心の中にふと芽生える温かな感覚。心地良く、全身をえもいわれぬ優しさに包み込んでくれる。それはある晴れた冬の日に降り注ぐ陽のように、激しさこそないが身を刺すような凍える風の力を和らげてくれる、穏やかだが力強さを兼ね備えた光。そんな光が周り一面を明るく照らしている。 温かい柔肌のような優しい風が頬を撫でるように流れ、その遥か上には何処かの南国のエメラルドグリーンの海のような、あるいは春に息吹く木々の新芽のような若緑色の空が白き雲を携え、果てしなく広がっている。 足元には柔らかく、まるで笹のように長い葉をした草が一面に広がり、見渡す限りの大草原を形作っている。それらの草々は微風にゆっくりと揺れ、草原に大きな細波を作っている。その波が一つ、そしてまた一つ、大きくゆっくりと視界の端から端へと流れていく。 目を閉じると、その一面の草むらへ我が身を横たえたくなる、無粋なことなど何も考えず、それこそ頭の中を真っ白にして、柔らかな風を肌で感じたくなる、温かな日差しを全身に浴び、四肢を力いっぱい伸ばして大きく深呼吸をしたくなる場所。
その中に明らかに異物と思われるような黒い一点が、草の波を断ち切ろうとしているかのように蠢いている。小さい一点。実に小さい、草原の広さから比べればあまりにも小さい、それでいて異様なまでの黒さで目立つその点は小走りで駆けている。ある一箇所を目指しているかのようだ。 子供のように背の低いその者は、自身の顔を決して外に見せぬようにとしているのか、大きく真っ黒なフードを頭にすっぽりと被っている。同様に、マントとも思える闇のように黒々しい大きな布を全身に巻きつけている。布は足元にまで及び、その小走り加減でよく布を踏みつけずに器用に走られるものだと感心せざるを得ないかの如き速さで、その者は草原を駆け抜けている。 耳を澄ませば息を切らしているかのような声が漏れている。しかしそれは息を吐いていると言うよりも、小さくも甲高く耳障りな、ひしゃげた奇声とも言うべき声。笑い声なのだろうか。それに伴い、まさに腹を空かせた家畜が、水気を多量に含んだ穀物の入った餌箱に鼻を突っ込んで餌を貪る時の鼻息のような、実に不快な吐息も混じってくる。思わず眉間に皺を寄せてしまいたくなるような声を上げるその者は、ただただ黙々と草原を突き進んでいる。 いや、ただの奇声だけではない。まさに独り言ではあるのだが、何かしら呟いている。
「仰せのままに……」 「仰せのままに……」
そのせむし男……いや、そもそも男なのか女なのか確かではないが、その者は誰に話し掛けるわけでもない呟きを繰り返しながら、小走りで動き続けている。 そして黒き一点は草原の中からその姿を消した。
やがて、風にたなびく草むらがその動きを止めた。風が止まったわけではない。柔らかな草がその柔軟さを失ったのだ。 次第にその一帯の草が黒く変色を始める……
※ ※ ※ ※ ※
その若緑色の空に浮かぶ白き雲の下を、三羽の大きな「鳥」が浮いていた。上昇気流に上手く乗り、翼を大きく広げて風を受けている。その両翼を広げた大きさはゆうに十メートルはあろうか。柔らかく真っ白な羽毛に覆われたその翼は、大男の太腿ほどもあるかと思われるどっしりとした骨で支えられていて、その「鳥」は時折ゆっくりと二、三度羽ばたいた。体長はざっと見積もっても三メートルはある。頭部はアメリカ合衆国の国鳥であるハクトウワシにかなり似ている。鋭い眼光を光らせた黄色い眼球に黒色の瞳。まさに猛禽の目。先端の少し黒味がかった力強い嘴。その頭からは二本の長い「触角」のようなものが伸びており、それらは細かい産毛のような真っ白な体毛で覆われている。先端は少し平たく広がり、中央に毛で覆われて隠されている「穴」がある。「鳥」は、その耳のようにも見えなくはない触角を、向かい風に任せて流れるがままにしていた。同様に純白の羽毛で覆われている体も巨大で、人一人が跨って乗ることの出来る大きさは十分に兼ね備えている。尾羽の部分からも触角に似た「尾」が二本伸びている。尾羽の本来の目的であるスタビライザー的機能はあまり果たされていない様子で、触角と同様に何らかの感覚器官のように映る。
「鳥」の背中には「人」が乗っていた。濃茶色の厚い皮革で作られた鞍に跨るその者は、体幹と四肢に黄金色の甲冑を身に着けている。甲冑には数学の相似記号を思わせる蔓草模様の装飾が施されている。儀礼用とも思われるような意匠の凝りぶりも見られないことはないが、その者の体の動きからして無駄な重量があるようには見えない。背中には黒地に、甲冑と同じような黄金色の装飾の施された鞘らしいものが見える。鞘の根元には柄が見えるので、それは刀剣の類いであろう。他の二羽に跨る者も同様の格好をしている。その二人の持つものは刀剣というよりもバヨネット(銃剣)のように見える。三人はそれぞれ、見た目は古代ギリシャ風だが鳥冠が取り外されたような風貌の冠をつけている。バヨネットを持つ二人に先行していた者が大きく左腕を真横に伸ばし、八時の方向へと上げ下ろしを何度か繰り返すと、三人を乗せる「鳥」は急降下を始めた。 首の辺りから兜の中に冷たい空気が流れ込み、内側で甲高い笛の音色のような音が反響している。兜の内部では鼻と口に厚手の布をあてがっているので、呼吸そのものに苦しいと感じることはない。金属兜の中に薄手のバイザーが仕込まれており、それを下ろしていることで気流から眼球を保護している。 彼らは草原を遥か遠くにした泥地へと降り立った。辺りには腐敗臭が充満している。 「何だこりゃ? 酷いな。こんな薄汚い土地に降りるのか」 バヨネットを肩に掛け直した一人が、足元のヘドロのような悪臭を放つ土壌をしかめた表情で見て、抑え気味の声を漏らした。 「宮殿に帰ったらグリフィス達の足を洗うのに難儀すると思うぜ。俺達の装備もな。匂いが付いて離れないぞ、ひゃあ」 もう一人の男が泥の中に黄金色の具足を突っ込んで短い悲鳴を上げた。 空間近衛騎士団三人を乗せて来たグリフィスと呼ばれる三羽の怪鳥は、泥の中にのめり込む脚を物憂げに見つめながら、その大きな羽をゆっくりとたたんだ。 三人の先頭を切って降り立った男は、不安定な泥状の足元に些か辟易した表情をしながらも、ゆっくりとしゃがみ込み、その泥を手に少量取った。光沢を放つガントレットが臭気を放つ黒色に汚れる。 騒ぐな」 先程の二人より落ち着きを払ったその男は、手にある泥を指でのばし、中にあった溶けた草の葉を見つめ、顔を上げると周囲を見渡した。草原の緑色が遥か遠くに見える。それ以外は全て黒色の泥しかない。 彼は記憶をたどる。いや、そんな必要は皆無だ。ここにこのような泥の一帯は存在していなかったのは明白だった。この一帯もつい前までは、笹のような細く、それでいて柔らかい葉の茂った場所だった。それが僅かな間のうちにこの様だ。 「『ここ』でこんなことはあり得ない筈なのに……」 男は呟いた。すると最初に着地して軽く悪態をついた仲間が、そりゃそうでしょうと返した。あり得ないのだ。仮に何らかの化学物質をぶち撒けたとしても、見渡す限りの大草原を僅かな時間でヘドロ並みに腐らせ溶かすなんて非現実的だ。どんな物質をどれだけの量で使用すればこんなことになるのか? そもそも何者かがやったとして、何のために? 何のメリットがあるのか見当もつかない。周囲に何らかの産業施設があるわけでもない。住宅地もない。愉快犯? それとも何らかの自然現象なのか。だとすると、それこそ現実的ではない。
だがこの男が意味するところはまた異なっている。「この世界」でこんな劇的な「負」の現象が起こる筈はないのだ。考えられる理由がないわけではない。ただ、それはなるべく、いや決して考慮に入れたくない事象なのだ。事実だとすれば、それは破壊的なまでの由々しき緊急事態となる。 グリフィスを操る彼等空間近衛騎士団は、一般的には王国の女王及び宮殿を守備する役目を仰せ付かっている。だが他の目的も持っていた。ある特定の、そして恐らくは唯一の「敵」に対しての哨戒任務だ。そのことは騎士団でも自分を含む一部の者しか知らない。
遠くから低く汽笛が聞こえてきた。遥か上空を三連結の輸送船が飛空しているのが目に映った。ここは輸送船や、時には貨客船の航路にもなっている。 グリフィスの一羽が甲高い鳴き声を上げ、大きく身震いをした。水に濡れた犬が全身の水気を飛ばそうと猛烈に全身を振るわせる、まさにあの動作にそっくりだ。羽の一本一本にまとわりついた臭気を払い落としたかったのだろう。 「ねえ、副隊長殿、そろそろ行きませんか?」 肩に掛けていたバヨネットを下ろして構え、前方の泥の盛り上がりに照準を定めて見つめながら、もうここに居続けるのは冗談じゃないと言わんばかりの嫌悪感を出しつつ、団員の一人が言った。 副隊長と呼ばれた男は無言でグリフィスの鞍に跨った。手には直方体の形をした細長いガラス製の入れ物を何本か持っている。泥を採取したものだ。鞍の横にある小さい革のポケットにそれを入れた。 「上空から見てみよう」 その汚泥から脚を上げ、グリフィス達は大羽を左右にゆっくり広げた。背中に乗せた騎士の短く勢いのある掛け声と共に、手綱を振るわれた三羽は、汚泥の中を助走をつけて舞い上がった。泥が細かい滴になって飛び散る様に、副隊長以外の二人は一様に顔をしかめた。 三羽はしばらくはそこの空域をぐるりと回ったが、他には何も見付からない。 取り敢えずは「連中」の気配は感じられない。
「山脈まで続いているのか?」 黒き汚泥の一帯は一気に床に広げた反物のように遥か北のほうへと続いている。その先には通称「白簾霊峰」と呼ばれる高山の峰がある。山は麓から頂上にかけて、白い霧で覆われている。そこは空間近衛騎士団を含む、限られた者しか立ち入ることの出来ない地域だ。 「行ってみます?」 「可能な地点まではな」 兜の内部には眼球を守るバイザーの他に、気流の音が激しい上空でも互いに対話が出来るように、小さな通信機が仕込まれている。三名はそれを通じて互いに意思の確認をすると、副隊長を先頭にして三角形のフォーメーションを保ちながら、霊峰の見える方向へ飛び立った。
一面の緑の絨毯からいきなり、灰白色の岩が連なる頂が空を仰ぐように伸びている。麓に高原と思われる土地が見える。所々に鉱山施設がある。そこで「この世界」の機器の動力源となる特殊な鉱石を産出しているのだ。高原を越すと、もはや緩やかな斜面は見当たらず、まるで移動してきた大陸が別の大陸に衝突し、年月をかけてせり上がってきたインド・ネパール間の山脈のような様相を呈している。コーヒーに流し込んだクリームを彷彿とさせる濃厚な白い霧が、山脈の麓から立ち上り始め、中盤から頂上にかけては、何者の侵入をも許さないかのように重々しく、壁の如くたちこめている。 その辺りまで来ると気温は急激に下がり、騎士団員やグリフィス達の吐く息が真っ白になり、間もなく細かく輝く宝石のような氷の結晶となり消えていった。それ以上の進行は危険である。自分達を乗せる相棒達の力が尽きてしまう前に撤退しよう、副隊長はそう考えた。 汚泥の帯はこの山脈の麓までずっと続いていた。山には草はおろか、植物の類いは生息していないために麓で途切れているのだ。 但し、別の変化が見て取れた。岩が延々と連なっている筈の場所が砂に変わってしまっている。頂上から吹き降ろす風に乗り、灰白色の荒い砂が舞っている。
「何だ、今のは」 一人が声を上げた。白い霧の中に明らかに異質なものが前から自分の背後へと飛んで行ったのだ。黒い流れ星のように彼には見えた。しかし流れ星などがこんな山の中腹で「前から後ろへ」飛んで行くわけがない。すると同じような黒いものが再び三人の前に飛び込んで来た。グリフィスは嘶くと、その塊のような「霧の弾丸」を体をよじって避けた。その急な動きに、乗っていた騎士団員は慌てて手綱を握り締めた。 後ろに飛び去って行った黒き霧の塊はゆっくりと方向を変え、再び彼等のほうへと飛んで来た。そのガス体の中には明らかに「顔」があった。表情のない死人のような顔。その顔の持つ眼球のない両目と騎士団員の一人との目が合った。 「おい、何なんだあれは?」 「全員、用心しろ!」 副隊長はそう吼えると、自身の剣を鞘から取り出して右手に握り、異物が何時自分のほうへ寄って来ても対峙可能な体勢で構えた。残りの二人はバヨネットを構える。 続いて何本もの黒い霧状のものが一挙に彼等へと飛び掛かった。副隊長は剣を振るい、二人は銃を撃った。だが所詮は霧である。剣は黒い帯を一瞬切ったが、帯は再び一本になり、中に潜む「顔」がその口を大きく開けて襲い掛かって来た。それは副隊長の乗るグリフィスの脇腹に食らい付くと、羽毛と肉を抉り取った。グリフィスが空を切り裂くような悲鳴を上げる。放たれる弾丸も霧を突き抜けて宙の中へと消えた。「顔」の口が大きく上下に裂け、バヨネットを持つ一人の兜へと突っ込んで行った。その者は何一つ声を上げることなく、首から上を瞬時に失い、残った身体はゆっくりと左へと傾くと、そのまま地上へと落ちて行った。 「何だ、おい、ありゃ何なんだ? き、来た、来たぁっ……! トルソ副隊長っ!」 黒色の霧の塊が数本まとまって一本になると、もう一人をグリフィスもろごと包み込んだ。その瞬間、一人と一羽はその場から完全に消滅した。霧から外れていた羽の先端と羽毛に包まれた長く伸びる触角状の器官、そして両脚が先程の首を失った者と同様に地上へばらばらと落ちて行く。羽毛が何本かその辺りを舞っていた。 「何と!」 トルソと名を呼ばれた副隊長は剣を持ったまま、片手で手綱を力強く振るった。 「行くぞ!」 傷付いたグリフィスは一声甲高く鳴くと、体勢を整えてその場を離れ始めた。大きく旋回した黒色の霧の「彗星」はトルソを追い始めた。 「急げ! 喰われるぞ!」 トルソは大声でグリフィスにそう話し掛けながら、腰と頭を低くして、鳥の背中に屈み込むような体勢を取った。そうすれば多少は空気抵抗が少なくなり、速度も増しやすくなるからだ。 黒い霧状の物質はまもなく動きを止め、飛び去る怪鳥を追う事を止めた。そして空中へと四散した。
その山の頂に、草原を駆け抜け、そして自分が走った後の草原をヘドロのように腐敗させた、あの黒マント姿の者が立っていた。トルソの乗るグリフィスの姿が見えなくなると、ゆっくりと踵を返し、山の頂へと小走りを始めた。 そこに石造りの「門」がある。その者はそこをくぐると、山からその姿を消した。 辺りが真っ暗になる。そのまま先へと進んでいくと、前方に光が見え始めた。その光に飛び込むと……
アスファルトの道路が延び、両脇を高層マンションや雑居ビルが立ち並ぶ一角が現れた。
朝日が昇り始めたばかりだった。 その者は陽の光を全身に受けながら、ゆっくりとその姿を変化させた。低い背を伸ばし、黒いマントは白く変色し始めると、ブラウスを纏う一人の「女性」へと変化する。
「彼女」はゆっくりと街中へと消えていった。
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