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作品名:リフレクト・ワールド(The Reflected World) 作者:芽薗 宏

第43回   第四十一章 フォールン・アゲイン
 あの子供にはもう暫く泳いでもらわねばならぬ。

 地の底から湧き上がるような、暗き声がする。
「はっ」
 その声に答える声が続けて夜の草原の中から聞こえる。

 よって、あの金色の雑兵は些か邪魔になる。

「仰せのままに」
 耳障りな声が再び聞こえてくる。
 周囲には人の影はない。月明かりがアラキノフスを囲む外壁を照らすのみだった。その明かりの中、一本の長い影が壁に映し出された。いや、それは影であり、そして影でなく、その影の「本体」でもあった。
 黒いマントをすっぽりと被ったその「者」は、その黒色をそのまま残す靄となり、壁の上方へと舞い上がると、市街地へとまっすぐに飛び去って行った。

   ※ ※ ※ ※ ※

 日も暮れ、草原の合間を延びる道に夜の帳(とばり)が下りていた。二つの月が道の脇に立つ木々や草の葉を白く照らしている。肌に心地いい涼風は、日中太陽に照らされていた地上の生命に、束の間の休息を与えるかのように、静かに月光に照らされたそれらを揺らしている。草原の中からは虫の鳴き声が聞こえてくる。何処となく寂しげであり、そして儚げで且つ美しく、短い一生をこの時この場で懸命に謳歌しているようにも見受けられる。木々の陰が白く光る石畳の路面に落ちている。それは躍動する命のほんの一面、眠りの時を白いスクリーンに映し出される映画の如く告げているようだ。
 通りに沿って点在している家々には、それぞれに暖色の光を窓から漏らしている。その光の中では、様々な家族が共に過ごす様々な瞬間を送っている。耳を澄ませば、それらの光から笑い声や語り合う声が聞こえてきそうだ。
 その中を一つの集団がまとまりのない足音を響かせていた。
 道の向こうから、松明の灯りが幾つか見え隠れしている。その灯りの中に集団の主たる者達の影が浮かび上がってきた。
 十頭近い数のエクウス・ゲンティルの群れだ。そして、それらの獣の背にはそれぞれに衛兵が跨っている。その集団の中央には、統率の取れた衛兵の制服姿と比べると、まさに異形の者としか評することの出来ない出で立ちの者がいた。レクスス・プロウィコスの息子、シネカスである。その表情にはまるで敵の御大将の首でも取ったかのような、驕りに近いまでの自信が浮き出ている。
 目指すはクリッジの家だ。
「貴方」
 ダフニが窓の外を見て声を上げた。
「来たか」
 クリッジはいつも以上に一際険しい表情を浮かべると、レンとフスハに二階へ上がっているように言った。
「え、何?」
 レンが不思議そうな顔で訊く。
「いいから上がっていろ! 部屋から出るんじゃない」
「レン」
 フスハが弟を促し、その手を取って二階へ連れて行った。
「ケイゴはそこに入っていろ」
 ダフニが居間のテーブルを動かし、その下の床板を開け、地下室へ入るように手招きをした。
「おじちゃん、おばちゃ……」
「心配しなくていいわ。さ、早く」
 ダフニが笑顔で言った。クリッジのほうを見ると、彼は黙って軽く頷いた。
 玄関の扉が荒々しく叩かれた。

「やあ、クリッジ。夜分に不躾で済まないね」
 シネカスが万国旗を一つに掻き集めたような、けれんの濃い衣服に身を包んだ状態で語り掛けた。顔には嫌らしいまでの笑顔が浮かんでいる。
「不躾という言葉の意味が分かるとも思えんが」
 クリッジはシネカスを睨みつけて返答した。
「ふん」
 シネカスは小馬鹿にするような含み笑いを浮かべると、クリッジの真正面に立ちながら、逆手で後ろにいる衛兵達に手招きをした。
「掛かれ」
 衛兵達は次々と家の中に入り始めた。
「何なんですか! こんな時間にいきなり人の家に……」
 ダフニが嫌悪感を露わにした表情を浮かべて、シネカスに訴え掛けた。
「現在手配中の者がこの家の中に匿われている疑いがあるのでね、奥さん。重ね重ねお詫びさせて戴きますよ。全く以って不躾で申し訳ないですねぇ。いやあ、貴女の顔にそんな表情は似つかわしくない。御歳に関わらず艶のある肌をされている。人を睨み付けたりしていると,小皺が増えてしまいますよ」
 相変わらずの早口でまくしたてると、手にしていたステッキの先を、目の前のクリッジの喉元に突き付けた。
「どきたまえ、クリッジ」
 シネカスの不敵な表情が実に忌々しく感じられ、クリッジは鼻から息をふうと一つ吐くと、目の前の不快極まりない人物を睨み付けながらゆっくりと後ろに下がった。
 衛兵は二階に上がり、兄弟の部屋にも入っていった。
「ちょっと何だよ!」
 レンの声が聞こえる。
「レン! 放っておけ!」
 クリッジが二階に向け声を上げた。
 衛兵は台所や居間の隅々にかけ、そしてクリッジの仕事部屋にも入っていき、色々と物をひっくり返す音を立てていた。棚の扉を開け閉めする音が乱暴に響く。
 暫くして、手ぶらの衛兵達がシネカスの前に集まってきた、めいめいが首を横に振っている。
 シネカスは彼等を藪睨みすると、
「何故父上がお前達のような無能者を雇っているのか、全く解せんよ」
と言いつつ、ゆっくりと居間の周囲を歩き回った。
 靴の奏でる足音と、床板の軋む音とが一つの陰鬱なハーモニーを形作っている。
 シネカスの足取りが止まった。じっとテーブルの下に敷かれているカーペットを見詰めている。カーペットに不自然な弛みが出来ていたことに気付いたのだ。
「おい、クリッジ。このテーブルをどかしたまえ」
 クリッジは表情を変えずにシネカスを睨んでいたが、そこから一歩も動こうとはしなかった。ダフニが口を少し開いた状態で、そのカーペットを見詰めている。その眼球が小刻みに動いているのをシネカスは見逃さなかった。
「クリッジ! 私の言うことを聞き給え!」
 クリッジは渋々とテーブルを動かした。シネカスは手持ちのステッキの先をくるくると回し、その長さを長めに調節すると、その先端でカーペットをめくり上げた。
 上に開くようになっている扉が一枚。
「開けろ」
 シネカスが愉快そうにクリッジに言った。

 夜の闇に松明が上げられており、その明かりが辺りをぼんやりと照らしていた。衛兵達が立ち、その前にシネカスに手首を握られた啓吾がいる。
「分かっているよねぇ、クリッジ。これは君を拘束するに十分足りうる叛意的行為だよ」
 シネカスはクリッジの顔の前に自分の顔を近付けて言った。とは言っても、クリッジの長身のために、厚底の靴(そうはとても表現出来ないようなフォルムの代物ではあったが)を履いているシネカスが背伸びをして、顎を上げて、やっと到達出来るだけの高さがあった。
「ええい、忌々しい!」
 自身の低身長に悪態を付きつつ、衛兵にクリッジを縛り上げるように命じた。
「貴方……!」
 クリッジはダフニのほうに顔を向けると、
「心配しなくてもいい。二人ともすぐに戻る」
と声を掛けた。
「二人とも? 戻る? 全く、一体全体何処からそんな自信と根拠を得ることが出来るんだね?」
 シネカスは呆れ半分、笑いを堪えることに半分の忍耐を使いつつ、クリッジが大人しくロープで両腕を腰の辺りで縛られていく様を見詰めていた。手の甲を口に当て、笑いを堪えてはいても、「くっくっ」という笑い声が漏れている。
「おじちゃん……」
 啓吾は心配そうにクリッジを見た。
 クリッジは何も言わず、ゆっくりと一度頷いた。
「行くぞ!」
 シネカスが号令を掛けた。

   ※ ※ ※ ※ ※

 宿屋の一階に飲み屋があり、そこでは二十人近い男達がジョッキやゴブレットを傾けていた。店内は薄暗く、しかしそれでも陰気さは微塵もなかった。
 カウンターに衛兵の一人が座って、ゴブレットに入ったスタウトビールを飲み干している。制服の前ははだけ、制帽は無造作にカウンターの上に置かれている。
「あんた、いいのか? 仕事中じゃないのか?」
 声を掛けられた衛兵は、ふうと一息吐くとゴブレットを置き、
「ああ、構わんさ。もう仕事は終わったんだ。羽目外すときゃあ、ばっちり外さなきゃな」
と答えた。
「そうか」
「ああ、それに取り敢えず、明日やることは街の中のビラを剥がすことだろうし」
「ビラ? ああ、あの探し人の?」
「そう。しけた仕事だよ。ま、特にごたごたな出来事もないんだ。平和的に過ごせてんだからいいよ。ビラ剥がしなんて、その典型みたいな雑務だろ? そう思わないかい? あんた、んん? 見ない顔だが?」
「ああ、旅の者さ」
「ほう。ようこそ、アラキノフスへ」
 酔った衛兵はにんまりと笑って返した。
「ありがとう。で、ビラを剥がすってことは、見付かったのか?」
「え?」
「その探し人。確かケイゴって名前だったか?」
「ああ、覚えてるねぇ、あんた。その筈さ。今頃は領主様の館からこっちに向かっている頃合じゃないか?」
「ほう」
「あの……領主様もいい言い方をなさる、鶏ガラ息子って陰で呼んでるんだよな、息子のシネカス様のこと。ふははは……」
「その鶏ガラ息子ってのが?」
「ああ、そうそう。その子供を匿っていた家があったってことで、十人ほどの仲間を連れて向かったんだよ、シネカス様。で、今頃はこっちに向かってるんじゃないかって……何だい、そんなに気になるのか?」
「いや、酒のつまみの代わりに訊いてみただけだ。つまらん話を振って悪かった」
 トルソはそう言うと、カウンターの上に勘定としてのコインを置き、ゆっくりと店を出た。

 トルソは腰に下げた剣に手を置きながら、プロウィコスの館のほうへ歩みを速めていった。あの衛兵の話が本当なら、館の周辺を張っていれば、そのうちに啓吾を連れた一団が姿を現すだろうと思っていた。鞘に収められた剣は、更にその上に黒い皮のカバーを掛けられていた。空間近衛騎士団と一目で分かりそうなものを出したままで街を歩くわけにはいかない。
 トルソは革のカバーの上に付いたスナップを外した。
 何やら異様な気配がする。
 部屋を取った宿にいた頃は感じられなかった気配。一階の飲み屋に入る直前からふと感じ始めた、嫌な、何とも不快な気配。
 特に誰かに尾行された覚えはない。そんなへまをしているわけでもない。だが、何かに見詰められている感じがしてならない。
 トルソは裏通りに入り、足取りを一層速めた。
 足音はあくまでもトルソ自身のものだけだ。だがしっかりと気配は付いてくる。飲み屋を出てから、その気配は強まっていた。
 角を曲がったところで、トルソはふと足を止めた。
 後ろを振り向く。
 誰の姿も見えない。夜の闇と、それを遠くで照らす街灯、そして頭上からの月光だけが街をぼんやりと浮き上がらせている。
「何者だ?」
 トルソは低い声で一言言った。
 すると目の前に「闇」が下りてくる様が見えた。
 黒い靄は一つに集まりだすと、一人の人型になる。
 トルソの全身に緊張が走った。
 まさかこんなところで、この闇の者と出くわすことになろうとは。
「今宵は楽しめたか? 酒は旨かったか?」
 陰気さに満ち溢れた声が響いてきた。
 靄は黒きマントを全身に巻き着け、フードを深々と被った者の姿へと変貌していた。
「貴様に今、あの子供を連れて行かれるようなことになっては困るのでね」
 その者は無感情なまでの淡々とした低き声で言い加えた。
「何を企んでいる?」
 トルソは訊いた。無論、まともな返答など返ってくることとは微塵にも考えていなかった。
 ところが、その者は答えた。
「あの子供には何かと経験を積んで貰わねばならぬ。子供なだけに未熟だからな。もっとも、大人ほどすれっからしになられても困るが。我が主、そして我がセンチュリオン殿が望んでおられることだ」
 センチュリオンが? その者の「主」が? 望んでいる?  
「言うなれば……親心だな」
 そう言うと、その者は不敵なまでの含み笑いをした。「くくく」という、実に薄気味悪い笑い声がする。
 その者は更に言い加えた。
「聞けば、子供の父親も来ているそうじゃないか」
 トルソの眉が動いた。父親が来ている? ということは、グリフィスの背から叩き落された須藤一樹が、無事にこの世界に到着していると言うのか。  
 一瞬の安堵が心の中に流れた。だが、今はそのことを喜んでいるわけにはいかない。
「無事に済めばいいがなぁ。父親には他の仲間が相対していることだろう」
「……よく喋る奴だ」 
 トルソは剣を取り出し終わると、その者へ一言を返した。
 黒き者は両腕をゆっくりと左右水平方向に上げながら答えた。
「私もそう思う。お喋りはもうよそうか」
 言い終わると同時に、その腕を刀身へと変貌させ、一気に加速を付けてトルソに突っ込んでいった。 
「!」
 トルソは咄嗟に剣を構え、その刀身を自身の右斜め前下に置くと、右足を半歩下げて、敵の突進に備えた。そのすぐ直後、ものの二秒も掛かっていなかったであろう、黒き者の刃はトルソの顔面目掛けて飛び込んできた。トルソは剣で右に捉えた刃を下から上へ払い上げた。次いで細き弧を描くようにして、左からの刃を下へ叩き落とした。しかし黒き刃は次々とその切っ先を前へと突き込んできた。トルソは退きつつ、その刃を己の刀身で払い除けていった。
「そうやって何処まで下がっていくんだい?」
 黒き者の声が棘のように耳に響いてくる。トルソの鼓膜にきんとした痛みが走った。
 その言葉を放ち終わった途端、その者は人型を瞬時に崩すと、全身を数十本の槍状のものに変え、一気にトルソへと放った。トルソはその大柄の体を咄嗟に横へと飛び退かせた。受身を取ったトルソの背後で、漆黒の槍に貫かれた建物の壁が音を立てて粉々に砕け、破砕された壁の欠片がトルソの体を打つ。複数の槍は弧を描きつつ上へと進行方向を取ると、そのまま宙で腕を剣とした人型に戻り、トルソの体目掛けて急降下を掛けた。その刃はトルソがいた筈の地面に深々と突き立った。トルソは剣を手にしたまま体を再度横へと飛び退かせて刃を避け、急いで立ち上がって体勢を整えていた。
「……話と違うじゃないか」
 その者は人型に戻ると、目鼻立ちのない漆黒の顔面をトルソに向け、ぽつりと呟いた。自身と接触することで、その組成を分解して消失する筈のトルソの剣が、そのままの形で残っている。接触するどころか、明らかに刃となった両腕を力尽くで払い除けている。 
「お前……」
 その者は憎々しげに呟き、そしてトルソをじっと見据えた。
「ここで貴様にやられるわけにはいかない」
 トルソは剣を構え直して言った。
 間違いないと黒き者は思った。トルソなるこの男の精神力が強まっている。堅固なるものへとなっている。心なき、心弱き者なら既にその姿を消されている筈なのだ。それを耐え抜いている。
 この世界の者がそんな力を持つことは、彼等漆黒の使いにとっては由々しきことだ。
「不愉快だ」
 黒き者は一言放つと、再びトルソへと突進し、剣となったその両腕を上から下へと振り下ろしていった。トルソはそれに応戦し、自身の剣でそれを受けていった。だが確実に力で後方へと押されていっている。
 突如、黒き者はその下半身を太き尾のように変え、トルソの脇腹に一撃を加えた。トルソは体勢を大きく崩し、打たれるがままにその体を飛ばされた。体勢を直す隙を与えず、太く長い「尾」は続けてトルソを打った。人通りのない通り道をトルソの体がもんどりうっていく。
「どうした? 金色の雑兵よ」
 黒き者がせせら笑うような口調で言った。
 トルソは仰向けに倒れ込むと、咄嗟に剣を構え直し、向かってきた「尾」に剣で右から左へと斬り付けた。尾は寸断され、切り落とされた先端は煙のように掻き消えた。トルソは下半身を上へと反り返させると、勢いを付けて全身を跳ね上げさせた。そして黒き者の前へと駆け込むと、剣を打ち込んだ。
「参る!」
 防戦する側はトルソから黒き者へと換わった。流れるような剣の軌跡が華麗なまでのテンポで黒き者の頭や胴の脇へと次々に打ち込まれていく。腕を刀身に変えた腕でトルソの剣を受け続けるが、寸分の差でトルソの斬撃速度のほうが勝っていた。剣が打ち込まれる度に、黒い靄が舞い上がり、宙へと掻き消えていく。
 何だ。何なのだ? この者の力が自身より勝っている? 押されている? 人間如きに押されているだと? 
 しかし黒き者には確信があった。
 この者には自分を倒すことは出来ない。
「いいぞ……いいぞぉ……さあ、もっと来い。もっと来るがいい!」
 剣を受けつつ、黒き者はトルソに言い放った。
 トルソは剣を振るいつつ思った。この者には弱点はないのだろうか? どうすれば決定的なダメージを与えられるのだろうか?
「さあ、もっと来い! お前の仲間達は何も出来ずに我が仲間に消されたんだったなあ? 船ごと粉砕されたんだったなあ? お前の心が見える。さあ、私を恨め! 悔しいのだろう? さあ、お前の微力でこの私を倒して見せろ! 虫けら同然の仲間を守れなかった無念を晴らして見せろ!」
 黒き者は捲くし立てた。
 トルソの心にこの者に対する怒りが巻き起こった。憎しみと悔しさの感情が湧き上がった。そうだ。この者達のせいで自分の仲間がやられたのだった。自分の力のなさで守ることが出来なかったのだ。死した仲間を今こうしてこの闇の使いに馬鹿にされている。
「貴様ぁっ!」
 渾身の力を込めて打ち下ろされたトルソの剣がいとも容易く弾かれた。
「……くっ!」
 トルソは剣を構え直したが、それよりも早く真っ黒な球体へと姿を変えたその者によって、体を跳ね飛ばされた。球体はまさにメデューサの頭を髣髴とさせる、何本もの蛇のような太く長い形態へと姿を変え、トルソを弄ぶかの如く、その体を跳ね飛ばし続けつつ前進していった。
「いいねえ! いいねえ! お前の怒りを感じる! お前の悔しさを感じる! お前の恨みの感情を全身で感じているぞ! 何と心地いいのだ! 力がみなぎってくる!」
 黒き者はそのままトルソを表通りへと弾き飛ばしていった。
 通りを歩く者が立ち止まり、飛ばされてきたトルソと、それを追うようにして迫る真っ黒な異物をその目にし、ある者は叫び声を上げ、ある者はほうほうのていで駆け出した。
 トルソは突っ込んでくる「蛇」をすんでの所で身を翻して避けると、剣を掴んだまま立ち上がり、その長き黒い物体に剣を振り下ろした。しかし剣は感触の実に悪い弾性の力で弾かれ、トルソは一瞬よろめいた。
 今さっきとはまるで違う。その黒き者の力が増しているようだった。靄に剣が弾き飛ばされる。先の交戦時と異なり、消失こそしないが剣が強固なゴムにでも斬り付けたかのように感じられた。
 トルソはその者を見た。黒き者は明らかにその全身の大きさを肥大させていた。真っ黒な人型に再び変貌したその者の背に、まるで黒い翼が生えているかのように目に映る。曲線と尖った節々の先端との融合が禍々しさを感じさせる、漆黒の邪な翼。そして何本かの孔雀の尾羽のような尾を携えている。
 その尾が空を切り、周囲の建築物に向かっていった。壁が轟音を立てて砕け、その中にいた者は叫び声を上げて落下してきた。尾はその者を横から削ぎ切りするかのように鋭く移動した。その建物にいてまっ逆さまに落ちてきた住人は真っ二つとなり、その上半身と下半身を蒸発させるかの如く消失させた。またもう一本の尾は地面を抉るかのように素早く走り、別の建築物の一階の辺りへとその先端を差し込むと、一気に下から上へと跳ね上げさせ、その建物を真っ二つに切り裂いた。それら二つの建物とも轟音と共に崩壊し、その多々なる破片は煙と変わり消えていった。中にいた住人の安否は分からないが、恐らくは破片と共に消されたであろう。
 通りにいる周囲の何人かが再び叫び、エクウス・ゲンティルに跨る衛兵が何人か駆け寄ってきた。
「来るな!」
 トルソは叫んだが間に合わなかった。衛兵達は乗ってきた獣の上で下半身だけを残して、その姿を消滅させられた。
「お前達の恐怖! 怯え! 実に快適である!」
 黒き者は雄叫びを上げた。
 その瞬間、トルソは理解した。
 この者は自分の敵意や負なる感情を糧にして、その力を増したのだ。自分の心に猛烈な勢いで湧き上がった、言うなれば「私怨」の力で肥大化したのだ。そして、街を襲い、住人達の恐怖心をも吸収したのだ。
 ならば……
 トルソは呼吸を整えた。この者に対して余計な感情を抱くことは危険だ。相手は人の思念、それも負の思念の凝集体なのだ。
「……一つ教えてやろうか」
 黒き者はゆっくりと背に生える翼を動かしながら、優越感に浸った声をトルソに掛けた。
「感情を制御して勝てると思っているのだろう? 私にはお前の心が見える。分かるのだよ」
 トルソはその声に耳を貸さないようにしていた。
 だが、その者は続けた。
「どんなに己の感情を誤魔化そうとも、潜在意識までは制御は出来んぞ? そこで敵意を感じている限り、私や仲間達には勝てん」
 トルソは黙って、剣を構えその者の正面に対峙した。
「何故そんなことを言うのだろうとでも思うか? 別に教えたところで、お前達人間に何かが出来るとも思えんからなあ。余裕の成せる業とでも言っておこうか?」
 そう言うと、その者はくすくすと笑った。
 その笑いが止まらぬうちに、黒き者はトルソの猛攻を受けることとなった。太刀筋は変わらぬ流麗さで以って縦横無尽にその者を襲った。
 トルソの心の中は啓吾を救い出すということで占められていた。誰かを守る、救う、その一心が今のトルソを動かしていた。そのためには、如何に克服出来る可能性が少なかろう物事であっても、決して諦めない。克服出来るのだと信じ、挑む。今出来ることをする。それ以外で心を乱しているわけにはいかないのだ。
 再びトルソが相手を押し始めていた。蛇の如き尾は切り落とされ、次いで槍状となり、弧を描いてトルソに突進を掛けた翼も破壊された。
「今ここで貴様にやられるわけにはいかないと言った筈!」
 トルソの力強く、そして寸分の隙もない斬撃は止まることなく、黒き者を押し下げていった。
「無駄だあ!」
 大声で叫ぶと、その者は全身を人型から靄へと変え、飛散させた。黒色の靄は月明かりと街頭の光を受けつつ、トルソの頭上に広がると、四方からトルソの全身を包み込まんとして急速に集束した。
「無駄!」
 トルソも同様に一言上げると、自身の周囲を包むようにして迫る靄の「壁」を剣で切り裂いた。靄は再び四散し、宙へと上がると滞留し、トルソの頭上でぐるぐると回り始めた。
 これではきりがない。
 トルソも、そして黒き者もそう思い始めていた。
「面倒だ。とにかく、お前にはあの子供に接触はさせぬ」
 回り流れる靄からそう声が聞こえると、再び集束し始めた。トルソは剣を再度構え、靄を睨み付けた。
 だが、今度はトルソの頭上で小さな球体に姿を変貌させたその者は、トルソ本人に対しての攻撃でなく、頭上の空間に変化をもたらせた。
 トルソの周囲の空間が歪み始めた。全身が締め上げられるような、嫌な感覚が襲い始める。
「これは……!」
 そうだ。あの時の感覚と同じだ。
「雑兵よ。飛び去るがいい!」
 怒号に似た声が響くと、トルソの目の前が一瞬で真っ暗になった。足下がふわりと浮き、安定さをなくすと突如、全身が物凄い速度で流されていく感覚を感じた。
 トルソは猛烈な眩暈に襲われた。

 その間は長く続かなかった。トルソは固い地盤に全身を打ち付けられた。
 右手に握り締めた剣の柄の感触は先程と変わっていなかったが、目の前にそびえ立つ建築物に見覚えがない。ベージュ色と黒褐色の二色とで明確に色分けされ、装飾があちらこちらに施されている。周囲には先程とはうって変わり、夥しいほどの人が右往左往している。
「まさか……!」
 トルソはその建物の壁に取り付けられた「文字盤」に目を向けた。何と書かれているのか分からない。だが少なくとも、これが自分達の使う言語で書かれたものではないことは理解出来た。

『東京都選定歴史的建造物 伊勢丹
 明治19年(1886)、伊勢屋丹治呉服店として神田に創業した伊勢丹は、昭和8年(1933)、郊外と都心を結ぶ…………』

 


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