「……目を開けろ。おい、メイス」 澤渡の呼び掛けでメイスはゆっくりと両の瞼を上げた。生暖かい空気が顔を包み込んでいる。 「あ……っ!」 頭が痛む。ゆっくりとメイスは記憶を辿った。そう、後頭部を殴られて失神したのだ。手を恐る恐る痛む部分へと持っていく。刈り込んだ短い髪が血で固まっていた。 「あまり動かないほうがいい。脳震盪(のうしんとう)を起こしているから」 須藤が声を掛けてきた。澤渡の隣で顔を覗かせている。その表情は心配げな様子だけではない、沈んだものであった。 「ユタ、ここは?」 メイスはか細い声で訊いた。澤渡は両目を閉じ、壁に体を寄り掛からせて答えた。 「政府軍の強襲艇の中だ」 「え?」 「俺たちは捕まったんだよ。村の皆一斉に連行されているところさ」 メイスは目を見開いた。そして慌てて周囲を見回した。 暗い機内に、所々天蓋に取り付けられている明かりが小さく光を落とす中、隙間もないほどに大勢の人間がひしめいている。すすり泣く声や溜め息、悪態を呟く声があちこちから聞こえてくる。だが誰も大声を上げている者はいない。 「何処へ向かっているの?」 メイスは声を抑えながら澤渡に訊いた。澤渡は鼻から呼気を漏らす音を立てて、呟くように答えた。 「恐らくはジュデッカだろう」 「ジュデッカ!」 「ああ。俺達は反政府分子。連中からすりゃ、ゲリラかテロリストってところだ。他の転生者とは扱いが別格になるだろう」 メイスはゆっくりと顔を下へ伏せた。 澤渡は目を閉じ、体の力を抜いた。 「ジュデッカって……何だ?」 須藤は訊いていいものか悪いものか迷いながらも、澤渡に小声で問い掛けた。 澤渡はちらりと顔を須藤のほうへ向けた。 「アウシュビッツだよ」 「え?」 澤渡はそれ以上何も言わなかった。 アウシュビッツ。第二次大戦中、膨大な数のユダヤ人が詰め込まれ、無謀な強制労働に従事させられた挙句に処刑されていった、ナチス政権下のドイツの占領下にあったポーランドに建設された、悪名高き収容所である。そんなものがこの来世にもあるのか? 須藤は心の中の動揺を抑え切れずにいた。 第四特区ジュデッカ。ジュデッカという名前は、十三世紀から十四世紀にかけて存在したイタリアの詩人であり政治家、ダンテ・アギリエーリの書いた「神曲」に登場する。地獄編、煉獄編、天国編の三編から成り、ジュデッカは地獄の最下層、「裏切り者の地獄」と呼ばれる「コキュートス」と言う氷の地獄に存在する。そこは四つの同心円に仕切られていて、最も重い罪、裏切りを行った者が永遠に氷漬けとなっている場所。裏切り者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに永劫に震え上がっているのだ。その四つの同心円の四番目がジュデッカ。イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダをその名の起源としている。 そのような禍々しい名前の付いた強制収容施設。これから皆そこへ連れて行かれる。 須藤は恐怖や不安よりも、怒りに近いものを感じていた。冗談ではない。まだやるべきことがある。最愛の息子を取り返す。そして、共にいたい仲間の待つ場所へ帰る。こんな所で終わるわけにはいかない。それは須藤だけの話ではない。ここにいる皆がその筈だ。共に過ごしたい家族、友人、仲間。共にこれからも歩んで行きたい筈。 彼等が行ってきたことは詳しくは分からないが、諸手を上げて賛意を示すことが出来るものではないようだ。だが、それは為政者の理不尽な行為から仲間を守ろうとするための行為であり、それは公正で正当なる法で裁かれるべきだ。彼等は墜落した飛空挺から大公妃なる女性を救い出した。それを「彼等が手を掛けた」と言い掛かりを付けられて、為政者による暴力で以って連行されている。これはあってはならないことだ。 たとえ、彼等の行為が現行の法に背いているものだとしても。 「一樹、お前には災難だったな」 澤渡がぽつりと言った。 「特区に連れて行かれた連中は二度とそこから出られない。一生を限定されたエリアの中で過ごすことを強要される。しかもジュデッカになると、生き続けることさえ難しい。だが……」 須藤のほうに向き直った澤渡は力強く言った。 「お前のことは、何としてでも逃がしてやる。こんな所で俺達の巻きぞいを食らうことはない。息子さんを捜すんだろ?」 澤渡の両眼に力がみなぎっていた。 「お前は生きるんだ」 須藤は澤渡の顔をじっと見据えた。 「……おい」 須藤の呟く声を耳にして、澤渡の表情が些か曇った。 「お前、サブリーダーだって言ったよな? リーダーはあのクミコさんだったか? だったら、お前があの人やここにいる大勢の人達を守らなくてどうする?」 「何だって?」 澤渡は須藤のほうに顔を向けた。 須藤は澤渡の目を見て言った。 「どうして早々に諦めたようなことを言う?」 須藤の言葉を聞いて、澤渡は更に顔をしかめた。 須藤は続けた。 「お前、何時かこうなることが分かっていたんじゃないか?」 「何……」 「自分はお前がやっていることについては、正直よく分からない。だがお前、自分達のやってることは、政府からすればゲリラかテロリストだって今言ってたよな。と言うことは、たとえ如何なる理由であろうと処罰されるってことは分かってた筈だ。全く考えていなかったとでも言う気か?」 「一樹……」 「やり口はどうであれ、あれがここの警察みたいなものなんだろ? それに向かってお前は銃を構え、発砲していた。となれば、こうやって仕打ちを受けるのも考えられただろう?」 「……お前に何が分かる?」 澤渡は声を上げた。 「俺達中途転生者がどんな目に遭わされているのか、お前何も知らないだろ? 転生者であるだけで追い回され、叩かれ、軽蔑され、しまいにゃ捕まって特区なんて場所に無理矢理放り込まれるんだぞ! そんなこと黙って見てられるか! クミコはこれが贖罪だと言ってたが、それでも俺達はここで新しく人生を始めることになったんだ! 俺達は俺達の納得いくような人生を生きる資格がある! それを守るために仲間を連中から救っているんだ! ここに来たばかりのお前にどうこう言われる筋合いはない!」 須藤は澤渡の剣幕にひるみはしなかった。 「それだけの覚悟があるんだったら、最後まで貫いてみろ。自分を逃がすなんてことより、ここにいる皆のことを考えろ。俺だって諦めちゃわけじゃない。自分の身一つぐらい、俺でどうにでもするさ」 「ユタはちゃんと分かってるわ。黙って引き下がる男じゃないもの」 メイスが言った。 「でもカズキ、あんた何も分かっちゃいないよ。ジュデッカがどんな場所か知らないでしょ? 過去に何人もの仲間がそこへ侵入したわ。囚われている仲間を助けたくて。でも一人も帰ってこなかった。皆、連中の手に掛けられたのよ。処刑された。そしてそのことを公に発表された。酷い時なんて公開処刑よ。見物人の前で……」 メイスの声が震え始めた。 「それだけじゃない。連中は捕らえた者の家族も割り出して、軍隊を引き連れて捕らえに来た。庇った者はその場で殺されるか、一緒にジュデッカへ連れて行かれるかのどちらかだった。私の友達も……それで死んでしまった……私のいた村は、村の中に私がいたってことだけで、私を庇っていたって理由を付けられて、村全体が焼かれ、大勢の人が亡くなったわ。私はすんでのところでユタに救われた」 メイスの頬を涙が伝った。 「そんなこんなしているうちに、人は皆口を閉じ始めた。自分が中途転生者だってことがばれないように息を潜めた。出来るだけ人に会わないようにして、連中の摘発に引っ掛からないように隠れて生きるようになった。この世界で赤ん坊として生まれた真性者達の中で、息を潜めて窮屈な人生を始め出した。ユタやクミコ達は、そんな私達を助けようとして動いてるの。でも……」 「メイス、もういい」 澤渡の制止をメイスはきかなかった。 「ジュデッカに連れて行かれるのは『もう終わり』って意味なのよ。そりゃ、絶対生きて出てきてやる、抜け出してやる、生きていれば何とかなる、そう思わないことはないわ。でもやっぱり怖いのよ……」 転生したてのメイスを保護したのは、とある熟年夫婦だったそうだ。だが、そのメイスの目の前で夫婦は無残な最期を遂げた。友人知人、近所の親しい人達、その他大勢の者が集落もろごと灰燼に帰せられたと言う。 メイスは震えていた。 「一樹。お前に『ジュデッカはアウシュビッツだ』って言ったよな。確かにアウシュビッツに収容された人の中にも生存者はいた。それは戦争で、外国の軍勢が政府を打ち倒したからだ。ナチスの連中を連合軍が屈服させたからだ。奇跡を信じていた、希望を失わなかったっていう言い回しもあるが、直接の原因はそう言うことだ。だが、この世界には戦争は存在しない。いや、これまで存在してこなかった。他人と争う概念を持っていないんだ。今回の政府の連中が国境に軍隊を終結させているなんてこと、史上初めてのことだっていう。ある意味、平和ボケしていたんだろうな。他国からの武力干渉なんてものも歴史上存在していない。そんな干渉をするような事態そのものが発生してこなかったんだ。アムリスの突然の政策転換についても、『遺憾だ』って意見がちらほら出た程度で、何処も実際に俺達への助け舟を出してはくれない。そう、外部からの援助は全くないんだ。そんな状況の中で、俺達だけがアムリスの政策に反旗を翻していた。その俺達がこうしてとっ捕まったんだ。俺達を誰が助けてくれるって言うんだ? この世界で生まれた者には争うって感覚も概念もない。そんな彼等が俺達を助けに動こうとするのか、そんなこと俺には信じられない。ただでさえ、中途転生者はトラブルの元だって敬遠されているって言うのに……」 須藤は声を荒げて言った。 「だがこのまま引き下がっているわけにもいかないだろう? 他人への恨み言なんて聞きたくもない。環境がどうとか言う前に、皆で何とか考えるんだよ!」 須藤は澤渡の言葉に、まるで他力本願な気持ちが見え隠れしているように感じられてならなかった。 「分かっている!」 澤渡は苛付いた声で答えた。 「一樹……分かってるさ。とにかくは向こうに着いてからだ」 須藤は息を吸い込むと、ふうと口から吐いて、壁に寄りかかった。 「なあ」 修は飛空挺の無機質な金属の天井を見詰めながら、呟くように言った。 「争いの概念を持たない人間が、自分を駅であんなに乱暴に取り扱うか? 軍隊を国境に集めるのか? こうやって暴力で以って押さえ付けて連行するか? ジュデッカ強制収容所? それって妙じゃないか? 何でそんなものを争いを知らない人間がやらかすんだ? 何でそんな施設を建てる?」 須藤は訊いた。 「争いの概念を持たない者が軍隊を組織するのか? 軍なんてものが何故存在する?」 実に矛盾した話だ。 「軍って言っても、元が儀式典礼用の集まりだったのさ。それがあの政策の施行と同時に、急に実戦向きな装備を持ち始めたんだ」 須藤の傍にいた一人の男が口を開いた。 「それに……元々、あのアムリスもこんなことを考え付くような人物じゃなかった。国のリーダーにするにゃ、ちょいと頼りないところがあったが、それでもこの世界で生まれ育ったやつだ。俺達みたいな中途転生者じゃない。国の主導者として、穏和な政策をずっとやってきていた。俺達のことだって、特に分け隔てするようなことをしてはいなかった。それが何故、ああも急に変わっちまったのか」 別の女性がぽつりと言った。 「何だか……可笑しいのよね。ここで死んでも、きっとまた生まれ変わる。現にこうして私達はこの世界で、死んだ時の年齢のまま転生したんだもの。このまんまなのか、また赤ん坊からなのか、何にせよまた……でもやっぱり、死ぬのは嫌なのよね。怖いし不安だわ」 老いた白髪の男が、何もかも諦めたような口調で返した。 「怖がるこたぁないさ。また生まれ変わるんだ」 離れたところで更に別の声が上がった。 「そうさ。どうせまた何処かで新しい人生が始まるんだから。すぐに楽になれるだろうよ」 その言葉を聞いて、須藤は寒気を覚えた。
嫌なら人生を諦めればいい。またやり直せる。 やり直すということそのものは否定しない。たとえ失敗しても、一からやり直すということは奨励してもいいことだ。だが、ここでのその言葉の意味合いは、須藤が思うものとは全く違う。 人生に嫌気がさしたら、どうにもならないことに直面したら、命を捨ててしまえばいい。また生まれ変われるのだから。 そんなことを認めるわけにはいかない。 生き返ることが出来るのだという事実を知ってしまった人間は、いとも容易にそう考えるものなのだろうか。目の前の壁を何とかしてよじ登ってやろう、その先をこの目で見てやろうとは考えないのか、それとも迫る障害が生き死にに係わることだからなのか? そんな諦めを以って歩む人生に何の意味がある? ふと思い出した。 仏教で言う涅槃の境地。これは巡り巡る転生の呪縛から解き放たれ、無になろうと言うもの。死して無になり魂を解放しようと言うもの。ならば、ここにいる彼等はその転生を呪縛と捉えているのか? 人生に意味はなく、ただ楽して送り、嫌ならリセットしてしまえばいい、どうせ終わりはないのだから、そう考えているとでも言うのだろうか? 逃げ癖の付いた人間は何時までも逃げたがる。今を生きなくて生まれ変わりを望む。また逃げる癖が付く。その輪廻を仕方がないからという理由で享受するとでも? 永遠の命。永劫に続く命の輪廻。先の見える未来。 須藤は初めて心の底から、これでもかと言うほどの嫌悪感を感じた。 『分かったか?』 ふと声が聞こえた。須藤は周りを見回した。 『永遠に続く命、永遠に続く心の輪廻。それが如何に窮屈で、不自然で、存在に値しない愚劣なものだと言うことが理解出来たか?』 須藤に語り掛ける者は見たところ一人もいない。 「誰だ?」 須藤は声を出した。 『我はここにいる』 声は答えた。冷たく、地の底から這い上がってくるような、ぞっとさせられる声。 「ここ? 何処だ?」 「一樹、どうした?」 澤渡が怪訝な表情をした。 『ここだ。お前の心の内に我はいる』 須藤ははっとした。この声は……自分の心? 『我は全ての者の心の中にいる』 『そして、その者を真の解放へ導かんとしている』 『認めよ。我の存在を認めよ』 『そして享受せよ』 『真の解放を。真の救済を』 声が幾重にもなって、須藤の耳に響いてきた。 「これは……何だ? 潜在意識の声?」 須藤は両手で耳を押さえて呟いた。 『否』 声がその質問に否定の答を返した。 『無こそ本来万物が帰るべき場所』 『虚無こそが全ての救済の根源』 『人よ。心と共にその存在を滅され、無へと戻るべし』 『人よ。呪われし不自然の代名詞』 『人よ。宇宙が生み出した、本来あってはならぬ存在』 『人よ。邪なる存在よ』 違う。この声は自分の潜在意識などでも、心の声などでもない。 「お前は誰だ!」 割れんばかりに響く内なる声に、須藤は叫んだ。機内に声が反響し、周囲の者達が須藤に視線を注いだ。 突如、須藤の目の前が真っ暗になった。 その先に一人の人物が立っている。フードをすっぽりと被り、顔に当たる部分は真っ暗で何も見えない。手には大剣を握り締めている。その者の周囲は夜の闇のように漆黒に包まれ、先程までいた大勢のアタワ村の住人の姿はない。 その者は背中に折りたたんでいた「翼」を広げた。 天使のように真っ白な神々しい翼。しかし、その翼の主は何とも禍々しい雰囲気を醸し出している。
『我は神の聖なる使いであり、忠実なる僕(しもべ)』 『我はセンチュリオン也』 その者は答えた。
須藤は気を失った。
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