「治美! お前、寝てなくていいのか? 大丈夫かおい……」 治美は小さく頷いた。 「次朗、ここにいるって聞いたから。昨日のお礼言わなきゃね。来てくれてありがとう」 そして手で前髪をかき上げると、須藤に会釈した。 「初めまして。戸田です」 「須藤です」 須藤も頭を下げた。 「ごめんなさい。立ち聞きするつもりなんてなかったんですけれど……私に会って、須藤さんは何をお訊きになられたいのでしょう?」 「戸田さんが体験なさったことを、です」 治美は一度上げた顔をまた下へと向けた。 「私もまだ信じ切られないんです。出来れば信じたくない。でも、それでも宜しければ」 治美はその多々良が「ちんちくりん」と呼んだ「漆黒の異物」についての話、子供達の異変について、多々良が話したことと大差ないような内容の話をした。 「頭がおかしいんじゃないかって思いますよね? 私自身、あれは悪夢だって信じて終わらせてしまいたいのですから」 治美の声からは悲しみと怒りが滲み出している。須藤はそれを感じていた。 「お辛いところ申し訳ありません。おかしいだなんて。今起こっていること自体が普通じゃないんです。ただ、もう一つだけ教えて戴けないですか?」 須藤は治美に一つの質問をし、その回答を聞いて唖然とした。 治美が見たという、黒き異物を剣でなぎ払った、巨大な鳥に跨った金色甲冑の者達。自分以外に彼等を見た者がいるなんて驚き以外の何物でもなかった。そしてそれは、話した当の治美にとっても同じだった。 「おい、何だその話? 治美、お前何を見たんだって?」 多々良が呆れたような表情で治美に訊いた。 「もう、何でもありよね。まるで自分が何だか妙な映画の登場人物にでもなった気分よ」 治美は半ば笑ったような感じで言った。そしてぽつりと呟いた。 「そして……怖い」 「怖いって? そのお前が見た連中とか、黒いもやもやがか?」 「それもあるけど……それだけじゃない」 治美は須藤のほうを向くと、視線を天井に向け、肩を一度上げ、そして力を抜くように下げた。 「私、親にはあまりいい思い出がないんです」 そう言うと、治美はゆっくりと自身についての話をし始めた。
「父は昔、長岡で町工場を経営していました。大手の下請けでした。飲んだくれだったんです。そして、よく母や私に手を出していた。そんな母も私によくあたり散らしていて。そのうち、私は人の目を気にするような人間になっていったんです。どう言えば人を怒らせないか、不愉快にさせないか、どんな時は相手は怒っていないか、不機嫌じゃないのか、そんなことばかり目がいくようになってたんですよね」 須藤は治美の話を黙って聞いていた。傍に立つ多々良も同様に治美の話に耳を傾けていた。 「そんな中、ひょんなことで父の生い立ちを知ったんですよ。父は旧家の出身で、子供の頃はかなり厳しく育てられたそうなんですが、元々気の小さい父は母親と……あ、私の祖母ですね、そして曾祖父は当時かなり歳がいってましたけど、元がこてこての帝國軍人でしたのもあって、曾祖母もかなり気の強い人で、彼等から過剰に厳しい躾を受けていたそうなんです。祖父は元々婿入りで家に入ったんですが、祖父も家ではかなり冷遇されていたそうです。そんな中、祖父はその家が所有していた田んぼの真ん中で農薬を使って服毒自殺を図ったそうなんです。それを発見したのがまだ幼かった私の父。でも、その家での父の扱われ方は酷いままで変わらなかった。そして父はその家を体一つで飛び出したんだそうです。父は……親から愛された記憶がないようなんですね。実際のところは分かりません。愛情の表現の仕方は人それぞれでも違ったりしますが、父はそれを理解出来なかった。後に母から聞いた話です。そんな父も母も今はもういません。最初に父が六年前に、それから二年して母も……」 「私、それまで自分がこんなに周りばかり気にして、しなくていい気配りなんてして、周りからいいように思われたい、怒らせたくないし怒られたくない、傷付けられたくない、そんな風に思っている毎日にうんざりしていました。でも分かったんです。私、そんな自分を周りのせいにしていたってことに。環境のせいにして前を向けなかったんです。周りのことを恨むよりも、変わってくれることを望んでただ待ち続けるよりも、自分自身が一歩を踏み出さなきゃ何も変えられない。じゃあ、私はそんな自分のために何が出来る? 私は何がしたい? そう思って、今の仕事を目指すようになりました。心に傷を負った子供達を助けたい、そんな子供達の支えになりたい、前を向いて歩くことが出来るようにサポートをしたい、そして、そんな私自身の信条に従って歩いていきたい、もう後ろは振り返らない、過去を呪ったり、周りのせいにして逃げるなんてもう真っ平だ、そう思うことが出来るようになったんです。その時にはもう、私の中にあった親へのわだかまりは消えていました。寧ろ感謝出来るようになれたんです。だから……」 治美は言葉を詰まらせた。 「こんな訳の分からないことで子供達が何人も傷付いていく姿を傍観するだけだなんて耐えられない。私の力なんて微力です。でも、いくらなんでもこんな……こんな……何も出来ない自分がいることが、それを認めることが私は怖いんです。それを認めたら、私はまた……」 「認めると、乗り越えようとしている過去の辛い想い出に再び飲み込まれそうで怖い……そうなんじゃないですか?」 須藤は治美に語りかけた。 「戸田さん。自分は思うんです。貴女は試練を一つ乗り越えた。そして前進し始めた。また新しい試練が目の前に現れた。今、貴女はそれを乗り越える場面に遭遇しているんでしょう。それはこの妙な出来事がどうのと言うんじゃなくて、貴女の内側にある試練です。それを越えたら、今以上にもっともっと貴女の目に映る世界は広がると思いますよ。それにはあともうちょっとの勇気があればいい。そして、そんな貴女を受け止めてくれる人が貴女の傍にいる」 須藤は多々良を見た。多々良は須藤から視線を逸らし、些か子供っぽい表情を浮かべながら顔を下に向けた。 「こうありたいという、理想としての自分自身。理想の相手像。見たくない現実の自分の姿、現実の相手像。何処となく感じている心の奥底にいる自分の姿、そんな相手像。いいじゃないですか。そんな貴女自身に気付いてあげてください。そして気付いてもらってください。そこからまた新しい道が開ける、自分はそう信じています。自分自身を認めることは、実は勇気がいることです。だが貴女は一人じゃない。貴女を受け止めてくれる人がいる。貴女は大丈夫だ」 須藤は治美に笑いかけた。 「微力っておっしゃいましたね。でもその微力が積み重なっていけばどうでしょうか。それは全てのことで共通する自然の法則みたいなものです」 「須藤さん……初めてお会いする方なのに、何だか心を見透かされたみたい。でも何だろう、楽になれた気がします」 「今の仕事をやっていると、色々と見てくるものでして。初対面の貴女にずけずけ言っちゃいましたね。失礼をお許しください」 本当のことを言うと、治美に今必要なのは言葉じゃない。須藤はそれを知っていたが、それをするのは須藤じゃない。多々良だ。 ぱん! 乾いた威勢のいい音が室内に響いた。多々良が手を叩いたのだ。 「さあて、そうとなれば、だ。どうしたもんだろうか」 「出来ることをやっていく、それしかないわね」 治美が言った。 「あの子達が回復することを私は信じる。信じ続ける。そして私は、あの子達と似た環境にいるだろうと思う子供を出来るだけピックアップするわ。そして目を光らせる。保護が必要な子は保護する。児童施設には子供達の心のケアをしてくれるカウンセラーの方を集ってみる。上にも何とかして話を通してみようと思う。途方もない話だけど、それでも何か行動しないと」 「俺は……そうだな、こんなことの前例なんて聞いたこともないが、過去の記録を調べてみるとするよ。何かしらの接点が見付けられるかもしれない。何とかして突破口を見付けなきゃな。疑ってちゃ何も始まらない」 そうだ。出来ることをする。そして信じる。決して疑わない。前へ進む。それだけだ。それは何事に対してもそう。須藤はこの二人を見ていて、先程まで絶望感に心を支配されていた自分を恥じた。自分は啓吾の父だ。自分が動かなくてどうするのだ。しかも、自分は今回のことでは最も接点に近い立場にある。あの三人との接触がそうだ。そして、今この場所に来て多々良や治美の二人と出会った。これは偶然だろうか。 偶然は必然。 偶然と思うことはそれが生じる理由があって生じる。たまたまなんてことは、本当はたまたまなんかではない。全てには理由がある。そして、それらは人を導くために生じるのだ。自分は今、周りのみんなから導かれている。瑛治を心配し、都内を走り回る会社の仲間達、目の前で決意をする児童福祉司、その彼女を思い支えながら心を決めた警察官、そしてあの甲冑を纏った不思議な三人。それぞれに全く接点のない筈の者達が一つになっている。目に見えぬ力が働いて、みんなを結び付けている。 須藤の握る拳に力がみなぎる。
須藤が去った後、多々良は目の前で立っている治美の名を呼んだ。治美は顔を上げた。多々良はそんな治美を優しく、そして力強く抱きしめた。治美は何も言わず、自分の腕をそっと多々良の腰に回した。 弱冷房設定のエアコンが静かに駆動音を響かせている。
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その夕刻、須藤は神保町の支店に顔を出した。上野の本社にいたスタッフも集まっている。皆、汗だくになっていた。自分の息子を探して東奔西走してくれていたのだ。須藤は嬉しさと感動で胸が一杯だった。 「みんな。ありがとう。本当に、本当にありがとう」 「当たり前です! 俺達はみんな『須藤組』の仲間なんですから!」 気風のいい若い男性スタッフの今野が力強く言った。そんな今野も汗で髪をぐしゃぐしゃにしている。抱えていた仕事に一段落付けた後で他のスタッフと合流したのだ。着ていたシャツは走り回った際の汗で背中にべったりと貼り付いていた。他のスタッフも同じだ。 「おい、何だその『須藤組』ってのは。まるで江戸の火消しみたいじゃないか」 「でなきゃ、何処かのやくざだ」 丸山達がそう言うと、緊張の糸が張り詰めていた社内に軽い笑いが起こった。 須藤の目には、スタッフ達がいつもにも増して力強く映っている。 「みんなに頼みがあるんだ」 須藤は一人一人の目を代わる代わる見詰めながら口を開いた。 「今日のみんなの活躍には心から感謝している。だからこそ、明日からは平常業務に戻って欲しい。この会社をその力で守って欲しいんだ。ウチを利用してくれるお客様に、ウチと提携してくれる各業者に、君達のその力とバイタリティを精一杯向けて、誠意を以って接していってもらいたい。いいね」 「社長……」 スタッフがいない間、一人で会社を守っていた「クミちゃん」が小さい声を出した。 「大丈夫だ。啓吾はきっと大丈夫。自分は信じている。啓吾を信じている。警察も、そして『それ以外のところ』でも、啓吾の身を案じて動いてくれている人がいる。自分達が今すべきことは、この会社を守り、この会社と出会ってくれた多くの人達に尽くすことだ。自分はみんなのことも心から信じている。自分のためにここまで精一杯の誠意を見せてくれたみんな、一人一人が自分にとっての掛け替えのない相棒だ。今日は本当にありがとう」 須藤は丸山を応接室に呼んだ。 「丸さん。啓吾の……啓吾の『居場所』の察しが付いた」 「え?」 「だが、そこは何と言うか、いや、それはいい。自分はそこへ向かうつもりです」 「社長……」 須藤は丸山の両肩に手をおき、丸山の目を見つめた。 「自分の留守中、ここを頼みます」 丸山は眉間に皺を軽く寄せた。この時の丸山の表情は実に迫力がある。まさに「泣く子も黙る」だ。 「また一人で抱え込もうって訳じゃないでしょうね」 「いや、『ガイド』がいます。それも三人も」 「ガイド? その『居場所』って何処なんです?」 何処かは言及せず、須藤はあの時多々良がぱんと手を叩いたかのように、丸山の肩をぱんと叩いた。 「必ず戻ります。それまでしっかりここを守備していてください。そして、我が儘な自分を勘弁してください」 丸山は「にやり」と笑った。 「貴方が糸の切れた凧みたいなところがあるのは重々承知していますよ。今更何ですか」 丸山は自分の両手を肩に回し、須藤の手を掴んで下に下ろすと、その手を力強く握り返した。やはり痛い。しかし心地いい痛さというところか。丸山の気持ちが伝わってくる。 「貴方が何処へ行こうと、我々の社長だ。そして仲間です」 須藤は笑みを浮かべ、「ああ。知ってる」と短く答えた。 丸山の「にやり」に一層の拍車が掛かった。
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トルソの言っていた夜が来た。 業平橋。同名の東武線の駅があったが、今ではその名を変えている。ここから東京スカイツリーが見える。辺りは携帯電話やスマートフォン、デジカメ等で、アジアを代表する電波塔の画像を撮影する人達が何人もいる。すぐ傍にある東武線の改札口を出入りする人の流れもあり、橋の上は人の数が増しつつあった。デイパックを肩に引っ掛けた須藤は、通りの向かい側にある小さなカフェで抹茶ソフトを購入し、ゆっくりと食べた。 これから須藤が向かおうとしている場所がどういう所なのか、皆目見当が付かない。だが啓吾はその世界の何処かにいるという。武者震いのようなものは一切感じない。それは啓吾の無事を信じているからだった。必ず会える、いや会う、そして二人で戻って来ると心に誓っているからだ。信条と信念。それが須藤の武器だ。何が待ち構えていようと構わない。啓吾の行く末を妨げる者がいるのなら、自分は身を挺して啓吾を守る。どんなことがあっても必ず守り抜く。 その強き思いを夜空に輝く月が反映しているのか、一層その光を増しているかのように須藤には見えていた。 スカイツリーの頂上付近を大きな鳥が三羽、舞っている姿が見えた。それらはゆっくりと地上へ、須藤の下へと降下してくる。道行く人々にはその姿が見えないようだ。非日常的なものが通りを闊歩している人達の真ん中に下りてきても、誰もそれに注目しない。それどころか、グリフィスから地上へ降り立ったトルソ達の体をすり抜けて皆歩いている。まるで彼等が等身大のホログラフィでもあるかのようだ。 彼等は前回見た時のように、その体の先が透き通って目に映ることはない。 トルソはゆっくりと須藤のほうへ歩み寄ってきた。 「カズキ」 「トルソ、って言いましたね」 「ああ。そなたは必ず来ると信じていた」 「信じていた?」 「そうだ。疑うことは何も生み出さない」 トルソのその言葉が須藤の胸に響いた。 「覚悟は出来ているのか?」 シュナが冷ややかな目で須藤を見据えながら訊いた。 「貴方達の常識や日常が全く通じない世界かもしれないんだ。おまけにあんな真っ黒なバケモノが待ち構えているかもしれない。貴方の息子だって今何処で何をしているのか、どうなっているのか分からない」 「ちょっと、シュナ! 止めなさいよ、煽るのは」 ヴィクセンがシュナの右肩に手を置いて言った。その手をシュナは払い除けた。 「不安じゃないのか? だとすれば、連中はその不安に付け込んで容赦なく喰らい付いてくるだろう。貴方の身の保障すら我々には出来ない。それでも行く気なのですか? 何が貴方に出来るとお思いなのですか?」 須藤はシュナの冷たい瞳を見つめ返した。冷ややかではあるが、その瞳の奥底に力を感じる。半端な気持ちの者など受け入れないという気概さえ感じさせる。 「どんな世界かなど、自分には重要ではない。自分は息子を救い出す。貴方の隊長さんが今言ったでしょう? うたが……」 「副隊長だ。隊長は隊長で素晴らしい戦士だ」 シュナは大して重要ではない口を挟んだ。 「では副隊長のトルソさんが言った、疑うことは何も生み出さない。自分も同じです。啓吾は無事だ。試練を乗り越えてくれる。そして必ず救い出す。救い出して連れて帰る。自分は息子を信じている。そして自分自身を信じている。可能性を信じている。それが自分の内なる力です。そしてその力は貴方も持ってらっしゃるのではないですか、シュナさん?」 須藤は視線をシュナの目から逸らさず言い放った。シュナは口元を緩めた。鼻を鳴らし、うっすらと笑みを浮かべていた。 「全く動じないのか。貴方は面白い男だ」 「これでも伊達で父親をやっているんじゃないですから」 「父……か」 シュナの呟きをヴィクセンは聞き、些か神妙な表情を見せた。 誰とも分からぬ男が一人で橋の上で独り言を声高々に話している、街行く人達には須藤がそのように映るのだろう。時折、何人かがこちらをちら見して行った。 「カズキ、布は持っているか?」 「布?」 「我々は上空に上がる。気温は地上よりかなり下がるし、気流もある。息がし辛く感じるなら、布で鼻と口を覆ったほうが無難だろう」 「ああ……ちょっと待っていてくれませんか」 須藤はそう言うと、通りの先にあるコンビニエンスストアまで一走りし、フェイスタオルを購入して来た。またデイパックの中に長袖のパーカーも入れてある。取り急ぎの策ではあるが、効果の程は定かではない。 「これで大丈夫かな?」 「まあ、どうだろうか」 月の輝く夜に往来のど真ん中で、独り言を続ける四十路の男。実に妙に映る。勿論、当の本人はそんなことなど気にしてはいない。元々が人の目を気にするタイプではないのだ。「空気読め」という風潮にさえ「否」を唱えるような男なのである。「空気は読むものでなく作るものだ」、これが須藤の言い分なのだから。 「準備はいいか? ではカズキ。参るぞ」 トルソは低く言った。 「宜しく頼みます」 須藤はそう返事をした。 シュナとヴィクセンはそれぞれのグリフィスに跨った。須藤は改めて、巨大な鷲のような鳥の姿に半ば茫然とした視線を注いでいた。 「これはグリフィスという鳥だ。極めて賢く、情に深い。そしてマスターには忠誠を誓っている。崇高な鳥であり、我々の相棒なのだ」 須藤はトルソのグリフィスに手を触れた。温かい。 その時、通りで声が上がった。振り向くと先程まで何も見えないかの如く歩き去っていた通行人達が足を止め、須藤達を見つめている。 「何だあれ? 何処から来た? てか、あんなのここにいたか?」 「何? 何かの撮影?」 スカイツリーから須藤やトルソ達、グリフィスに被写体のバトンが渡った。皆、携帯電話のカメラレンズを彼等に向けている。 「あまりいい状況じゃないと思いますが……」 須藤はトルソに言った。 「ああ。そのようだな。そなたが我々やグリフィスに触れたことで、何かしらの『波長』がシンクロしたのだろう。我々の姿が彼等の目に映っている」 「ちなみに訊いていいですか?」 「何をだ?」 「貴方達、その……魔法みたいなものとか使うんです?」 「魔法? そなた、ファンタジー話の読み過ぎではないのか?」 トルソと須藤は何気なく視線を合わせあった。 「そこ! のんびり喋っている場合じゃないでしょう、副隊長殿! 急ぎましょう!」 ヴィクセンが大声を上げた。 「カズキ、私の後ろに掴まるんだ。行くぞ!」 買ったタオルで口元を巻いた須藤は、まるで初めて自転車の二人乗りをする子供の如く、トルソの後ろに回り、その腰に両腕をしっかと回し込んだ。 「はぁっ!」 掛け声と共に手綱を振るい、鐙(あぶみ)に乗せた足でグリフィスの横腹を軽く叩くと、グリフィスは空に響くような嘶き声を上げ、両翼を全開にすると力強く羽ばたき、地上から離れ始めた。 「うわぁ!」 「何よあれ? 本物?」 「CGじゃねえよな。何だありゃぁ?」 「すげぇっ!」 通りでは人々の声が上がり続けている。道行く車さえ止まり、窓から運転手が顔を覗かせている。 三羽のグリフィスは一度、業平橋より高さ約五十メートルの地点をぐるりと旋回すると、一気に上空へ駆け上がった。 東京スカイツリーの天望回廊を更に越え、その頂上付近が視点の高さにまで到達したかと思うと、瞬く間に足元にその位置を変えた。街の輝く光が無数の光点となって光り輝いている。それらの光点は次々と足元を流れ去っていき、先から新たな光点が去った光点の後を追い掛けてきては、視界から去っていった。目元に当たる風が強く、そして意外に冷たい。風除けで顔の下半分を覆うタオルが風に煽られ、ばたばたと騒がしい音を立てている。 須藤は昔見た映画「ネバーエンディング・ストーリー」の一シーンを思い出していた。白き竜ファルコンに乗り、大空を自由に飛ぶ主人公のバスチャン少年。少年は青空の下、真っ白な雲海の上を飛び、笑顔で叫びながら拳を天に突き上げていた。馬に跨り、広大な草原を走る勇者アトレイユに呼び掛けながら手を振ってもいた。あの時は確か日中のことだったせいもあるだろうが、そんなに手を振って喚起の声を上げるような余裕など須藤にはなかった。勿論、今の年齢になって、まさかバスチャン少年と同じような体験を現実世界でするようになるなど思いも寄らなかったことだし、振り落とされないようにトルソにしがみつくのが関の山だ。だが、今須藤はトルソと共に空を飛んでいる。東京スカイツリーを足下に見るほどの高さを、雲の中に突入しつつ飛んでいる。それは須藤がこれまでに見た光景の中でも、群を抜いての絶景であった。無数の光点の輝くペイブメントの上を、空を切りつつ須藤は移動している。 「何て綺麗なんだ……」 そんなことを頭の中に描いていた須藤には、心に余裕があったのだろうか。そうでもないのだが、子供の持つ好奇心をそのまま今に持ち越しているような男だ。今まで未体験だったことの真っ最中で心を全く動かされない筈がなかった。 眼下に広がる光景は絶句するまでに美しい。 足元に銀河が広がっている。
「目標座標に到着します」 トルソの兜の内側に取り付けられている通信機から、シュナの声が聞こえてきた。 「了解した」 トルソは短く返答すると、 「カズキ、これからかなり揺れると思う! 気流も激しさを増すやもしれん! しっかり私の腰にしがみついているんだ! そなたは我々とは体や着ているもの、全てにおいて組成が異なるのだ! 我々と異なり、どんな衝撃に襲われるのか想像が付かない! いいな?」 と、後ろにぴったりとくっ付いている須藤に大声で怒鳴った。 場所は恐らく赤羽上空辺りであろうか。何処へ向かっているのかは須藤には分からなかった。トルソに訊いても特定の座標点へとしか答えが返ってこなかったからだ。ましてやここが赤羽だなどと地名を言ったところで「そうなのか」程度でしかならないだろう。特に何か変化のようなものは見当たらない。自分の目では見えないが、彼等の目を通せば違うのだろうか。 三羽のグリフィスは天空に向けてほぼ垂直の角度で急上昇すると、一気に空中のある一点に向けて急降下で突入した。須藤は自分の体が空中で浮いたり沈んだりする様を、二本の腕でしっかりトルソの腰にしがみ付いて堪えていた。トルソも片手でその須藤の手をしっかりと押さえていた。ジェットコースターのように地上向けて真っ逆様に落ちる感覚が須藤を翻弄する。 すると急に風の流れる音が変わった。トンネルの中に突入したかのように、轟音ではあるが、その音が篭って聞こえてくる。空気が肌に重くもったりと顔や全身に絡み付く。空気の体感温度は恐ろしく冷たい。冷たいというよりも寧ろ痛い。グリフィスの動きが止まっているかのように感じられる。梅雨時の暴風雨に丸腰で立って堪えているかのようだ。 突然、須藤とトルソの乗るグリフィスが「何か」に弾き飛ばされた。体勢を崩したグリフィスは大きく何度も羽ばたき、シュナやヴィクセンの二羽の列と合流しようと踏ん張った。トルソは手綱を引き、暴れるグリフィスの動きを制御しようと努めた。だが、再び二人は見えぬ「何か」に体当たりでも受けたかのように吹き飛ばされた。 「副隊長殿!」 飛ばされたトルソのグリフィスが列の先方まで一気に押しやられ、ヴィクセンのハッチェスの前に飛び出し、ヴィクセンが驚きの声を上げた。驚いたのはそれだけのせいではない。 あの漆黒の異物のようなものがいくつもトルソのグリフィスの周囲を飛び回り、体当たりをしているのだ。 「あれは……まさか『追っ手』か?」 シュナは剣を抜いた。 「違う! これは……こいつらは!」 通信機からトルソの声が漏れる。 「恐らく、この空域に彷徨う『魂』だろう! 死してなお我々の世界に身を寄せず、しかし元の世界にも戻れない、そんな弱き魂がカズキの『光』に引き寄せられて来たのだ!」 「何だって? じゃあ……」 「そうだ、シュナ! 我々はあの魂に手出しは出来ない! 手出しをしてはならない!」 たとえその質が啓吾を襲った思念体の「寂寥」や、センチュリオンと似通っていたとしても、それは騎士団が敵と認識する存在ではない。言うなれば、キリスト教での決まり文句にある「迷える子羊」のようなものだ。滅してはならない。 「カズキ! しっかり掴まるんだ! ここで落ちたら終わりだぞ!」 須藤には返事をする余裕がなかった。正直怖かった。だが、それ以上の思いに心を馳せることで集中していたのだった。
「啓吾、必ず迎えに行く。パパがお前を助けに行く。待っていなさい」
黒き魂はその標的をグリフィスから須藤に切り替えた。魂は集結して丸くなり、ボールのように姿を変えると、バッティングセンターで打ち出される最高速度の球速のような威力で、須藤の脇腹目掛けて突進した。それに続けて別の球体が須藤の側頭部を狙った。 衝撃と激痛が襲う。頭が遠くなった。 トルソの腰から須藤の手が離れた。気流に流され、須藤の姿は消えた。 「カズキーーっ!」 須藤が流されていった先に小さな光がぽっと現れた。それをトルソは見逃さなかった。 「カズキ……先に空域を脱したのか?」 周囲の魂の球体は須藤を追って、気流の流れの中に姿を消したまま、二度と再浮上してくることはなかった。 「副隊長殿、出ます!」 ヴィクセンが知らせてきた。 三人の前に白い光が一気に広がりを見せる……
三人は白簾霊峰を遠くに望む草原上空にいた。 「……帰って来ましたね」 ヴィクセンの口から安堵の息と共に出てきた言葉だ。 黒いクレバスも周囲には見えない。霞のような漆黒の異物が襲ってくるような気配もない。いつもののどかな光景のみだ。 「カズキ、何処へ落ちていった?」 トルソは周囲をぐるりと飛行したが、須藤の姿は何処にも発見出来ない。 「グランシュ総隊長殿に連絡を取りましょう」 シュナがトルソに呼び掛けた。
額が冷たい。何やらひんやりするものが乗っている。 須藤は目を開けた。蛙に似た小さな生き物が額から飛び去っていった。だが、目の前に広がるものを須藤はただただ見つめていた。口をぽかんとと開け、仰向けになった体勢を変えることなど思い付かなかった。 今、自分は柔らかい草の上に横になっているんだということは認識出来た。だがこれは何だろう。 空はこれまで青いものだと思ってきた。太陽光の屈折がどうのという理屈ではない。青いものは青い。だが、青空と白い雲、空に広がるものが何かという固定観念は今この瞬間、完全に打ち砕かれた。
空が若緑色一色に染まっている。
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