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作品名:リフレクト・ワールド(The Reflected World) 作者:芽薗 宏

第11回   第九章 啓吾
 おかしい。何故だ。

 万能だと思っていた自らの力に疑問を抱く。これは大いに自尊心を傷付けられることだ。許されない。全く以って許されざることだ。
 これまで何人もの子供の心を吸い取った。吸い取ることが出来た。実に容易く出来た。
 彼等の心には大いに付け込む隙があった。傷付けられ、蔑まれ、そして自尊心を大いに汚され、そんな心を守ろうと自我の防衛本能を働かせ、次第に周りに心を閉ざしていく。亡き親のことを想い慕い、だが如何に求めようとも、既にこの世を去ってしまっていて会えない。声が聞こえない。温もりを感じることが出来ない。そのうち自分の運命を悲しみ、恨み、呪い、怒りを内に溜め続ける。やがて満身創痍の自我を守ろうと更に高く厚い壁を築き、併せて理不尽なまでの憤怒は周り全ての者へ、自分自身以外の者へランダムに向けられる。誰も信じられず、誰も愛せず、誰も傍に寄り付けさせず、助けの手も全て払いのける。堪えて生きてきたこれまでの人生を全否定されることが恐ろしいがために、その状況を改善出来る可能性を拒絶する。
 そんな心に付け入るには、彼らが求めている亡き親の姿を見せてやればいい。声を聞かせてやればいい。絶望的な寂しさにほんの少しの幸福感を与えてやればいい。そうすれば心の防壁は崩れ去る。絶望を残したまま、それでも束の間の光を浴びようと無防備になる。自身の心を閉じたまま、自力で這い上がろうとするのではなく、ただ他力本願な似非の幸せに縋り付こうとする。そこに喰らい付けばいいのだ。

 だがあの子供は違う。何故だ。

 あの子供には光がある。それが禍々しい。何故だ。あの光には自分の力が通じない。何度腕を伸ばしても全て弾かれる。許せない。それは自身の存在の否定に繋がる。主人に仕えし自分の存在理由はただ一つ。そのまま主人の遣い以外の何者でもない。主人の求めることを達成する。それが出来なければ不要な存在でしかないのだ。
 ならば……だが「それ」を行えば自分は消滅する。あの子供の持つ光と自らの闇とが相殺される。子供の光よりも自分の闇が万が一にも弱ければ、自分は負ける。負ければ消滅する。

 消滅。

 それこそが我が主人の成すべき偉業なのだ。

 消滅。

 それこそが全てへの「救済」なのだ。ならば良いではないか。自身の存在理由に忠実に従い、その定めを達成し、そして主人の求めるものの一部となる。それは自分にとってはこの上なき幸福。

「仰せのままに……」

 意思を持つその黒き霧は再び人間の姿を借り、前に伸びる道を静かに歩き出した。その顔には満面の笑顔を浮かべていた。我が愛する子供を抱擁する母親の如き満ち足りた笑顔。だがその笑顔は真実ではない。仮面の笑顔。ペルソナ。

「待っていなさい。今迎えに行くからね」

    ※ ※ ※ ※ ※

 授業が終わり、生徒達は教室の掃除をしていた。このような時、中にはモップなり箒なりを振り回して遊ぶ子がいるものだが、大抵は教師や上級生に注意されたりする。啓吾の通う学校では、上級生が一年生の教室の掃除を手伝う習慣があり、二年生の場合も一学期が終わる迄は、五、六年生が当番制でやって来ては掃除の手伝いをしている。今回は六年生の女子が来ていた。下手にふざけると結構口うるさく咎められるので、とっとと掃除を終わらせるようにしているのだが、上級生の目が届かないところでは、箒をバット代わりにしてぶんと振っている友人がいる。
「そうじゃないよ。持ち方、変」
 啓吾はそう言うと、箒の柄をグリップに見立てて、こうだと言わんばかりに構えた。丁度バッターボックスに立った時の格好をした瞬間に六年生と目が合った。
「ちょっとぉ、須藤君!」
 啓吾は亀のように首をちょっとだけ引っ込める素振りを見せると、「ごめんなさぁい」と間延びした返事をした。
「こっええっ」
 啓吾は友人に向かっておどけながら小声で言った。するとその友人の隆太(りゅうた)が、視線を逸らしているその六年生を睨みながら言った。
「いちいちうるせぇんだよな、あのババア」
「女子ってみんなあんなもんじゃん」
 子供ならではの悟りを得たような口振りで啓吾は言うと、にんまりと笑って机を元の位置に戻し始めた。
「あ、けいちゃんさぁ、夏休みの自由研究って何にする?」
 隆太は、啓吾の運ぶ机の隣の列にある椅子を運びながら訊いた。
 啓吾と隆太、他七、八名はいつもグループを組んでいて、学校が終わるとそのまま誰かしらの家に行っては、ゲームをしたり、公園のグラウンドでフットサルのようなことをやっている。
「学校が終わったら一度家に帰って来て、ランドセルを置いてから遊びに行きなさい」
 そう父に常々言われている。それを守ってはいるものの、時々それが面倒臭くなる時もある。学校からは比較的近い位置に住んでいるので、一度帰ってからでも十分時間はあるのだが、それでも父が仕事の日は時々そのまま直行してしまうこともある。
「おとといの日曜日、お父さんとトマトを買ってきたんだ。その観察日記を書くつもり」
「トマト?」
「うん。あ、トマトの実じゃないよ。植木鉢に生えてるやつ。プチトマトって言うトマト。ちっちゃいやつ」
「ああ、あのチビトマトかぁ。俺、トマト嫌い」
「そう?」
「けいちゃん、好き嫌いほんとにないもんなぁ。すげぇよ」
「ええ? でもピーマンは嫌いだよ」
「ピーマンだけじゃん? あれ、苦いし臭いもんな」
「そこの二人、喋ってないでちゃんとやりなさいよ!」
 二人に先程の六年生が怒声を浴びせかけてきた。
「あれ、絶対『委員長』タイプだよな」
「あぁ、あるある! あんな生意気なタイプいるよなぁ……」
 その「委員長」タイプの六年生女子は黒板消しを掴むと、それを二人目掛けて投げ付けようとする格好をして見せた。
「ごめんなさぁい」
 二人の声が妙にタイミングが合って教室の中に響いたので、他のクラスメートがくすくす笑った。

 掃除が終わり、ランドセルを背中に背負うと隆太が再び声を掛けて来た。
「今日、遊びに来ない? 今日は体操の日じゃないでしょ?」
「うん。体操は明日なんだけど、今日はごめん。大好きなお姉ちゃんが来るんだ」
 啓吾はスイミングスクールの他に体操教室にも通っている。そのおかげで体育の授業の評価は常に良かった。特に飛び箱やマット運動などの器械体操系は得意である。逆上がりも他のクラスメートが苦労していたところを難なくこなせていた。
「お姉ちゃん?」
「そう。お父さんの会社の人んちの人。時々会うんだ」
 そう言って、啓吾は窓際にある自分の席に向かった。机の横にあるフックにぶら下げてあった体操服の入った巾着袋を取りに、啓吾はそちらのほうへ向かった。袋を手にすると何気にそこから見える校庭に視線を落とした。
 啓吾は心臓が跳ね上がる感覚を感じた。

 母だ。

 母が校庭に立って、教室にいる自分の姿を見上げている。
 啓吾は巾着袋の紐を右手に握り締めて、どたどたと慌てて走り出した。
「けいちゃん?」
「ごめん、またね!」
 隆太のほうをちらりと振り返ってそう言うと、啓吾は教室を飛び出し廊下を全速力で走っていた。
「こらぁ、廊下を走らない!」
 すれ違った教師にどやしつけられると、先程と同じ感じで「ごめんなさぁい!」と返して先を急いだ。
 校庭に出ると、母の姿は既になかった。
「どうして……」
 啓吾の心は乱れていた。

 最初に母の姿を見た日から、啓吾は母の姿を毎日見掛けるようになっていた。翌日、上級生や同級生達と集団登校した時は、信号待ちの交差点にて、その向かい側に母が立っていた。だが信号が赤から青に変わると、瞬きをした瞬間に母は消えていた。体育教室で鉄棒をしている時やマットで前転をしている時、母が体育館の壁際に立っていて微笑み掛けてくれた。授業中、ふと教室の出入り口にある開き戸を見ると、その扉に付いた窓の外に母の顔がちらちら見えていた。
 毎日のように啓吾は母の姿を見ていた。しかし母は一度たりとも自分の傍に来てはくれない。話し掛けてもくれない。声を聞かせてくれない。いつも遠目にて微笑んでいるだけだ。何故母は自分の傍に来てくれないのだろうか。何故以前のように「けいちゃん」と呼び掛けてくれないのだろうか。心の底から寂しさの感情が湧き起こり、啓吾は悲しくてならなかった。夜は一人でベッドの中で泣いたこともある。ベッドのシーツを涙で濡らしながら「ママ、ママ」と何度声を押し殺しながら呼び掛けたことだろう。
 しかしそのことを父に話すことは出来なかった。母は天国へ行ってしまったのだ。母が会いに来てくれたと話せば、父は喜んでくれるかもしれない。父は再び母に会えるかもしれない。そう期待しつつも、心のどこかで「話してはいけない」と制止する声がしていた。話してはいけない。そんなことはあり得ない。話せば父は悲しむ。母は自分にしか見えないのだろうから、父はきっと寂しがる。心の声がそう語り掛けてくる。母と話が出来ればそんな声も聞こえなくなるのだろうが、母は一向に自分との距離を開けたままだ。
 ベッドの中での啓吾の泣きながらの声は「ママ」から次第に、
「パパ、助けて」
へと変わっていた。その度に涙に濡れるシーツやピロケースを、その小さな手でぎゅっと握りしめていた。

「七海ちゃん、よく来てくれたね。ありがとう」
「おじさま、こんにちは。ご無沙汰してます」
 丸山七海は須藤のマンションにいた。息子の啓吾の面倒を看るためである。啓吾の世話役を頼むのは、海外留学のためにいなくなったアルバイトの女子大生から数えて半年振りである。
「去年のバーベキュー、ほんとに楽しかったです。どうもありがとうございました」
「ああ、丹沢の? あの時は楽しかったね」
 七海と須藤、そして啓吾は七海の父であり会社での同僚でもある丸山重雄、他に会社の社員やその家族と一緒に、昨年の秋の丹沢湖でバーベキューをして以来の再会だ。ただ、それ以外にも丸山家と須藤とは家族同士の付き合いがある。その関係からか、七海は須藤のことを「おじさま」と呼んでいる。父の丸山からすれば、自分の働く会社の代表取締役なので、「ちゃんと社長と呼べ」と言い続けているのだが、七海からすれば自分は「社長」ではないとして、須藤は社長呼ばわりされるのを嫌がっている。そこで「おじさん」となるのだが、せめて「さん」でなく「さま」にしてくれとの父からの懇願で、「おじさま」となっている次第である。
「ごめんね、久しぶりに会ったのにお構い出来なくて。いきなりで申し訳ないんだけど」
「全然大丈夫ですよ。啓吾君、元気にしてます?」
「ああ、それなんだけどね」
「え?」
 七海が須藤の目を見る。

 先週、「ままがいるよ」とメールがあった日以来、啓吾の様子がいつもと異なり始めていることは須藤も薄々感じていた。啓吾は元気に何事もないかのように振舞っていた。だがその様子がどうにも不自然に須藤には映っていた。啓吾は何かを隠している。何かを言いたがっている。だがそれを言い出せない。何かあったのだろうか。
「けいちゃん。学校どうだった?」
「今日は学校でどんなことがあった?」
 そう話を振ってみても、いつも決まって「楽しかった」と答えた。
 学校での出来事は啓吾から進んで話してきていたのだが、ここ一週間はそんな風に須藤のほうから訊かないと、啓吾のほうからはあまり話そうとしてこなくなっていた。だが訊いてみると、やれ算数の授業が難しかっただの、体育で褒められただの、スイミングスクールや体操教室でこういうことがあっただのと話を始めるという感じだ。
 ところがここ三日ほど、須藤が仕事から帰ってくると、母の写真の入ったフォトスタンドが伏せられていることに気付くようになった。その都度立て直すのだが、「ままがいるよ」というメールを受信してから、啓吾の様子に変化が出始めてきたということに、この段階で気付いたのだ。スタンドを倒しているのは啓吾だ。やはり母のことが最近の様子の変化の理由なのだろうか。 
 
「お母さんを見た、ですか」
「そう。他人の空似だと思うんだけどね。ただ、それから啓吾はやっぱり……ちょっと変かな。今夜あたり一度話してみようと思っているんだけどさ」
 今日、須藤は仕事が休みである。先月、高校時代の体操部の同期の仲間からメールが届いていた。当時の仲間だった同じ体操部の澤渡(さわたり)の追悼会とOB会を開催する話があったのだ。須藤はそれに参加する予定を立てていた。メールが届いた頃にその旨をたまたま丸山に話していたので、丸山が気を利かせてくれ、
「じゃあ、その日からウチの娘を社長のところに伺わせますよ。あれでよかったら、何でも言い付けてやって構いませんから」
と申し出てくれていたのだ。アルバイトの代わりを探していたので、啓吾も気心知れた相手なら安心出来るだろうし、須藤も彼女なら信頼出来るので頼んでいたのだ。追悼会のために七海を呼んだわけではないのだが、啓吾の様子の変化が気掛かりなところなので、丸山が設定してくれたこの日からの新しいアルバイトは、須藤にとっては心強い味方の登場となった。
「あ」
 七海が声を漏らした。
「何?」
「あ、いえ、ちょっと思い出した話があって」
「そうなの?」
「ええ。似たような話を思い出したんです。でも、おじさまはその手の話は好きじゃなかった筈だから。都市伝説みたいなものかな?」
「ああ、それだったら遠慮するよ」
 須藤はホラー紛いのものは嫌いだ。それだけでない。映画でも登場人物がやたらに死んだり、天変地異が襲ってきたり、深刻なストーリー展開のものは好まない。怖がりというわけでなく、本人に言わせると「退廃的なものは好きではない」ということらしい。
「ま、それはいいや。啓吾君は今日は習い事ですか?」
「いや、今日は何もないよ。明日は体操教室。そうだ、もうすぐ学校から帰ってくる頃だと思う」
 そうこうするうちに、玄関で物音がした。啓吾だ。
「あ、七海お姉ちゃん!」
「啓吾君久しぶりぃ! 元気だった?」
 須藤は啓吾に、今日から七海が家庭教師を兼ねて、自分がいない時に啓吾を看に来てくれる旨を話した。
「やったぁ!」
「今日から宜しくね」
 七海は膝に手を置き、前屈み気味の姿勢をとって挨拶をした。
「じゃあ、今夜は一緒にいてくれるの? 明日は体操から帰ってきたらお姉ちゃんいるの?」
「うん。今夜も明日もいるよ。明日は啓吾君帰ってくるの、ここで待ってるよ」
「やったぁ!」 
 もう一度歓声を上げると、ランドセルを置きに部屋へ向かった。
「啓吾のあの笑顔、何だか久しぶりに見た気がするよ。七海ちゃん、ありがとう」
 須藤が言うと、七海はにっこり笑って頭を下げた。

 須藤の母校の高校は埼玉県にある。夕方、啓吾を七海に頼んで須藤はマンションを出た。飯田橋から中央線で新宿まで向かうと、湘南新宿ラインに乗り換えて浦和方面へ向かった。車内はかなり混んでいて、大勢の乗客が通路にひしめき合って立っており、吊り革を握りながら、ある者はイヤホンを耳に当ててiPodで音楽を聴き、ある者は携帯メールに勤しみ、またある者は立ち話をしたり、扉に寄り掛かって閉眼し腕を組んでいる。須藤も吊り革を握って車内の様々な音を聞いていた。
 電車が赤羽に到着した。立っていた乗客の三割近くが下車し、新たな乗客が乗り込んでくる。須藤は立ち位置を変えた。すると目の前にあった中吊り広告が目に入ってきた。某週刊誌の広告だ。そこに書かれている中見出しのタイトルを、何を考えることもなく須藤は見詰めていた。

「新都市伝説!『呪い? メッセージ? 親を亡くした子供だけを襲う奇病。 発病前に見えるという亡き親の姿とは?』」

 啓吾は七海と去年の秋に訪れた丹沢湖のキャンプ場でバーベキューをしていた頃の写真を見ていた。皆での集合写真、紅葉が始まりつつある木々、鉄板で焼かれる肉やソーセージ、焼きそばにバーガーのバンズ、笑い合う若手の女性社員、串焼きの肉にかぶり付く男性社員、おどける丸山、家族連れの社員が子供と共に写る姿、満面の笑顔の七海と啓吾、元々細い目を更に細めて笑みを浮かべる須藤、様々な写真があった。その中に富士山をバックに、夕日が沈みつつある丹沢湖の写真があった。

「きれいだね」
 須藤が啓吾の肩に手を置きながら声を掛けた。
「うん」
 この時、父と二人で湖の浜辺に佇んで夕陽を見ていたのだった。
「……天国って何処にあるのかな」
 啓吾は夕焼けの空を見詰めながら父に言った。
「さあ、何処だろうな。それはパパにも分からない」
 父の手をぎゅっと握り、啓吾はぽつりと呟いた。
「遠いのかな。ずっとずっと遠いのかな」
 父は啓吾の小さな手を力強く握り返し、優しくこう言った。
「啓吾。パパとママは世界中の何処にいても、啓吾のパパとママだ」
 湖に沈む夕陽が湖面をまるで宝石を散りばめたかのように輝かせていた。柔らかく穏やかな光を見つめながら、父は何度もそう語って聞かせた。啓吾は小さな声で「うん」と返したのだった。

 啓吾は父のこの言葉を忘れていなかった。これからも決して忘れないであろう。小さな心を支えてくれる大きな温かい柱となっているのだから。この言葉に支えられて、今の啓吾は崩れ落ちそうな心を必死に保っていたのだ。

「ママ、僕のこと嫌いなのかな」
 七海は啓吾の言葉を聞いてどきりとする感覚を覚えた。
「何でそう思うの?」
「だってママは僕に何も言ってくれないから。傍に来てくれないから」
 亡き母を見たと須藤が語っていた内容を思い出した。
「……ママを見たの?」
 啓吾は黙って頷いた。
「今日も見たんだ」
「え? 今日も?」
「うん」
 七海はこの時、何やら胸騒ぎのようなものを覚えた。何故突然に啓吾はそんなものを見るようになったのだろう。神経症なのか? それともストレスか? 何が亡き母の姿をそこまで強固に思い出させているのだろうか。
「啓吾君、ママが啓吾君のことを嫌いだなんて、そんなことない。絶対ない。ママは一度でもそんなことを言ったことがある?」
「だって、じゃあ何でママは僕のところに来てくれないの? 僕がどんなにママに会いたいか、ママと話したいか、ママ分かんないんじゃないの?」
「啓吾君」
 七海は両手の平で啓吾の両頬を優しく覆った。
「ママを信じてあげなきゃ。ママがかわいそうだよ。信じてあげて。啓吾君のママは絶対に啓吾君のこと大好きだよ。今も変わんない。大好きなんだよ。だって啓吾君のママじゃん」
 啓吾の中で何かがぷつりと切れた。その場で七海に抱き付き、啓吾は泣いた。人前で声を上げて泣いた。今まで堪えていた感情が一気に押し寄せてきた。七海はそんな啓吾の頭を優しく撫でた。
「泣いちゃいなよ。パパの前じゃ我慢してたんでしょ? 思い切り泣いていいよ」
 七海の穏やかな言葉が啓吾の心を温かく覆っていった。

 同じ頃、まさに同じ瞬間、ベランダに黒い「靄」が漂っていた。室内の二人にはそれに全く気付いていなかった。「靄」の中に一瞬だけ「顔」が浮かんだのだが、それも束の間のことで、間もなくそれは空気中に掻き消すように四散していった。


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