋り出した。 「館の周りをうろうろしていました。追って来たのでしょう。実に父親思いで良い子供達だ。ただ、子供だからこそ、やることが実に愚かです。兄弟で父親やあのケイゴなる少年を取り返そうとでもしたんでしょうねえ。全く、勇気と無謀の区別も付かないというのは、親の教育や躾が全くなっていないと……」 「その忌々しい口を閉じろ、シネカス!」 「黙れ、道化息子!」 プロウィコスとクリッジがそれぞれに怒鳴り付けると、シネカスは「ひっ!」と一言上ずった声を上げ、肩をすくめた。 「父さん!」 両腕を後ろに回されたレンが、もがきながらクリッジを呼んだ。 「父さん、ごめんなさい。俺達……」 フスハが申し訳なさげな声で続けた。 「お前達、何て無茶を……」 クリッジが呟くと、プロウィコスが手の平でテーブルの上を一度激しく叩いた。 「さあ、クリッジ! これでカードは私の手にある。もう分かったな?」 プロウィコスは提灯か膨らんだフグのような巨体を動かして立ち上がった。 「お前にしてはよくやったな、シネカス」 肩をすくめていたシネカスは、満面の笑みを浮かべた。しかしどうにも見栄えのしない、見苦しい笑顔であった。それを見て、 「ふん、全く誰に似たんだか……」 と悪態を一つ付くと、プロウィコスは改造ウィンチェスター銃を手にしたまま、クリッジのほうへ歩み寄った。 「貴様が『快く』私の言うことを聞いてくれたなら、この二人は近いうちに家へ帰してやろう。お前の妻も今頃、顔色を変えて二人の息子を捜しているだろうに。ここに向かっているかもしれんしな?」 「私の家族に手を出した代償は重いぞ、外道!」 「外道? そんなことを言う口はどれだ? これか?」 そう言うと、プロウィコスは銃身でクリッジの顔面を、次いで腹を力任せに突いた。しかしクリッジはその体を微動だにさせず、その衝撃に耐えた。プロウィコスは面白くないという表情を浮かべた。 「シネカス! こいつらを牢にでも入れておけ!」 プロウィコスが大声でシネカスに命じると、視線を再びクリッジに向けた。 「気が変わったなら、いつでも言うがいい。快く受け入れてやろう。肝に命じて置くがいい」 言い終わると、再度嫌らしげな笑みを浮かべた。 衛兵が新たに数人入室し、クリッジと二人の兄弟を連れて退室して行った。
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部屋に一人残ったプロウィコスは息を切らせていた。何せ、縦だか横だか分からないような巨体である。歩くことはおろか、喋るだけでも疲労感に襲われるのだ。ふうふうと息をつきつつ、プロウィコスは扉のほうへ歩いていくと、内鍵を掛けた。そして再び椅子のほうへ戻ると、どっかと腰を下ろした。 深く息を吸い、プロウィコスは口を開いた。 「私の町で何をしてくれた?」 勿論、部屋の中にはプロウィコス以外の者はいない。 「居るのだろう、『我欲』?」 プロウィコスがそう言い終わると、部屋の中が一瞬薄暗くなった。その暗さは黒き靄となり、テーブルの脇へと集まり出した。プロウィコスがそこに視線を向けると、黒いフードを深く被った一つの人影が立っていた。 「何の騒ぎを起こしてくれる?」 「あれは私ではない。他の仲間だ」 「我欲」は言った。 「プロウィコス、金色の雑兵の一人が町に紛れ込んでいたぞ」 プロウィコスは舌打ちをした。 「案の定だ。私を頭から信じるほど、あの女王も馬鹿ではない」 「さあ、どうかな。本当は信じたいと言うのが的確な表現かもしれん。雑兵どもを束ねるあの女のことだ」 「知らん」 「取り敢えず、雑兵は小癪にもあの子供に接触しようとしていた。遠ざけておかねばならぬ」 「あの子供は何だと言うのだ?」 プロウィコスはゴブレットの縁を持ち、ゆっくりと回しながら、視線を「我欲」のフードの中に合わせた。 「お前が知る必要はない」 「ふん、まあいい」 動かしていたゴブレットを静かにテーブルに置く。そんなプロウィコスをじっと「我欲」は見下ろしていた。 「お前は実に人間らしい。全てが奇麗事で固められ、我々の存在に目を伏せようとしている連中ばかりのこの世界では、実にお前は正直だ」 「私がか? 正直? お前にそんなこと言われても嬉しくはない」 「お前は自分の欲望で全てを集めようとし、他人に言うことを聞かせ、周囲を固めて、外部に対し威嚇している。強がっている。だが、その正体はただの怖がり屋だ。臆病者だ。そして、それをお前は受け入れている」 プロウィコスは顔をしかめた。 「私は自分が善人だとも思わぬし、心の澄んだ者とも思っておらん。人とは所詮そんなものだ」 そう言うと、プロウィコスは目を閉じ、鼻からふうと息を一つ吐いた。 「私は己のしたいように動き、従えさせ、己の心に正直に生きている。お前の嫌悪する『心』にな」 「お前達人間にとって『心』とは、いわば『本能』のようなものだ。お前が人である以上、それは妥当であろう」 プロウィコスはにやりと笑った。 「お前は私の理解者のつもりか?」 ゆらりと「我欲」は動き、厚いカーテンで覆われた窓のほうへ進んで行った。右手を振り上げると、カーテンは大きな音を立てて横へ動き、そこにアラキノフスの夜景を見せた。 「私、いや私達は全ての人間に対して真なる理解を示しているつもりだ。『心』『感情』『潜在意識』、そんなもので動かされている不憫な人間の、な」 「不憫か……お前もその不憫な心の寄せ集めなのだろう?」 「口を慎め、人よ」 「我欲」はプロウィコスに「顔」を近付けた。 「だが、お前の言う通りだ」 静かな、しかし耳障りな声で「我欲」は続ける。 「そんな不憫な心、そしてそんなものの寄せ集めとして生み落とされた私達は、遅かれ早かれ消されねばならぬ存在である」 プロウィコスは目を細めた。 「お前は、お前自身が消されるべき存在だと言うのか、『我欲』よ?」 「その通りだ。私達は本来、光と対なる存在としてここにいる。だがそれは実に苦しいものだ。救われ得ぬものだ。だがそれ故の務めがある。人を救済することは、私達自身を救済することでもあるのだから」 「それが……全ての心や感情を破壊することだと?」 「自然の姿へと戻すのだ。『無』という本来の姿へな」 「ほお。だが、何故そんなことをこの私に話す?」 「我欲」はゆっくりとプロウィコスの元へと歩み寄った。 「お前は……私達と同じ匂いがする。同じなのだよ、プロウィコス」 全く息遣いなど感じさせぬ「我欲」の顔に自分の顔を近付けて、プロウィコスは言った。 「人たるもの、所詮はお前と同じだ。我々はお前であり、お前は我々だ」 プロウィコスの言葉を聞き、「我欲」は軽い笑いの吐息を漏らした。
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石版の敷き詰められた冷たい床の上に、粗末な二段ベッド二つ、そして便器が一つあるのみの薄暗い牢の壁には、オレンジ色の小さな明かりが点っていた。石だけの無機質な室内に点る一つの明かりは、孤独感や絶望感を髣髴とさせると共に、暗闇の中を射す一条の光のようにも目に映る。 長い闇夜の中、足下を照らす小さな光。それは何時明けるとも知らぬ、しかし必ず訪れる朝へと導いてくれるように感じられる。その朝が如何なるものなのかは誰しも分からない。到達してみて初めて分かる朝。如何なる終わりが訪れるか分からずとも、全ての夜、全ての事象には必ず訪れる終焉。人はそれを受け入れなくてはならない。その受容の態度は、屈服とは違う。厳然たる事実と正面から向き合い、存在するであろう「次」を目指すための糧として、受け止めるものであるべきだ。そうして人は闇を切り抜け、先へ先へと歩き続ける。そのようにして「次」である機会を得続けてきた。 それがたとえ堂々巡りであろうとも、それでも人は休みなく進み続ける。 牢の中には、来たるべき「次」を更なる「次」へと繋いでいこうと模索する四人がいる。 「レン、泣くな」 鼻を啜り、顔を伏せて泣いているレンを兄のフスハが戒めた。そのフスハの表情も暗く沈んでいる。 「大丈夫だ。お前達は必ずここから出してやる」 クリッジは二人の兄弟を見詰めながら言うと、ゆっくりと立ち上がり、レンの傍へ歩いて行った。そして、その小さな頭の上に自身の大きな手を置いた。 「あの馬鹿息子の言う通りだ。勇気ある行動と無謀とは違う」 クリッジは静かに言った。 「だが、お前達の気持ち、しかと受け止めたぞ、レン。そしてフスハ」 「父さん……怒らないの?」 フスハが言った。 クリッジは鼻から大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。 「分かっている。お前達は私の息子だ。分かっている」 そしてゆっくりと付け加えた。 「ありがとう」 クリッジは視線を啓吾のほうに向けた。 「ケイゴ」 クリッジは、壁に寄りかかりながら、両膝を抱えて冷たい床に座っている啓吾に語り掛けた。 「私達よりも先ず、ここを出なきゃならんのはお前だ」 「おじちゃん……」 啓吾は顔を上げた。 「あの男はお前を利用して、ろくでもないことを企んでいることだろう。お前はそんなことのために利用されるべきじゃあない」 「でも……僕が先に出ちゃったら、おじちゃんはどうするの? レン君やフスハ君は?」 「私があの男の申し出を受け入れれば、この二人はすぐにでも出て家に帰られるだろう」 クリッジは固い表情で静かな口調のまま言った。だが、その目は寂しげな、失望にも似た光を帯びている。 「ダメだよ」 啓吾は少しの合間を置いて言った。 「僕、銀と一緒にいて分かった気がするんだ。あのグリフィスって鳥、すごく僕等と似てると思う。楽しい思いをしたり、悲しい時は泣いたり、そして……そして……あの鳥、人を信じているって気がするの」 啓吾はアイーダの話を思い出していた。信用と信頼。グリフィスは人を「信頼」しているのだ。それは気持ちが通じ合い、心が通じ合って、そして初めて成し得る、そして積み重ねていくこと。 「それって、人と鳥とか、人と人とか、そんなの関係ないって思ったんだ。それはすごく大切なことでしょ? だったらさ、楽しいことだけじゃなくって、どんな嫌なことがあっても、やっぱりそれを大事にしなきゃいけないって。シンライってそう言うことなのかな、って僕思った。僕も銀をシンライしているよ。銀は僕に元気をくれるんだ」 クリッジは黙って啓吾の話に耳を傾けていた。 「おじちゃん、おじちゃんはあの太った人のこと、シンライしていないんでしょ?」 啓吾の視線はクリッジの両の目をじっと捉えている。 「おじちゃんの目を見て分かったんだ。おじちゃん、シンライしていない人に嫌なことを言われて、それを聞こうとしているのかもって。あの人、何だかすごく嫌な感じがするんだもの。嫌な人のために嫌なことを我慢してするの? それって本当はダメなことって言うか……やっちゃいけないことだって僕思う」 プロウィコスを見て、啓吾は露骨に嫌な表情を見せたことをクリッジは思い出していた。けれんの濃い第一印象もあるのだろうが、それ以上に何かを感じ取っていたのかもしれない。クリッジはそんな感触を得ていた。だからこそ、この啓吾の言葉に対し、クリッジは自身の心臓が跳ね上がるような感覚を覚えたのだ。 まだ幼いこの子供は人の気持ちを敏感に察している。そして、真なるものを見抜く目を持っている。クリッジは確信した。 今もクリッジの目には、啓吾の胸から穏やかに漏れる微かな、それでいて温かさのある光が見えていた。 「ケイゴ……あの小屋のグリフィス達がお前に心を開いた理由が分かったよ。お前は優しい、いい子だ」 「おじちゃん、やっちゃいけないことはやっぱり、やっちゃいけないんだ。僕……僕……」 クリッジは鉄面皮な表情を初めて崩した。啓吾の傍に行き、隣に座って啓吾の頭を撫でると、小さな肩に手を置いた。そして笑みを浮かべた。 「だがな、時にはそんなことをやらなきゃならん時もある。嫌なことや、自分でこれだけはやらない、自分の本意じゃないことをせざるを得ん時もある。その時に大切なことは、それでも決して自分で自分を完全に裏切らないことだ。たとえ誇りを一度捨てることになっても、自分の心の全てまでもを捨てちゃならん。それさえしっかり自分の内に持っていれば、耐えられるものだ。自ら買って出た汚名も必ず返上出来る時が来る」 クリッジの話は啓吾にはまだ難しかった。 「僕、難しいことは分かんない」 瑛治の言葉にクリッジはふっと笑うと、啓吾の髪をくしゃくしゃと手で撫で回した。 「難しいことは分かんないけど、でも分かることもあるよ」 啓吾はクリッジの目を見つめた。 「やっちゃいけないことをやって、誰かに悲しいって思わせちゃ駄目なんだよね」 「ケイゴ……」 「ダフニのおばちゃんは? レン君やフスハ君は? おじちゃんの友達は? やっちゃいけないことを我慢してやってるのって、何かかっこ悪いよ」 「かっこ悪い、か」 クリッジは苦笑いを浮かべた。大義名分を付けて、自分の意思に反したことをやる、自分の心に素直にいられない行動をとる、それが「かっこ悪い」。子供ならではのストレートな言い分に、クリッジは苦笑いを浮かべたのだ。 「親はな、ケイゴ」 クリッジは静かな口調のままで続けた。だがそれは、クリッジ自身に言い聞かせてでもいるかのような口調だった。 「親は子供のためなら、どんなにかっこ悪いことだって出来るんだ」 「父さん……」 二人の会話を聞いていたフスハが声を掛けた。今では泣いていたレンも涙を堪えつつ、父のクリッジを見詰めている。
ふと、レンが壁を指差した。 「あれ……」 フスハとクリッジが、その指差す方向にある壁を見た。交互に石を積み重ね固めて出来た壁から、青白い光が漏れている。月光だ。光は石の隙間から、周りの少しの壁面と、ほんの一部の床をおぼろげに照らしている。 クリッジは立ち上がると、その石の傍にしゃがみ、手でその石をさすってみた。次いでその手をその石に当て、力を込めてぐいと押し込んだ。石は鈍い音を立てて外へと動いた。押し続けると、そのまま外へと転がり落ちた。壁に小さな穴が開いた。 「お前達、ケイゴ、さあ、ここから出るんだ」 クリッジが子供達のほうを振り向いたが、彼等に動こうとする気配はない。 「嫌だ」 レンが言った。 「こんな所に父さん一人を置いとけないよ」 次いでフスハが言う。 「お前達……」 クリッジは再び険しい表情を浮かべた。ここまで自分を追い掛けて来た子供達だ。自分が牢に入れられているところを残して、早々に家へ逃げ帰ることなんてするとも思わないと言うのが、正直なところだ。子供に何が出来ると言い放って、力尽くで穴から二人を押し出すことも出来なくはない。 「お前達までこんなところに捕まっていたら、母さんはどうする? 母さんはお前達のことをとんでもなく心配しているぞ。そんなことも分からないのか?」 「でも父さん……母さん、父さんのことも心配してるよ」 「レン、そのうえお前達までいなくなったら、母さんはどうなると思う? 母さんを泣かせるようなことをするんじゃない!」 「父さん……」 レンは黙って俯いた。 「フスハ、レンとケイゴを連れて行け」 「父さん!」 フスハが悲しげな表情を浮かべた。 「いいな? 私は母さんに言った。大丈夫だ、すぐに帰ると。信じろ」 クリッジはそう言うと、啓吾のほうに向いた。 「ケイゴ、お前も行け。お前はすぐにでも行かなきゃならん」 「おじちゃん……!」 「あの馬鹿男の傍なんかにいてはならんのだ。ここを出て、お前はエリュシネに向かうんだ」 「エリュシネ?」 「この国の大きな都だ。中心の都だ。そこにはお前を助けてくれる人が必ずいる。お前が何処から来たのかは私は知らん。訊かぬとも言った。だが、これから行く先はそこだ。ケイゴ、エリュシネに行け。急ぐんだ」 啓吾は目を見開き、次いでレンとフスハを見た。 「エリュシネには女王様がいるんだ」 フスハは言った。 「慈悲深い方だ。その女王がお前を捜しているのなら、きっとお前を助けてくれる」 クリッジは啓吾の背中に手を置いた。 「さあ、行け」 「でも……でも……」 躊躇う啓吾の腕を掴むと、クリッジは壁に出来た抜け穴へと連れて行き、そこへ啓吾を押し込んだ。 「さあ、急げ! それからお前達もだ、早く!」 「必ず帰って来てよ。約束だよ、父さん」 フスハは震える声で言った。黙ってクリッジは頷いた。 「レン、行こう」 フスハはレンの手を引いた。レンは兄のフスハと父のクリッジの顔を交互に見やった。そして二人は穴から外へと抜け出した。 三人の頭上には二つの月が柔らかな光を落としている。後ろにある壁に開いた穴からクリッジの手が伸び、転がした石を力を入れて手繰り寄せると、それを起こし、穴に栓をした。 三人はお互いに顔を見合わせた。 「行こう」 フスハが声を掛ける。 「……待ってて、おじちゃん」 啓吾はそう言うと一目散に駆け出した。フスハとレンの兄弟は顔を見合わせると、啓吾を追って走った。 啓吾は嫌だった。自分を助けてくれたアイーダは目の前で黒い靄だか煙だか分からぬものに消されてしまった。自分を背に乗せて逃げたグリフィスのシャリーズは目の前で死んだ。啓吾はもう、自分を助けてくれた人が、仲間が傷付けられることに、いなくなることに我慢が出来なかった。 おじちゃんを必ず助ける。 啓吾は館まで来た道を全速力で走って戻った。 「ケイゴ、待てよ!」 「おい、ケイゴ!」 夜道を駆ける三人の頭上には、何の分け隔てもなく穏やかな光を落とす月が浮かんでいた。
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