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作品名:リフレクト・ワールド(The Reflected World) 作者:芽薗 宏

第29回   第二十七章 信用と信頼
 雨上がりの空は今や厚い雲が流れ去り、若緑色の空が広がっている。陽の光は暖かく、風は穏やかだった。その空の下に広がる市場は大勢の人で賑わっていた。簡素な造りの店舗がひしめくように建ち並び、そこでは多くの食料品や生活雑貨が売られている。
 野菜やパン、肉類や魚、乳製品や香辛料などがいくつもの店舗で扱われている。八百屋の売り台の上には、フダンソウに似た緑鮮やかな野菜が大判の柔らかく瑞々しい葉を広げており、見た目ズッキーニや人参、アーティチョークのような茎野菜や根菜は濃緑やオレンジ、紫やクリーム色といった様々な色を呈している。目の前では初老の女性がセロリやルバーブに似た長い野菜を手に取り、その隣では母親らしい女性がまん丸いアボカドという感じの果物を子供に見せている。
 肉を扱う店舗では、威勢のいい掛け声を上げながら、店主の男が大人の太腿の倍ほどもありそうな大きなベーコンを持ち上げて客に見せ、「こいつは美味いよ!」と大声で言って笑っている。その隣では大刃の肉切り包丁を振り上げて、骨付き肉を叩き切ったり、塊肉を拳二つ分ほどの大きさになるように切り分けている女がいる。角切りにされた野菜と一緒に、ドーナツ状に丸くなったソーセージの類いが切り分けられていて調理台の上にあり、その傍で大鍋で煮込まれたシチューのようなものが鼻をくすぐらせる美味そうな香りを漂わせており、食欲を否応がなしに引っ張り出される力を感じずにはおられない。
 パン屋では、香ばしい半球型のパンが湯気を立てて台の上に置かれている。それらは横に立てた状態で、短い脚付きのパン用ラックに並べて置かれている。焼きたてのパンが放つ水分でパンの表面が湿ることのないように、パンとパンとの間は幾分か離されている。傍では既に冷めてはいるが、それでもいい色具合に焼けた丸型のパンやバゲット状のパンが所狭しと並べられている。店主らしい女性がその中でも一際小振りのバゲットパンにナイフで切れ込みを入れている。皿に山積みになった葉野菜や加熱された薄切りの肉、調味料が入っているらしい縦長の細い容器が見える。女はカスクード(小振りのバゲットで作るフランス風のサンドイッチ)のようなものを作っている。出来上がったものは茶色の紙に包まれて置かれていた。アイーダはそのサンドイッチを一本購入し、半分にカットしてもらった。そしてその一方を啓吾に手渡した。
「ここのブグラルは美味しいのよ」
 このサンドイッチはブグラルという名前らしい。売り場の台の上に「BUGLAR」と書かれた表示が見える。ラテン文字の読み方を学び出したばかりの啓吾にはまだ発音の仕方が曖昧ではあったが、それでもブグラルという名前は覚えた。しかもそのブグラルが実に美味い。外側がかりっと香ばしく焼き上がり、中がふんわりと仕上がったパンはまだほんのりと温かく、肉の旨味と野菜の歯触りとの相性も良く、そこに掛けられたソースがいい香りを放っている。塩味に甘味、アクセントとしての酸味がいい塩梅で、素材とマッチングしていた。
「美味しい!」
「でしょ? よかった。今度私も特製のブグラルを作ってあげる」
 アイーダは右手でブグラルをかじりながら、左手で啓吾の手を握っていた。あの痺れるような刺激はもうアイーダには感じられなかった。
 パパにも食べさせてあげたい……そう思いながら啓吾はブグラルをかじり、アイーダの手をしっかりと握り返しながら、その傍を離れずに歩いた。
 また違うパン屋では、平たいピタやトルティーヤのようなパンを焼き、湯気を上げた黄色い粥上のものを乗せて、丸めては紙に包み売っている。その調理パンからはスパイスの効いた香りが漂ってくる。魚屋ではまるでアロワナのような大型の魚を店主の男が手早くカットしていた。鯰らしい容貌の魚が横に並び、その短い髭を付けた顔を覗かせている。海のないこの地域では、並ぶ魚は専ら川や湖で獲られた魚だった。傍の網で魚の切り身が焼かれていて、香ばしい香りを放つ煙が上がっている。はす向かいの店舗では、様々な色鮮やかな色の粉末が入った布製の大袋がいくつも見える。小さい葉をたわわに付けた乾いた枝の束が、店舗の梁の辺りからぶら下がっている。スパイスや乾燥ハーブを売っているのだ。薄い地の木製のカップには湯気を上げるお茶が並べられている。いい香りのものもあれば、漢方薬めいた香りのものもあり、それを嗅いだ啓吾は眉間に皺を寄せつつ妙な表情を浮かべ、アイーダはそれを見て声を上げて笑った。
 広場が見える。そこでは数多くの大道芸人がそれぞれの芸を見せ、市場に来た客達を大いに楽しませていた。小さく薄い石に足を乗せた状態で地面から三十センチほど浮き上がり、ふらつく体のバランスをとりながらターンをしつつ、十もの玉をジャグリングしている若い男性が見える。ウォラリス・テクタイトのことを知らない啓吾には、実に不思議なものを見る感覚でそれを眺めていた。
 十人ほどの若い女性達がダンスをして見せている。タップダンスとアイリッシュダンスを合わせたようなもので、小刻みに軽快なステップと靴音を見せ聞かせてくれている。曲はケルト民族風のものとシャンソンをミックスさせたような異国情緒溢れるもので、蓄音機のような台から流れていた。
 音楽に合わせ、二十匹ほどの生き物を自在に操る女性もいる。その動物は握りこぶしほどの大きさで、全身が白い毛で包まれた毛玉のような容貌で、短い脚に黒い鼻と丸い目を覗かせている、ハリネズミの針を柔らかい毛に変えたもの、顔付きはトイプードルであると表現出来るだろうか。その動物が一列になり、器用に八の字ダンスを見せ、そのダンスのままで列を一本から二本、二本から四本と変えながらジャンプをして見せたりしている。
 ダンスショーが終わり、啓吾はしゃがみ込んでその動物を見ていた。するとショーを見せていた女性はその白い毛玉のような動物を手に取り、啓吾の前に膝を曲げると「触ってみる?」と笑顔で話し掛けてきた。女性の手の中の動物は体を丸め、見た目まさに毛玉であった。啓吾は両手を差し出すと、女性はその動物を軽く転がすような感じで啓吾の掌に乗せた。動物は啓吾の掌の中で驚いたように体を震わせ「キャン」と声を上げると、その顔を啓吾に向けて見せた。
 啓吾の満面の笑顔を、アイーダは穏やかな表情のままじっと見詰めていた。最近になり、啓吾がやっと見せるようになってきた笑顔。私はこの子の笑顔のために何が出来るのだろうか。この笑顔を守るために何をすればいいのだろうか。

 陽が沈み夜がやって来た。
 暖炉には火がこうこうと焚かれている。今夜は風が微かに吹いているのだが、気温自体が低く底冷えする夜である。啓吾はテーブルに付き、アイーダの入れてくれたミルクティーを飲んでいた。熱いカップを両手で包み込むように持ち、唇をとがらせてふうふうとお茶の表面を吹いて、ちびちびと飲んでいた。
「熱かった? でも温まるでしょ?」
 アイーダは笑って言った。啓吾はアイーダの顔を見て黙って頷いた。それを見てアイーダはもう一度くすりと笑った。
 テーブルの上にはアイーダのアルバムが置いてある。そこにはアイーダの子供の頃、空間近衛騎士団入隊仕立てで、真新しい金色の鎧を纏い、意気揚々とした表情を浮かべている頃、晩年の両親、今は亡き夫、二人の息子と孫達、近年撮った姿、様々な写真が収められている。
「これはおばちゃんのパパとママ?」
 アイーダの両親が写っている。年老いた二人だが、それでも目は活き活きとしている。
「そう。私の親よ。もう死んじゃったけどね。父が抱いているのは孫。私の息子よ」
 アイーダはゆっくりと啓吾の隣に座った。
「父も母も私を誇りに思ってくれていた。そのことは私にとって、すごく力になった。私を信じてくれている人がいる、そう思えることって素晴らしいことなのよ」
「ふぅん……」
「ケイゴにはまだそんな話、難しいかな?」
 アイーダは啓吾の頭を優しく撫でた。
「パパ、僕のこと信じてくれてるかな?」
 啓吾はぽつりと呟いた。
「当たり前じゃない。ケイゴのパパなんでしょ?」
「おばちゃん……」
「何だい?」
「信じるってどういうこと? 嘘を言わなかったら信じてもらえるの?」
 アイーダは穏やかな笑顔を浮かべて啓吾を見つめた。
「そうねぇ……必要ない嘘ばっかり付いていたら信じて貰えなくなっちゃうかもね」
 アイーダはゴブレットに入れたホットワインを口にした。
「嘘っていうのはね、時々必要になる時もあるの。例えば、本当のことを言えばその人を傷付けちゃうって時、時々嘘を付いて、その人を安心させたり、幸せな気分にさせたりするってこともあるわね。でも、それは決して長続きしない。敢えて本当のことを言うって人もいる。どっちとも間違いじゃない。ただ、ほら、『信用する』って言葉があるでしょ? たとえどんな意味があったにせよ、嘘ばかり言っていたら信用はされなくなっちゃうわね」
「信用?」
「そう。『信じる』って二つあること知ってる?」
「ううん、知らない」
「それはね、『信用する』ってことと、『信頼する』ってこと」
「信頼?」
「そう。大事なのは寧ろそっちのほうかもね。信頼っていうのは……ううん、難しいわねぇ……」
 アイーダは苦笑いのようなものを浮かべた。
「その人を信頼するっていうのはね、その人の思い、その人が自分にまっすぐ向き合ってくれる態度、物事に対してその人がどう感じるか、その感じ方、その人の生き方そのものに心から共感するってことなのかな。その人のそんな様子を知って、心から共感出来て、その人からも共感してもらえて……あ、『共感する』っていうのは共に感じるっていうこと、その人の立場で物事を考えたり、感じたりすることが出来るって言えばいいかな?」
「……分かんない」
「例えばね、ある人に昔の辛い思い出を話して聞かされたとして、『それは酷い』って言って悲しい気持ちになったとするよね。でも、その人は実はもう何にも辛かったり悲しかったりしないとするでしょ? その人の想い出なのに、その人は何にも思っていないのに、話を聞いた人は勝手に悲しんだりしている。これって、その人の立場になって感じたり考えたりしているわけじゃないの。話を聞いた人が勝手に悲しんでいるわけ。それは、その人のことを思っているのじゃない、自分中心で物事を考えたり感じたりしているから、勝手に悲しんじゃっているの。同情ってものよね」
「…………」
「でも、共感するってことはそうじゃない。共感出来れば、その思い出話に辛い悲しい気持ちにならないで済むの。寧ろ、それを乗り越えて頑張っているその人に『がんばってるね、すごいね、私も頑張んなきゃ』って思えたりする。分かる?」
「何となく」
「それが『共感する』ってことよ。まだケイゴにはそんな経験がないかな? だとすれば、これからそんな経験をすることにおいおいなっていく筈よ」
「うん……」
「そんな共感してくれる人が自分の傍にいて、自分を見守ってくれて、いろいろ話して聞かせてくれたり、何かを一緒にやろうとする際に力を合わせたりする時って、その人のことを心強く思えたりする。その人の示す考えや気持ち、いろいろなことに心から『そうだね』って思える…。そしてその人も自分のことに共感してくれていたら、その人も自分がいることを心強く思ってくれる……それが相手を『信頼する』、お互いに『信頼し合う』ってことになるの。私はそう思う」
「…………」
「ケイゴのパパが傍にいてくれたら、ケイゴは心強い気持ちになる?」
「うん」
「パパと一緒に何かをやってる時に『大丈夫だ』って安心出来る?」
「うん」
「ケイゴが辛くて悲しい時、パパは力になってくれる? 力になろうってしてくれてる?」
「うん! パパは僕を助けてくれるよ。パパは……時々怒るけど、でもパパは僕の味方になってくれるんだ!」
「じゃあ、ケイゴはパパを『信頼している』ってことね」
「あ……そっか……」
「信頼っていうのは、相手と心の絆で結ばれているってことよ。ケイゴとケイゴのパパは、たとえどんなに離れた所にいても、心で強く繋がっている。それはお互いに信頼し合えているから」
「うん」
「たとえ、何かが原因で言い争いになったり、お互いに納得出来ないことがあったとしても、本当に相手を信頼出来ていれば、そんなことでお互いの関係が壊れたりなんてしない。大丈夫よ。ケイゴはパパを信頼してあげてればいいの。パパを信じていればいいの。疑ったりしちゃ何にも生まれないよ。何にも出来ないよ」
 啓吾の心に温かい何かがぽっと灯ったような感覚がした。あの時、父は自分が言ったことを「信じない」だの「嘘だ」だのなんて一言も言っていない。それどころか、見たものを信じなさいと言い、優しく微笑み掛けてくれた。父は今の自分が何をすべきなのか、何を大事にすべきなのか、いるかいないか分からない母の姿を追い求めるよりも、今傍にいてくれる友達や仲間を大事にしなさいと話してくれたのだ。自分は母のことばかりが頭にあって、父の言うことに全く耳を傾けていなかった。父に乱暴な言葉をぶつけてしまった。その時の父は悲しそうな顔をしていた……
 啓吾の目に涙が浮かび上がってきた。
「パパ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 アイーダはむせび泣く啓吾を優しく抱き寄せた。
「大丈夫よ。パパはきっと分かってくれている。だってケイゴのことを大事に思ってくれているパパなんだもの。大丈夫。パパはケイゴのことを怒ってもいないし、疑ってもいない。パパもケイゴを信じている。ケイゴを信頼している。だから、ほら、泣かないの」
 アイーダの温かい体温が伝わってくる。頭に置かれた手から優しさを感じられる。ここにいるのは父ではないが、それでも自分のことを大事に思ってくれている人だ。それが啓吾にはとても嬉しく思えた。一瞬、生きている頃の母の記憶が甦った。

 啓吾が来てからずっと間借りをしているシャリーズがふと頭を上げた。頭の情覚器の先をぴんと立て、家の玄関口をじっと睨み、低い唸り声を上げた。威嚇と警戒の感情を表に出した声だ。
「シャリーズ?」
 アイーダはシャリーズのそんな唸り声を久しく聞いたことがなかった。もう何年にも。いや十年以上も聞いていなかったその唸り声。これは……
 アイーダの表情に緊張が走った。席を立つと、アイーダは壁の側に置かれている重々しい箱のほうへ歩み寄り、その蓋を開け、中から布で包んだ長いものを取り出した。
「ケイゴ」
 これまでのアイーダの声とは打って変わったものになっている。
「おばちゃん?」
「ケイゴ、奥の部屋に行ってなさい。出てきちゃ駄目よ」
 アイーダが布をほどくと、中から一本の「剣」が出てくる様を啓吾はしっかりとその目で見た。
「……おばちゃん」
「早く行ってなさい。シャリーズと銀を連れて行きなさい。いざという時には裏口がそこにあるから……逃げるのよ」
「え?」
「早く!」
 啓吾は驚いたように椅子から下りると、銀を抱き上げて裏口のある奥部屋へと向かった。シャリーズも扉を睨み付けながら、じりじりと後退していった。
「シャリーズ。いいわね? ケイゴを頼むわよ」
 アイーダは昔の記憶を甦らせていた。ひょっとすれば、いや、いずれ来るであろうとは思っていたが。それが今夜だというのか。
「おばちゃん……」
「ケイゴ。いいわね? パパを信じるのよ。そして自分を信じるの。きっとパパに会える。ケイゴはパパに必ず会える。私はそう信じてるからね」
「あ……」
「いいわね。負けちゃ駄目よ。希望を捨てないで。さ、行きなさい」
 まるで懇情の別れでも伝えているようなそのアイーダの言葉に啓吾は震えた。
 何かが来る。
 追い掛けて来た?
 アイーダは察していた。この何ともいえない邪な感覚。扉の横にある窓から夜の闇が見えるが、その闇が一層暗さを増す様をしっかりと視認した。
 間違いない。ついに来たのだ。たとえ叶わなくとも、この子が逃げる時間だけでも稼いでみせる。それがケイゴの笑顔を守るために今の自分が出来ること。
 アイーダの家の前の草むらが黒く変色し、悪臭を放つ泥のように変化していた。その匂いが微かながら扉の隙間から漂って屋内に入ってくる。アイーダは鞘を抜き、近衛騎士団在籍時に携帯、愛用していた剣を持って静かに構えた。

 アイーダはその時、一人の戦士に戻っていた。


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