「おい、あんた……痛っ!」 通路の壁に寄りかかって居眠りをしていた須藤は、肩を揺り動かされる感覚で目を覚ました。目を開けると、横にあの濃紺の制服姿の小男が立っていた。顔をしかめて右手を左手で押さえている。 「あんた、何でこんなにビリビリくるんだろうね? うっかり触れやしねぇ」 「あ、あぁ……」 須藤は体勢を直して男に向き合った。車掌の小男は小さな細長い紙を須藤に差し出した。 「これ、持っときな。駅から出る際に必要だから。乗車料金支払い証明。改札から出る際に係員に手渡すんだ」 「ありがとうございます」 小男はおっかなびっくりという表情を浮かべながら、引き腰で、まるで噛み癖のある犬に餌を出すような手つきで紙片をこわごわと差し出してきた。 「あの、ビリビリって?」 「だからぁ、あんたに触れると手がビリビリくるんだよ。ブシャンガにでも刺されたみたいだ」 「ブシャンガ?」 「ああ、えっと、何て言うの? 毒持ってるやつで、体がやたら長くてよ、体中に棘が生えていやがるんだ」 想像するに、どうやら「毛虫」か「蛇」みたいな生き物のようである。 「じゃあ、気を付けます。むやみに貴方がたには触れないほうがいいようですね」 触れられたら「ビリビリ」するだなんて、生まれてこの方一度たりとも言われたことがないのだが、どうやら自分と彼等とは「違う」らしい。「あの世」に住む人間にとって、自分は「ビリビリ」する存在なのだという風に解釈しておこう、そう思うことにした。いや、自分はここにいるのだから、それを「あの世」と言うのも変だ。ならば、自分が本来いるべき世界がここでは「あの世」になるのか……そんなことを思うと、須藤は何だか妙な感覚になった。 「お世話になりました。キセル乗車なのに気を遣っていただいて」 「だからさ、困った時はお互いさんだって言ってるじゃないか」 小男は笑ってその場を去っていった。 確かに須藤はこの世界での通貨は持っていない。あの車掌は自分の身元やその他諸々をろくに確かめもせずにただ乗りをさせてくれた……業務上の話としては如何なものだろうかと思いつつも、そうやって人を助けるという行為が、この世界では徹底された常識となっているのかもしれない。そう思うと、須藤は何かしら心強い気分にもなった。 須藤は開いた乗降口から顔を出して、列車の進行方向を覗き込んだ。列車は何時の間にか広大な草原を抜けていた。まばらに建つ家々と濃茶色の土が剥き出しになった土地、所々に生える草や木々が目に映る。列車は大きく緩やかなカーブを描きながら走っている。その先には長い「壁」らしきものが見える。 「あれは土壁よ。ラムジャプールを囲む城壁ね」 須藤の横から顔を出していた女性が言った。他の乗客と異なり、青い瞳に目鼻立ちの整った顔をしており、ショートカットの金髪を風にたなびかせた彼女は続けて須藤に語り掛けた。 「あの土壁がこの国の都市の特徴ね。そこから由来した国名なんでしょうね、アグゲリスって」 「アグゲリス……ですか」 須藤には全く聞き覚えのない国名だった。女性は須藤に顔を向けると、小刻みに頷いて見せた。 「そう。私、この国を出て実家に帰りたいの。私の国がきな臭くてね。両親が心配なの」 「どちらのご出身なんですか?」 何でもいい。須藤はこの世界についての情報が欲しかった。 「私? レグヌム・プリンキピスよ。この国の隣国ね。向こうじゃ今、アグゲリスとの国境沿いの地域で航行制限令が出ているみたいで。だから回り込んで行かないと帰国出来ないのよね」 レグヌム・プリンキピス。これも須藤には初耳の名前だ。女性は垂れた前髪を右手で軽くかき上げた。 「そうなんですか。大変ですね」 「あなたはこの国の人?」 「あ……いや、『旅行者』です」 女性は口角をやや上げてにっこりした表情を浮かべた。 「そう。よいご旅行を」 そう言い残すと、女性は須藤の腕に軽く触れて車両の中へ戻っていった。その時、彼女は些か驚いた表情を浮かべて、その手を引っ込めたのだが、その様子は須藤には見えていなかった。
列車は厚く造られた土の街壁をくぐり、市街地に入ると徐々にその速度を緩めていった。壁の内側には民家らしき建築物が所狭しと建ち並んでいる。その合間には遊歩道のような石畳の道が迷路のように張り巡らされているようだ。赤土で出来た壁は市街地の外壁としてだけでなく、その内側にも仕切りのように建てられており、区切られた区域によって、街は違う顔を覗かせている。六角形の形をしたパビリオンとそれを囲むような木々や草、花々で出来た庭園、広場とその中央にあるコロッセウムのような競技場らしき円形建築物、市民が集う市場、そういった区域が仕切られている中を列車は低速運転を続けていた。何枚かの仕切り壁の向こう側に、丸屋根から高い塔を生やした建築物が見える。恐らくあの箇所が、壁に囲まれた市街地の中心に当たるのだろう。 そうした囲まれた市街はその一ヶ所だけでなく、外壁を抜けるとまた新たな外壁に囲まれた新たな地区があり、そうした幾つかの市街地を列車は走り抜けていた。丸く囲まれた市街地は何本もの道で繋がれている。そのうち、外壁をくぐると何本もの列車が止まっている区域に入った。この列車の終着駅らしい。
「ラムジャプール。ラムジャプール……」 「お乗換えのご案内です。ムルタワル経由、アグゲリアード行きは二十七番線ホームより一七・〇七ホールスの出発です。アージブラバード経由、バルハジャスタン行きは三番線ホームより一七・一六ホールスの出発、ジャーハンポール経由、ラグラノ共和国領内ペルワノ・ペトロフカ行きは十二番線ホームより一七・二六ホールスの出発、途中のダブラハーンにて入国手続きが行なわれますので、ご乗車予定の方は出入国許可証の携帯を再度ご確認ください。ヴァナンタム経由、レグヌム・プリンキピス王政連合首長国領内エステスノルム行きは一八・〇一ホールスの出発。レグヌム・プリンキピス方面の便は現在、通常の六割の本数での運行となっております……」
駅内のアナウンスが響いている。須藤はそれに耳を澄ましてみた。地名には全く聞き覚えがないが、この駅の規模は見たところかなりの大きさで、アナウンスの内容から察すると、このラムジャプール駅は各地域を結ぶ鉄道網のターミナルとしての機能を持っているようだ。 行き交う大勢の人々の間を流されるように須藤は歩いていた。通行人の肩が当たるごとに、須藤の背中のデイパックがぐらぐらとせわしなく動く。 アーチ状の柱が駅の壁を覆い、十数メートルはあるであろう高い丸天井の窓からは、陽の光が柔らかく差し込んでくる。泥で薄汚れた須藤の履くスニーカーとは対照的に美しい、灰白色の光沢ある石で造られた広大な床が実に印象的だ。須藤はその中を、大勢の人々の合間をすり抜けながら前に進んだ。 駅の中を行き交う人々の格好は実に様々であった。列車内での数多くの乗客達と同様、けれんの濃い鮮やかな大判の布一枚を纏ったような女性、スラックス風のボトムにポロシャツや開襟シャツのようなトップスを着ただけのラフな格好の男性、東洋風とも南アジア風とも思える、しかしそのどちらでもないような異国情緒溢れる民族風の服装をした親子連れ、エキセントリックな魅力を周囲に放つ斬新な、全く以って斬新としか言いようのない、初めて目にするような服装の者……そしてそれらを纏う者達の人種的特長も様々だ。あからさまな白人風の者、アフリカか南アジア地域の住民を髣髴とさせる者、東洋風……しかし、日本人風というよりは大陸の者達を思わせる顔付きの者、そして瞳の色もまた様々だ。まるで人種のメルティングポットの異名を持つアメリカの大都市をイメージさせる。実に多彩な人々が駅の構内をランダムな方向へと歩き過ぎ去っていく。その中でも、一定の服装をした者達が須藤の目に付いた。金色の装飾を施された銀色の簡易甲冑とでも呼べるようなものを身に纏い、手にトンファーらしきものを持っている男達が、行き交う人々の流れに任せて歩いていたり、一箇所に立って周りを見渡している。何なのであろうか。軍人なのか、警官なのか、はたまた駅の職員なのか。彼等の目付きは険しく、まるで周囲に威嚇の視線をとめどなく突き刺しているかのようだ。砲弾の形に似た中世の西洋兜の「バシネット」状の兜を被ってはいるが、顔面の面甲は上げて周囲に睨みをきかせている。そのうちの一人がじっと須藤を見詰めていた。その男と須藤の視線が合った。面甲を上げた合間から、男の鋭い視線が須藤を捉えて放そうとしない。獲物を狙う猛禽類か捕食獣の如き眼光を放っている。須藤はその男の視線を何も見ていないかのようにやり過ごし、歩き続けた。 そんな中、大きな路線図の描かれた、壁のような仕切り板が須藤の目の前に現れた。そこにはラテン文字で都市と思われる名称と、それらを結ぶ路線が描かれている。都市の名称は、先程の館内放送を思い返すと、そこで紹介されていた名称は大体の察しが付く。ただ、中にはラテン文字ともギリシャ文字とも、はたまたキリル文字とも異なる、初見の文字も混じっている。 「RAMJAPUR」 これがこの駅のある都市、ラムジャプールだ。それは黒文字で書かれており、その名称から右に当たる箇所に、一際大きい朱文字で書かれている単語がある。 「AGGERIS」 列車で話し掛けてきた女性の言葉を思い出した。 「あの土壁がこの国の都市の特徴ね。そこから由来した国名なんでしょうね、アグゲリスって」 これが国名らしい。「AGGERIS」の「AGGER」、これはラテン語で「土壁」や「土塁」を意味する。国内の市街地の全てが土壁で囲まれており、アグゲリスと言う国名は、その辺りから採られている。 路線図の中には、同様の朱文字が見受けられる。そして、「AGGERIS」と書かれた部分と別の朱文字が描かれた部分との間は、長く不規則な青色の太い実線で仕切られている。恐らくはこの線が「国境」か。とすると、この地は国境沿いの町らしい。しかもこのラムジャプールは国の中でも西の端に位置している様子が窺えた。 じっとその地図を見てはいるものの、ここから何処へ行けばいいのか須藤には見当も付かなかった。先ずはこの地で瑛治のことを尋ねてみようと思っていた。ところが、ここはかなりの人がいる。都内のちょっとしたJRの、通勤時の駅構内の様子とさほど変わりはない。だがここで何もしないわけにはいかない。先ずは何でもいい。僅かな可能性に賭けるのだ。そのためにここへやって来たのだから。
「おい、お前」 横柄な口調で呼び掛ける声がする。須藤は声のした後ろを振り返った。そこには先程まで須藤を睨み付けていた甲冑姿の男がいる。 「何だ、この地図で何か探しているのか?」 男は須藤の横に立ち、路線図に目をやった。 「何処へ行くつもりだ?」 須藤はこの男の質問にまともに答えていいものかどうか、疑問に思えた。この男の声色には敵意が感じられる。 「ああ……ここに行こうと思って」 須藤は咄嗟にそう答え、都市の名称と思われる黒文字の箇所を指差した。そこには「KARDHIWAR」(カルディワル)と表記されている(本来のラテン語では、KやWの文字は使われない。「ディ」の音もDHIとは表記されない)。 「ほお、カルディワルか。遠いな」 男は胸で腕を組み、無感情な声調で言った。 「何処から来た? 旅行者か?」 路線図を見つめたまま、男は立て続けに須藤に質問をしてきた。 「まあ、そんなところです。ギシュドバードから来ました」 この地名も列車内で知り合った者から聞いた名前だ。あの美味い果物を分けてくれた女性が言っていた町だ。 「ギシュドバード? ほう、そしてカルディワルへ? 長旅だな。疎開組か?」 「そうです。取り敢えずは知人を訪ねようと思ってまして……」 男は須藤のほうを向き、じっと視線をぶつけてきた。 「……ま、気を付けて行くんだな」 とにかく、警戒心を起こさせるこの男とは上手く別れられそうだ。 「ありがとうございます」 須藤は笑顔を浮かべて男に一言言うと、その場を立ち去ろうとした。 「おっと、待て待て」 男が須藤を呼び止める。この声には威嚇してくるような感じがしない。須藤は男のほうを振り返った。男は路線図の右側を指差している。 「カルディワル方面に行くのなら、ここに書いてある注意書きを読んでおいたほうがいい」 男はにやりと笑い、十数行の文章を指し続けている。 「ああ、さっき読みました。大丈夫です」 須藤はそう答えた。 男の笑顔が邪険な感じへと変わっていく。 「読んだのか? カルディワル方面への旅行客向けの注意書きを?」 何だというのだ、この男は? 何が言いたい? その瞬間、須藤は心の中で「しまった」という声を聞いたような気がした。 「何て書いてあった? 教えてくれないか。ん?」 須藤は怯んだ態度を見せずに、毅然とした表情を男に向けた。 「おかしなことをおっしゃいますね。貴方がお読みになればいいじゃないですか。何故自分にそんなことを?」 「いいから言え。何と書いてあった? でなければ、この文章を俺の前で声に出して読んでみてくれないか?」 男の表情から笑みが消えていた。元々が作り笑いであったのだろうから、それが消えた後には須藤を敵視する感情を顔面いっぱいに浮かべている様子しか窺えない。須藤には男に返す言葉が見付からない。 「お前……これが読めないな? この国の、いやこの『世界』の共通語で書かれたこの文章が読めないのだな? それとも文盲か?」 男は手にしていたトンファー状の武具を握り直し、それを須藤に向けた。男は凄みの利いた低い声で言った。 「お前、中途転生者だな?」 ちゅうとてんせいしゃ? 須藤にはそれが何を意味することなのか理解出来なかった。ただ、これだけは分かった。この場にいることは危険だ。 須藤の足が咄嗟に動き出し、その場を駆け出していた。 「待て! 中途転生者がいるぞぉっ!」 男は大声でそう叫びながら、須藤の後を走って追い掛けて来た。男の声を聞き付け、同じ格好をした男達が須藤のほうに向かって来る姿が見える。 逃げたことに対し、何も非を感じるようなことをしていないのに何故? という感覚が心を占めていたが、何せ状況も何も分からないのだ。「中途転生者」が何を意味するかも分からないのだが、今の様子からすれば、そう呼ばれる者は犯罪者と同じ境遇にあるのではという感じがする。 そうだ、あの三人のことを話せば…… 人混みの中を全力で走ることなどに慣れていない須藤は、たちまち甲冑姿の男達に取り囲まれてしまった。周囲の通行人が須藤をしげしげと見つめている。 「トルソ氏を知っているか? 空間近衛騎士団の副隊長らしいが!」 その言葉を聞いた男達の表情が変わった。面甲を上げたままなので、彼等の表情は見て取れる。誰も友好的な表情など須藤に向けてきてはいない。寧ろ、その言葉を出したことで更に憎憎しげな表情に変わった気がした。 「空間近衛騎士団だと? 貴様、レグヌム・プリンキピスの武装集団と何の関わりを持っている?」 男達のうちの一人が大声で叫んだ。 「貴様を逮捕、拘留する!」 別の一人がそう大声で言うと、先程須藤に絡んできた男が咄嗟に須藤の傍へ走り寄り、持っていた武具でその背中を強打してきた。煽りを打った須藤の体を、前に回りこんだ男は立て続けに、須藤の顎を下から上へ突き上げた。 「ぐ…………っ!」 須藤は呻き声を漏らし、その場に膝を付いた。その隙を男達は見逃さなかった。たちまちのうちに彼等は総出で須藤の体を押し倒し、その顔を床面に叩き付けた。 艶のあり光沢ある灰白色の、大理石のような石で敷き詰められた冷たい床に、須藤の赤い血が飛んだ。
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