走り込んできたメイスは、傷付いた澤渡を抱えると、無事に残っている左腕を自身の肩に回し、急いで漆黒の塊から遠ざけた。 「ユタ! しっかりして!」 「畜生! か、一樹は?」 「早く!」 メイスは引き出せる最大限の力で以って、澤渡を連れて逃げる。 「一樹は! あいつは何処だ?」 「カズキはあの中よ」 メイスの声を聞き、澤渡は咄嗟に後ろを振り向いた。 真っ黒な靄が凝縮し、直径約百メートル程のドームを形成していた。 「何だよこれ……一樹!」 「ユタ! その傷じゃ無理よ! 急いで砦まで行くわよ!」 広場を逃げ惑う人々は、ジュデッカ管理本部のある城砦に殺到していた。 今や黒色の靄は人を追い詰め襲うことを止め、その全てを「不信」と須藤が中にいるそのドームの壁を補う方向に向いていた。 そして、城砦の扉が重き音と共に閉められた。
※ ※ ※ ※ ※
「お前はどうなのだ、須藤一樹?」 辺りが急に色褪せ始める。全てがセピア色に変色し始めた。 須藤は辺りを見回した。 そこにはアムリスの体に憑いた「不信」がいた。宙に逆さまになった体勢で、しかし髪や衣服の装飾などが重力の支配を受けることもなく、実に不自然なままで浮いていた。 須藤は「不信」に視線を固定した。 「お前も苦しんだのではないか? 信じる、信じない、人を信頼する、出来ない、そんな中で抱えずともよい苦痛に長年苛まれた口であろうに。何故未だにそんな茶番に固執する? お前の母を見たであろう? 愛情だか家族の縁だか知らぬが、そんなものに執着し、自身の解放に目を向けぬまま、幸薄き人生を終えたのではないか。尚もそんなものに意固地になる理由は何だ?」 アムリスの口が動く。しかし声はアムリスのものではない。 「母を侮辱する資格などお前にはない」 須藤は立ったまま、姿勢をびたとも崩さずに、静かに言い放った。 「侮辱などではない。現実を言ったまでのこと」 アムリスの体が上下にゆらゆらと動いている。 「絆? 縁? そんなもの信頼するに値せぬその場限りのものだ。それに執着するが故、お前達人間は些細なことで一々付和雷同する。そして苦しむ。そんな輪廻を断ち切るために我々は存在するのだ。お前達哀れなる存在を救済し、開放するために我々はここに再びやって来た」 「救済だと? 解放? 大勢の人を傷付けたお前が何を言う?」 須藤の声が荒ぶる。 「ああ、救済だ。解放である。誰かを信じても傷付き、信じなくとも救われない、そんな心のパラドックスからお前達を解放するのだ。それが我々の使命である。大神から授かりし聖なる勅命なのだ」 淡々とした口調で「不信」は語った。 「須藤一樹。お前もその父親と同じではないか」 「何だって?」 「自身の妻はおろか、子供の心など知らぬ存ぜぬ、そんな態度を取り続けた、『不安定』なる存在のお前の父親と、勝手な思い込みで息子に触れ続け、実際には息子が何を抱え、考え、悩み、葛藤しているかなどお構い無しだったお前、何処に違いなどあるのだ!」 「……ああ。そこに違いはないだろう。自分も『出来ない』父親だ」 須藤は言った。その答えに覇気はない。 「だがな」 須藤は「不信」の顔を睨み付けた。 「父は再婚しなかった。決して後妻を取ろうとしなかった。自分は知っている。その後、誰も見ていないところで父が母を懐かしみ、悲しみ、そして一人きりで涙を流していたことを」 そうなのだ。須藤は見ていた。今、その時の記憶が明瞭に甦ってきた。 父が一人きりで、声を上げることなく、こっそりと泣いていたことを。鬼瓦にも見えたことのある、鉄面皮なところのある父のそのような姿を。 だからこそ、父を信じられずに長年を過ごし、父を見返すことを精神的な原動力として踏ん張ってきたがために、ジレンマを抱えることになったのだ。そして今ではそのことを須藤は受け止めている。 「父は母をいとおしんでいた。そして自分も啓吾がいとおしい。それは、父にとって母が、自分にとって啓吾が永劫欠かせぬ存在であると信じているからだ。いや、信じるなんて言葉で軽く表せるもんじゃあない」 「だから何だ? それでいても何度もつまずき、転び、その度に負なる思いに身をやつすのが人間だ。それこそ自然の中で存在することが看過出来ぬ、『不安定』要素なのだ」 「不安定? だったら何だ? 人はそうやって傷付き、そこで学び、理解し、前に進んでいくもんだろうが? これの何処がいけないんだ?」 「お前には分かるまい!」 須藤に対する淡々とした声が急に怒声へと変化した。 「奇麗事ばかり並べる、それがお前達が『人を信じる』ことに対して不安定さを感じるが故の行為であろうが! 信じたくても信じられず、信頼を裏切り続けられ、それでも藁をも縋るような思いで相手を信じ続けようとし、結局はその心を土足で踏み躙られた者の苦しみが分かるまい! 悲しみが、絶望が、お前に分かるのか?」 アムリスの口が縦に大きく裂け始めた。その中から真っ黒な、タールのような塊がぬらぬらと黒光りしつつ現れた。その塊に次から次へと人の顔が浮かんでは消えていく。皆、悲しみに、絶望に、悔恨に、そして果て知れぬ苦痛に表情を歪ませた、名も知らぬ者達の表情であった。 「お前達は信頼だとか言いつつ、それをねたに人を利用するのだ! そして不要となれば捨て去る! 利便や感情の満足さを得られれば、それで用無しとして人を捨て去る! 或いはずっと利用し続ける! まるで甲から乙への一方的な『無限契約』でも交わしたかのように、信頼だの愛情だのと蓑を着せた悪意で以って、人に接し、己のエゴを満たすがためだけの行為に走るのだ!」 絶叫にも似た言葉と共に、何人もの声での叫びや鳴き声が併せて響いてきた。 「人間の世界は、心弱き者を追い込み追い詰めるように出来ているのだ……弱い者を苛めるように出来ているのだ!」 「黙れ!」 須藤は叫んだ。 「お前……可哀想な奴だよ。そんな世界しか見てこなかったのか」 須藤は、この「不信」が人の負の思念が固まったものであることを再度思い出していた。 「人に信じられないのは苦しい、人に信じて欲しい、その思いは理解出来ないわけじゃない。かつての自分もそうだった。自分で自分の周りに壁を張り巡らせていた。父を拒絶するうちに、父の顔色を窺うようになり、同じように他の皆に対しても、穿った考えを持ち、常に数歩下がった目線で見ていた。人を拒絶すれば、自分も拒絶される。それでも構わないと思っていた。だが、それじゃやっぱり苦しいままだ。辛いままだ。気付いたんだよ」 須藤の中で「不信」に対する、あからさまな怒りの感情が何時の間にか弱くなっていた。 「誰かに信じて貰いたくて、信じようとするというのは間違っているんだ。信じて欲しいから信じます、これじゃあ駄目なんだ」 アムリスの口から仰け反るように顔を出している黒色の塊が、その動きを止めた。 「何を言っている?」 須藤に向けて塊は、いや「不信」は言葉を放った。 「自分は本当は人を信じたい、その思いを無理矢理抑え込んでいた。虚勢だよ。くだらない強がりさ。だがそのままじゃ、相手はおろか自分に対してでさえも不信感を拭えない。それじゃあ辛いもんだ。だから先ずは自分を変えなきゃいけないんだ。相手に信じてもらいたければ、それにふさわしい自分自身でいなきゃならない。何の利にもならない鎧を脱ぎ捨て、自分に恥ずかしくない行動を取る。穿った考えを捨て、相手のために行動する。それはひいては自分のための行動となる。信頼を勝ち得るには、こいつの積み重ねなんだ」 須藤は塊に浮いた幾つもの顔に向かって言った。 「お前は自分から本当に相手に歩み寄ろうとしたのか? 余計な疑念を捨てて、誠意で以って相手に接してきたのか? 見返りを求めて行動しなかったか? お前の歪んだ言葉には、自分第一という意味合いしか聞こえてこない」 黒色の塊がぶるぶると震え始めた。 「それが奇麗事だと言うのだ! 中には信じるとはどうすれば良いのか、分からなくなってしまった者もいる! 凄惨な環境の中、信頼というものに何の価値も見出せなくなってしまった者もいる! 信じようとしても裏切られ続け、信じることに恐怖を感じ、それを拭い去れなくなった者もいる! お前の『強者的論理』で全てが片付くわけではない! お前こそそうした不遇な者達の心の痛みが分かるのか?」 塊は更に頭頂部をぱっくりと開けた。そこからは真っ黒な靄が飛び出してきた。靄はそこで人の上半身をかたどった。 須藤は更に続けた。 「環境のせいだと? 周りのせいにして、自分自身がどうだったかなど考えないうちには、何の救いもないんだ! どんなに辛い境遇に身を置いていたとしても、そこから逃れるには自身の覚悟と決心、勇気が必要だ。環境のせいにしていれば、周囲のせいにしていれば、確かに気は楽だろう。だが、決してその無限地獄からは抜け出せない。こればかりは自分で這い出すしかないんだ。お前はそれを怠り、恨み辛みを並べ立て、周りのせいにして、ただただ喚いているだけじゃないか!」 「おのれ……言わせておけば……醜悪なり、須藤一樹よ!」 震える「不信」の声が周りに響く。何処で反響しているのか、その声は四方からエコーが掛かった状態で、須藤の耳に届いてきた。 上半身を模った靄は崩れ、再び「剣」となって、須藤の胸元へと突進していった。だが再び、それらは白き光に阻まれた。 「貴様あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」 絶叫が須藤の耳をつんざかんばかりに響き渡った。 「この黒いもので自分の体を傷付けることが出来ないから、自分の心の中に入り込み、引っ掻き回そうとしたんだろう。だがそれは無駄だ。お前ももう止めろ。お前自身が今苦しいんじゃないか? お前こそ苦痛から解放されたいんじゃないのか? じゃあ、今すぐ人を傷付けることを止めろ。そして変えるんだ。お前も元は人なのだろう? 人の思いなのだろう? 人の性格こそ変えることは難しくても、考え方や思い方を変えることは出来るんだ。即ち、お前自身が変わることは出来るんだよ!」 須藤は声を張り上げた。だが、そこに啓吾を奪われたことに対しての私怨めいた感情は含まれていなかった。 空を震わせるような呻き声を「不信」は上げると、靄の「剣」を近付いてくる須藤の前に打ち立てた。床板が持ち上がると音を立てて割れる。 その下から須藤咲江が姿を現した。 母の咲江は焦点の定まらない両目で須藤を見やった。 「母さん……!」 「須藤一樹。お前はお前の母親を信じているのだな? ならばこれはどうだ?」 不敵な笑い声を上げながら、「不信」は靄の体を再び人の上半身の形に戻し、右腕を振り上げた。 母は須藤目掛けて駆け込むと、須藤の上半身に飛び付き、四肢で以ってしがみついた。その母の重さは尋常ではない。須藤は後ろへと倒れ込んだ。 母の両手が須藤の喉を恐ろしいまでの力強さで絞め上げてくる。 「か、母さん……や、止め……」 息が出来ない。頚動脈を絞め上げられ、頭が火照ってくる。耳鳴りが割れんばかりの音響で響き、頭痛が襲ってくる。 「信じているのなら、きっとその母はお前の命までをも取るまい。どうだ? 我が愛する母親に窒息させられ掛けている気分は? ああ?」 須藤は母の手首を掴むと、その手を喉から引き離し始めた。 「うおおおおっ!」 母の力はまともではない。だが、自分も負けるわけにはいかない。母は相変わらずの無表情で、須藤を見詰めている。口元も一切緩ませず、瞬き一つせず、須藤の顔に視線を送り続けている。 「これは母じゃない! お前が見せる虚像だあっ!」 須藤は声を上げた。その瞬間、針で刺された風船のように母は消え去った。 須藤は再び立ち上がった。 「啓吾が見た母親っていうのも……そうか、こうやって見せ付けられたのか……卑劣なことをする!」 「だったら何だ? お前達人間の抱く対人感情のほうがよほど卑劣と言うものだ!」 「もういい加減にしろ!」 渾身の力を込めて須藤は叫んだ。 その時、セピア色で周りに展開されている実家の光景が、まるでガラスが打ち砕かれたかのように粉々に「割れた」。細かい破片が雪のように飛び交う。
須藤はジュデッカの広場へと戻っていた。今や踏みしめているのは実家の床板ではなく、灰白色の砂の固められた地面だった。だが、その周りは真っ黒なものがぐるぐると対流している。タールが流れているかのように見えるその異物は、須藤と「不信」を中心にしてドームを形成し、ひたすら流れていた。 しかし決してその場所は暗くはなかった。今、須藤の放つ白き光はドームの中全体を照らし出している。 「結局お前は負けたんだ。諦めて全てを放り出した。お前は自分自身に負けたんだよ」 須藤は再び「不信」のほうへと歩いて行った。 「く、来るな……」 「もう終わりにしよう。人を疑い、人に心を閉ざし、悲劇の主人公を決め込むのは止めろ。終わりにするんだ!」 「来るなあっ!」 絶望じみた「不信」の叫びが漆黒のドームの中に反響する。 その時「不信」に異変が起きた。アムリスの口からこぼれているタール上の物質に浮き出ている顔が言葉を発し始めたのだ。 『もう嫌だ……苦しむのはもう嫌だ!』 『信じたくないんじゃない、疑わずに済めばどれだけ心が救われると言うの?』 『人を恨むのはもう疲れた。自分を恨むのももう嫌だ』 『助けてくれ! こんなところから出たいんだ!』 『私は人と心を交し合いたかった。こんな、人を苦しめて恨みを晴らそうとするなんて、本当はやりたくなんてない!』 『もう止めろ……止めてくれ!』 真っ黒な顔は次第に生気を帯びた、普通の人の顔へと変化していった。 その幾つもの顔の中に、先程目にしたアムリス自身の顔もある。 『私が愚かだったのだ。自分の不安に、恐れに負けて、自身の弱さに負けて、外に向けて疑念を持ち始めたから、このような者に自分を乗っ取られたんだ。私が自分に負けたからなんだ……皆、済まないことをした。フィリエラよ、我が愛する妻よ、酷い行いをした私を許して欲しい……君を愛しているのだ』 アムリスは泣いていた。 「貴様等……黙れ、黙らぬか!」 慌てふためく「不信」が叫ぶ。 すると、それらの顔は今度はどんどん前に競り出してきた。そして裸の人間の体となって、次々と黒き塊から抜け落ちてきた。何人も何人も、恐ろしいまでの速さで湧き上がり、地に落ちては煙のように姿を消していく。男女、子供老人、関係なく次々と出ては落ちて消えていく。 その様を唖然としつつ須藤は見詰めていた。 今や「不信」の体は崩れ始めている。 「お前のような思いを抱く者の傍には、誰も寄り付きたがらないものさ」 須藤は言った。 「だがお前が変われば、お前が勇気を持って、自分の殻から抜け出せば、きっとお前を理解してくれる仲間も出来ただろうに……」 須藤の放つ光はドーム全体を日中のように照らし出していた。「不信」の体を構成する漆黒の靄が徐々に薄れ始めていた。水蒸気のように上に立ち上っては消えていく。 「貴様……貴様は……貴様は!」 次第に「不信」の声のトーンが落ちていった。
「須藤一樹よ」 聞き苦しさに変わりはないが、これまでとは打って変わって声量が落ちた状態で、「不信」は声を発した。その姿は今や真っ黒い一つの球体となり、地面から浮き上がって不安定な回転運動をしている。 「お前は自分が変われば、周りも変わると言った。自分が勇気を持ち、決断し、自分を変えようとすれば、延々と続くこの地獄から抜け出せると言った。そうだな?」 「ああ、言った。その通りだ」 「だがそれでもやはり、救われない者は大勢いる」 低く、そして悲しげな声が須藤に答えた。 「手を伸ばし、前にある光を掴もうとするが届かない、そのうち疲れ果て、諦め、腕を引き下げる者もいる」 須藤は黙って声に耳を傾けた。 「皆、お前のように強いわけではない」 「お前……」 「目の前の幸せを掴みたくとも、既に力を失った者は、現状の不幸に敢えて留まろうとする。幸せに怯え、恐れる者までも出てくるのだ。そして、孤独という『虚像の幸福』にしがみつき、『今のままでいるほうがマシだ』と考え、離れようとしない。そんな弱者は、お前の論理では決して救われない」 「論理って……」 須藤の表情が悲しげに歪んだ。 「それを救うことが出来るのは大神タナトス様のみだ」 消えゆく「不信」の言葉の中に「大神タナトス」という名前を須藤は聞き逃さなかった。 「タナトス?」 「タナトス様は言われる。『人の心、感情、意識、全てを破壊し無に帰す、これのみが苦しみ続ける人への救済の道であり、唯一無二の正義である』と。私はタナトス様を崇め……そう、タナトス様『のみ』を信じ、センチュリオンに仕える身……」 黒き靄の球体は縮小していく速度を上げた。 「全ての暗き連鎖を断ち切るには……傷付き、傷付けあう連鎖を永劫に終わらせるためには……人が救われるには……もうこの方法しかないのだ……しかし、ああ、何と……何と温かいのだ。お前の放つその光は実に温かく、そして心地良い」 もはや「不信」の放つ言葉に刺々しさはなくなっていた。 「覚えておくがいい。この温かさは人の心の持つもの。だが、この温かさを持つ人間は同時に、冷ややかに他人を傷付け、苦しめ、追い込むのだ。私は望んでいるのだ……人が未来永劫に救われることを……それはもう無へ帰るしかないのだよ……」 須藤は呟いた。 「無……」 球体は子供の握りこぶし程度の大きさにまで小さくなっていた。 「我が神よ、どうぞ人の呪われし因果を、呪われし枷をお外しください……我が神よ……」 そして、最後に「不信」はこう言った。 「人を……私を……お救い……くだ……さ……」
「不信」は消えた。 同時に、漆黒のドームは風にのって流される雲のように空中へと舞い上がり、そして消え去った。
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