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作品名:リフレクト・ワールド(The Reflected World) 作者:芽薗 宏

第14回   第十二章 覚悟
 霞の掛かったかの如き空には、太陽が弱々しい光を地上に投げ掛けていた。空気は乾燥し、周囲を埋め尽くす土やコンクリート屑が強風に巻き上げられ、地上から高さ十メートルの辺りを靄のように染めつくしている。平坦な土地は見当たらない。木や花、草といった緑も目に映らない。存在するものは、以前は都市であったのであろうと思われる瓦礫のみ。それらが累々と横たわっている。女は茶色の薄汚れた布を頭から被り、体に巻き着けた格好で、かつて舗装されていた道を風に逆らって歩いていた。
 埃を巻き上げた暴力の如き強風が容赦なく彼女の顔に吹き付けてくる。顔に巻き着けた布が何度も額や頬を叩いてくる。彼女の足取りは重く、足場の悪い道なき道を、足を引き摺るようにしてゆっくり、またゆっくりと一歩ずつ前へ進んでいた。布の隙間から垣間見える顔面には無数の砂や埃がこびり付き、本来なら絹のように滑らかに流れているブロンドの髪は強張り、櫛も通さないような硬く細い束が幾つも出来、それらの先端が風に揺れながら両目を突こうとしきりに動いている。目を細め、髪の先や風、大量の埃から眼球を守ろうと瞼を極力下ろしながら、彼女は俯き気味でふらつく足元を睨み、懸命に前進していた。
 だが、絶望の黒色に染められた心を内に抱えていては、どれだけ踏ん張ろうとも力が出ない。足取りは更に遅くなり、ついに彼女は前進を止めた。
 一段と強い突風が駆け抜け、顔に巻かれた布を払い退けた。長い髪が風に舞い宙を踊る。端正な顔立ちは苦痛で歪み、もはや流れ尽くして出ては来ない涙を堪えるような表情をしている。歪んだ口元の双方の口角は乾き切り、唇は乾燥して荒れている。その口角から声が漏れ始めた。絞り上げるような、心の中を吹き荒れる絶望、悲哀、寂莫感が隙間から漏れ出してくるかのような、低い声。それは徐々に音量を増し、やがては泣き声に、そして絶叫へと変わっていった。
 彼女は、その場で自身の心身を容赦なく切り裂こうとしているかの如き叫びを、泣き叫ぶ声を足元にぶつけた。そして顔を濁った空へと向け、大声で泣き喚き始めた。残った体の力を全て出し尽して泣いた。風の音に掻き消され、その腹の底から噴き上げる絶叫は周囲には伝わらない。
 だが彼女は叫び続けた。
 
 自分の愛する息子を目の前で奪われた時の怒り、悲しみ、息子を助けられなかった自分自身への呪詛、息子を連れ去っていった悪魔への怒り、様々な負の感情が嵐となって吹き荒れていた。愛する息子を目の前で「連れ去られてしまった」母親の嘆きは、乾き切った風の音に飲まれて掻き消された。

   ※ ※ ※ ※ ※

 アフェクシアはぎょっとした思いに身を振るわせつつ、椅子の上で目を覚ました。どうやら会議の後に自室に戻り、腰掛けてからうとうとと眠ってしまったようだ。ゆっくりと椅子から身を起こすと、アフェクシアは立ち上がり、会議前に眺めていた湖の見えるテラスへと歩んでいった。航海を終えた各艦船が停泊し、その傍の水面を水鳥達が進みながら、穏やかな細波をたゆませている。
 
 また同じ夢を見た。額には嫌な汗が少量滲んでいた。二度と振り返りたくない、記憶の泉から引き上げたくない、そのまま底に沈めたままにしておきたい夢。だがあの夢には忘れようにも忘れられない想いがある。過去の記憶。遥か以前のものではあるが、映像のように記憶に焼き付けられている。

 突然襲い掛かってきた異変。カタストロフ。他国との戦争や国内の内乱、世界的な株価の大暴落は経済の活性停滞を低下へと導き、人々の心は荒廃し切っていた世界。そこに彼等は突然現れた。空から竜巻の如く垂れ下がる黒雲は分散し、それぞれが異形の姿で人に喰い掛かった。あるものは丸い兜を被ったゴブリンの姿を呈し、地上で空中でまん丸い体を転がしている。あるものは下半身が人間の女、上半身が池や川を泳ぐ鯉のような姿をし、手には槍を握っている。あるものは両脚を腕に変え、長い鎌を構えた烏の姿で人の頭や胸に切り掛かっている。漆黒のウツボが地上で慌てふためく者の胸に飛び込み、背中から飛び出してその目の下深く切り込んだ大口を開け、醜悪な姿を呈しつつ他の者をまた襲っていく。地上を阿鼻叫喚の地獄が席捲し、それに対抗しようと武器を手にする者も次々と倒れていく。軍隊の力も全く歯が立たない。世界中は自らの争いで起こした火と共に、彼らの来襲に怯え慌て騒ぎ立てる者達が起こす火の双方とで焼き尽くされた。
 彼らは人を次々と「もぬけの殻」へと変えていった。心を失い、感情を失い、意思を失い、空っぽの存在にさせられた人間は何をするわけでもない、心臓が動くだけの亡骸となり、その場へ倒れていく。その中、彼らは子供達を次々とさらっていった。親を求め、小さな手を伸ばし、泣き叫ぶ子供達は黒き霧や靄に全身を包まれ、そのまま宙へと放り出され飲み込まれていった。
 
 幼き我が子を胸に抱き、逃げ惑う人々の合間を掻き分けながら、母は燃える市街を走り続けた。燃え盛る建物から舞い落ちる無数の火の粉を、大判のタオルで息子の頭を庇い、足場の悪い道を潰れた車や落下してきた看板、瓦礫の屑などで足元を取られつつ、母は懸命に走った。叫び声を上げながら落ちてきた者が地面で鈍い音を立てる。爆発音の後にガラスの砕け散る音が追い討ちを掛け、辺りを異臭が走り抜けている。膨大な埃と火の粉に熱風が襲い掛かってくる。つまずきながらも、飛んでくる破片で頬や額を切りながらも、火の粉で髪を焦がしながらも、母は走った。何処へ行けばいいかなど分からない。逃げ場など何処にもない。炎と共に黒き異形の侵略者に建物は包まれ、地下鉄の出入り口からも意思を持つ黒き気流がつむじ風の如く吹き上がり、何人もの人間が吹き上げられる。舗装された路面は見るも無残に引き裂かれ、その合間からも固有の形を持たぬ侵略者達が「腕」を伸ばしている。
 母は足をとられた。倒れ行く自身の体のバランスを保とうとするその一瞬の隙に、目の前を漆黒の腕が伸びてくる様が目に映った。腕の中に抱えていた温かい幼子の感触が消えた。転び、頭を上げる。息子の叫び声が一瞬聞こえるも、それは瞬く間に周囲の轟音に掻き消されていった。
 軍隊の放つライフル銃やマシンガンの無機的な音が何処からか聞こえてくる。
「撤退だ! 退け、退けぇっ!」
 絶叫に似た軍人の声がする。轟音を上げ、低空を数機の戦闘機が飛んでいく。それらは何の反撃も出来ないまま、その機体を空中で四散させていった。漆黒の霧の弾道が何本も空を駆け抜け、うねうねと動きながら方向を変えては、一部は地上に下り、軍車両や関係者を跳ね飛ばし、近くに建つビルの外壁へと叩き付ける。

 声が聞こえてきた。耳に音声として聞こえるのではない。脳に直接語り掛けるように「声」が響く。

 大神タナトスの救いを甘んじて享受せよ
 我等は神の僕(しもべ)、センチュリオン

 母は叫んだ。腹の底から言葉にならぬ叫びを上げた。そして息子の名を呼んだ。その声はやがて空全体から、まるで吊り天井が落下してくるかのようにやって来た漆黒のダウンバーストで掻き消された。母はその豪風に体を飛ばされた。地上に未だ立つ人、倒れた人、形を持って建つもの全てをなぎ倒した。
 黒いモップが床を一気に掃除するかの如く。

 アフェクシアはテラスに立ちながら静かに両眼を閉じた。涙が頬を伝っていく。

   ※ ※ ※ ※ ※

 三ホールスの時が流れた。
「陛下」
 グランシュがアフェクシアの居室へと通され、そこのテラスに佇む女王の背中へ静かな声で呼び掛けた。アフェクシアは小さく項垂れると、細い声で言った。
「済まぬ、グランシュ」
 グランシュは驚いた。アフェクシアが自分に「済まない」と言葉を掛けることなど滅多になかったからだ。
「陛下。そのようなお言葉、私には勿体なくあります。どうぞおっしゃられないで下さい」
 アフェクシアはああ言ったものの、自身が赴くわけではない、自分以外の者に託すということに対し、苦痛を感じていたのだ。託す相手、空間近衛騎士団には十分信頼をおいている。特にグランシュと、そのグランシュが一目置く相手には一層のものがある。だからこそ任せられる。しかし今回の任務は王国史上初めての大きなものだ。男性の王なら相手を信頼し、安心して心置きなく任せられるのかもしれない。だが、如何に強靭な精神力と忍耐力、判断力を持ち合わせていたにせよ、アフェクシアも一人の女だ。女性ならではの相手を心遣う気持ちが全くないではない。
 アフェクシアは踵を返した。目の前のグランシュは直立不動で自分の目を見つめている。その瞳には自分の決意を受け止め、その心を汲み取る姿勢が映っていた。そして自分を思いやる優しさも垣間見える。
「陛下の勅命、謹んでお受け致します」
「掛けなさい」
 そう言って、アフェクシアは傍にある椅子を勧めた。グランシュは片手を上げ、それを断った。
「陛下。監視団の人選を申し上げます。シュナ、ヴィクセン、そして……私の総員三名が参ります」
「グランシュ、お前がか?」
 グランシュは頭を下げた。
「任務に関し、今回は我々が、いや、この世界に住むことになった者が未だ赴いたことのない場所です。ここに転生する前に生きていた世界であるとは言え、現世の者の言う『魂』としての我々にとっては未知の世界であると申せましょう。シュナやヴィクセンはここで生まれ育った戦士。つまりは前世に関する全てが消去された者。そのほうが下手に何かしらを思い返さずに済みますからよろしいでしょう。ですが、そんな彼等だけでなく、私自身も参ります。騎士団としては手前味噌ではありますが、それ相応の経験を積んで参りました。彼らを導くには適任であると考えます」
 アフェクシアは黙ってグランシュの言葉を聞いていたが、ふと居室の扉の向こうに何者かの気配を感じた。グランシュも同様で、扉に向かい「何者か?」と問うた。
「トルソです、陛下。隊長」
「入りなさい」
 アフェクシアが声を掛けると、扉がゆっくりと開き、一人の老いた大柄の男が姿を現した。顎鬚を蓄え、貫禄ある表情と共に、覚悟を決めたかの如く隙の全くない締まった目をしている副隊長、トルソが新たな甲冑を纏った姿でそこにいた。
「トルソ……貴様が何故ここに?」
「隊長。話は伺いました。この度の任務、何卒この私に行かせて下さい」
「何だと……貴様、体はもういいのか?」
「甲冑が我が身を守ってくれました。何も問題はありません」
「だが……」
 トルソはアフェクシアに向かい、いきなりの訪室に対する無礼への謝罪として深々と頭を下げた。アフェクシアは目を閉じ頷いて見せた。
 トルソは再びグランシュのほうへ顔を向けると言った。
「隊長。陛下の守護は隊長以外の誰が行うとおっしゃられるのです。陛下の信頼は隊長に深く向けられております。陛下もそのほうが御安心戴けると、小生邪推致しております」
「トルソ、言葉を慎め。陛下の御前であるぞ」
「よい、グランシュ。トルソ……騎士団の副隊長であるな? 続けなさい」
「ありがとうございます」
 トルソは再度アフェクシアに頭を下げた。グランシュはそんなトルソに険しい表情を向けて言葉を放った。
「だが貴様の表情……医務室で私に話をしていた時の表情を私は見逃してはいない。貴様、恐怖を感じていただろう? 大丈夫なのか? 危惧されるのは我々が未だ遭遇したことのない未知の相手だ。部下を失ったことで私は貴様個人を咎めない。だがそのことで責任を感じ、まさか自暴自棄になって言っているのではないだろうな?」
 トルソは些か挑発めいたグランシュの言葉に表情一つ変えず、冷静に答えた。
「確かに私は部下を失いました。そのことは仮に私を咎める者が皆無だとしても、それは私の記憶からは消えることは決してありません。ですが、今回の一件で私は『奴』と遭遇致しました。その生き残りであります。決して消えぬ不甲斐なさを呈した男です。ですが……」
「貴様の汚名返上の機会を与えるには、今回は荷が重過ぎる」
「私の汚名など如何様にでもなります。そんな己の名誉のためだけに赴こうとは考えておりません。この任務に赴くあの両名を派遣されることは、今回の任務地のことを考えれば確かに危険ではありますが、前世の記憶の残る者を送られるよりは良策かと思います。だからこそ、隊長が同行されると言うのでありましょう? 私に失った二名を弔う機会を与えて戴きたい。決してそれは自暴自棄で申しているのではありません。敵討ちという安易な考えでもありません。ですが……もう一度私にチャンスをください。私自身の名誉を挽回するためなのではない、騎士団に身を置き、陛下を守り、引いてはこの世界を守るこの役目、その誇りを貫く機会を与えて戴きたいのです」
 グランシュは黙ってトルソを見つめていた。そんなグランシュに一瞥をくれると、アフェクシアはゆっくり口を開いた。
「名誉と誇りとは異なります。名誉は自分を評価する他者の主観に過ぎない。己自身に恥じない生き方をするために名誉は必要ではありません。ですがトルソよ。行過ぎた自尊心は身を滅ぼしますよ」
「私は自身を軽んじてはおりません。もちろん、名誉を求めて生きる者を私は否定しない。ですが、私は自身の命よりも大事なものをこの背に背負っております。自身の命に変えても守りたいもの、貫きたいものがあります。そして、それを達成するためにも私は自身の命をむざむざ捨て去るようなこともするつもりはありません。誇りのために私は生きます。たとえ如何なる苦渋を味あわされても、仲間のために、隊長のために、陛下のために、この世界のために、そして私の愛する家族のために……私自身の誇りを、私は貫きたい」
 グランシュは手でトルソを制した。
「もうよい。貴様の覚悟、承知した」
「では……」
 グランシュはトルソの元へ歩み寄ると、その両肩に自身の両手を置いた。手に力が篭る。
「よくぞ申した。そんな貴様を私は誇りに思う」 
 アフェクシアはそんな二人に微笑みかけた。
「良き仲間を持ちましたね、グランシュ」
 アフェクシアは「部下」という言葉を使わず、「仲間」と言った。二人はアフェクシアに深々と頭を下げた。二人の心には力がみなぎっていた。
「必ず戻って来い。三人皆で戻ってくるのだ」
 グランシュは力を込めてトルソに語った。
「御意」
 トルソは感謝の念を込めて答えた。


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