この水面下で起こり始めている、いや、まだ「起こる」までには至っていないこの一件。だが、先ずは例の精神科医とその知り合いの二人を「殻」にしてやった。そのことから今回の計画が明るみに出始めるであろう。次にあの女だ。自分を見て、子供を放って逃げ出したあの女。あいつを「殻」にしてやる。例の「光を放つ」子供を引きずり込むのはそれからだ。どういうわけだか、現世の人間の一部には自分の姿が見えるようだ。それはそれで都合がいい。自分は「主の存在を知らしめる」ことが任務なのだから。恐怖がこの世に満ち溢れ出せばいい。焦ることはない。種さえ蒔けば、後はどうにでもなるのだ。 眠る我が主を目覚めさせるには、まだ陰の感情が足りない。それも純粋な陰の感情。その感情に支配された心。暗く染まった潜在意識。大人のそれでは力に欠ける。様々な要素が入り組んだ大人の意識や心では、主の「体」が汚される。先に未来を持つ子供の底無しの絶望、悲哀、憎悪、それらこそが主の求めたる要素なのだから。 だからこそ、あの子供をそのままで引き込んでしまうのだ。その心の放つ膨大な光を闇に変えてしまうにはそれが手っ取り早い。しかもその力は膨大だからこそ、それが転じて形成される闇の持つ力も比例して大きくなる。 金色の雑兵どもよ。如何にあがこうが、一気に形勢を我等がものにしてくれよう。一度はあの女王の生きた世界を潰してやった我が主だ、この世界もまた同様に陥れてくれる。
我が主、大神タナトスの願いを果たさんがために 我は神に仕えし精鋭センチュリオンの誇り高き使い魔 我の名は「寂寥」
漆黒の異物は風に乗り、体を四散させては一箇所に集まり、再び四散させてを繰り返しながら、夜が明け始めた東京の空を飛び続けた。
※ ※ ※ ※ ※
治美は幡田俊哉少年の入院する病院へ向かっていた。その後の様子が気になって仕方がないのだ。胸騒ぎがしてならない。 治美は電車の中で携帯電話を取り出し、Webのページを開いた。今回の一件がサイトで騒がれ始めている。甲斐隆一が見ていたものと同じサイトだ。新しい書き込みがされていないかを調べ始める。特に新しく更新された形跡はない。治美は何度となくページを閉じ、再度アクセスしてまた閉じることを繰り返した。そうすれば最新の書き込みが出るかもしれない。 治美の携帯電話にメールが一通入ってきた。多々良からだ。
「例の精神科医がおかしくなって発見された。あの子供達と全く同じだ。何が起こっているんだ?」
治美の背中に冷たいものが走り抜けた。背中がまるで鉛の棒を突っ込まれたかの如く硬直する。 治美は返信メールを入れた。
「今、幡田少年の入院している病院に向かっている。着いたらまたメールします」
再びWebを開き、サイトにアクセスを試みる。新しい書き込みがあった。
32 ..マジでヤバイ名無し..2012/07/02(金) 11:17:28 ID:6jC+EyOLs 子供が昏睡状態になりました。意識が全く戻りません。三人ともです。どうなっているのか全然わからない。
昏睡状態? 事態はそこまで切迫しているのか? だが何かしら具体的に行動されるだけの事件性が見出せない。何かが起こっていることには間違いないのだが、公に行動されるだけの具体性や動機が説明出来ない。どうしたらいいのだ? 治美は途方にくれた。電車が信濃町駅に到着した。
「戸田さん……え? 児童福祉司さんですか?」 「はい、こちらに入院中の幡田俊哉君のお見舞いに伺いました」 「ええ、ちょっとお待ちを」 無表情な様を崩さない看護師がナースステーションの奥に引っ込んだ。しばらくすると戻って来て、治美に伝えた。 「申し訳ありません。幡田さんは現在面会謝絶中です」 何ということだ。何が起きたと言うのか。 「今朝未明より、原因不明の昏睡状態になっておりまして……」 治美の足元が震え出した。 「た、担当の先生はどちらです? お話を伺いたいのですが!」 「えっと、ああ、庄司先生ですね? 先生は今外来に入っておられます。脳神経外科になります。お待ち戴く時間が掛かりますが、宜しければあちらの六番の診察室の前へどうぞ」 治美は言われるがままに、受付を離れて左手にある六番の表示の掲げられた待合所の前へ歩いた。内科とは異なり、多少は数が少ないものの、数名の受診待ちの患者と思われる者が長椅子に腰を下ろし、静かに時を過ごしていた。ネット状の弾性包帯を巻いた少年の隣に座る母親らしき若い女性が、息子の受付番号が表示される予定のデジタル表示板をじっと見つめている。小柄な初老の男性が俯き加減で座っている。見た目三十代の男性が脚を組み、両腕を長椅子の背もたれに左右に大きく伸ばした姿勢で順番を待っている。普段なら、自分は患者ではないのもあってなのか、些かばつの悪そうな気分を味わうところだが、さすがに今回はそんなものを感じるだけの心の余裕がない。焦る気持ちを抑えつつ、治美も長椅子に腰を下ろした。何かしらの交響曲が静かなBGMとして流れている。周りは明るく、一昔前の病院にありがちな陰鬱な雰囲気を払拭している。しかし、それでも何処となく無機的な感覚を感じないではいられない。 全く、こんな時に…… 治美は座って五分も経たないうちにおもむろに立ち上がり、右手奥に見える化粧室へと向かった。早々に済ませるものを済ませ、鏡に映る自分の表情を見ながら手を洗った。 「酷い顔してる」 何処となく暗さの滲み出ている自分の顔から目を逸らすと、上下に動かすレバーを下げて水を止め、濡れた手を送風機で乾かし始めた。うるさいまでの送風機の音が耳に響く。 その時、マナーモードに設定してあった携帯電話が振動した。着信番号を見る。多々良の携帯番号だ。 「もしもし、次朗?」 「治美か? 今別件で近くまで来ているんだ。ちょっとそっちに顔出すよ。子供の様子はどうだ?」 「それが、今朝早くから昏睡状態になってるって……」 「マジかよ、おいおい……例の医者といい、その子供といい、どうなってんだ? お前は大丈夫なのか?」 「ああ、私は……」 大丈夫、と言い掛けた治美は言葉を飲み込んだ。化粧室の中がふと明るさを落としたのだ。
壁の突き当たりにある縦長の窓の外が真っ暗に変わっている。今はまだ正午前なのに、窓の外はまるで夜の様だ。 「治美?」 多々良の声が微かに聞こえてくる。治美は携帯電話を持っていた右手をだらりと下へ落とした。 窓の枠から黒い煙上のものがゆっくりと室内に入ってきた。 「嫌……」 治美はその侵入して来る異物に目を釘付けにされながら呟いた。異物は床に溜まり出すと、入ってきた速度と同じ緩やかさで「塊」を形成し、その背丈を伸ばし始めた。天井に届いた異物はまるで、真夏の昼下がりに発達した鉄床雲(かなとこぐも)の如く、その上方を平たく四方に広げ出していた。眼窩に眼球の位置していない、節穴のような目をした無表情な顔が浮き上がり、それはじっと治美を見据えた。 「おい、治美?」 多々良の声が床に落ちた携帯電話から聞こえてくる。 「いや――――っ!」 治美は叫ぶと、瞬時に化粧室の扉を開け、その身を転がすように外へ飛び出した。それと同じタイミングで、治美が立っていた洗面台の前へ異物は波のように、獣のような雄叫びを上げながら、その固有の形を持たぬ体で飛び掛かっていた。治美の落とした携帯電話を通じて、治美の絶叫と、異物の耳障りな咆哮は多々良の耳にもはっきりと伝わった。 「何だ今のは? 治美! どうした、電話に出ろ!」 何の音も聞こえない。ふと電話が切れた。多々良は自分の携帯電話をたたみ、ジャケットのポケットに突っ込むと、治美と共に訪問したあの病院へと走り出した。
治美は一目散に廊下を走り、正面ロビーへと飛び出した。異物は猛烈な勢いで化粧室から飛び出し、壁に跳ね返り、岸壁に打ち付けられた波の如くその体をロールさせると、治美を追い始めた。治美はロビーを行き交う人々の合間を抜け、正面入り口へと全力で駆けた。周りの者達が声を上げながら走る治美のほうを見ている。だが彼らには、治美の後ろから迫る漆黒の異物には全く気付かない様子だ。治美は後ろを振り返りながら走り、入り口の自動ドアに体をぶつけた。センサーの小さなランプが赤色から緑色になり、ドアが開いた。治美はドアが完全に開き切らないうちに、またもや転がるように病院の外へ飛び出した。目の前の車椅子に座った男性にぶつかったが、謝罪の言葉の一言を言う余裕もなく、体勢を治すとそのまま前へ走った。 間違いない。あれは私を狙っている。 治美の脳裏をぞっとする考えが走った。 異物が長い「槍」のような姿になり、治美が接触した車椅子の男性へと突進して来た。槍状の異物が男性の胸を刺し貫いたが、男性は何事もないかのように、逃げる治美に視線を送っていた。それを治美は再び振り返り、その様を目にした。 慌てふためく時は人は往々にして混乱状態に陥るが、中にはやたらに冷静に物事を瞬時に判断する者もいる。治美はそのタイプだ。 あれは無作為に人を襲っているのではない。子供もあれが敢えて狙って「攻撃」を仕掛けたのだ。そして今は私を標的にしている。 治美はそう解釈すると、敢えて人通りのある広めの路地へと逃げた。裏道に駆け込んだらどうなるか分からない。もし、他の人々に危害を加えず、私だけを狙うのなら、却ってそのほうが都合がいい。人混みに紛れさえすれば…… だが、それは治美の愚考でしかなかった。異物は正確に治美を追い掛けて来る。あれは人ではないのだ。他人に紛れて逃げおおせようなど、所詮は無駄なのだ。人混みをするりと交わしながら、異物は迫っていた。 異物は姿を変えた。「槍」からその体を分散させ、一部を「狼」に、他を「烏」へと姿を変え、治美への追跡の手を緩めようとはしなかった。顔こそ分からない、いや、輪郭だけが「狼」のその漆黒の異物は、到底女性が走って振り切れるものではなかった。通りを走り抜け、道行く者達の合間をすり抜け、車のボンネットの上を時折跳ね回りながらたちまち追い付いた。それは路面を蹴り上げ、治美に飛び掛った。 その瞬間、別の異物が治美と「狼」の間を走り抜けた。「狼」の形をしたものが、手で散らしたような煙のようになって四散した。治美は唖然とした。 あれは鳥? 更に明らかに人が、それも長髪の人物が座乗している。
空間近衛騎士団員のヴィクセンはその体勢を立て直すと、右手に剣を握り、人ごみの中へと急降下を掛けた。数頭の「狼」が、普通の狼なら不可能なほどの高さまで飛び上がり、その口を大きく開いてヴィクセンの乗るグリフィスに襲い掛かった。ヴィクセンは剣を大きく振るうと、漆黒の「狼」をなぎ払った。それらは宙で四散し、黒い靄となって上へと立ち昇ると、一つに集合し始めた。グリフィスは路面すれすれの高さを飛び、目前に停まっていた路線バスの手前で急旋回を掛けると、飛来してくる「烏」の前へと身を乗り出した。ヴィクセンは手にした剣を大きく振り上げ、数字の八の字を描くように高速で回転させ、愚直なまでに突進してくるそれらを切り落とした。「烏」はその体を散らせ、黒い靄に姿を変えると同様に一箇所に集まり始め、球の形を作り始めていた。 通りを歩く大勢の者達にはこの騒ぎが全く見えていないようで、単に何かに怯える治美が路上で座り込み、眉間に皺を寄せた表情で斜め上を見上げているにしか映っていない。初老の婦人が治美の傍で膝を落とし、大丈夫ですかと声を掛けてきた。治美は数秒の間を空けてその婦人の顔に視線を戻すと、言葉にならぬ声で返答し、数回頷いた。 あれは何だ。あの黒い異物でさえ何が何だか分からないまま、今度は巨大な真っ白い鳥に跨った、西洋甲冑のようなものを纏った者が現れ、剣を振り回しているではないか。頭に被る兜の首の辺りから、茶褐色の髪が踊っている。鳥はまるで鷲に見えるが、頭や尾羽から長い触角のようなものが伸びていて、それらがせわしなく動いている。あれも他の者達には見えないのか、一人として関心を示す者がいない。あれは幻覚なのであろうか。ただ唯一分かることがある。 あの鳥に跨る人物は黒色の異物と戦っている。
「ハッチェス、いい感じだ! あの真っ黒い玉に向かうよ!」 ヴィクセンはハッチェスと呼ぶ自身のグリフィスの首を、剣を持たぬ左手で力強く撫でると、黒い靄が集まる球体へと突進を掛けた。球は一度大きく身震いをすると、無数の黒い「棘」をグリフィスの正面に向けて撃ち始めた。 「ちょっと! 何すんのよ、このバケモノ!」 ヴィクセンは叫ぶと剣で棘を払い退けた。「棘」が塵のように空中に散る。 異物に再び屈辱の思いがよぎった。昨夜の男同様、この者にも自分の力が通じない。剣も消滅させられなければ、あの者はとにかくちょこまかと動き回る。なかなか動きを捉えられない。何だというのだ。鬱陶しい。実に鬱陶しさ極まりない。ならばあの女だけでも喰らってやろう。あの生ける女の潜在意識を根こそぎ引き抜いてやる。どれだけ自分に楯突いても、連中には自分をどうこうすることが出来ない。せいぜい攻撃を避けるだけだ。その中であの女を襲い、もぬけの殻にしてやれば、連中はその無力さに地団駄を踏むであろう。 異物は分裂した自身の体の一方を治美へと向かわせた。黒い球体は大きな「掌」の形に姿を変え、治美に掴み掛かろうとした。五本の指を大きく広げ、座り込む治美に覆い被さろうと急降下を掛けた。その一部始終を見つめていた治美は絶叫し、その目を閉じた。 一本の剣が回転しながら何処からともなく飛んできて、その「掌」を切り裂いた。剣はブーメランの如く回転しながら空へと上がり、戻ってきたところをもう一人の金色の甲冑を纏う者が掴み取った。 「ヴィクセン!」 傍に立つビルのガラスの壁を垂直に降下してくるグリフィスがあった。白い頭に黒の体というツートンカラーが印象的な、新たなトルソのグリフィスだった。 「副隊長殿!」 同時に褐色のグリフィスも飛来してきた。 「ヴィクセン、無事か?」 シュナの声だ。 「シュナ! あんたも無事に着いていたのね!」 「ああ。話は後だ」 シュナは冷静なままの声で言い、ヴィクセンの隣に自身のグリフィスを着けると、そこにトルソが合流した。 「シュナ。無事か?」 「副隊長殿もご無事で」 シュナは兜越しに異物を睨み付けた。目の部分に当たる箇所に入った兜のスリットの中に赤いバイザーが見える。その赤きバイザーを通して、シュナの冷ややかな視線が異物を捉えて離さなかった。 「やつには剣での攻撃が全く通じません。我々の武装ではダメージを与えられないんです」 シュナはトルソに、昨夜の出来事から、異物が直接的な攻撃を受け付けなかったことを伝えた。 「そうか……霞のようなやつだからな」 異物は空中でホバリングしている三人をじっと見つめていた。連中には一つ分かっていないことがある。剣などで打撃を与えられないことはさほど重要ではない。自分に攻撃を仕掛けてくることが即ちどういうことなのか、全く理解していない様子だ。 その敵意、その憎悪、その感情こそが異物の原動力なのだ。 「金色の雑兵どもよ」 異物は三人に語り掛けた。聞き苦しい声が脳に直接響いてくる。 「我を見くびるな。その程度の力、我に無いと思うか」 そう言うと、離れていた異物の塊は一つになり、球体になると回転を始めた。球は回転しながら高速で収縮した。トルソは胸騒ぎを感じた。 「散開しろ!」 トルソがそう言い終らないうちに、収縮した球体は一気に放射状に破裂した。その瞬間、衝撃波が全方位に広がり、グリフィスに乗る三名は吹き飛ばされた。それだけでなく、地上の人間をなぎ倒し、建築物の窓を割りガラスの破片を周囲にばら撒き、停車中や走行中の車を横転させた。大勢の者達の叫び声が響き、電柱は揺さぶられ、電線が切断されてあちこちで火花がスパークした。 治美も自分を襲う空振で体を数メートル先にまで飛ばされた。 「治美ーっ!」 泣き声や騒ぎ声の合間から多々良の声が聞こえてきた。 「次朗? 次朗なの?」 治美は上半身を起こすと、多々良が自分のほうへ転がるように走り込んでくる姿を見た。 多々良は治美を力強く抱きしめると、両手を治美の肩に置き、大丈夫か、怪我はないかと捲くし立てるように訊いてきた。 「だ、大丈夫……」 多々良はしばらく治美の目を見つめ、黙って力強く頷くと、周囲を見回した。 「何なんだ…… 爆発物なのか?」 治美は黙っていた。自分の傍で今し方起こっていた出来事の一部始終を治美は見た。治美には見えていた。あれが何なのか分からないが、まるでCGで描かれた映画のワンシーンのような光景を、自分はきっと忘れられないであろう、そのように感じていた。 体の震えが止まらない。
※ ※ ※ ※ ※
今日に限って母の姿は見えない。啓吾は焦る心を抑え切れないでいた。 時間は午後五時を回っていた。今、啓吾はいつもの体操教室に来ており、Tシャツに短パン姿で体育館の床に座っていた。今日の種目は跳び箱だ。年齢の近い仲間が助走を付け、踏み切り板でジャンプする音を館内に轟かせながら、箱を飛び越えていた。 「須藤君。須藤啓吾君」 啓吾の順番が来た。若いインストラクターの男性が啓吾の名を呼んだ。最近は体育館の入り口辺りで母が立って、啓吾のほうを見て笑顔を向けてくれているのだが、やはり姿が見えない。些か意気消沈しながらも、啓吾は手を上げ、「はい」と大きな声で返事をするとスタート地点まで歩いていった。床に貼られたビニールテープのラインの傍に立ち、先にある跳び箱を見据えると、大きく深呼吸をして走り出した。踏み切り板を踏み抜き、その体を力強く浮かせる……
跳び箱のすぐ先から、下に敷かれたマットを背にして仰向けになっている母が一瞬目に映った。母は両腕を大きく広げながら、対面を持ち上げてくる公園のシーソーのように上半身を素早く浮き上がらせてくると、啓吾の目と鼻の先にまで顔を近付けてきた。 「わぁっ!」 啓吾は驚いて声を上げた。だが体の跳躍を空中で止める術などない。 「けいちゃん」 「それ」はそう言うと、その顔を縦に真っ二つに観音開きにし、その中から真っ黒な靄を噴出させ、頭から啓吾を包み込んだ。
インストラクターは口にくわえていたホイッスルを落とした。首から下げたホイッスルがぶらりと彼の胸元に下ち、小さく揺れている。唖然とした表情でぽかんと口を開けたまま、彼は跳び箱を見つめていた。他の子供達も言葉を飲み込んだままで、体を微動だにせず、同様に跳び箱に視線を送っていた。 啓吾は何処にもいなかった。 彼等の目の前で、啓吾はその姿を完全に消してしまった。
跳び箱の上に漂う黒い靄はゆっくり天井に上りながら、徐々に消えていった。
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