計測器の針が大きく揺れていた。やはりあの黒き異物はこの建物のこの部屋を含め、ある一定の範囲を集中的に徘徊していたようだ。トルソの持つ小さな計測器は、空間に若干ながらではあるが、異物が作り出した歪みを探知していた。それを追って三人は須藤の住むマンションに辿り着いていたのだった。異物が辿ったと推測される決まった経路に決まった学校施設、決まった体育施設。 「何故あれはこの一帯に執着していたのかしら」 ヴィクセンは浮かぬ表情をしながら、ソファの後ろを二、三度と行ったり来たりしている。 「何かに意固地になってでもいたのか? と言うことは、あれには感情があったとでも?」 シュナは腕を胸の前で組みながら、一枚の写真を見つめていた。須藤真弓香の写真だ。 「だが、まさかあれがあんな力を発動させるとは。たとえ子供であっても、この世界の人間一人を肉体もろごと引きずり込むなど」 トルソがソファに黙って座る須藤の姿を見下ろしながら呟いた。 「確かにあの建物での歪みはかなり大きなものでした」 「生ける人間一人をそのまま引きずり込む。要は、あれ自身が『門』になったということか……」 「元々が世界の垣根をぶち抜いてうろつけるようなバケモノだ。だが、あれ自身もただでは済まないであろう。単体で動いたのであればな」 ヴィクセンが後ろで行ったり来たりしていたソファに腰を下ろしていた須藤は、髪をかきむしりながら大声を上げた。 「だから、あんた達は一体何なんだって訊いているんだ! それとも俺の頭がおかしくなったのか?」 須藤にはおぼろげではあるが、この金色の甲冑を纏った三人の姿が目視出来ていた。エレベーターホールの前で見掛けたこの三人のうち、最も年長であるらしき大男が自分の傍に寄って来て、何やら口を動かしていた。何かを言ったようだが、声は全く聞こえなかった。訳が分からないまま、その男の体を「すり抜け」、エレベーターに飛び乗り、そのまま上へ登っていった。啓吾が妙なことになり、頭が混乱しているから、あんな幻だか錯覚だか判別出来ぬものを見たのだと思った。 ところが、自室に入りしばらくすると、玄関や壁から三人が飛び出してくるではないか。須藤の部屋にずかずかと入り込み、中を悠々と闊歩している。そして全く聞こえぬ会話をお互いに交わしている。 ただでさえホラーやオカルトものに嫌悪感を感じる者が、そんなものを目の当たりにして、平常心を保てる筈がない。 トルソは須藤をじっと見詰めていた。トルソには見えていた。この男には「光」がある。そう、「寂寥」が啓吾に見出した「光」と同じものだった。この「光」は大切な相手を何が何でも愛し抜く、信じ抜く、そして守り抜くという愛情と信念の光だ。白く、優しく、水晶の放つ汚れのない純粋な心の光。それが雪の結晶のような形を成して、須藤の胸の辺りで輝きを放っているのだ。 「副隊長殿……」 ヴィクセンはトルソの右に立った。 「この男性の……これは?」 「お前にも見えるか」 シュナがヴィクセンのはす向かいに立った。その光を見つめるとシュナは何かを思い出したかのような口調で言った。 「ひょっとして、あれはこの光を恐れたのでは……こちらに来て、数多くの人間を見かけましたが、この光を持つ者には数える程度しか出会えませんでした。これはまるで……」 「そうだ。陛下のおられるエリュシネ宮殿が周りに放つ光と同じものだ。信念の光であり、情愛の光だ。人を慈しむ者の持つ心の光だ。だからこそなのか、この男にはどうやら我々の姿が見えているようなのだ」 「え?」 ヴィクセンが驚きの表情を浮かべた。 「だが、我々の声までは届いていないようだな」 トルソは須藤の前に出ると膝を曲げてしゃがみ込んだ。そして須藤の顔の前に掌を出して見せ、それを自身の胸に当て直し、ゆっくり息を吸い、そして吐く動作を見せた。 「落ち着け。神経を集中させるんだ」 須藤は逸らせていた視線をトルソへ戻した。どうやら、この大男は自分に深呼吸をしろと言いたげな素振りを見せている。本当にこの男の姿は幻覚なのだろうか。それどころか、彼は何かしらのコンタクトを取りたがっているようにも映る。 須藤はゆっくりと深呼吸をした。そして気持ちを落ち着けようと努力した。だが、その度に啓吾のことが頭の中をよぎってくる。 「何なんだ一体? 何がどうなってるんだ……」 トルソは相変わらず深く息を吸い、そして吐く動作を見せては、須藤のほうを指で指してくる。須藤はトルソをなぎ払おうと左腕を大きく動かして立ち上がると、履いていたズボンのポケットから煙草を取り出し、ベランダに出て、一本をくわえて火を点けた。いつもの銘柄であるキャビンのブルーボックスが皺になり、その形は些か潰れていた。 トルソは大きく息を吐くと呟いた。 「混乱しているようだな。仕方がない、父親なのだろう、その消えた子供の」 体育教室のあった体育館での啓吾の失踪騒ぎを、三人は端から傍観していたのだ。「寂寥」が啓吾を飲み込んで消失してしばらく経ってから、三人はその場に到着していた。最初は事態がよく分からなかったのだが、須藤が現れ、ひと悶着を起こしている様を見ているうちに、どうやら須藤の周りで何かが起こったのだ、という判断が出来たのだ。そこで、警官達が見て書き込んだりしている書類の中で、啓吾の写真が挟まれているところを見付けたのである。紙にクリップで挟まれた、その体育教室で保管していた啓吾の写真を覗き見て、恐らく騒ぎの被害者はその少年、そして騒いでいる男はその子の保護者なのであろうと推測をし、あとは「寂寥」の動き回っていた軌跡を追うためにその場を離れたのである。空間に歪みとして残っている軌跡を探知器を使って追い掛けけていくと、啓吾の生活圏に、そして神楽坂にある須藤親子の住むマンションに辿り着いたのであった。 都内の夜景を見ながら、混乱した頭を落ち着かせようと須藤は煙草をひたすらふかした。その一本はたちまち燃え尽きた。須藤はもう一本を取り出そうとズボンのポケットをまさぐるが、煙草の箱をソファの前のテーブルに置きっぱなしにしたことを思い出した。それを取りにいこうと振り返ると、そこにトルソが立っていた。キャビンの箱を手にしている。 須藤は目を見張った。幻めいた、しかも体の向こう側が透けて見えるような者が自分の煙草の箱を手にしている。箱は半ば宙に浮いたように見えた。だが、それはトルソにとってはそれなりの精神集中を必要とした。言うなれば、幽霊が物を持ち上げて運んでくることと同様なのだ。アメリカ映画で、幽霊を演じる男優がコインを指に載せ、それを愛する妻の目の前へ持っていくシーンがあったが、実はそこまで簡単に出来ることではないのだ。何しろ、彼等の体や所持品と、現世の物質とは組成が異なるのだ。まさに神業に近い芸当である。 須藤はぽかんとした表情をトルソに向けていた。トルソはシュナに向けて、人差し指を立てて動かした。シュナは真弓香の写真の隣にあった写真を持って来た。そこには須藤と啓吾が映っている。二人で佐野にあるアウトレットへ行った時の写真だ。二人が舌を出しておどけた表情で写っている。啓吾は腕を伸ばしてVサインをし、その啓吾に左腕を回し、その頭に手を置いている須藤がいた。楽しかったあの夏の日。その写真をトルソは指差した。厳密には啓吾の顔を指している。須藤は何故か、その想い出を汚されたかのような思いになり、腹が立ち、その写真を強引に取り上げた。 ふと気が付いた。大男は啓吾のことを指差していた。まさか、今回の啓吾の失踪に一枚噛んでいるのではないか? そんな思いが頭の中を一挙に整理し、その思い一つのみに集中出来た。 「お前達、まさか……啓吾がいなくなったってのは、まさかお前達が……」 トルソ達の言葉は須藤には届かぬが、須藤の言葉はトルソには届いていた。耳に聞こえるというのではなく、脳に直接響いてきた。トルソは手を前に出し、掌を須藤に向けると、大きく首を横に振った。 「副隊長殿。我々はこんな茶番劇をしている場合ではないのでは」 シュナが溜め息をついて言った。 「それに我々にとって、この男が何かしらの有益な情報を持っているとも思えません。対象となる『あれ』がその痕跡を完全に消し去ってしまった以上、我々は帰還するべきではないのですか? それも一日も早く」 トルソは静かに頭を上げると、息を一つ吐いた。 「そうだな。お前の言う通りだ。それに茶番に見えても仕方がないな」 そう言うと、須藤のほうに視線を向けた。 「あの黒き邪なものは……人の心を貪る」 シュナとヴィクセンはトルソを見た。 「心?」 「そうだ。ここからの話は私の推測でもあるのだが」 トルソは思い切りを付けたかのような表情になった。 「奴が欲するのは人の負の心だ。憤怒、悲哀、背徳、嫉妬、不信、強欲、恐怖、不安、偽善、羨望、嫌悪、怨恨、虚偽、我執、寂寥、執着……それは人の心に常に付き纏う。だが決してそれが不自然なものとは限らない。それらがあって初めて物事を学び、体験し、学習していく。そうした暗闇を乗り越え、前へと進んでいく。それが人の心の成長だ」 ヴィクセンは首をかしげ、おもむろに口を開いた。 「副隊長、一体何の話をされているのか……」 トルソは小刻みに二、三度頷くと話を続けた。 「闇はその解釈の仕方で光へと転じることが出来る。前進するための原動力にもなり、また闇に捉われた者に対して理解するための要素にもなる。相手の痛み、悲しみ、辛さを理解するには、その闇を自ら知り、経験することも必要になってくる。更なる光を得るための糧になるわけだ。つまりは、互いに相反するものではあるが、正の心と負の心、両者は人にとってなくてはならないものになる」 シュナの表情が曇った。 「では、その負の心を奪い取られれば……」 ヴィクセンがその言葉の後を追うように言った。 「正の心のみが残る。それはいいことのようには聞こえるけれど、しかしそれは不自然である……ということですか?」 トルソは低い声で答えた。 「そうだ。奴には光ある心には手出しが出来ない。やつは闇の心の化身だ。光に当たれば、奴は浄化される。闇の神の遣いである奴にとっては、きっとそれは致命的な弱点となるであろうと私は考えている。逆に、負の力が占めた心は奴の糧になる。それを糧とし、その力を増幅させ、果てに目指すものは……センチュリオンに関する伝承は知っているな?」
見よ。世に住む者、敬う心失いし時、信ずる心失いし時、慈しむ心失いし時、その者己が呼び起こしたる闇に喰われるであろう。闇は神の遣いとして光に代わり世に降り注ぐ。全ての者己が患う病により滅びるが運命を歩み、世は今再び清められ、万物は無へと還り、最終的救済を迎えるであろう。光も闇もその役目を終え消え行く。それこそが自然の摂理であり、神の摂理である。その闇、センチュリオンこそ全てを救済する闇の神の遣いとなろう
「……と言うことは」 シュナの言葉に、トルソの表情が険しくなった。 「私もよく分からない。だが、その伝承では、センチュリオンが目覚め動き出せば、光も闇も消滅させられるとある。闇が消えるとなると、奴の存在そのものも消し去られることになるのだが、もし奴がそれを望んでいるとすれば?」 「自身が消え去ることを望んでいる?」 「センチュリオンが負の心の力の化身であれば、苦しみの化身であれば、そしてそれから解放されることを望んでいるとすれば? 負の力を強め、果ては光さえをも飲み込み、闇と変えてしまう。だが、闇だけではその存在は不完全なものとなる。不完全なるが故に、均衡が破れ、いずれは闇も消え、奴の苦しみも消える。全ての苦痛から解放される」 「光も闇も消える……待ってください。では、伝承にある『万物は無へと還り、最終的救済を迎えるであろう』と言うのは?」 「全てが無に飲み込まれる。それが故に、心を奪い去られた人間達は倒れ、かつて心があったところを無にされてしまい、後はまるで亡骸のようになったその肉体だけを残すことになってしまった。我々が奴の軌跡を追ううちに、犠牲となった者を見てきただろう?」 三人は現在昏睡状態となっている子供達の入院する病院をも既に見て回っていた。子供達の姿を見て、ヴィクセンは自らの手を口に当て、「酷い」と呟いていたのだった。 「では、奴の目的は、全てを消滅させることだと?」 シュナが呟いた。トルソはなおも続ける。 「私が先日遭遇した『それ』は、仲間や艦を消し去った。無へと変えられてしまったのだ。そう考えれば納得することが出来る。奴はこの世界や我々の世界を消滅させようとしているのかもしれん。そして自身もやがては消滅し、『救済』を手にするのかもしれない……」 シュナは苦虫を噛み潰したような表情を見せた。 「それが『最終的救済』だと言うのですか? もしそうだとするのなら……ふざけている! 全てを消し去って、何が救済だ?」 「だから、私はセンチュリオンに対抗し得る力になるかもしれない、この心の光を持つ男、目の前のこの男に関心があるのだよ。この者は奴に対抗出来る力を持っていると思うのだ。いや、信じられるのだ。だから……」 「だから自分に接触してきたと言うのか?」 須藤はトルソに向かって言葉を向けた。トルソは驚きの表情を須藤に向けた。 「な……聞こえていたのか?」 「よく分からないが、あんたの目を見ていると、何かのメッセージみたいなものを持っているんじゃ、と言う気分になったんだ。あんたが自分に何を言わんとしているのか、どう受け取ればよいのか、それを考えた。だから……心を落ち着けることが出来た。啓吾のことも知っているのでは、と思ったし……」 須藤は吸い掛けの煙草を持ちながら、トルソをじっと見つめていた。 「だが、それは到底信じ難い話だ。まるで絵空事のように思えてならない。何かその話を立証出来るものがあるのか?」 「少なくとも、そなたが今我々を見て、その声を聞いていることは、そなたにとっての絵空事が現実の出来事となった、その証明の一つにはならんか?」 トルソは穏やかな口調で須藤に言った。 「そして奴はそなたの子供を奪っていった。生きたままのそなたの子供は我々の世界では途方もない力を持った存在となる。そして、そなたとは強き信頼の絆で結ばれているその子は、きっとそなたが今持っている光と同じものを持っているのであろう、と私は思う。その光をもし取り込むことが出来れば、それは奴の側の陣営にとって強力無比な力となろう」 「生きたまま? どういう意味だ? 奴とは何者だ? あんた達の言う、『我々の世界』とは何なんだ?」 トルソは黙った。果たして真実を話して、この男が納得出来るのであろうか。 ヴィクセンその代わりに口を開いた。 「私達は、貴方がたの言う『来世』から来たのよ」 「来世? ……あの世、ってことか? じゃあ、あんた達は幽霊だって言うのか?」 シュナが須藤をじっと見据えながら言った。「幽霊」なんていう言葉は初耳だ。 「ユウレイ? 何ですそれは? 我々のことを貴方達はそう呼称しているのですか?」 トルソが掌を向けて制した。 「そこのところはよくは分からないが、我々の世界とそなたの世界とは実は繋がり合っているのだ。二つの世界は大海原での水の流れのように続いている。その流れを形作り結び付けているのが人の心だ」 人の心は何処までも繋がっている。陽の心も陰の心も、全てが互いに結びつき、バランスをとり、表裏一体となって、果て無き河の如く流れている。その中で浮き沈みする数多の人の思い。それは世界を駆け巡り、人と人とを結付け、そして循環している。大海の海流のように、体の中を心臓に押し出されて力強く流れる熱き血潮のように、それは有限の命の垣根を越え、その遥か彼方まで流れ、思いを育み、温かく大切に包み込みながら、長き道程を通って旅をする。そして再び我々のいるこの世界へと流れ戻ってくる。 人の心の終わり無き循環。人の思いの果て無き連鎖。生死を越えて流れる精神の大河。人の縁(えにし)の輪廻。 「奴はその流れを絶とうとしている」 「じゃあ、そのために啓吾は連れて行かれたと言うのか?」 「それは奴自身にしか分からない。だが、少なくとも……」 シュナが口を開いた。 「その子供をセンチュリオンの手に渡せば、我々にとってとんでもないことになると……」 トルソが返した。 「我々にとってだけの話ではない。センチュリオンはこの世界や我々の世界にとっての脅威となろう」 須藤の心に怒りが再び巻き起こってきた。 「何がなんだかよく分からんが、あんた達のごたごたで息子を巻き込んだと言うのか?……何をしてくれるんだ……っ!」 シュナの表情が一段と険しくなった。 「これは我々だけの話ではない!貴方の住む世界にとっても危険なことであると副隊長殿が今話しただろう? そうか……分かった」 シュナは須藤を憎憎しげな目で見やった。 「このような者がこの世界に溢れかえっているから、我々の世界もその煽りを受けているんだ。自分の子供さえ何事もなければいい、他の誰かがさらわれたほうが良かったとでも言いたげな、自己中心的なエゴイズムの塊であるこの者が!」 「口を慎め、シュナ! この者は消えた子供の親だ。仮にそう言う言葉が出てきたところで、別に不思議ではない。親はとかく自身の子供の幸せを最優先して考えるものだ。そしてその不幸など考えたくもない。だからこそ、子供にとって親は最大の味方になり得る」 「親にとっても子供は最大の味方だ。力の源だ」 須藤はゆっくりと、自身の冷静さを失うまいとしつつ語った。 「そして共に生きている。共に生かされている。他の何者にも断ち切れない絆で結ばれているから。啓吾は自分の力の源だ。そして……」 須藤の目に涙が浮かぶ。 「啓吾を……愛しているんだ。心から大切なんだ。啓吾を守るためならどんなことでもする……出来る……啓吾のためなら不可能なんて自分にはない。何故なら……自分は……親なのだから」 頬にこぼれるように流れる涙を感じながら、須藤は何故そんなことをこの大男に話しているのだろう、と不思議に感じていた。そして、トルソは自身の目を寸分たりとも逸らさず、須藤の、そのまっすぐな目を見つめた。 「そなたの息子はケイゴと言うのか……」 トルソは姿勢を正し直すと、改めて須藤に言葉を向けた。 「そなた、そなたの名前を教えて戴きたい。私はトルソ。親愛なるアフェクシア女王陛下に仕える誇り高き空間近衛騎士団副隊長である。ここにおる者は私の仲間だ。若い男のほうはシュナ、そしてヴィクセン。共に陛下にこの世界に派遣されてやって来た。この世界に侵入した敵を追跡している」 「自分は……須藤一樹」 「スドウカズキ。その名前、覚えておこう。そこでカズキ。そなたに一つ訊く」 トルソの表情が厳しく引き締まった。 「……我々と共に来る気はあるか?」 シュナとヴィクセンは驚きの表情を顔全面に浮かべた。 「副隊長殿!」 「ちょっと、一体何を……」 「私はカズキに訊いている」 須藤の頭の中は再びホワイトアウトの状態になった。啓吾が突如その姿を消し、普段の生活が音を立てて崩れ去ったことを未だ信じ切れないというのに、今度はいきなり自称「あの世からの使者」の大男が現れ、今まで思いも考えもしなかったような荒唐無稽な話をし、おまけにその「あの世」らしき場所へ一緒に来る気はあるかと訊いてくる。あの世からの者であるかどうかはともかく、その格好はまるで中世の欧州の貴族のような甲冑を身に纏っていて現実感が全く感じられず、この東京の神楽坂のマンションに現れたことも信じ難かった。それどころかその三人の身体が透けて見える、向こう側が見えるなど、あり得ないことが自分の視界の中で起こっている。そんな状況で「一緒に来るか?」と訊かれて、イエスと即答出来るわけがない。さすがに警戒心が「待った」を掛けてくる。 「カズキ。今、私の声は聞こえているな? 私の姿はどう映っている?」 トルソのその一言で、須藤にはさっきまで向こう側が透けて見えていたトルソの身体に変化が起きていることに気付いた。いや、変化を起こしているのは須藤の目のほうだ。透けていない。今、明らかにしっかりした質量を持った人物として、トルソや他の二人は須藤の傍に立っている。 トルソは自分の右手からガントレットを外した。そしてその手を須藤に差し出した。 「私の手に触れられるか?」 心臓が跳ね上がった。今の今まで幻覚のように見えていた者の手に触れる? 須藤は生唾を飲み込むと、トルソの大きく力強い右手を見つめた。節くれだった太い五本の指と、うっすらと毛の生えた肉厚の手の甲が目の前にある。須藤はそっと自分の手を伸ばした。だが、その手はトルソの手に触れることなく、空を切った。 「私を信じるんだ。全てにおいて、相手を信じることは大きな力を生む源となる」 信じろ? この幻覚のような男を? だが……目の前にいるこの人物は明らかに、須藤のこれまで持ってきた常識を短時間で簡単に打ち破った者だが、その真摯な表情と目は信じるに値するように思えた。口から息をゆっくり大きく吐き出すと、須藤は再び手を伸ばした。 その時、奇跡が起こった。 須藤の手はトルソの手に触れたのだった。その触感はトルソにも感じられた。トルソは力強く須藤の手を握り返した。トルソの手の温かさが須藤の手に伝わってきた。トルソは口元を緩め、笑みを見せた。 それを見たシュナやヴィクセンにも驚きの表情が浮かんでいた。二人とも口をぽかんと開け、その光景から目を逸らせずにいた。 「返答は今すぐにとは言わない。我々は三日後、この世界を起つ予定だ。我々が通り抜けられるだけの空間歪曲は、三日後の夜まで出現しないという計測結果を予め得て来ている。三日後だ。それまでに決心が付いたら、この町に最も高い金属の塔の建築物があるな? ここから東の方向にある塔だ。その地点まで来て貰いたい」 東京スカイツリーのことを言っているのだ、と須藤は判断した。 「シュナ、ヴィクセン。行こう」 そう言うと、トルソは須藤から離れ、元来た方向へ、つまりはすり抜けて来た壁のほうへ歩き、入ってきた時と同じように壁を抜けて姿を消した。他の二人も同様にして部屋から出て行った。 須藤はベランダにある手すりにその身を寄せ、背中を手すりに押し付けたまま、ずるずると下へ崩れ落ちていった。腰が抜けたのだ。 「あれは……夢か?」 須藤はそこで初めて、自分の顔に当たる夜風に気が付いた。 東京の市街地は、いつもと変わらぬ無数の光点をその夜の闇に浮かべていた。
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